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腐食の刃  作者: 南天
1章
11/18

11話 熾烈



 地を這う平べったい甲虫へと刀を突き刺す。


 歪に発達した刺々しい兜と、もはや飛ぶことを捨てたかのようなごつい鞘羽。

 その逞しい六本の脚をもって銃戦車のごとく突撃を繰り返していたが、上をとってしまえば対処もたやすい。


 千陰はすでに〝角の全て折られた〟頭に下り立つと、暴れる巨体に構うことなく胸部と硬い前翅の間――ちょうど小楯板と呼ばれる逆三角形の構造の上辺りへと刃を滑り込ませた。

 そして、深く刺さったそれを勢いよく横にスライドさせる。


 びちゃびちゃと薄緑の液体が飛び散る。飛び乗った異次元体が走り続けているためか、飛び散った液体は彼女のパンツスーツにも掛かる。

 それに対して、顔色一つ変えない。


 致命傷を負ったことで、ガードレールも縁石も、停車している車すらも構わず破壊しながら二車線道路上を走っていた巨体がとうとう勢いをなくしていく。


 それでも走ることをやめない。

 自走の勢いで途中頭が落ちてしまっても、やはり止まらない。


 千陰はいち早く飛び降り、手早く刃の汚れを拭き取るとそのまま納刀する。

 汚れが落ち切ったかどうかを確認する暇もない。

 昼間での帯刀はやはり都合が悪いのだ。手入れもそこそこに、身を隠す必要があった。

 しかし、多量に異次元体が発生しているため刀も長く持たせないといけない。汚れ程度で切れ味が落ちるわけではないが、抜けなくなってしまってうことはある。

 相反する問題を抱えながらも、彼女はそれをうまくやりくりしていた。一番の助けはわざわざとどめ――エーテル心炉を破壊も摘出もしなくて済んでいるからだろうか。



 なおも走り、ビルに激突することでようやく止まった首なしの巨体に構うことなく、千陰は異空間を後にする。

 人目のつかない中低層のビルへ飛び移り、そのまま屋上伝いに駆けていく。心炉の摘出は別の者に任せていた。


「弥永。次はどこが近い」

 四方八方から毒香が漂うせいで、もはや個人の感覚では異空間の正確な位置は把握できなくなっていた。

『――えっと、そこから南……じゃなくて左手のほうかな。あ、でも千陰ちゃんには別のところを当たってほしいな』

「別?」

『うん。そこからまっすぐ行って、梓田駅前の商業地区に行ってほしい……そこ、なんかかなりやばそう』


 弥永にしては、かなり緊迫とした口調だった。言葉だけ聞けば随分緊張感の欠けるものだが、イヤホンから伝わる彼女の声の若干の震えは少々の混乱と、そして未知に対する多大な恐怖が浮かんでいた。


 それを聞いて、千陰は楽しみとばかりに破顔する。

 口角が持ち上がり、切れ長の目はすっと細められる。

「わかった。そちらに向かおう」

『お願いね』


『――あ、千陰ちゃん。そっちどんな感じ?』

 二人の会話が終わるのを見計らって、別の女性から連絡が入る。

「ああ、慶さん。まあ、問題はないですね。数は多いですが単体の脅威度はなんてことはありませんし」


 通信の相手は赤峰だった。

 同性であり、年上であり、よく話もする相手。異能者という括りで見なければ仲も良好。

 同業者の中ではともすればほぼ唯一といっていい、彼女が敬語を使う相手だった。

 弥永も親しい、一応の年上ではあったが、彼女は年齢の割にキャラクターが幼い。親しみやすいと言い換えることもできるが、しかしそのせいでどうにも敬うという感情が湧かなかった。


