1億2672万/fゆらぎ
らしくなく恋愛?物になります。
情報量少なめ、サックリと読めると思います。
ルフランが入っているので気になる方はご注意下さい。
「オジさんは、変わらないね」
「そういう君は変わったね」
このやり取りが始まったの七十年ほど前。
変わり行く世界で変わらないと称された私と変わった少女。
人口約1億2千万ちょっとの島国で私と彼女が出会い、そしてその関係が共に終わりを迎える可能性はどれ程のものだろうか。
彼女と出会ったのは照り返しが厳しい夏。彼女がまだ小学生の頃だったか。
私は町の外れにある山の山中に作られた神社に至る石段に腰を掛け、よく町を眺めていた。そこにやってきたのが彼女であった。
俗に言う、転勤族であった両親に連れられて私の住む町にやって来た彼女は当初、少し捻くれていたらしい。
それも無理はないのかも知れない。
多感な時期に転校に次ぐ転校。人の家の事なので口を出すつもりは無いが、冒険心溢れる男の子ならまだしも小さな女の子が微妙な時期に新しい環境に身を置き、新たな人間関係を築く事は人に因っては難しい。彼女もそれに漏れず、どうせすぐこの町を去るのにわざわざ関係を作る必要は無いと思っていたようだ。
人の目を逃れ、行き着いたのが私が居座っていた神社だったのだと彼女は言った。
鎮守の杜は翠蓋を翳し、地表から離れていたため別世界かと思うほど涼しい。神社は避暑地としても優秀であった。
そんなところで一人寂しく石段に腰を下ろして空と町を眺めてる人間に対し声を掛けるなんて事は無いと思うが、人は一人で生きていく事は出来ない。
彼女もどこかで助けを求めていたのだろう。
「オジさん、こんなところで何してるの?」
「空と町を、眺めてるんだよ」
それが私と彼女のファーストコンタクト。
「面白い?」
「あぁ、面白いよ」
ふーん、とどこか疑わしげに相槌を打った彼女は隣に来ると少し距離をとって腰を下ろすと、一言も発する事無く日が暮れるまで空と町を眺めた。
「面白かったかな?」
「よくわかんなかった。また、来ていい?」
「それは、君が決める事だよ」
「そっか……じゃあ、またね。オジさん」
バイバイ、と挨拶をすると彼女は石段を元気に駆け下りる。その背を見えなくなるまで眺め続けた。
神社へと続く階段と、私が腰掛ける石段は人生の縮図だ。神社と言う終着点へ続く石段は過去を示し、鳥居は生の終わりを告げる。私はその最後の一歩を上がる勇気もなく、下る事も無い。際の際で踏みとどまり、変わり行く景色をただ見続ける。
▽
翌日、彼女は学校帰りだったのか赤い鞄を背負って石段を元気良く登って来る。
「オジさん、今日もお空見てるの? 変なの」
「あぁ、そうだね。何か良い事でもあったかい? 昨日より元気だ」
「んー……ナイショ!」
「ふふっ……そうかい」
彼女は鞄二つ分ほど距離を空けて腰を下ろすと黙って空を眺める。お互い口を開くこともなく、ただ移ろい行く景色を眺める穏やかな時間は、気が付けばあっという間に時の彼方へと流れ去った。
「もう暗くなる。気を付けて帰るんだよ」
「うん。また、ね?」
私はその声に、手を振った。
▽
次の日も、次の日も、毎日彼女は飽きもせずやってくる。一年程その関係は続いていた。
「オジさん、まだ空見てるの? 変わらないね」
「あぁ、そうかも知れないね」
「それより、もっと見る物あるでしょ?」
「あるかな?」
「せ、い、ふ、く! 私、中学生になったんだよ!」
「大きくなったね。おめでとう」
もう、と少し拗ねた様子で鞄二つ分、変わらない距離を保って彼女は腰掛けると空を眺めた。変わり行く世界。変わり行く彼女。そして、変わらない自分。
一つ、変わった事と言えばこの頃から空を眺めながら彼女はたまに口を開くようになった事か。
「私ね、この町に来た時どうせすぐ引っ越すんだと思ってた。でも、オジさんと空眺めてたらどうでもよくなっちゃって」
「そうかい? それはよかったね」
「オジさんは話をしてる間もずっと空眺めてるけど、聞いてなさそうでしっかり聞いてくれてて、私はきっと、誰かに話をちゃんと聞いて欲しかったんだと思うの」
その言葉になんて返したか、私は覚えていない。
空は、山の向こうに日が暮れ始めていた。
私は変わり映えのしない、いつもの言葉を繰り返す。
「もう暗くなる。気を付けて帰るんだよ」
