1話 ユキ
「ん」
うっすらと紫がかった、澄んだ秋の空。
日ももう落ちようかという時間帯に、鋭敏な嗅覚がとある独特の臭いを捉えた。
一度嗅いだことがあるのなら、たいていの人間は忘れることのないであろうその臭い。
甘く、心地のいいようなもので、しかし長く嗅いでいると思考に無理やり空白を空けられていくような――麻薬のようなもの。
誘われるようにして臭いのもとへと視線を向ける。風に乗ってやってくる臭いの主はここからおよそ2、300メートルほど先にいる。それほど遠くはないようだ。
屋上のペントハウスに預けていた背をゆっくりと起こす。
くたびれたスポーツシューズで立ち上がれば、長時間座っていたからか、ぱきぽきと背がある種心地よい音を立てる。背伸びをすればそれはいよいよ大きな音を鳴らした。
あまり体によくはなさそうだと思ってはいるのだが、どうにもそれは癖になっていた。
遮るもののない屋上で、正面から一陣の風が吹き抜ける。13歳の身長にはやや合わない、大きめの黒いジーンズジャケットがばたばたと風にはためき、男にしては少々長めの黒髪も風になびく。
鬱陶しさについ顔の前に手を翳すと、かさついた指が視界を覆った。
10月も半ばとなれば風も幾分冷たさを増す。
肌寒さを覚えるほどで、ついつい腕をさすってしまう。
そろそろ都合のいい住処でも見つけなければなと、思考は現在利用している隠れ家へと飛ばされた。空き家に不法侵入して使っているそこには暖房どころか電気すら通っていない。
庭なしの小さな一戸建て。部屋のどれもが必ず一面は外壁に面し、断熱材など入っていないだろうそれはよく熱を通してしまう。つまり、一階だろうが二階だろうがすべての部屋が夏は暑く冬は寒い。
――今回の獲物で少しは稼げるかな。
皮算用ではあるが、暖かい部屋でくつろぐ光景を夢想する。
2畳もなさそうな、リクライニング付きの椅子と机がある程度の粗末な部屋。机には手垢のついたデスクトップパソコンがあり、望めば――別料金だが――軽食もついてくる。
つまりは一般的なネットカフェだ。
贅沢のレベルがネットカフェや漫画喫茶での休憩というのはどうにも世知辛さを感じてしまう。
妄想に思考を浸すのもほどほどに、地に下ろしていたナップザックを背負う。
放っておけば、あれはどんどん臭いを増す。
それだけ気づくものが、同業者が多くなってしまう。
少年――今ではユキと短く名乗る彼は、屋上の縁にまでそそくさと歩くと、そのまま憶することもなく鉄柵を乗り越えた。
もし人に見られていれば、飛び降りだなんだと騒がれること間違いないだろう。
幸い見ているものは誰もいなかった。
それなりの高さのビルで、地上からならそうそう視界に入らないことも幸いしたのだろう。
眼下は10メートル以上もある高さ。すぐ下は2車線道路で、クッションになりそうなものは当然のごとく存在しない。
しかし、ユキの視線は下に向いてすらいなかった。
彼の見る方向は、変わらず臭いの源。
ちょうど、太陽の沈んでいく方向。寂れた繁華街、その中でもひと際人の往来の少ない地域。今いるビルと同じくらい、あるいはひとまわり低いものが密集し、大きい通りに沿って幾分きれいな店が並んでいる。
一方で、小さな通り――裏通りは以前ユキが歩いた限りでは昼間でもシャッターの降りている店がほとんどだった。看板すら取り外され、売りに出されることすらない無人の空き店舗が並ぶ。通りを歩く者すらほとんどいないそこは、ある意味〝双方〟にとっても都合がいい場所だった。
人のそばでありながら、人から忘れられたような場所。
そういうところに、よくアレらが湧く。
そして、それを狩りに、ユキのようなものが現れる。
あるものは純粋に己が異能を強くするため。
あるものは、ユキのように金儲けのため。
異能を振るってアレらを狩り、時には鉢合わせた商売敵にも刃を向ける。血なまぐさい仕事をする者にとって人目が少ないのは何よりの助けとなる。
一応、異空間が形成されているため人の目に触れることはないのだが、それが無くなってしまえば話は別だ。
物騒な得物を持った人間が突然現れたとあっては通報待ったなしだろう。
