12話 意地
十一個目の卵をチリに返す。
葬ってきた異次元体もすでに三十を超える。
いくら単純な行動しかとれないとはいえ、こうも数が多ければさすがに疲労もたまってくる。
ユキは思わず足を止め、電柱の上から地に降りた。膝に手をつき、顎を伝う汗を腕で拭った。
体はとてつもない熱を振りまいている。かつてないほどにエーテルの巡らされた血肉はその酷使ゆえ熱と痛みを絶えず伝え、放出されずにこもるばかりのエネルギーは逃げ場を求めてとうとう余剰分が熱や汗、そして蒸気となって体から漏れ出している。
走り続けたせいで息ももう上がっていた。
発熱した体は水を求め、干上がったのどがかさかさと張り付いて痛い。
ふらつく足で歩道を歩き、近くの壁に背を預けて少しばかりの休憩をとる。こうすれば、警戒も前方だけで済む。
ずり落ちそうになる足を踏ん張らせ、だらんと垂らされていた両手で腿を小突いた。
握ったマチェットの柄が肉に食い込み、乳酸の溜まった筋肉に心地のいい刺激を与えた。
ちらと手に持つ二刀へと視線を向ける。鈍い灰色の刃はやや錆が広がり始めていた。この様子ではそう長くはもたなそうだった。
もってあと数体。
これまで以上に倒す相手は慎重に選ばないといけない。
そして、そろそろ本格的に撤退も考え始めないといけない段階に来ていた。
やるだけやった。
もし、万が一があったとしても、許されるだろうか。
誰に謝るのか。誰に許してもらうのかはわからない。ただ、もう少しだけ頑張るべきだと、頭の奥、思考の中心で主張していた。
今ならわかる。これは意地だ。
今まで一人で生きてきた。しかしこれからは誰かと生きていこう、そう選択をした。
一人きりの狩人の、自分のためだけにする最後の仕事。
そして、誰かのために戦う最初の仕事。
こんな中途半端なところで投げ出していたら、今までの自分にも、これからの自分にも誇れない。
熱に狂う体に力を込める。壁に預けていた背を起こす。
立ち上る蒸気はなんとか収まり、玉のようだった汗も今は肌に浮かぶ程度。
熱い体は変わらない。いつまでたっても冷めてくれない。絶え間なくエーテルを供給する心臓は痛いくらいに打ち付けている。
しかし、それは自身を突き動かす原動力にもなっていた。止まってはいけないと、体を動かすエンジンだ。
――さあ、もうひと仕事だ。
***
いつの間にか、ほかの異能者の姿も見当たらなくなっていた。
皆死んだか、自身と同じように体が、あるいは武器のほうが限界に達したのだろうか。
無限と思われていた異次元体も若干その数を減らしたように思える。
母体が潰されたわけではないだろう。
それはいまだに消えない異空間が証拠だ。
そうはいっても、今回のような異常事態も初めてなため、勝手が違うのかもしれない。
異空間内の異次元体を全滅させなければ消滅しない、などであればこの現状にも納得がいく。
ただ、数が減ったといっても油断はできない。
視線の向こう。
デザイン性が高いビル群。
ガラス張りだったり、奇抜な形をしていたり、看板で埋め尽くされていたり、大きなモニターを備えていたり。
灰色の世界ではただ複雑なだけのそれらも、色を取り戻せばきっと人を寄せ付けるのだろう。
しかし今は人っ子一人いない。
ビル群の正面、特徴的なバツ印をした横断歩道のスクランブル交差点。その中心に、長細く、蛍光色に薄く発光する艶のある物体が鎮座している。それは静かに蠢き、孵化が間近だということを伺わせ、放っておくとまたあらたな異次元体が生まれることになるだろう。
すぐさま止めるべきだと熱っぽい思考は判断するが、近くには異形の姿も見られ、少しばかり冷静になった頭が考えなしの突撃を中止させる。