「うん。オジさん、またね」
出会った頃に比べれば一回り大きくなった彼女の背。それが少しずつ、少しずつ、小さくなって町へと消えるのを私は眺め続けた。
▽
彼女が中学生になってから半年経った頃だっただろうか。やけに暗い顔をした彼女が重い足取りで石段を上って来た。
「オジさんは……変わらないね」
「君は変わったね。いつもより元気がない」
「私ね、また引っ越しするんだって」
その声は、初めて聞くほど落ち込んでいた。約二年。彼女の築いてきた関係は振り出しに戻されることになる。
彼女は鞄一つ分、距離を空けて石段に腰掛けると蒼のキャンパスを涙で滲ませながら日が暮れるまで静かに眺め続けた。
いつもと違ったのは、風に戦ぐ音に混じり押し殺すような嗚咽がさざめく鎮守の森に消え入った事だろうか。
しゃくりあげる声。雨も振っていないのに石段を濡らす水滴。
私はその声の方へ顔を向ける事もなく、ただいつもの言葉を繰り返す。
「もう日が暮れる。気を付けて帰りなさい」
「また……来てもいい?」
「それは、君が決めることだよ」
「うん。そう、だね。また、ね?」
私はその声に、手を振って返した。
それから彼女が姿を見せる事はなくなった。次の日も、次の日も。
▽
季節が二度ほど巡り、蒸し暑い夏。私はいつものように最後の石段に腰を掛けて町と空を眺める。
程々に畑が残り、こぢんまりとしていた町は街へと姿を変えた。大きなクレーンが鉄骨を吊り上げ、天を衝くビルが聳え立った。
畑道はアスファルトを敷いた道路が通り、田畑の面積はその規模を減らした。
今までは野菜が埋められていた大地には高速道路を建設するための支柱が生え並び、人の世の楔が打ちち込まれていた。
常に汗と泥に塗れていた者達はスーツを着込み、革靴で地面を叩く。
鍬や鋤の代わりにビジネスバッグを引っさげ、片手に電話を握っている。
世界は、凄まじい速度で変化を遂げ、変わらない事の無い世の無情さを纏めていた。
「オジさんは、変わらないね。また、来たよ」
「君は変わったね。大きくなった」
彼女は、数年ぶりにやってきた。髪は伸び、声には艶が宿った。小さかった体は女性らしさを増し、背も伸びていた。
鞄一つ分、彼女は距離を空けて座ると空と街を眺めた。
「空以外に、見る事、あるでしょ?」
「あるかな?」
「私、高校生になったんだよ。もう、一人で暮らせる。お父さん達には反対されたけど、無理言っちゃった」
「そうかい。それはよかったね」
「それにしても、変わったね」
「あぁ。変わった。変わらないことはないさ」
「オジさん、覚えてる? 私がオジさんに初めて会った頃、景色を眺めるの面白い? って聞いた事」
「あぁ、覚えているとも。今も、昔も、変わらず面白いよ」
「私も、やっとわかったよ」
私がふふっと笑うと、彼女ははにかんだ。
変わった街中。変わらない朱に染まった空。少しだけ山肌が削られて変わり始めた世界を告げるかの如く、烏が鳴き声を遍く響かせた。
「もう日が暮れる。気を付けて帰りなさい」
「また、ね?」
彼女は勢いよく石段から立ち上がり、スカートを翻すと石段を飛び跳ねるように駆け下りて行った。
▽
彼女は一人暮らしの寂しさを紛らわすように頻繁に訪れては学校の出来事を話した。
新しい友達が出来た事。町が街になったおかげで遊び場が増えた事。校舎が綺麗で気分も明るくなる事。委員会に入り、バイトとの生活が大変だけど充実している事。日々目まぐるしく変化を遂げる日常を満喫していると。
それでも彼女は時間を見つけては空を眺めに来る。高い所から眺める景色は格別で、楽しくも疲れる日々の癒しの逃げ場だと言う。
そんな彼女も高校を卒業し、街に新設された大学に入学した。
「オジさんは、変わらないね」
「君は変わったね。とても、とても綺麗になった」
鞄一つ分、距離を空けて座る彼女はぼんやりとしていた。
その焦げ茶色の綺麗な瞳は、空でもなく、街でもない。どこか遠くを眺めているようだった。
ふぅ…と彼女は溜息を吐くと立ちあがった。空は茜色に染まり、夜の帳が下り始めていた。
「もう日が暮れる。気を付けて帰りなさい」
「オジさん。また、ね」
背は高くなったはずなのに、どこか小さく見えるその背を私は眺め続けた。
それから彼女は来る頻度が少し減りつつも、度々顔を見せては大学生活の話をしていく。