『……そう。さすがね』

「経験を重ねさえすれば誰だって同じですよ。それこそいい機会じゃないですか? 今回は。体の硬さはともかく、粗製もいいところですよ、こいつらは」

『……そうも言ってられないでしょう。それに、私たち以外もかなり集まってるし……』

 若干のラグを挟んでの返答。そこにどういった意図が隠れていたのか、千陰は気にすることもない。

 しかし、赤峰の言葉に彼女も一つの納得を得た。


「ああ」

 局の人間ではない異能者。

 彼女の狩りにも何度も現れた。

 ほぼ同等と言っていい実力者も見かけたが、彼らは面倒はごめんだとばかりに他所へ行く。

 何せ獲物を取り合う理由もないくらいに異空間が発生しているのだ、わざわざ同士討ちで無駄な怪我を負う必要もない。


「まあ、それは仕方ないでしょう。彼らともやり合えばもっと強くなれるんですが」

『遠慮するわ』

「そうですか」


「そっちはどうなんです? 怪我とかしてませんか」

『私は今のところ。〝狙われない〟からね。ただ、皆は結構やられてる。死人はいまのところ出てないけど……』

「下がらせていいんじゃないですか? きっと、やばいのとやらを倒せば止まるとも思いますし」

『藍美ちゃんの言ってた?』

「はい」

 通信機の向こうからは弥永の頷きも聞こえた。


『そんなにおかしいの?』

『――はい。駅近のビル街を半径一キロレベルで異空間が発生しています』

『……嘘でしょ?』

『本当です』

 絶句する赤峰。

 それに反して、千陰は笑みを濃くした。


『既に結構な数の異能者が集まってるみたいですけど……』

 それでも異空間が消えない。


 異能者の戦闘は基本短期決戦。

 長引かせると同業者の乱入を許してしまうからだ。

 手ごわい相手であれば当然時間がかかるものだが、そうでない場合は――


『千陰ちゃん、突出するのは危険じゃないかしら?』

「心配いりませんよ、一人でも」


 暗にお前たちは足手まといだ、と告げる。

 悪気はないのだが、結局意味は同じ。


『……』

 赤峰は臍を噛む。

 それほど離れてもいないが、年下の少女をともすれば〝死地〟に向かわせてしまうことを。


「それに、他の連中も集まっているんでしょう? 協力はしなくとも、足を引っ張りあうようなこともないでしょう」


 そして彼女が、仲間である自分達以外のほうを信用しているということに。


『……上からも彼女を先行させるようにと言われてます』

 おずおずといった風に弥永が告げる。

 それを聞いて、もうどうしようもないと悟ったのだろう。赤峰は一つ小さくため息を零す。負の感情の多分にこもったそれは不満をすべて吐き出した証でもあった。


『危ないと思ったらすぐに撤退するのよ?』

「善処します」


 そう言ったあたりで、これまでも強烈だった臭いが一際濃くなった。

 かつての何よりも、あのムカデと一戦交えた時よりも強烈なそれに、千陰はいよいよ歯を見せて笑う。


『――千陰ちゃん、そろそろ』

「わかってる。わかってるよ」


 高層ビルの屋上から一息に飛ぶ。

 長い一房の髪が揺れる。

 全身を襲う風圧に、腰裏に吊るした二刀が若干の抵抗を生む。

 それが厄介だとベルトをずらし、柄に手を添えて進行方向に対してできるだけ平行にする。彼女の体はスムーズに空をかけた。



 あまりの高さに、地上からでは点のようにしか見えなかっただろう。そのため身投げとも思われなかったはずだ。

 そも、目撃した人がどれだけいたか。


 たとえ見られていたとしても、その後すぐに姿を消せば、見間違いだと忘れさられただろうが。いや、余計不思議現象と持て囃されただろうか。



