:執着と祝福と終着
ナデュラ帝国。
かつての万国大戦におけるこの戦勝国は、せしめた賠償と戦時の技術力向上によってその地位を確立した。とくに首都ファクラスの《果学研究学会》は辺境の蒸気都市において戦時からの研究結果をさらに向上させ、繁栄と活気をもたらす国の財産と認知されていた。
その果学研究学会の膝元にある広場で、本日は号外の新聞が飛び交っている。
大見出しは『――大主教、襲撃さる』。
小見出しは『――ドルナクの違法研究と教会の関与疑惑』。
新聞売りの少年に近づき、銅貨を投げて一枚ひったくった男が記事に目を向ける。ハンチングの縁を持ち上げ、継ぎを宛てたジャケットの袖口で新聞売りの手からついた煤をぬぐい、広場の噴水へ歩みながら目を左から右へ滑らせていく。
『――大主教、襲撃さる
五日前、鉄鋼業・採掘業およびDC研究所の存在でその名を知られる蒸気都市ドルナクに訪問中だったヴィタ教ラクア派大主教イェディン・ガーヴァイス氏が襲撃され、頚椎損傷による手足への麻痺が残る状態で発見された。
犯人と目されるのはローナ・ガーヴァイス容疑者。事件前に彼女が遺した手記によると氏の娘を自称しており、また語られる経歴には事実であれば市民には到底受け入れることのできないであろう過去が含まれており――』
『――ドルナクの違法研究と教会の関与疑惑
蒸気都市ドルナクにて大主教襲撃事件と並行してテロが発生した。狙われたのはDC研究所だが被害は都市全域に及んでおり、潜伏した過激派による研究所のデータ奪取を目論んでの犯行と思われる。
しかし匿名で首都ファクラスの評議会に送られたその研究データには、看過できない違法実験の一部始終が記録されていた。ドルナクの風土病である【吸血鬼】についての研究には、都市全体を利用して罹患者を増加・それらを調査することを仄めかす内容が記述されており。また捕縛した吸血鬼の生命力を確認するため拷問のような生態調査が行われていたとも記されている。
ドルナクでは《銀霊騎士団》の名において現行犯の傷害・殺害を行った吸血鬼に対し処分を下すことが認められているが、その際も拷問などは禁止されており――』
噴水を囲む縁に腰かけた男はハンチングを目深にかぶり直し、ちっと舌打ちした。
この論調では吸血鬼研究を『上』に売り込むのは無理だ。
おそらく、サンプル兼実証データとしての存在だった現象回帰型吸血鬼スレイド・ドレイクスを回収できず文書のデータのみでやりとりすることになったのが、『上』のお気に召さなかったのだろう。まあ回収できなかった理由が「無敵のはずの現象回帰型が殺される」という、計画の根底を覆すものだったのも大きいと思われるが。
「……それでもどーせ、秘密裏に研究自体はされるにちがいねェんだよな」
とはいえ表に出ない研究である以上、即座に金にはならない。おこぼれに預かれるのは数年先になる。
だったらその期間ほかで動いた方が、俺の場合は金になる――男はそう考え、これでこの案件に関わるのはすっぱりあきらめることにした。
畳んだ新聞を脇に放り捨て、膝に手を当て立ち上がる。
キシ、みしし、と右膝から稼働音がした。
歩く都度足裏からも金属のこすれる音がする。
「死ねない吸血鬼、いい商売になると思ったんだがなァ。さって、次はどこに付くとすっかねェ……ああ、そういや戦時の前線研究ってのも馬鹿にならんのがあの騎士隊長さんのおかげでわかったな。その辺で儲け口を考えるか」
ブルケット・マルズは次の仕事を求めて動き出す。
+
「……ん。やっと、動かせるようになったかな」
「まだ抜糸しちゃいないんだから無理は禁物だよ。おまけに熱だって引いたばかりだろうあんたそんな急いで無茶するこたないってのに!」
「いえ。まだまだ、困ってるひとが多いですから」
肩の傷が完治したベルデュ・ラベラルは黄土色の髪を掻き上げて、そう口にする。
それからそのまま、いつもの詰襟服を身にまとうと仮設病院内での作業の手伝いに加わった。
下等区画のタウンハウス群を解放して簡易のカーテン間仕切りと救護室をつくりあげたこの場所は、いまだ怪我人やその家族でひしめいている。
あれから。
DC研究所の奇妙な倒壊――のちにグレア・ルインという研究者による、師の業績への信奉から現在のプロジット二号機を憎んでの犯行だとわかった――があって、上等区画の警備人員も下等区画からの襲撃犯も慌ててそちらでの人命救助にあたった。