とある事情でただでさえ人目を避けなければいけない異能者たちにとって、顔を見られるのは致命的なのだ。
同業者というのもまた厄介な存在だった。
異能者は異能を使えば使うだけ、戦えば戦うだけその力を強くする。
そのために生きる、己が力の追求者ならともかく、ユキみたいなのにとっては同類と相まみえるのは百害あって一利なしだ。基本的に一つの異空間に獲物は一匹。
だから、皆が皆一番乗りを目指す。早い者勝ち狙いだ。
幸いユキは鼻がいい。人一倍にその〝臭い〟を嗅ぎ付けるのに優れていた。
そのアドバンテージを消す意味もない。
ユキはそのまま、屋上から身を投げ出した。
***
血液とはまた違ったものが心臓から足へと大量に流れ込む。
胸にある炉心に火を入れれば、『エーテル』と安直に呼称されるそれは全身に広がり、強大な力の奔流がある種の全能感を伴って体を満たす。
この力が異能者と呼ばれる所以であり、異能者ならば誰しもが持つ現行人類とは隔絶された身体能力。
しかし、彼らにとってはこんなものはただの序の口。彼らが〝異能〟と呼ぶものは、もっと特別なもので、かつ個々に違えた能力のこと。これから行われる狩りにも深くかかわるものだ。
駆ける足は風切り音を残し、10数メートル程度ならば苦も無く飛び越えていく。
強靭な脚力をもって連綿と続く建物の屋上を伝い、飛び跳ね、一分と立たずに繁華街へと足を踏み入れた。
近づくことでいよいよ臭いも濃くなり、甘美な毒香が辺りを満たしていた。
長く嗅いでいると異能に目覚めたものでも気を狂わせる毒の霧。
それは獲物である異能者を誘引する罠でもある。異能者とアレらは基本互いが狩って狩られての関係だ。
しかし、異能者がそれに気づかない、あるいは興味を持たずに放置するなどで誰にも止められずにいると、毒香は次第に何の力の持たない一般人ですら気づくほどになる。
アレらはある種の異空間、位相のずれた世界にて生まれるが、時間経過で異空間を膨張させる。
結果、それが正しき世界にも影響を与えるほどに拡大し、異空間が現実世界を侵食し始めることで本来それを感知できないはずの一般人ですらも毒に犯されることになってしまう。
そして、それを嗅いでしまえば耐性のない人間ではひとたまりもない。
脳が段々と委縮をはじめ、代わりに別の何かと置き換えられていく。思考能力は著しく低下し、最悪生命維持機能すらも停止しかねない。
完全に置換されるとどうなるのかはユキは知らない。何せ、だいたいはその前に食われて終わるからだ。
異能者と違って力のない一般人は養分が少ないらしい。それでも食わないよりもマシなのだ、そう、ユキは人伝手に聞いていた。
――もうちょい先か。
レンガ調のテナントビルで一呼吸置くと、鼻をすんとすする。
辺りはすでに甘い臭いに満ちてしまっているため、方向はその濃さでしか判断できない。
一番臭いの濃い地点、そこにアレらが広げる位相空間があるわけだが、あいにく目には見えない。
視覚化できる道具とやらもあるようだが、食うにも困っているほどのユキには到底手の届かない代物である。
だからこそ、原初的で、そして己が最も得意な方法に頼るしかないのだ。
タンっとコンクリートの床を蹴ると、小さな体はふわりと宙に浮く。ユキはやや右前方に飛ぶと、そのままビルとビルの間、目測8メートルほどの高さを命綱なしで落ちていく。
足を折る程度で済めばいいほどの高さ。
それを一欠けの恐怖心も持たずに飛び降りて、そしてやはり何の問題もなく着地した。
カビ臭い路地裏に降り立てば、衝撃で土ぼこりが舞い上がる。
当然のように一番乗りだった。
そこは灰色の世界。
夕日も届かず、ぽつぽつと明かりの灯り始めた街灯の光も届かない。
それどころか、通常の光源が一切機能しないネジ曲がった世界。
そこで輝くのは同じくネジ曲がった存在である〝異次元体〟と、それに適応した異能者の瞳だけ。
ユキの前には、鈍色の肌を水に浮いた油のように七色に蠢かせた、どこかスライムじみた異形の姿があった。
ぼこぼこと全身を泡立たせながら伸縮し、気泡が破裂するたびに半透明の薄緑色の液体が飛び散る。
その巨体にはところどころにどことなく人間の特徴を捉えた多数の目や口、そして不揃いな数の手足を持ち、特大のそれらを気味悪くぐねぐねと動かしている。