 彼女の体は宙を飛ぶさなか、唐突に消える。



 彼女の眼前には、いつのまにか広大な灰色の世界が広がっていた。



 ***



 休日だというのに、真っ黒なスーツを丁寧に着込み雑踏をきびきびと歩く女性。

 ミディアムボブの明るい茶髪を左右に流し、少しきつい印象を与える涼やかな顔には意思の強いレッドブラウンの瞳が浮かぶ。

 しかし、今ばかりはそれをやや不安げに染め、憂い顔となっている。


 少しばかり注目を集めていた彼女だが、人の視線、それが途切れるわずかばかりの間断を見切り、ビルの陰へと身を隠す。異能の特性もあってか、慣れた動作だ。

 往来から離れ、こちらを気にするものがいないことを確認すると、彼女は耳につけていた小さなインカムからマイクを伸ばす。

 本体に備わった小さなボタン、その一つを押すと、赤く転倒していたランプが緑に変わった。

 一瞬の電子音の後、クリアな音へと変わる。


「局長」

『――赤峰君か。何か問題でも起こったのか?』


 女性――赤峰は、弥永含めた現場指揮班の車両ではなく直接司令部へと連絡を取った。


「いえ、今のところは……しかしこれから起こるかもしれません」

『続けてくれ』

「――梓田駅前の大規模な異空間の発生に関しては既に報告が行っておられますよね」

『ああ。発生から既に30分以上経過しているだろうとも、聞いている』

 そんなに――

 険しかった顔がさらに難しいものとなる。

 握ったこぶしがミシリと軋んだ。


「それなら、話が早いです。局長、梓田駅周辺に避難勧告を発令することとかできませんか。このままでは最悪民間人にも被害が及ぶ可能性があります」

『……難しいな。我々にはそこまでの権力が与えられていない。災害規模に発展する可能性があると上に言っても、それを何とかするのが仕事だろう。そういわれるのがおちだ』

「しかし!」


『わかってる、わかってるよ。君の言いたいことも……君の気持も』

 爪が皮膚を食い破り、赤い血が一筋伝う。

 しかし、鋭い痛みも今は気にならない。

 忌まわしい記憶が呼び起こされる。彼女がすべてを失った、本当に忌まわしい――


『――それに、難しい、としか私は言っていないぞ?』

 しかし、まるで彼女の胸に広がった暗雲を振り払うように、イヤホンから朗らかな声が聞こえてくる。

『そういう難しいしがらみを何とかするために、私がいるんだ。何、こう見えて昔は結構偉かったんだぞ? それくらい、無理を通して見せるさ』

「ありがとうございます!」


『はっはっは。たまには局長らしいところも見せないといけないからな! しかし……』

「やはり、問題が?」


『いや、人脈は大事だなあ、とな。ほら、うちってそういう子少ないし。やっぱり鶴田君に期待するしかないかなあ。でも彼妙に誤解を招きやすいし……』

「まさかもう後釜のことを考えているんですか? それよりも変に責任を取らなくて済むよう、うまく立ち回ることを考えてください」

『ハハハ、耳が痛いね。なら、現場のほうは任せたよ。私では、力になれないからな』

「……任せてください」


 通信を終える。

 インカムのボタンを弄り、再び赤色のランプが点灯した。

 通りに出る前に、一度空を見上げる。ビルの隙間からは狭い空が見えた。暗い世界に覗く、高い空。


 ああは言ったものの、私では力不足だ。

 今も昔も、私には何もできない。


 ――強く、ならないとなあ。


 あちこちからけたたましく鳴り響く携帯の電子音、路上の防災無線。遠くの商業ビルの壁面に備えられた、今まで企業広告を流していたデジタルサイネージが緊急性の高いニュースへと変わる。