結果としてドルナク全体の混乱はやっと落ち着きを見せ、一旦は戦後処理の段階へ移行した……が、昨今急増した吸血鬼被害が、DC研究所・教会・騎士団含めドルナク上層部操る《血盟》によるものであったこと。このドルナク自体が吸血鬼実験のため無理やりに存続させられたいびつな環境であったことなどが、少しずつ民衆のあいだにも流布され二度目の混乱が起きた。
そこでイブンズは即座に《夜風の団》の人員を招集しこの混乱を収めるべく情報を操作、人々が互いに疑心暗鬼にならないよう努めてまとめあげ、数日かけて再度この混乱を終わらせる。
皮肉なことにその収拾に一役買ったのは、彼の悪名高き《鉄枷付き》ことジェイコブとジャクリーンの売人夫婦の存在だった。
元よりなんらかの工作員として潜入していた――おそらくは一般人での麻薬取引だとうまく市場を運営できずに破綻や暴動が目に見えているため、情報工作や強い暴力背景の併用で統制することによりドルナク運営の邪魔にならないよう管理していた――彼らの姿。
数か月前に部下を皆殺しにして去ったと言われていたドルナクのフィクサーがふたたびその姿を認められていたことで人々は共通の敵を得、はびこる噂が不安を煽りたてるのを彼らが待っているのだ、と思い込んだ。
結果《夜風の団》という非営利組織の語る話へ心情が傾き、場の収束に至ったのである。
「イブンズ先生、リネン類の予備はどちらに行けばもらえますかね?」
「裏手のパブだつまり《笑い蓋》だよ真ん中分けの君!」
「あの、その呼び方はやめてほしいのですが。まあとにかく了解。シーツ替えと毛布の洗濯終わりましたらまた指示願います」
「あんたなかなか手際がいいよ。その調子で看護に仕事変えたらどうだい!」
「ああ……まぁ、悪くはないかもしれませんね」
第八騎士隊所属のこの男、ベルデュ・ラベラルも大いに活躍してくれた。
元より市井をめぐるのが仕事で市民との交流も多く、「手厚い葬送をおこなってくれる」と気遣いがひとに知れ渡っていた彼の言葉には皆が耳を傾けた。騎士団そのものがドルナクの闇に関わっていたと知っても、彼の人柄だけはまっとうに人々に受け入れられたのだ。
おかげでベルデュが「このひとは信じられる」と集めた人員については、市民も反感を抱くことなく助けを請うことができた。まあ結局のところ騎士団で闇に関わっていたのは上位騎士隊と一部下位騎士隊隊長のみで、平の団員は大抵がなにも知らなかったようなのだが。
ともあれそうして、助ける輪は広がり。
潜んでいた残りの《血盟》にも下位騎士隊のベルデュ推薦の人員が対抗し、なんとか撃退がつづいた。事件から数日経った現在は、復興と復旧のため動き回るひとも増えてきている。
少しずつ、日常を。取り戻しつあった。
……騒ぎの中で《鉄枷付き》とその一派を逃がしてしまったことは腹立たしいが。
生きていれば、まためぐりあうこともあるだろう。そのときこそ「命運尽きたな」と糾弾の指を突きつけて、牢にぶちこんでやればいい。
イブンズはそう考え直し、また作業に戻る。
リネン類を抱えて戻ってきたベルデュにあれこれと手伝いの指示を出し、せわしなく過ごす。
合間で外に出て、懐中時計で時間を確かめながら圧搾固形食糧を頬張った。水の補給も含めて三分で戻ると決める。
ざくざくと咀嚼していると、人通りもすっかり少なくなった下等区画の中、びょおと吹いた風に舞い上がった紙がイブンズの足元に転がってくる。
紙面には、
『閉山のお報せ:
火の山への立ち入りは吸血病の原因となるRHウイルスのさらなる増加拡散を招く恐れがあるため禁止されます 今後の管理は国の保有地となり、先だって《現象回帰型》吸血鬼発生を引き起こした鉱路は蒸気裂弾により崩落・封印処置を行います』
とあった。
産業区画からの洪煙も、この数日ずっとストップしている。そちらも区画全域を囲う隔壁が完全閉鎖され、出入りの門に似たような報せが貼られているそうだ。
ざくり、と油紙包みの食事を終えたイブンズは、ヒップフラスコに納めた水を飲みながら天を見上げた。
そのとき、
まぶしさに、目を細める。
「……何年振りかね、広くきちんと日が射すのは」
完全にスモッグが晴れたこの街の全土に、西陽がまっすぐ差し込まれる。
ほんのひとときのことであったが、それでもたしかな変化だ。
すべては変わっていく。