スクランブル交差点の周囲のビルの、その一つ。地下に駐車場でもあるのだろう、ぽっかりとあいた暗闇があり、まるでそこから出てきたかのようにそいつはいた。
それは大きく、しかし細い怪物だった。
全体的に緑色で、逆三角形の頭と軍配のように凹凸を持った胸部。大きく膨らんだ腹部は既に何度か〝食事〟を済ませた後だということを示している。
通常のそれよりは明らかに鋭角的で、背後からの奇襲を警戒してか通常には無いはずのしなやかな甲殻のようなもので背側が覆われている。
しかし、何より特徴的なのはやはりその胸部から伸びる発達した前肢だ。
体を支える四本の細い脚と違い、発達した前肢は畳まれているというのに全長の約半分の大きさを持つようで、明らかにアンバランスなそれはぎざぎざと鋭い歯を備えた鎌を思わせる。
カマキリのような異次元体だった。
最大の武器であろう鎌は今は折りたたまれ、何かをつかんでいる。
一度捕まれば決して逃げ出せないような鋸状の歯にぎちぎちに挟まれたそれは、傾げるように近づけられた大きな頭に――食まれている。
そいつが抱えているのは、上半身のない人間だった。
食べ残しなどなく、頭も腕も腹の中へと消えたのだろう。ピンク色の臓器がはみ出た腰から上だけが残り、鎌で支えられていない足先はだらりと垂れている。
自身と同じく卵を処理しようとした異能者だろうことは明白だった。
ユキは逸る気持ちを静め、一度周囲へと視線を這わす。
今も貪られ続ける彼も、きっと油断をしていたのだろうとユキは考えていた。交差点内は見晴らしがいい。だから、きっと注意が疎かになっていたのだろう。
交差点内は確かに開けているがしかし、その周辺は非常に入り組んでいる。
多方向に道が伸び、そうでなくても普遍的なのっぺりとした建物のほうが少ないビル群に囲まれているのだ、アーチ状のアーケード街の中や、張り出した入り口の屋根の下、そして地下駐車場の暗闇の中などには何が潜んでいるかもわからない。
慎重に周囲の様子を確かめ、そして自身とあのカマキリ以外の存在がいないことを確かめると、ユキは再びカマキリへと視線を向ける。
食事中だからか、まるで周囲の様子を気にしている風には見えない。位置関係的にも、やや斜め後方に位置しているユキのことを把握していないのかもしれない。
しかし、あれを無視して卵だけを破壊するというのも難しそうだった。
卵はカマキリを挟んで反対方向にあるのだ。
遠回りするのも時間がかかるし、かといって真横をすり抜けるのもあまりにも無防備。
――ならば。
下された判断は実に端的。実に愚直。
殺してから通ればいい。
足音を立てれば気づかれる可能性も高くなるる。走るのではなく、最小の接地で近づくのがいいだろう。
ユキが今いるのはとあるビルの、張り出した一階部分、その天井。屋上がやや広いバルコニーのようになっていて、はやりの屋上緑化とばかりに植栽されていた。
灰色の木々の陰から様子を伺っていたのだ。
彼我の距離は五十メートルもない。
上をとっていることもあり、一度の跳躍で距離も稼げそうだった。おおよそ三、四歩あたりで接敵できる。
可能な限り気配を殺し、その鎌がこちらに向けられる前に首を落とす。
それがベストだと判断した。
そうと決まればすぐさま行動に移らなければならない。遠目に見える黄緑色の卵が胎動する間隔が徐々に短くなってきていた。まもなくあれは孵化するだろう。そして、新たな異次元体が生まれてしまう。
マチェットも限界が近い。卵のまま沈黙させるのが最良の結果だ。
屋上のフェンスに足をかける。