 ――仕事が早い。

 きっと、自身が提言する前から既に手を回していたのだろう。


 にわかに騒めき立つ雑踏。

 その中に、彼女は一歩踏み出した。



 ***



 耳が捉えた不愉快な羽音に向かって刃を振るう。

 びちりと水音を立ててそれは半ば真っ二つに千切れ、チリに消えた。


 もう数えるのも面倒なほどの攻防だった。

 先日相対したばかりのアブ型の異次元体が群れを成して迫ってきたのだ。


「……っ!」


 二刀を休ませることなく振るい続ける。

 前回と違い策も何もない無謀な突撃は対処に容易い。その異質さに内心首を傾げながらも彼は地を駆け、二車線の道路へと飛び出た。

 現実とは隔絶された世界では、行きかう車を確認する必要もない。

 物陰のない、見晴らしのいい空間に姿をさらすことになるが、構ってはいられなかった。


 遠目に見えていた〝卵〟へと駆け寄る。そして、赤銅色の刃を突き刺した。


 ずぶり、と、分厚い膜を破る感触が手を伝う。

 アブの外殻よりも硬い、重厚なキチン質の膜に覆われたそれからは濃密な液体が漏れ、そして瞬く間に錆に覆われていく。

 もぞもぞと蠢き始めていたそれはやがて沈黙し、最後に一蹴り加えてやれば、バラバラになって宙に溶けていった。



 卵を潰したのはこれで七回目。


 位置を選ばず、隠すことなく。

 ベンチの傍に、建物の屋上に、時には道の真ん中に無造作に植え付けられたそれは長細く、不気味な黄緑色で、艶を持った卵。

 脈動し、膨れ、中で何かが蠢いている。

 底部に貯まった粘液によって支えられたそれは直立し――そして限界まで膨れると中から異形が現れる。


 それは異次元体の卵だった。


 生まれてくるのは虫型ばかり。幼虫および若虫、そして種によっては蛹という形態を挟むはずのそれらは進化の過程をまるで無視して、なべてどろどろの芋虫状の粘液から成虫の姿にまで姿を変える。