微細生物の蔓延が完全に断ち切れない以上住人も回復すれば皆出ていくだろうし、国有地となった以上在り方も変わる。
ここは三十年前の、なにもなかった頃に戻るのだろう。
だが。
ここに生きたひとが居たこと、それでなにかが変わったことは、変わらない。
「しっかりおやりよ」
すでにここを去った、幾多の人々に向けてイブンズはそうぼやき。
膝を打つとフラスコをしまって、また彼女の戦いの場へ戻る。
+
祭り上げられる、ということに男は慣れていなかった。
かっちりとした礼服に包んだ身を、ぎくしゃくと動かし壇上を後にする。背後には高級な大広間が長く伸びており、堅苦しい恰好で堅苦しい称賛の言葉を口にした人々が一列に並んでいる。
彼らは、このナデュラ帝国でもっとも力ある人間たちだ。
正直同じ空間にいるだけでも、男にとっては耐えがたい。
「……早く帰りたいな」
そして安っぽいパブで酸っぱいエールでも流し込んですべて忘れたい。
そう考えながら彼がとぼとぼ歩くと。
下で待っていたのは燕尾服に身を包むブラウン・レフト卿――技術革新や蒸気都市の在り様に興味をもってわざわざ都からドルナクに住んでいた変人の貴族。
しかし変人でも一応は後ろに並んでいらっしゃる王族の面々に縁故連なるやんごとなき血筋であり、そのおかげでドルナクでのあの一件からもしっかり逃げおおせていたなかなかの曲者だ。
彼は軽い感じで四度拍手し、着慣れない礼服に身を硬くしている男――ゴブレット・ニュートンへ握手を求める。
「おめでとうゴブレット君。ドルナクの闇を暴いた男」
「……完全にその役回りを押し付けられただけ、に思うんですがね」
きっと炭酸の抜けたエールを口に含んだようなツラをしているであろう自分を思いながら、ゴブレットは青息吐息だった。
――もう一ヶ月も前になる、ドルナクの争乱。
決死の覚悟で多脚型蒸砲戦車で挑んだ、吸血鬼の搭乗する全身駆動鎧装四体との戦いをギリギリで乗り切り。大破した《一番槍》を周りに眺めつつ戦車から這い出たゴブレットは、崩壊する研究所を呆然と見つめた。
そこへ、ロイ=ブレーベンが現れて。
『我々の敗北ですよ、ゴブレット。あとは……好きにしなさい』
とだけ言い残し、消えた。
あとから、エルバス・ペイル卿の死と、自刃したロイの遺体が発見されて、ゴブレットは言葉の真意に追いついた。
けれどそのあいだも、ひどい騒ぎだった。
研究所には取り残された人々を助けに幾多の人々が入り乱れ、統制がとれなくなったのか数日のうちに《血盟》と思しき連中による事件が多発し、ドルナクは現象回帰型が出現したあのときよりもひどい治安に逆戻りした。
なんとか下位騎士隊の活躍もあり沈静化できたものの……いまなお、ドルナクは戦後、といったおもむきで暗澹としている。
そんな折だった。ブラウン・レフト卿から呼び出しを受けたのは。
なんでもこのドルナクの争乱を指揮したのがゴブレットで、民衆を集めてクーデターを企てた首謀者だ、と……どこで噂に尾ひれがついたかわからないことを電信で伝えてきて、『すぐに首都へ来い』と命じてきた。
言われて、行かないわけにもいかない。断れば逆方向に急転直下、テロを企てた首謀者として最悪首を刎ねられるのでは、との危惧もあった。
というわけでこうして、お偉方からお褒めの言葉を賜ることになったわけだが……
「ブルケットや、鉄枷付き。あとたぶん、ほかにもいろいろ……あんたと繋がってた奴らによる差し金なんでしょう、これは」
「なんのことかね? あれだけの規模のクーデターを起こしてなお人間の死傷者を出さなかった、その手腕への正当な評価だが」
ウソだ。
鉄枷付きたち主導の動きではない、グレア・ルイン個人の暴走による研究所の崩壊で出た死者の中へ混ぜ込んだか。街中での《血盟》による被害者の中に混ぜ込んだか。そういった姑息な計算方法のちがいで、数字上ごまかしているにすぎない。実際にはこちらサイドも、大主教襲撃犯のローナ・ガーヴァイスなど含め何人も死んでいる。
けれどすべては、国が後手に回っていた事実の印象を薄めるため。
果学研究学会などからスパイの人員を送り込んでいたとはいえ、未然にこの吸血鬼事件の事態を防げなかった落ち度の印象を国民から拭い去るため。
民衆の中から出た英雄像、というものを、押し付けようとしているのだ。わかりやすい善悪の構図をつくり、原因や過程から目を逸らそうとしている。