大きな音をたてないように膝は深く沈み込み、しかし、跳躍力を損なわないように力強くそれを蹴り飛ばした。
一息で二十メートル近くの距離を飛ぶ。
そのまま最小限の接地面で着地、および跳躍。二度、三度と繰り返し、わずか一瞬のうちにカマキリの懐へと潜り込む。
構えた二刀にエーテルを行き渡らせ、鉛色だったそれは赤銅色に輝く。
そして――
怪虫は振り向いた。
「っ!!」
三角の頭を斜めに傾げ、真後ろを向く。
極限まで引き上げられた動体視力がその体が振り向く瞬間をゆっくりと認識していた。
それは細い体を捩じるようにして振り向き、今まで死体を抱えていた鎌はいつの間にかフリーとなっていた。
折りたたまれたそれはバネでも仕込んでいるかのように急激に弾かれ、その全長ほどもある捕獲機、あるいは死神の鎌がユキに向かって伸ばされた。
踏み込んだ体はすでに止まれない。
何より足が地についていない。足場のない空中では方向転換すら許されなかった。
自ら鎌という逃れようのない檻の中に飛び込んでいくようだ。
カマキリの首に刃が届かない距離。
しかし、相手の鎌はこちらに優に届く距離。
覆しようのないリーチの差。
まっすぐに飛び込んでしまっては、いくら体をひねったところで回避も不可能。
ならば、迎え撃つしかない。
その鎌が己を捕らえるためにとじられる前に、伸ばされた鎌に沿うように刃を添えていく。
それに反応できたのは、きっと極限を超えてまで高められたエーテルの恩恵、限界を優に超えた超感覚と、身体能力の上昇によるものだったのだろう。
赤銅の刃が唸りを上げる。
砲弾のように飛び出した全身の勢い、それを余すことなく利用し、鎌の内側に備わった鋸のような歯をすべて削ぎ落としていく。
体が前に進む度、一瞬遅れて鎌が先端からぼろぼろと崩れていく。大量に流し込まれた腐食を与えるエーテルが鎌を蝕み、懐に潜り込む頃には根本から崩れ落ちていた。
彼我の距離がゼロになる。
無機的な虚ろさを覚える複眼が眼前に迫る。
しかしそれは、ユキが真横をすり抜けた瞬間に地へと落ちていく。
交差するように振るわれた刃が、軍配のような胸部と、細い首を刈り取っていた。
ぼとりと、上半身が地に落ちる。
しかし、それを振り返る余裕もない。
数メートル先では卵がいよいよと膨れ始め、もう間もなく孵化してしまうというところだった。
飛び込んだ勢いを失わせることなく、着地した足で再び地を強く蹴る。
黄緑色の卵殻がひび割れ、どろりとした粘性の強い液体がこぼれ出す。やわらかいそれは徐々に形を取り始め、間もなく生まれたての異次元体として産声を上げるだろう。
しかしそれは許されない。
赤銅の刃が振るわれ、どろどろの液体は瞬く間にかさついた錆に覆われる。
腐食が幼体から卵にまで及び、自重に耐え切れず、そのまま崩れ落ちた。
トッと軽い音を立てて着地をすれば、僅かな風が舞き起こり、うず高く積もった錆を空へと巻き上げた。
***
交差点の中心へと降り立つ。
見晴らしのいいそこから周囲を見渡しても、もはや人どころか異次元体の姿も見当たらない。
しかし、異空間はいまだ晴れない。
まさか、異空間だけが残されたなんてことはあるまい。
主がいない。
母体がいない。
このままでは異次元体はともかく、溜まりに溜まった毒香が外にばら撒かれてしまう。
限界以上に打ち付ける心臓が、焦る気持ちを余計に強くする。
感情からではなく、体が感情を動かす。理性は頭の奥底にまで引っ込んで、いつもは内側に秘められているはずの本能が剥き出しになる。
だからだろうか、鋭敏になった聴覚が、極限にまで張り詰めた皮膚が、足下から伝わる振動を捉えたのは。
――下か!