 中には幼虫のように思われるものもいないでもないが、それらはともすれば成虫よりも恐ろしい姿をしていた。

 大顎を持った長細い体。水生昆虫に多い、捕食者としてある種完成された姿のそれらは成虫へと変態する必要もなかったのかもしれない。

 また、小型のものであれば一気に数匹生まれることもあった。

 先のアブのように。



 ***



 広い異空間内は、地獄のような世界だった。


 数多の異次元体が溢れ、至る所で殺し合い――生存競争が繰り広げられている。


 対するのは彼らを狩るものである異能者たち。

 凄惨な争いは、異能者が勝つこともあれば、異次元体が勝つこともあった。道端には無残にも敗れた異能者の死体が転がり、時折それに無数の虫共がたかっている。

 明らかに獲物を超えた大きさのそれらは、小さな餌をめぐって取り合いすらも始めていた。


 既に何度も見た、悍ましい光景。

 己の姿と重ね、背に寒いものが走ったのももうずいぶん前のこと。もはや手が一つ減ったと小さく舌打ちをするくらいだった。


 最も印象的だったのは群れた平べったいダンゴムシのような集団。ユキが知ることではないが、より刺々しいそれらはシデムシ幼虫とよばれるものに酷似していた。

 エナメルのように黒い甲殻をぎらつかせ、軽自動車並みの巨体を互いにこすり合わせながら何かを囲む。頭をぶつけあい、ぎちぎちと体を揺らしながらそれは死肉を食んでいた。

 巨体のせいで犠牲者の姿など見えはしない。

 しかし、いかにしぶとく頑丈な異能者であっても、生きてはいないだろうことは明白だった。



 このように、幼虫を含めた多数の異次元体、そのどれもこれもが生物として、殺戮者として完成された姿で異空間内を闊歩していた。

 あるいは更に過剰ともいえる進化を遂げ、より殺傷性を高くして生まれてくる。

 そして、個としても十分強大な力を持っているのに、何より厄介なことに連中は群れていた。

 同じ卵から生まれる、あるいは同種の個体同士が集まり、侵入者へと襲い掛かるのだ。


 一瞬の油断も許されない世界。

 終わりの見えない厳しい生存競争の世界。

 建物の中には卵が植え付けられていないこと、そして通常よりオツムが弱いのが不幸中の幸いか。




 増え続けるのは何も異次元体だけではない。

 時間が経つほどに周囲から、時には遠方から集まった数多の異能者がこの広大な異空間の中に入り込み、そして各々が各々の得物を振るっていた。


 しかしまるで手が足りていない。

 一匹を狩れば別の一匹に襲われる。複数を同時に相手取ることすらも必要とされる。

 彼らの戦う理由である、心炉を回収する暇など当然のごとくない。

 そのため割に合わないと感じた賢明な者たちは離脱をしていくようだが、一方で残るものも多かった。


 何せこれを放っておけばどうなるかが容易に想像がつくからだ。

 見渡す限りに続く灰色の世界。

 むせかえるような毒香に溢れた空間。

 そして延々と生まれる無数の異次元体。


 これが現実世界を侵食したとしたら、数えきれないほどの死者が出るだろう。

 街一つ、それも人の集まる人口密集地分の死者。

 国の人口全体から見れば大したことないのかもしれないが、大災害規模、いや、碌に逃げることもできないことを考えればそれ以上の被害になるだろう。



 しかし感情で判断するならば、どれだけ危機的な状況であったとしても、正直放り出していてもおかしくなかった。

 いずれ危機に晒されるであろう民間人たちは、特別自身の命を懸けてまで守るべき対象でもないからだ。


 かつては自身らを迫害した者たち。

 もしくは、いつかは自身の背に後ろ指を指すかもしれない者たち。

 同族という印象も次第に薄れ、異次元体という明確な敵がいなければ敵対していたかもしれない、ただの人間たち。


 彼らを守る義務など、ありはしないのだ。



 ユキもその例に漏れない。

 トラウマを与えられた相手に対して、わざわざ守ってやる義理などなかった。

 しかし、なけなしの倫理観、そして正義感がユキをこの地に留まらせていた。ある意味それがユキを人間たらしめる最後の軸なのかもしれない。

 彼の頭に浮かぶのは、一般人でありながらも彼に対して優しい顔を向けた人たち。

 そして、彼が一度は裏切ってしまった人たち。

 わずか一週間ばかりの付き合いだったというのに、随分絆されたものだと、内心で自虐していた。それでも、悪い気はしなかった。




 耳が羽音のうねりを捉える。一気に四つの羽音が近づく。


 ユキはそれを歩道沿いに並んだ花壇へと身を隠すことで回避する。

 ガードパイプごと飛び越えて、歩道へと身を投げる。ガードパイプと花壇を飛び越える瞬間、灰色に染まった植栽がかさりと葉を散らした。


 即座に高速の羽音が耳を劈き――四つとも潰えた。代わりにぶちゅりと何かがぶつかり、そして弾けた音が四つ続く。

 三つはレンガの花壇から、一つは歩道の向こうの建物の壁から聞こえた。

 頑丈なはずの体も、自慢の速さの前では霞むほどのものでしかなかったらしい。

 最大の武器で自身を殺すことになるとはなんたる皮肉か。