結局のところドルナクを放置したのはあそこから発生する莫大な金と資源を維持したいがためだったというのに。国こそが、そのために放置させたというのに。
すべてを、隠蔽しようとしている。
「こんな栄誉、欲しくもなかったんですが」
「なにを言う。国からの誉れなど、他人からかすめ取ってでも欲しいものであろう? 男なら」
「じゃ、私は男じゃないのかもしれませんね……」
「いまそうでないならこれからそうなれば良い。いや、なってもらわねば困る」
からからと笑い、レフト卿はゴブレットの両肩をぱんぱんと叩いた。
それからすっとゴブレットに近づくと、
周りに聞こえない声で囁いた。
「……すまない」
「え」
「この国は、ナデュラは、先の大戦での勝利の酔いからまだ覚めておらん。だからといって、急激な革新は無理だ。それをできるほど私は、否戦派は、まだ力を持っていないのでね……」
目の奥をレフト卿はのぞかせた。
憂いを帯びた、目だった。
ああ。
この目をゴブレットは知っている。
自分やイブンズ……戦場を見てきた者の、傷ついた目。
どんな美辞麗句で飾り立てようと経済活動として大きな力があろうと、二度と、絶対に、戦場には戻りたくないと感じている者の、目だ。
――押しつけの、歪んだ英雄像だが――と前置きまでは声をひそめて。
「この国をより良くするため、今後も協力してもらいたいのだよ」
次の瞬間には、先ほどまで拍手の際に浮かべていたのと同じ笑い顔に戻った。
……あまりに切り替えがスムーズなので、本性がどちらかは判然としない。
けれどゴブレットの脳裏には、かつての上役であり最期には敵と回った男の「好きにしなさい」との言葉がよぎっていた。
……判断するためにも、まだいまはここに居るべきか。
急に遠くまで来てしまった実感がわいてくるのを感じながら、けれどゴブレットは襟を正した。
もしも。
自分がここで踏ん張ることにより、少しでもナデュラを良くできるのなら。
彼の無腕の友のような悲劇も少なくできるのかもしれない。
「というのはさすがに、驕りだろうが」
どうせ騎士団も解体されて、仕事もないのだ。
できることを積んでいこうと、ゴブレットは足を踏み出す。
+
減りはじめるとあっという間なもので。
研究所の閉鎖、産業区画の停止、騎士団の解体に伴い、ドルナクからはすっかり人の気配がなくなった。
すると「仕事がなくなった以上郷里に帰る」と相棒が言い出したので、ブラッキアン・ビスカはその帰路に付き合うことにした。
「つーか、クソ田舎だなオメーの故郷」
「情緒があるだろう」
「情緒しかねぇんだよ。もっとほかのもん持てよ」
呆れ心地のまま肘でこづいたお隣、長い黒髪を一束に結っていかにも女性然とした恰好で腰にレイピアを提げる男。
ブルーム・L・ガルシアは長いまつげをしばたかせてふふっと笑った。
馬車なんて気の利いたものはこの田舎にないらしく、二人は干し草を山と積んだ荷台の縁に腰かけ、ゆったらゆったり牛に牽かれて進んでいた。
ぼふっと背中を草の山に委ねれば、陽と土の匂いに包まれる。
長らく、本当に長いあいだ感じていなかった匂いではあるのだが、すでにこうして二時間も経つといい加減飽きてきた。
……つい二か月前まではこの国でもっとも蒸気機関技術が進んだ街で血にまみれて暮らしていたというのに、いまや動物を動力に田舎道を進んで靴先を泥にまみれさせている。人生とはわからないものだ、とラキアンは思う。
一応、いまも前職の癖で剣はステッキの中に仕込んだままだが。いまのところ遭遇したのは鹿が一匹、リスが二匹。森の中の細い道はあまりにものどかだった。
「けれど空気とお酒は美味だよ、ラキアンさん。その点だけはたしかであると私が保証する」
「うーん、まあとりあえず現状でも空気はうまいけどよ……つっても、あの街で暮らしてりゃ大抵どこに行っても空気うまく感じるっての」
「微細生物とスモッグのブレンドされた空気の味わい深さは、あそこの他では感じられないものだろうからね」
「言うな。ずっとへんなウイルス吸ってたかと思うと気分悪ぃんだよ。僕やルーだって、いつ吸血鬼になっていてもおかしくなかったんだぞ」
「そうだね。……でもそもそも人間が生きてること自体、さまざまな偶然と幸運の積み重ねに過ぎないと私は思うからね」
ぶらぶらさせた膝の上に右腕で頬杖ついて、含蓄のあることを言う。