にちゃにちゃと広げられたいくつもの口からは異様に長いピンクの舌が覗き、綺麗にそろった歯からはねっとりと唾液を引く。
緩慢に全身を蠕動させ、壁との間にタールのように粘つくどす黒い緑の粘液を垂らす様はまさに異次元の悍ましさを持つ。
蠢くこの不定形こそが、この空間の主、異次元体だ。
異次元体は明確な形を持つものほど強力で、また採れる『エーテル』の質もいい。
目の前のスライムもどきは、質でいえばほとんど最低といっていい個体だ。
そのことにユキは若干の失望を覚える。
幸い、大きさだけは一級品だった。
2メートルもない建物同士のはざま。
パイプとダクト、室外機などでさらに狭くなっている路地裏だが、異次元体はその不定形さを生かして、横の広さではなく縦の広さを利用していた。
それは壁面にへばり付いていた。
目測で、全長5、6メートルはあろうか。
ビルの壁面を半分ほど埋めるその不透明な体は薄く延ばされ、邪魔な障害物など飲み込みながら壁に張り付き、ぎょろぎょろとその複数ある目を彷徨わせている。
その目が狙うのは、目の前の小さな侵入者。
獲物が罠にかかったと、それは歓喜にか一段と大きく体を揺する。
お互いが敵と認識しあい、無音の世界に不穏な空気が漂い始める。
ユキはフン、と鼻を鳴らし、甘美で、しかし気色の悪い毒の香りと決別する。
そしてジャケットの下に仕込んだホルダーから、小さな――それでも刃渡り30センチはあるやや背の反ったマチェットを抜く。
心臓から腕に向かって、熱を伴ったエーテルが流れ込む。発熱し、じくじくと痛む指先をもう慣れっことばかりに無視をして、手にした得物を浅く握る。
それを片手で構えるや否や、地面を蹴り、目の前の不定形へと飛びかかった。
戦闘開始の合図などあるはずがない。
異次元体も驚く様子も見せずに迎撃の構えを作る。
5指の揃わない歪な腕の一本をもってそれを迎えようとし、飛びかかる無法者を握りつぶそうとする。
ミチミチと嫌な音を立てて伸ばされる不気味な腕。
大きく開かれた手のひら。
眼前に迫ったそれ対してユキは怯みもしない。地面をけり込み、開かれた指の合間を潜り抜ける。
同時に、刃を横に薙ぐようにして振るった。
一拍遅れて異次元体の手のひらが閉じようとし――そして固まった。
狭い壁と壁の間を器用に突き出された大きな腕。それをかいくぐるようにしてよけながら、無防備な手のひらをマチェットで切り裂いた。
ただそれだけ。
一瞬の交差。
ユキの手に残るのは皮一枚を切り裂いたような浅い手ごたえ。
厚い肉にまで届かず、腕ほどの太さの指一本すら切断するには至らない。
表面にうっすらと亀裂が走り、淡く光る緑色の血が滲むだけ。
だが、それだけで、異次元体は腕の一本を封じられることになった。
ユキは飛び跳ねた勢いを利用して異次元体から――先ほどとは反対方向に距離を取り、再びマチェットを構える。
その刀身は異空間の影響で元の白銀を灰色にくすませていたはずだが、いつの間にかほのかに褐色に色づいていた。
対する異次元体は、突き出した腕が軟体らしさを失い、それどころか生物らしさも失っていく。
動かすほどに乾いた音を立て始める。表面は鱗のようにひび割れ、ぽろぽろと剥がれ落ちていく。
七色の照りは失われ、赤錆色に変色する。
錆は瞬く間に腕の付け根までに広がり、ぎしぎしと音を立てる。
ゆっくりと四本の指が閉じられる。
そして、無理に握られたこぶしはその四つの突起が根元から崩れ落ちることで、無理やりに手のひらを晒された。
ユキはそれを、無感動に眺めていた。
複数ある眼球のいくつかを腕へと向け、しげしげと眺める様にはまるで痛みなど感じさせない。
そもそもあの原始的なアメーバ生物に痛覚なんてものが存在するかも疑わしいが。
そして、異次元体が目を向けているその腕は、自重に耐え切れず、軋みをあげながら根元からぽっきりと折れた。
ごとりと固い音を立てたかと思うと、地に落ちた衝撃で錆の塊は塵に消えた。
眺める対象がなくなり、眼球が一斉に獲物のほうへと向けられる。その眼には怒りなど浮かびもしない。無機質なガラス玉のような、しかし気味の悪い生物的な濁色のそれがてらてらと輝く。
