アルゲリッチのゲシュタルト
最近、バッハを聞いている。自分はレッド・ツェッペリン大好きで、そこから神聖かまってちゃんに行き、つまりはロック好きだったのだが、年を取ってきて、クラシックも聞ける体になってきたのかもしれない。
で、「バッハかっけえ」なんて独り言を呟いているわけだが、バッハのポリフォニーというのは一体どういう性質のものか、頭でぼんやりと考えている。バッハの後からピアノという画期的な楽器が出てきて、ピアノの大きな特徴は音の大小をコントロールできる所にあると思う。ピアノは、それ一つで演奏者の精神全体を表現できる、非常に優れた楽器という事なのだろう。バッハからベートーヴェンに傾斜していく時、宗教から、芸術家の個性というものに流れていき、それはピアノという楽器とも関係しているように思える。ピアノによって内面性がより強烈に外部に打ち出せるようになったという事実と、宗教内の職人的ポジションから、市民社会内の芸術家という風に、芸術家の社会的位置が動いた事は連動しているように見える。
で、自分はアルゲリッチのバッハなんかが好きだが、アルゲリッチは過度に、主観的に、つまりは極めて現代的に演奏している。僕のイメージでは本来のバッハは、アルゲリッチの解釈とは随分違うものであると思うが、別にそう言う事で、アルゲリッチを非難したいわけではない。小林秀雄が西行や実朝を己の像に作り変えたの同様、アルゲリッチは自分の演奏家(批評家)としての正当な権利を行使しているだけだろう。過去とは現在に照らされて、始めて光を放つもので、バッハは同時代には優れたオルガン弾きにとどまっていた。となると、そもそも「あるがままのバッハ」とは何かと問われるべきなのだろう。ただイギリスの人気脚本家にすぎなかったシェイクスピアも、人類史に残るシェイクスピア、人類史に残るバッハ、つまりは我々が見ている彼らの像の方がより正当であると僕には思われる。そういう像を構成する上で、アルゲリッチというピアニストが己のやり方でバッハを弾くとは、何かを提供するものとなっている。彼女もバッハを構築する歴史に参加している。
アルゲリッチが弾くバッハの曲というのは、僕の芸術観からすると一つのゲシュタルト(形態)を構成している。ゲシュタルトというのは、一つの曲が一つの実体というか、形としてはっきり見えているという事である。
現在の様々なつまらないものーーつまらないものばかりで死ぬほどうんざりしているがーーというのは、大抵、科学的物質観に染まっていて、とにかくうんざりさせられる。楽譜であれば、音符は単なるおたまじゃくしの群れであり、人間は化学物質の集合にすぎず、それが嫌なら、人間をランク付けしたり、数値に変換したり、持っている金の量で大小を決めたりという事で、バラバラの砕けた物質のようなものを人が嬉しそうに漁っている様を見ると、うんざりとする。僕が新式のガジェットを持っていたら、目を輝かせて話しかけてくる人物というのがいるが、こういう人にはより尊い宝は見えない。その宝を「魂」と呼べば人は笑うであろうが、今「魂」と呼ぶものが、この場合、ゲシュタルトに相当する。
アルゲリッチの演奏においては、バッハの曲は一つのゲシュタルト、つまりはっきりした形として見えているのだろうし、そうなると、音符それ自体はバラバラの、ただの音ではなく、全体を構成する部分として機能してる。彼女がそのように弾くからこそ、僕の耳にはそのように聞こえる。アルゲリッチがそういう弾き方をすると、バッハは彼女流に歪むが、その歪みは先に言ったように、演奏家として許される正当な歪みであろうから、納得できる。
一方で、演奏というものをただ機械的に捉える人は、全体をゲシュタルトとして捉える事ができない。ゲシュタルトを、神の前に頭を垂れる崇高な精神と言っても良いし、芸術家の魂と呼んでもいいし、色々な呼び方ができるだろうが、全体像を捉えられない場合、部分は部分としてしか機能せず、したがって音符は単なる音の群れに変換される。全体をイメージする事、形から魂にたどり着く事は、その人にとって、全体を一つのゲシュタルトとして捉えるという風になっていくだろう。
アルゲリッチの演奏は全体が感じられている為に、部分が生き生きとしている。現代の芸術は全般に低調であって、全体を構成するものが何であるかわからない為に、部分がただの部分としてしか機能せず、したがって「うまい」「技術がある」とか言った事が褒め言葉の『全て』となる。ゲーテは確か、一部の人々が創作を『組み立て』と呼んだ事に懸念を表明していたが、ゲーテには芸術も自然も常に生き生きとした全体であった。今や、ゲーテの世界は失われ、バラバラの瓦礫の世界が現れた。人がこの世界の中で嬉しそうに、今こそが歴史の頂点だと曰っているのを見て、僕はぼんやりとする。こんな時代はバッハでも聴くしかないのか。しかし、バッハと我々の間にはなんと長い距離があるのだろう。アルゲリッチはアルゲリッチ流にバッハを弾いた。僕はそれで良いと思うし、そういう人の演奏が聴きたい。「正しさ」や機械的な正確さを標榜する人には興味はない。そういうものは機械が代用してくれるだろう。そして人は多く、魂よりも機械に感動するのかもしれない。その人の魂がどれほど機械化されているかという度合いによって。