自分より二つ三つ年下のわりに、なんだかんだでこの男は老成したところがある。
「生きてること自体、ねぇ」
「そうさ。普段は不運だと嘆いているラキアンさんだってあの騎士隊長二人を相手に……その程度の傷で済んだのだから。そして私もね」
左のサイドにかかる髪を彼が掻き上げると、削げた耳が見える。掻き上げた左手の甲から前腕にかけても、長く引きつれた傷痕が残っていた。
ラキアンも黙って、自分の左足を荷台の上に持ち上げると抱え込んだ。あの十字槍を相手に受けた大腿部の傷はまだ治り切っておらず、少し引きずる。
「お互い、傷ものになっちまったなー」
「このまま私の生家に来るのだし、嫁に迎えようか?」
「よせよアホくさい」
「じゃあ私に嫁になってほしいということかな」
「傍から見るとその方がサマになってそうなのがわりとムカつくな」
へっ、とお互い笑った。
どうあれ、生きているだけで勝ちだ。あのネイディ・トルソゥとアモウ・ボールディングを相手に生き延びている。地下水路の人員もほとんどは逃がすことができた。そしてもちろん、一番の目的だった彼らの無事も確認できた。
ラキアンとルーの戦いは、それでもう結果としては上々なのだ。
彼らは、この戦いでなにも失わなかった。
「あいつらも、どうにか生きてんのかね」
「家についたら手紙を出しに行くとしようよ」
「んー、……出すのはいいけど僕ぁ筆不精だからよ。なに書きゃいいのかわかんね」
「時候の挨拶、こちらの状況、向こうの状況を訊ねて、お体にお気を付けて……といったところで締めかな」
「いやそれ、お前も書く内容だろ」
「まあ定型文だからね」
「じゃあ僕書く意味ねぇじゃん。そんならもういっそ連名で出しといてくれよ」
「ううん。こういうのは内容云々より心だと思うけどね……あ、そうだ。ならば絵でも描けばいいのではないかな」
「絵かぁ? なにが伝わるよ、それで」
「元気だと伝わりさえすればそれでいいのだと思うよ、こういう場合は」
そういう絵を、描けばいいのさ。
……というルーの提案に、しばし半目であったが。
結局ラキアンは、彼の家に着いてから便せんに向き合ってなにを描くかしばし悩んでいた。
それからややあって。
ルーが持ってきた物を見て、
「ああ」と納得したような声を上げるとさらさらと描く。
大きめのマグから、こぼれそうな泡。
横にナッツの載った皿を添えて。
一杯の醸造酒を絵にすると、満足そうに筆を置いた。
+
ドルナクの閉鎖から三ヶ月。
それに伴い、あの街の闇に居た人間たちの裁判もはじまる。
あまりにその数が多かったためにもはやいまは裁判所の空きを待っている状態で、戦後最大の事件として公判傍聴は首都ファクラスの市民に娯楽のように消費されつつあった。
クリュウ・ロゼンバッハ率いたジェイムソンインダストリアルなどはあまりにも規模が大きすぎたためさすがに解体しきれず、特例で国営になるだとか。産業区画で巨大プラントを複数保有していたアルマニヤ重工などが経営破綻の危機に陥っただとか。流れ飛んでくるウワサや事実は幅が広く、終わりが見えない。
そんな中でオブシディアン・ケイト・エドワーズは首都にある果学研究学会の建物の、あてがわれた地上七階研究室の窓から遥か下方の噴水広場を見つつ、紅茶に口をつけていた。
膝上に置いたソーサーに、カップを戻す。
膝から先に脚はなく、腰かけているのは車椅子だ。
結局、人操作型実働機械で操作できる駆動鎧装の脚にも魅力は感じたが、毎日乗ると接合部の肉が痛むので常用はやめにした。ここぞという必要なときだけ使うことにして、いまはこの研究室の壁面に飾ってある。
壁面から目を逸らせば、そこには過ごしやすい部屋が広がる。
そこかしこに資料の山が取り出しやすいように積まれ、その間を埋めるように書類の束が鎮座、ぎりぎり車椅子で通れる幅をキープ。
広げた書籍は入り口側からこちらの窓辺へ来るまでにぱらぱらとめくっていくと、じつに丁度良くいまの研究内容に合致するよう完璧に配置。
うん、とひとつうなずいて、彼女はまた紅茶に口をつけた。
すると安息のひとときを破るように、入り口近くの方――本の山で直接は見えない――から、どたんばたんと音がした。どざざ、と紙の雪崩が起きる音もした。
げんなりして、彼女はカップとソーサーをサイドチェストに置く。
「……なにしてるの、ジルコニアさん」
「あ、はははは……申し訳ないわ、オブシディアン……」