瞬きのたびに黄色い目ヤニが飛び散り、びちびちと地を汚した。
そして、今度は異次元体のほうから攻撃を仕掛けた。
異次元体は複数の口を大きく開け、一息すらおかずに勢いよくすぼませる。
そして、ぶちゅりと醜い水音を破裂させると同時に、粘ついた液体の塊が撃ち出された。
「ちっ」
一度に四つも撃ち出された粘性の弾丸を、様子をうかがっていたユキは二つはよけて二つは切り捨てる。
切ったほうは錆の塊に、よけたほうはびちゃりと大きな音を立てて地にへばり付く。
攻撃性はおそらくない。
もちろん質量と勢いから、当たればダメージは食らうだろう。しかし、体に穴が開くほどでもない。切った手ごたえからそう判断する。
粘つくそれはとりもちといったところか。
不用意に触ればそのまま身動きを封じられ、そして大きな手足で叩き潰されるだろう。
異次元体はそのまま間断なく粘体を撃ち出し続ける。唾の塊と思われるそれは弾数に限りというものがない。
先ほどの焼き増しのように切り捨て、あるいは避けるかで対処をするのだが、次第に地面も壁も白や灰色に粘つく液体で埋め尽くされていく。これではいつかは足の踏み場が無くなるだろう。
この粘弾を止めるには、口を封じる必要がある。先の腕と同じように、口だろうが切れば容易に封じられるだろう。
しかし、現在左右合わせて8つも存在する口に刃を届かせるには、まず無造作に振るわれる多量の腕と足を何とかする必要があった。
なかなか面倒な作業になりそうだと、ユキは内心でため息をついた。
***
壁一面、地面一面に広がる粘液に刃を這わせる。白くドロリとしていたそれらは一瞬にして錆付き、踏みつければ塵と消える。
そういう意味ではこの異次元体はユキと相性が悪いわけではなかった。
一気に焼き払うことのできる炎熱を放出するタイプの異能などが一番だが、それ以外、一番多いとされる単純な身体、あるいは感覚強化系ならば撤退も視野に入れないといけないだろう。
――雑魚のくせに。
〝赤銅色の瞳〟が目の前のアメーバを射竦める。
しかしその程度に動じることはない。
異次元体の四つの口が大きく開く。
わかりやすい前兆だ。
下等タイプということもあってブラフということもないだろう。
口がすぼめられる瞬間を捉える。
汚らしい水音とともに唾液の塊が吐き出された。
異能者として強化された感覚では四つ程度の目標を同時に捉えることなど容易いこと。
粘弾が吐き出される方向を見切り、ユキは四つすべてをかいくぐって相手の懐に潜り込む。
巨体は回避なんてしようとしない。
代わりに大きな腕で、あるいは足ではたこうと勢いよく振るわれる。
先ほどのことなどすでに忘れたのか、それとも考える頭がないのか。
ぶちゅりと体液を迸らせながら、足の一本が根本から長く伸びる。
関節の一つ増えたそれが、空を破裂させるような轟音をたてながら小さな反逆者へと向けられた。
踏みつぶさんと繰り出された足はおよそ路地裏の横幅の半分を占めるほどの面積を持っている。
しかし、ユキは駆ける足を止めることすらなく、さらに一歩踏み込むことで回避する。
空を踏みつぶした足が地を轟音を立てて揺らすが、ふらつくこともない。
同時に繰り出されていた、地面を指で抉りながら進む剛腕は接触の直前に飛び跳ねて、大きく広げられた手のひらに比べ各段に細い手首の横をすり抜けるようにして避けた。
どちらも回避と同時に刃を這わせ、浅く切り付けてやれば傷口から勝手に錆が広がっていく。
それがユキの異能。
錆、正確には腐食を与える異能。
化学現象的な錆とは違い、金属に限らず有機的なもの、例えば筋組織、骨、液体にすら作用し、構成物質を急速に劣化させていく。
腐食を与えられたものは赤錆のようなものが内外を問わず広がり、組織が侵され、脆くなり、そして風化する。
ちょうどたったいま切り付けられた異次元体の体のように。
マチェットに裂かれた腕と足は、根本まで錆が広がり、その重さに耐え切れずに本体から脱落した。
地に落ちたそれはまたしても落下の衝撃に耐えきれず、ぼろぼろと崩れていく。
これで、異次元体の肢は残すところあと腕が二本、足が三本となった。