絵を書くサークルに入った事。親に頼りっぱなしには出来ないと学費を稼ぎながら遅くまでレポートを仕上げるのが大変な事。でも自分がやっている勉強が楽しい事。
殆ど報告に近い話をし、彼女は前とは違いぼんやりと空を眺めて帰っていく。
彼女が大学に入ってから季節は四度巡った。
可愛らしい私服姿から街を行き交う人達と同じスーツ姿で彼女はやって来た。
「オジさんは、変わらないね」
「君は変わったね。立派な大人になった」
彼女は空を眺めながら、就いた仕事について語った。
「私ね、建築の会社に入ったよ」
「おや、そうなのかい?」
「この街は……ううん、世界は変わっていく。この街も大きくなった。きっとここもそのうち手入れがある。そしたら、この景色が見れなくなっちゃうから……守るよ、私は」
「ふふっ。そうかい」
そうして私達はまた景色を眺める。
変わらず世界を照らしている茜色に輝く太陽は、山に半分ほど隠れていた。
「もう日が暮れる。気を付けて帰りなさい」
「また、来るね」
それから彼女は姿を見せることが減った。それも当然だ。彼女は若い。良い出会いがあり、そして人の営みへと流れていく。変わらないものがあるように、変わるものもある。そして、変わる事の方が圧倒的に多い。幼かった少女が大人になり、職に着いた。彼女の輝く生が実尺であり、私の見続けた景色がその縮図である。
▽
それでも彼女は週に数回はやってきて景色を眺めていく。どれ程疲れていようと歩き難そうなヒールを履き、コツコツと石段を叩いて上ってくる。その長い長い石段を。
「オジさんは、変わらないね」
「君は変わったね。少し疲れているようだ」
「私も、もう三十になったよ」
「おや、もうそんなに経ったんだね」
「良い人も出来ないし、周りは結婚して子供もいるよ」
「そうなのかい?」
「オジさんは、良い人いない?」
「さぁ、どうかな」
「もし、私がずっと、ずっと一人だったら……貰ってくれる?」
「ふふっ……どうしようね」
彼女はぐいっと背を伸ばし、石段を下る。
私は、前に比べて少しばかり大きくなった背に声を投げかけた。
「もう日が暮れる。気を付けて帰りなさい」
「また、ね」
▽
彼女はあの質問から何かを吹っ切るように仕事に打ち込み、今では小さな会社を立ち上げて荒くれ者を率いるやり手の女社長だと言う。自分で言うのも変だよね、と彼女は笑った。何が彼女を駆り立てたのかは私にはわからないが、目的があり、それに向かう彼女の人生は輝きに満ちている。
「オジさんは、変わらないね」
「君はまた一つ、大きくなったみたいだね。笑顔に磨きがかかってる」
「オジさん、私シワシワになってきたよ。もう歳かな?」
「まだまだ元気だよ」
「街、大きくなったね」
「あぁ、大きくなった」
「私、ここが無くならない様に仕事してたんだよ」
「そうなのかい?」
「ここは私にとっても大切な場所だからね」
「ふふっ……そうかい? 私にとっても、そうなのかな」
「オジさん……」
「もう日が暮れる。気を付けて帰りなさい」
「また、ね」
▽
それから十年後、彼女はぱったりと姿を見せなくなった。
街は大きく発展を遂げていた。鉄の枝を生やしたコンクリートの木々からはゴムの血管が伸び、中を流れる血液は夜の街を明るく彩って人々の人生を照らし、押し込められた家々は狭苦しそうに建ち並んでいる。
人の営みの縮図だ。隣の者が隣の者を監視し、お互いがお互いを縛りつける。
大らかで他者を思い、協力して生きていた人々の心は今や、他者を蹴落として自らの成功を声高に叫ぶものへと変わった。
建ち並ぶ家は人の心を現す。そこに在ってそこにない。姿形を変え、場所を変え、移ろう家は人そのものを体言していた。
そう言えば、彼女が経営していた会社は神社の建つこの山を買い取り手をつけないようにしていると言っていた。私の目に映った街と、彼女の瞳が写した世界はどれほどの差異があり、何故彼女はこの場所を守ったのだろうか。
その心を、私は知る事ができない。
▽
それから十年経ち、彼女は再び姿を現した。
数人のスーツを纏った男に支えられ、弱弱しい足取りで石段を叩く。
彼女はピッタリと私の横に腰を掛けた。
「オジさんは、変わらないねぇ」
「そうかも知れないね。君は変わった。良い事でもあったかい?」
「さて。ここから見る景色も、最後になるかも知れないねぇ」