「いいかげん慣れてよこの部屋に」
言いつつ近づくと、そこには猫科の足を模した駆動鎧装を両脚に装備した、ディアよりは一回り年かさの女がへたりこんでいた。
肩口で切りそろえた茶色の髪の先端から肉感的な体つきまでを長い丈のファーコートに包んで、きちきちと音を立てる足で立ち上がり。
目を吊り上げて、ディアに向き合う。
「いやでもこれ、先週と配置変わってるわよこのちいさい本棚! なんで足下に置くのよ、資料抱えて入ってきたら見えないでしょ?!」
「姫は見えるからだよ」
「私のほかにも訪問者くらいいるでしょ!」
「訪問者はいるけど部屋の奥まで踏み込んでくるのはジルコニアさんだけ。結構、助手って特別扱いだから。そこは理解しておいてよね」
「ああ……そう……はい」
なんだかわからないがガックリきた様子で、ジルコニアはため息をつく。ため息をつきたいのは資料の山を崩されたこちらの方なのだが、と思いながらディアは指示を出しつつ手を動かし、てきぱきと原状復帰した。
ジルコニア・アルマニヤ。
ドルナクでの一件のあと、鉄枷付きの手引きで都に難を逃れたディアと共にやってきて、そのまま居付いてしまった――元、アルマニヤ重工社長令嬢。
現在は機密の塊であった《羽根足》を勝手に持ち出してDC研究所所属だったディアに情報開示したことやドルナクでの一連の事件への関与が家に知られたらしく、勘当状態で帰る場所がないという。さすがに不憫に思ったので、助手扱いで雇っていまに至る次第だった。
だがもともと研究開発者としては一流の腕があるので、ほどなく在野の機関に雇われることも可能だろうとディアは踏んでいる。
こういう、しがらみの多いところにいる必要はないだろうと。そういう目で見ていた。
「なにかしら? ひとの顔じっと見て」
「ううんべつに。でもジルコニアさん、そろそろここ来て三ヶ月くらいになるけど。在野から引っ張られたりとかしないのかな、って」
「……お、追い出すの?」
「いや、なんでそんな絶望的な顔になるの」
「絶望的にもなるわよ。自分がもっとも尊敬する蒸気機関技師に追い出されたら、拾ってくれるとこ見つかってもやる気でないもの」
「ええ……でもここ、あんまいいとこじゃないよ」
さすがにDC研究所のときのように蓄音機でいちいち会話を録音されていることなどはないが。
それでも、DC研究所に所属していた経歴を――少なくともあの一連の事件について直接的な関与はなかったと言いきれる程度に――鉄枷付きら工作員が抹消した結果、ディアの立ち位置はここでも非常に微妙なものになっていた。
国の上層部、《否戦派》。ブラウン・レフト卿らが属する戦争反対派閥のため、彼らが有利になるようDC研究所での軍事研究を非難するように立ち回った結果。果学研究学会の軍拡主義者らとは衝突を避けられず、いまやディアは孤立している。
幸い果学研究学会に入るまでゴブレットと共にいた在野の工房が受け入れてくれたため、実物を扱う開発の際はそちらで世話になっているものの。やはり設備などいろいろな面で厳しいところがあるのは事実だ。
けれど仕方がないし、覚悟していたことだ。
元よりディアは、彼を救い出すことさえできればなんでもよかった。
だから彼が闇から立ち直れたなら、それでよかった。
いまは少しずつ、自分のことに。
自分のやりたいことに、注力しはじめている。
「……場所がどうであれ」
ジルコニアはずいっと進み出て、ディアの膝上に資料の本を載せる。頼んでいた理論物理学の本だった。
視線を上げると、ジルコニアがじいっとディアを見つめていた。
「学びは、師事するものとの関係性も大事よ。私はあなたから学びたいの。ほかのだれでもなく」
一回り年の離れたディアへ、真剣にそう言っている。
こうも真面目に来られると、こちらも軽々にほかへの移籍をほのめかしたのが悪いと思えてきた。ふうとひとつ息を吐いてから、膝の上に置かれた本を撫でつつ「ありがと」と返す。
「……でもあんまりいきすぎて、崇拝みたいにならないでよね」
グレア姉みたいに。
と、かつての友人――いまは裁判待ちの状態だ――のことを思いながら言う。するとジルコニアはハァ? と言いたげに眉をひそめ、「尊敬と崇拝はべつでしょ」と言った。ディアはほっとする。
「そっか、よかった。じゃあもし私の《銀の腕》初期型をぶち壊したってひとが来ても、怒らない?」