 羽音が途絶えたことを確認すると、ユキは足早にその場を後にする。

 いつまでも留まっていると今度は別の虫共に囲まれることになる。いちいち小物に構っている暇はない。


 卵を、そしてその母体を殺さなければならない。


 花壇、街灯、電柱などやや地上より高いものを足場に飛び回る。

 規則性などまるでなく植え付けられた卵と、どこかにいるであろうその母体を見つけやすいようにするためだ。

 本来なら高所から見下ろすのが一番効率的だろう。しかし、あまり高所に上ると今度は降りるのが手間になる。


 その分目以外、耳や、気配を感じ取る第六感とでも呼べるものを駆使して周囲から異常をピックアップしていく。

 自慢の鼻はダメだ。

 この異空間内はとてつもない濃度の毒香に満ちている。

 それこそ炉を全開にし、エーテルを通常の何倍も体内で駆け巡らせなければならないほどに。


 あまり時間も掛けていられなかった。

 異空間の成長具合もある、が。

 何よりユキの体の限界もあった。


 ふっと、立ち眩みに似た感覚がユキを襲う。

 異空間に侵入してから都合何度目かのそれ。


 濃密な毒香を吸い続けたためか、いつのまにかうっすらと頭に靄がかかり始めていた。

 思考能力が衰え、地を踏む感覚も次第に薄れていく。


 尋常ではない濃さの毒香。

 それが中で戦う異能者たちを苦しめていた。

 抵抗力を超えるそれは異能者たちの思考に空白を与え、明確な隙を強制的に晒させる。

 いかに場数を踏んだベテランでも、抵抗力が低ければたやすく死へと誘われるのだ。



 ユキはそれに対して、気付け代わりとばかりに軽く舌打ちをすると、既に全開に近いほどに回している心臓――その内側で燃え続けるエーテルの炉に、限界を超えて火を入れた。

 すると、頭の中にかかっていた靄もすっと晴れていく。

 思考がクリアとなり、感覚が戻っていく。

 力を取り戻した足が地を踏みしめ、一瞬の遅れを巻き返すように空をかけた。



 エーテルの奔流に、体が焼けてしまうように熱い。体をひりつかせるほどの熱は出口を探し求めて暴れ狂い、末端を食い破らんばかりに走る。


 限界は近い。



 ***



 灰色の世界を駆けずるさなか。

 再覚醒した思考、感覚。その優れた聴覚が周囲に溢れる異質な音、無数な足で地を打つような連続音を捉えた。


 赤銅の瞳が一際輝く。


 音の方向へと視線を向ける。

 睨み付けるように鋭く引き絞られた目尻には忌々しさが滲んでいる。

 視線の向こうの存在は、全力で走れば容易に引き離せるような速度でしかなかった。しかし、邪魔をされるのも面倒、何よりもその姿が憎いとばかりに闘志を燃やし、やや好戦的になった思考のユキは進路を変更した。


 足場にしていた電柱を蹴り倒すほどの勢いで踏み込んだ。



 ***



「じゃ、まっ、だっ!」


 道路標識を引っこ抜き、勢いよく振るう。

 異能は使わない。耐久性が一気に減って武器として成り立たなくなるからだ。


 しかし、たとえ異次元体相手であってもエーテルを通すだけでそれは十分に殺傷能力を持つ。


 商業ビルの間を走る二車線のやや狭い通り。

 そこを乗用車の代わりに駆ける集団。

 地響きを伴いながら地を舐めるそれらは見覚えのある鉄兜。


 目の前に迫る、一番近いそれの頭を思い切り殴りつける。全長十メートルほどもありそうなそれは吹っ飛ぶことはない。

 一方で標識は根元から折れ曲がり、もう役に立たない。かさばるだけのそれを別方向から迫る一団へと投げつけた。


 迫っていた異次元体は頭を殴られたためか五つもあった単眼が潰れ、横殴りの衝撃に進路も乱れ、すぐ横を走っていた同類とぶつかり、もつれた。


 数多の足が互いに絡まり、刀のように鋭い朱色のそれがやはりお互いの体を削り飛ばす。

 濃紺の甲殻には白い一本筋の傷がつく程度だが、細く伸びた多量の足は根元から断ち切られていく。


 それぞれ足を一気に失い、まともに進めなくなっていた二匹のもとにユキは下り立ち、頭部へ向けて素早く刃をふるった。

 赤銅の刃から急速に錆が広がり、怒らせていた触覚も、大顎も何もかもを蝕み、そして崩れ落ちた。


 それを見届けることなく飛び跳ねる。

 一瞬の間をおいて三匹ほどの同類が突っ込んできた。投げつけた標識程度では足止めにもならなかったらしい。

 衣料品店の正面ガラスを突き破り、それらは奥へと消えていくと、出てこない。

 壁を叩くような轟音は聞こえるが、かつて対峙したそれとは違い、一度で突き破るほどの力はないらしい。

 体躯に雲泥の差があるのだ、当然のことかもしれない。


 狭い店内を荒らしまわる〝ムカデ〟たちは、放っておいても先の二匹と同じように同士討ちを始めるだろう。

 もはや構うだけ時間の無駄と悟り、ユキはその場を後にする。


 一応のリベンジは果たしたことになる。

 しかし、あまりの強さの違い、そして手ごたえのなさに、さすがに気は晴れなかった。




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