***
楽しい。
楽しい!
楽しい!!
「これほど心が躍るのは、一体何時ぶりかっ!!」
毒々しい濃緑色の甲殻に覆われた剛腕が柱も、ガラスフェンスも、壁すらも破壊しながら振るわれる。
極大の刃、蒼雷渡をもってそれを受け流し、己が武器の雷光を煌めかせながら返す刀で首を狙う。剣閃をなぞる様に閃光が駆け、小さな稲光が空を弾けさせる。
しかしそれも、いつのまにか再生してた、先ほど切り飛ばしたはずの大きな鋏状の前肢によって防がれた。
膨大な熱を伴った袈裟切りはしかし受け止められ、金属質の鋏の根本を溶かし、開閉を不可能とさせるだけにとどまった。
反対側からまた鋏が突きつけられ、そして左右からは大きな五指の掌がまるで蚊でも潰すかのように、拍手のように勢いよくとじられる。
それを防ぐのは不可能と判断し、潰されてはたまらないとバックステップで距離をとった。
大きく下がった先で、瓦礫となって積み重なった店の商品、陳列棚、そして崩れ落ちた壁材が派手に散らばった。
飛び出したガラス片、尖った鉄芯などがパンツスーツの裾を深く破き、白い肌が覗いた。
周囲の構造物は目の前の異形によって根こそぎ粉砕され、通常より倍以上開けた空間がつくりだされていた。
追撃を警戒し蒼雷渡を中段霞に構えるが、それは土煙の中微動だにしない。
煙が晴れ、閉じられていた大きな手がゆっくりと開く。そして、隠されていたその異質な巨体を露わにした。
梓田駅から続く、広い地下街。
その中で、吹き抜けになった円形の小広場。
地下二階のそこは灰色よりも更に黒に近い暗闇の世界。
上の階に続くはずのエスカレーターは無残に地に落ち、憩いの場としての小さな噴水は瓦礫に代わり、囲うように広がっていたベンチはどこかに吹き飛んでいた。流行中の洋菓子を提供する小さな屋台は異次元体の巨体に押しつぶされ、凝った看板が空しく転がっている。
常の賑わいとはまるで正反対の凄惨さを晒す広場。
その中心に居座るのは悍ましき異形。
毒々しい濃緑色の巨体。
鈍く照る、頑強な甲殻に覆われた鋭角的な下半身は肉厚で、しかし全体でみると扁平である。重厚な体は目算五メートル以上、高さも千陰の二倍以上ある、巨体。
六本の逞しい節くれた足に支えられている。
さらに前端には大きな鋏状の前肢が備わり、尾端には根元で二股に分かれた長い尾がしなる。
尾の先端には鋭い突起が幾本も生え、中でも一際大きい中心のそれは銛のように伸び、返しがついている。
下半身の前端は顔ではない。
代わりに大きな、ともすれば肛門のような隔壁の備わった開口部があり、粘ついた緑色の液体を垂らしている。
それは気味の悪い卵を生み出す産卵口であった。
それだけを見れば、きっと不気味なサソリ型の異次元体だと判断を下せただろう。
しかし、それを更に怪物たらしめているのは惜しげもなくさらされた上半身にあった。
そう、上半身だ。
サソリ型の下半身の上、丁度開口部のやや後方あたりから生えるそれは極端に猫背の、骨ばった〝人間〟の体。
およそ成人男性ほどの体格のそれはへそあたりから生え、生白い素肌を所々分厚い甲殻が覆う。屈められた体は胸の部分が開き、肋骨が飛び出て、あろうことか長く伸び、甲殻に覆われていた。それは触手、あるいは昆虫の脚のように怪しく蠢いている。
前に突き出された顔は大きく肥大し、膨れた顔は裂けた口以外はパーツを肉に埋もれさせていた。首も膨れ、くびれの一切がなくなり、通常の三倍近く伸ばされたそれがより歪さを際立てる。