にちゃりと言う音を耳が捉え、背後を振り返ることなく体をひねる。
すぐそばを粘弾が通過し、べちゃりと地に白い汚らしい花が咲いた。
それを刃で撫でて塵に返しながら振り向くと、異次元体はすでに次弾を発射するために口をにちゃにちゃとさせていた。
左右にそれぞれ四つずつ備わった口の配置から、異次元体のどちら側に抜けたところで必ずカウンターの粘弾が飛んでくる。
単調な作業だが、少しのミス、あるいは運の悪さで天秤が一気に傾いてしまうかのような危険な戦闘でもあった。
それでもこの程度は何の障害にもなりはしない。戦況は当然のごとくユキに優位なように傾いていた。
吐き出された粘弾はもはや刃で対処する必要もない。完全に見切ったそれを安全地帯に向けて潜り抜けると、先ほどと同じように繰り出された手足をやはりなで斬りする。
肢がさらに脱落する。どんどんと歯抜けとなっていく粘体生物。
ユキの勝ちは揺るがない。
***
最後の交差。
肢をすべて落とし、粘弾を回避し振り返ると、そこにあるのはもはや薄く広まっただけの肉の塊。
ぎょろりと蠢く複数の単眼は心なしか憎々しげな色を帯びている。あるはずもない感情をむき出しにし、ユキを睨んでいた。
ぞわぞわとするような生臭い何かを吐き出す口と鼻はやけに荒々しい。
脅威などもはや感じられもしなかった。
ただただ汚らしいだけ。
矮小な生物と思っていた相手にやり込められた、愚かな下等生物の惨めな末路だ。
戦闘開始から五分と立たずにこのありさまだ。
いや、よく五分持ったといったほうがいいかもしれない。
ユキの異能であれば、たとえどれだけ強力な異次元体であっても刃が通った時点で勝敗はほぼ決まる。
エーテルの浸食に対して強い抵抗力を持っているのならばまた別だが。
小さな相手であれば一度の交差で全身に錆が広がることもある。目の前の不定形はその巨体ゆえ五分も持ったのだ。
しかし、早さが命の狩りでは五分だろうが一瞬だろうが油断はならない。
戦闘が終わっていようと横取り狙いの不届き者がいないとも限らないのだ。
もはや脅威の感じられない粘体生物にやすやすと近づき、その口元へと刃を、深く、深く食い込ませる。体の内側をも犯したそれは、手足を切ったそれよりも容易く腐食を広げていく。
一瞬にして体表、そして体内に錆が広まり、口の近くにあった目や鼻すらもが赤錆に覆われる。
にちゃにちゃと唾液を蓄えようとしていた口は急速に水気を失い、厚ぼったい唇がぼろぼろと崩れ落ちた。
反対側の口ではこちらを狙うこともできず、異次元体はとうとう攻撃の手段を失ってしまった。
燃料が足りなかったのだろう。不定形でありながら身体の改造、新たに手足を生やすことすら行えないゆえの敗北であった。
念のためもう片側の口元にも刃を刺すと、異次元体は完全に沈黙した。
表皮がすべて錆に覆われてしまえば、荒い鼻息すら漏れ出ない。
ユキは甘い毒香がもっとも強く香るところに当たりをつけ、刃を突き立てる。腐食を付与させることなく、灰色の刃で円を描くように肉を切り取ると、中からどくどくと脈打つ丸く、そして太い血管の走ったピンク色の臓器が現れる。
錆びることなく残ったそれは、異次元体にとっての心臓であり、『エーテル心炉』と呼ばれるものだ。エーテルの源泉ゆえ、エーテルに対する抵抗力が高く、腐食されずに済んだのだ。
大きさはソフトボールよりも少し大きいくらい。
あらかじめナップザックから取り出していた大きめのガラス瓶と見比べる。
無理をすればなんとか押し込めそうな大きさだ。
マチェットで邪魔な血管を断ち切り、半透明で薄緑色の液体が勢いよく噴き出すのに構うこともなくそれを素手でつかむ。
ぶよぶよと、ゼリーのような感触のそれを肉の狭間から抜き取ると、辺りに満ちていた甘い毒香が段々と薄まっていく。
灰色の世界も色を取り戻し始め、辺りは真っ暗な路地裏へと変わっていく。
やたらめったらに吐き出された粘つく液体も、抉られたアスファルトも、そして錆色に覆われた異形の姿も、すべてが消え去った。
異次元体によって生成されていた位相のずれた世界は崩れ去ったが、しかし手には変わらずエーテル心炉がある。
それをガラス瓶に詰め、ナップザックにしまい込むと、ユキはその場を後にした。