「そうかい?」
「オジさん。私ね、もうあまり長くないみたいなんだ」
「それは……」
「覚えてる? あの約束」
「さて、どのことかな?」
「私がすっと、ずっと一人だったら貰ってねって話」
「どうだったかな」
私はその事をはぐらかす。老いた彼女の耳に……いや、老いたからこそ私の言葉が届く事もあるかも知れないのだと。
「私ね、オジさんと会えて幸せだったよ。変わる事が怖かった私に、変わらない怖さを教えてくれた。世の中は嫌でも変わって行くのだと教えてくれた。明日の扉を開いてくれた。道を見せてくれた。背中を、押してくれた」
「はて……私はそんな事した覚えはないよ」
「色々な優しさがあるって、私は仕事を通して知ったよ。それは受け取る側の勝手な思い込みだけど、確かに私はオジさんの優しさを感じた」
「それはよかった。ただ、見ているだけの私にも出来る事があったんだね」
「オジさん。変わらないことなんてないんだよ。私が、オジさんを見えなくなって六十年。それでも変わって行く私と、変わらないオジさんの関係。私の変わらない思い」
「……そうかい」
「オジさんは、変わったかな?」
「どう、だろうね」
「もし変わってなかったら、私が変えてあげるよ」
その言葉を最後に彼女は倒れた。
会長! とスーツ姿の人達が騒ぎ始め、彼女は連れて行かれた。
だが、彼女は変わらずそこに在った。
「オジさんは、変わらないね。私は、しわくちゃのお婆ちゃんになっちゃったよ」
「君は変わったよ。とても、とても美しくなった」
「久しぶり、オジさん」
「やぁ、久しぶりだね」
隣に腰掛けたままの彼女。その視線は、今は街と空から私へと向いている。
「変わった?」
「さぁ、どうかな。ただ、粘り強く私に魅せ続けてくれた君を見て、変わらないものはないだろうね」
「変わったね」
「君は、変わらないな」
停滞し続けた私が変わったとするならば、それは変わり続けた人のおかげだろう。
「私は、変わりたい……のだろうか」
「どうかな? それはオジさん次第、だよ」
「ふふっ……」
「ふふふ」
「私には勇気がなくてね。この、最後の一段を上る勇気が」
「大丈夫だよ」
そう言って、彼女が差し出した手を取った私は初めて彼女の心に触れたのだと思う。
「逝こう?」
「あぁ、そうだね」
「これからは、ずっと一緒に居てくれる?」
「居るとも」
「こんなお婆ちゃんでも?」
「それは君が生きた証だ。今度は私がその背に追いつこう」
「嫌にならない?」
「さて、それはどうかな? 私がそうなったように、先は誰にもわからないさ」
「もう! そこは格好良く決めてよ」
ずっと昔、この世を去った私が無為にしてきた時間を彼女はずっと短い時間で変えた。
例え見えなくとも感じるものがある。
変わり続けた体と、変わる事がなかった彼女の想い。
停滞し続けた体と、変わった私の想い。
万華鏡のように輝きを変える心は今、彼女と共にある。
ただ眺めるだけで慰めてきた心は彼女と言う存在に揺らぎ、安らぎへと変わった。
億の人間が暮らす世界。その中でたった一人、安らぎを得られるパートナーと出会える確立はいかばかりか。
人は一人では生きて行けない。私が彼女へ向けた言葉は、彼女を通して私へと還された。
私が停滞し続けた石段。それを私は七十年付き合った彼女に手を取られ、ようやく最後の一段を上る。
お読み頂きありがとうございます。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、表題については『1/fゆらぎ』と検索されるとなんの事かわかると思います。
変化する事しない事。そこに良いも悪いもない。
常に私達の横にあるのに見えない心。人生を通して育み続け、終着点であっても尚共に在ろうとする。
この作品を思いついたのは庭園公園のベンチで池を眺めているときでした。
白く染まった綺麗な白髪を後手に撫でつけたご老人と、優しい笑みを湛えたご婦人が別のベンチに腰掛けていました。
お二人はピッタリと寄り添い、ご老人はご夫人の肩を抱いて池を眺め、そしてご婦人もご老人にピッタリと寄り添っていたのです。
お歳を召してもそのようにあり続ける美しさに、人目も憚らず私は泣いてしまいました。様々なことがある現代社会であのような幸福に満ちた光景にお目にかかれるとは。
私もあんな恋してーなー(泣)