腕部は異常発達し、多関節で、長い。殻に覆われ先太りのその掌は体に不釣り合いなほどに大きい。千陰の体など一握りで頭から足先までを潰せそうなほどだ。
既存生物から著しく離れ、しかし下等な不定形ともまた違う。
過剰進化の類ともかけ離れた異形の怪物は、剛腕から滴る赤い血を長い舌で舐めとる。
一条走っていた切り傷も、ただそれだけで一瞬にして塞がった。
異空間の主、異形の怪物、虫型の異次元体たちの母体は横に裂けた口から長い舌をちらつかせ、その六本脚を前進させる。
それを迎え撃つように――千陰は長い刃を油断なく構えた。
向こうに負けず劣らず口の端を吊り上げさせ、剥き出しとなった白い歯が獰猛さを見せつけるように光る。
蒼炎のように暗闇で尾を引く瞳をぎらつかせ、極限にまで瞳孔が開き、深い紺色の宝珠が獲物を睨んだ。
『矢柳っ! 今どこだっ』
今にもとびかからんとしていた千陰はしかし、やけに逼迫したような声に遮られた。
構えを解き、母体から離れるように後退する。左耳に嵌めたインカムに手を添え、少々聞き取りづらい声を拾おうとする。
インカムから聞こえるのはやけに慌てたような霧原の声だった。
そのことに千陰は少しばかり首を傾げた。
霧原が取り乱すのも無理もない。普段は吐息ひとつ漏らさずに異次元体を切り伏せる千陰だが、通信機の向こうからは上がった息、そして何より興奮を隠せないほどの歓喜の声が聞こえてくるのだから。
それは戦闘狂のきらいのある彼女を楽しませるほどの強敵がいるということ。
彼女が求めて久しい、対等な命のやり取りをしているということに他ならないからだ。
「ああ、今はそうだな、どこだったかな。地下街の……多分駅の反対側かな」
まるで動揺をみせない平坦な声で彼女は返すも、向こうはいまだ事態を重く見たまま。
『わかった今行く、それまで持たせろよ!』
彼女を気遣うような言葉に対し、しかし千陰はふっと笑う。
「いや、来ないほうがいいよ。お前じゃ間違いなく死ぬ」
本心で告げられたそれは、通信機の向こうの霧原と、そして同じく異空間内に侵入したばかりの他の部隊員たちの心に突き刺さる。
侮っているわけではない。
見下しているわけではない。
せっかくの楽しみを邪魔をされたくないと邪険にしているわけでもない。
ありのままの事実を伝えただけとわかるものだったからこそ、それは鋭く突き刺さるのだ。
『……だとしてもだよ。お前は嫌うかもしれないが後ろからちびちび援護してやるよ』
いらないのだがな、と千陰は小さく嘆息する。
確かに遠距離からならば狙われにくいのだろうが、一度狙われてしまえばどうするつもりなのだろうか、と彼女はふと考える。
ずんぐりした巨体は見た目に合わず機敏だ。
長いリーチを持ち、トリッキーな動きで敵対者を翻弄する。また、地下街では逃げ場も限定され、隠れる場所ももはや碌に残っていないことも彼にとっては不利に働くだろう。
彼女はやはり「来るな」と告げるため口を開こうとし――迫る尾を切り払った。
「っ! ははっそんな芸当も持っていたか!」
意識を逸らしていた僅かばかりの隙。
母体は長い二本の尾を地中へ潜り込ませ、千陰の背後から襲ったのだ。
伸びきった尾は通常時の倍以上の長さに至っていた。節の合間が引き延ばされ、内部の芯と、体節をつなぐ粘膜上の何かが支えている。
一本を刀で弾き、二本目を体を無理やりひねることで回避する。
チッと針の一本が掠り、耳にかけていたインカムが弾き飛ばされた。