「いや、それは地の果てまで追うわ。あれは現代の至宝だもの」
どうやらダメそうだった。グレアみたく暴走しないよう、見張っておかなくては。
そう思ってディアは苦笑しながら、窓の方を眺める。
……いい天気だ。
あのドルナクでは見ることもなかった晴天。
この三ヶ月、ドルナクで浴びられなかったぶんを取り戻すように日を浴びていた。ただ陽光を浴びるのがこうも心地よいものだとは、ついぞ忘れていた感覚だ――が、彼女が窓辺に席を陣取るのは、けしてそれだけが目的ではない。
窓の下を見やる。
噴水広場は中央架世駅からこの果学研究学会の建物へ真っ直ぐ、栄えた目抜き通りが突っ切っているのだが。
そちらよりやってくる人影の方からチカりと、陽光照り返すものが見えた。
――ああ。
来た。
彼女は思い、微笑む。
そう、このために窓辺にいつもいるようにしたのだ。
腰丈のコートの隙間からのぞく――騎士甲冑を模した腕。どんなに遠くても見間違えるはずがない、彼女のつくった品。
ディアが見ているのに気づいたのか、腕の主も目線を上げる。
ふ、と。
彼がやわらかい表情をしたのを見て、ディアはそっと窓を開けた。
「……おかえり!」
広場の人間がどよめくのも気にせず、大きな声で呼びかける。
彼はやや戸惑った様子だったが、あきらめたようにため息をつき、口の端を吊り上げる。
唇だけ動かして「戻った」と言った。
そのまま、上にあがってくるため建物の入口へ向かう。円形の噴水を回り込むようにして歩いていく彼の後ろ姿。
その腰のあたりには、革紐で縛り吊るされた聖書らしきものがぶら下がっていた。
#
#
#
■■■・■■■■■■は、最後まで鈍い男だった。
――そんなことを思いながら、目を覚ます。
消毒液の臭い。かすかなうめき声。白の比率が多い視界。あたたかだがごわごわした肌触り。
ひとつひとつを確かめていって、ゆっくり身を起こす。
そこは。
カーテンでベッド間を仕切っただけの、簡易な病院……らしき場所だった。
自分が救護されていたのを知り、同時に意識を失うまでの記憶を一気に取り戻す。
研究所をなんとか脱し、ロコが一度大主教を預けに寄ったという避難場所――そこにジョンがいなかったため、五階まで探しに来たのだと言った――までたどり着こうとして、けれど上等区画の警備員や混乱する民衆に阻まれた。
仕方なしに、計画におけるもともとの合流ポイントを目指す。ところがそちらは、ディアが工作員たちによって送り届けられたからだろうか。すでに家屋はもぬけの殻となっており、歯噛みするしかなかった。水を得てロコの手を冷やしたはいいが、火傷の深度はおそらく放置していいものではない。
はやく。
早く医者に。
医者に、見せなければ。
ふらつくロコを肩で支えながら、ジョンは懸命に歩く。しでかしたことの重大さゆえに寄る辺ない上等区画の中を、ふたりきりで。ひたすらに。
やがて、険難の道にまで行き着く。もはや警備の人間は研究所の争乱に割かれたのかさっぱり残っておらず、ふらふらと歩み寄るジョンたちも焼け出された一般人と見えたのか無視された。
合図の車輌はとうに行ってしまった。坂道への入り口に立ち尽くしたジョンはただただまっすぐつづくだけの道を見てうつむきそうになる。上から下へ降りるルートは、あと地下水路と昇降機。どちらもいまは塞がれている。
けれど、それでも。
ロコを支え、歩く。
彼女を背負い、歩く。
時間がかかろうとも。
彼女を、助けねばならない……
そう考えて、
意識が途切れたのだ。
「……お嬢!」
発条仕掛けのように飛び起きて、毛布を蹴散らしベッドから降りる。がくんと身体が崩れた。左腕だけ失ったため、重心が少しおかしい。
構うものかと立ち上がり、仕切るカーテンを噛みつくように開ける。通りかかった看護師と思しき女性が悲鳴をあげた。
「……いまは何日、何時だ」
「にっ、二十二日の朝九時二十分かと……」
時間を訊ねて、絶句する。一日近く経過していた。
それでは、もう。
お嬢は。ロコ・トァンは。鉄枷付きに連れられ、首都行きの列車で出てしまったあとだ。
一両日中には到着し、大主教への傷害で逮捕拘留……あとは裁判にかけられ、二度と会うことはできないかもしれない。
まだなにも、言えてはいないのに。
伝えられてはいないのに。
また、俺は。
遅れたのか。
結局最後の最期まで。……スレイドとも、わかりあえず。
この上、ロコとまで!