一瞬前に何かインカム越しに喚く声が聞こえた気がしたが、それを気にするほどの余裕はなかった。
異次元体はそのまま尾をしならせて彼女の体をはたこうとするが、彼女は大きく前方に跳躍することで左右の包囲網を突破した。
長大な刀身を体の横に。腹から背に向けて状態を捩じり、バネを引き絞る。
エーテルの極光が白銀の刃を青く染め上げ、大気に零れる小さな放電がぱちぱちと音を上げた。
千陰は一息に母体の懐へと潜り込む。
重量級の巨腕では捉えきれず、その体を断ち切ろうと突き出された長い鋏は逆に足場として利用する。
鋏を踏んで飛び上がり、脇に構えていた刃を振り上げる。
刃先から走る先行放電が濃緑の巨体を浅く焦がす。そして、一瞬の間も置かずに長大な刃を上段から振り下ろした。
真っ白な閃光に閉ざされる視界。
熱波と風圧に体が浮き上がり、空を破裂させる音に鼓膜がびりびりと震える。
極大の雷光を伴った一撃はしかし相手を切り裂いた手ごたえを与えない。
何か固いもので防がれたような感触が手を伝う。
宙に浮いた体が地に落ちるより早く、白く溶けた視界も黒色に侵される。
回復した目が捉えたのは、蒼雷の刃を肋骨の触手で防ぐ異次元体の姿。
その足元は真っ黒に焦げ、散らばっていた瓦礫も融解するかどこかへ飛び散っていた。
しかしその巨体はなおも健在。
「タフだな! だが、それがいいっ!!」
歓喜に震えながらも、それに目を眩ますような愚行は侵さない。
熱された頭はしかし冷静に目の前の相手の情報を飲み下していく。
無骨な甲殻で覆われていた肋骨は縒り集められ、盾、あるいは繭のようにして体を守っていた。
超高温に耐えられなかったのか、表面の甲殻が溶け落ち、白い骨を露わにする。
黒焦げになった何本かは脱落しているようだが、それも時間を置かずに回復するだろう。
麻痺からか、それとも単にガタが来たのか触手は力なく垂れ下がり、浅く焦げただけの上半身を晒す。
口だけになった膨れた顔は〝怒り〟を隠そうともせずに歪められ、分厚い唇が広がり、剥き出しの歯茎と楕円に並ぶ矩形の歯が覗く。
大きく広げた口は喉を震わせながら咆え、びちびちと薄気味悪い唾液を振りまいた。
粘つくそれに顔をしかめながらも、しかし怯むことなく千陰は再び刃を振るった。
狙うは長く突き出された、無防備な首。
しかし下から切り上げられるように振るわれたそれも、まるで骨でも入っているのではないかと自在に動く長い舌に絡めとられた。
高速の剣閃に負けず劣らず高速の、そして長大な舌が粘つく唾液を垂らしながら刃を舐める。
異次元体は千陰をそのまま空中に吊り下げようと企てる。動きを止めて、力業で仕留めようという算段だろう。
それを千陰は己が異能で振りほどく。刃から放たれる高出力の蒼雷が舌を焼け焦がし、遅れて迫った巨腕を間一髪、逆に蹴りつけることで回避した。
そのまま異次元体の横をすり抜け、背後までに飛びのく。
背から切りつけるにはやや余裕がなく、代わりにはるか前方に突き出されていた長い尾、その根本を斬りつける。
甲殻の合間をついて滑り込ませた刃は筋も、そして骨も容易く断ち切った。
再びの絶叫が異次元体の口から放たれ、暗い地下街を震わせた。
怒り狂った巨腕ががむしゃらに振るわれる。
狙いなんてない攻撃は本来ならば回避も容易い。しかし、ことこの相手に限っては大きさゆえに厄介極まりなかった。
振るわれた一本を軽くステップでよけ、迫るもう一本を蒼雷渡で受け流そうとして――
――空から落ちてきた赤銅の刃が、それを根元から断ち切った。