「……お嬢……!」
「あっ、はい」
つぶやくと、返事があった。
一瞬、硬直する。
それからすぐ、ジョンは声のした方へばっと振り向いた。
自分の寝ていたスペースの隣の間仕切り。その隙間からそっと顔を出し、心配そうにこちらを見ている影がある。
額に巻いた包帯の上に流れるアッシュブロンドの長い髪。青金石の瞳。
襟ぐりの広い病院着を身に纏ったロコ・トァンが……そこに立って居た。
「……いたのか」
「ええ、まあ。いろいろとありまして……」
彼女ははにかむ。
それから、ジョンの視線が下へ――手の方へ動いたのを見ると、あー、と言いながら後ろに隠していた両手を出した。
指の一本一本へ分けて包帯が巻いてあり、薬液に浸っているのかつんとした臭いが漂っている。とくに左手側は分厚く巻いてあるのか、右手よりも一回りシルエットが大きくなっている。
これをジョンが確認したのを見て、なんとも曖昧な顔をしてみせた。
「……頭を掻きたい気分ですが、ちょっとこれだとやりにくいですね」
そんなことを言いながら、手首から先を前後に動かした。
指先は、動かさない。
結論から言えば、意識もおぼろげなままジョンは数時間歩きつづけて、病院近くまで着いていたらしい。
下等区画に仮設された病院。イブンズが取り仕切る医院だ。運び込まれてすぐジョンは過労、ロコはかなりの深度の火傷と判断され治療に移った。
それで、治療も終えて休養となり。
目覚めたのがいま、という次第。
「……だがお前は、ローナ・ガーヴァイスとして大主教の落胤との醜聞を明かさねばならない立場だったはずだろう」
ロコのスペースで並んでベッドに腰かけ、ジョンは問う。
横で膝を揃えて座る彼女はううんと首をかしげ、《鉄枷付き》との最後のやりとりを反芻しているようだった。
「……どうやら、またわたくしは死んだことになるようで」
そしてやっと言葉を絞り出したと思ったら、とんでもないことを言いだした。
「なんだと」
「じつは万一相打ちになったときのためにわたくし、手記を残していたのですよ。わたくしが大主教の娘である告白と、大主教が為した数々の非道の告発文ですね。それを、鉄枷付きのお二人に預けていたのです」
「つまりお前が死んでも大主教を失脚には追い込める、と」
「ええ。でも最初からあのお二人は……ローナ・ガーヴァイスを亡き者にする予定だったようです」
ロコはチェストに載せられた一枚の紙を見つめる。
ジョンが見やると、それは人名のリスト――どうやら研究所の倒壊で落命した人々の、一覧のようだった。
そこには。
ローナ・ガーヴァイスの名前がある。
「死んだことにしたのか。鉄枷付きたちは、お前を」
「推測ですけど……たぶん、わたくしが生き残ってしまったから『代役』の死体を立てただけで。本当はわたくし自身をきっちり殺すつもりだったのではないかと。要するに醜聞は欲しかったものの、証言者としては使えるか怪しいと思っていたのではないでしょうか」
どこかで翻意するかもしれない。あるいはヘタを打つかもしれない。
だったら告発文とその身分の人間が死んだ事実さえあればいい。
計画に組み込んではいたが、信用ではなく利用する気しかなかったのだ。
「もしかすると合流して都行きの自首ルートに入ったところで、処分するつもりだったのかもしれません。……でも、できなかった。合流ポイントにわたくしたちがたどり着いたのはずいぶんあとで、すでに彼らが出発したあとでしたから。そして険難の道を歩いて降りるなんていう無茶が彼らの目をすり抜け、イブンズ様の病院という安全地帯に入り込んだことで鉄枷付きのお二人には完全に手出しができなくなった」
大主教の告発まで時間があるなら、ロコの回復を待って退院してから騙して連れ出し殺害することも可能だろうが。大主教が生きて口だけはきける状態である以上、彼らは急がなくてはならなかった。
そこで与えられた二度目の死、である。ロコが、つまり本物のローナが戻ってきてしまいややこしい事態になる前に。彼女の社会的な立場を公的に喪失させてしまえば、たとえ本物でもローナを騙る偽物としか判断されなくなる。
ロコは、わざとらしくかちかち、と己の歯を打ち鳴らした。
「……歯形か」
「正解です。何度入れ替えられるのでしょうね、わたくしの歯列のカルテ」
「同時に、『これだけの工作がこちらには即時可能なのだからもうお前は我々に一切関わりを持つな』という警告か」
「それも、あるのでしょうね」
闇にひそむ工作員の、さらに深い闇。
間一髪で、ジョンとロコは際どいところをすり抜けていたのだ。
「もちろんすべては、推測ですけど」
茶化すようにそんなことを言い、彼女ははぁー、と長いため息をついた。
ジョンも、黙り込む。
これで、終わった。
二人の関わってきた一件は、二人が半生を賭して挑んだ復讐は、終わりを告げた。
……そして。
終わりのつづきは、
ただひたすらに『現実』という名で、目の前にうずくまっている。
ジョンは、目を背けていたことへ、自分から触れる。
彼女の膝の上に揃えられた、痛ましい火傷の痕跡に、話を移す。
「……それで、お前。その、…………手は、どうなったのだ」
「左手は、前腕部のとくに機関部に近い高熱の部位を握っておりましたので……焼け溶けて癒着した皮膚を切り離すことはできましたが、指は曲がったままほとんど動きません。右手は、つかんだのが指先部分でまだ温度がそこまで高くなかったので、リハビリ次第でもっと動かせるようになるだろうと」
さらりと言って、彼女は右手を掲げた。
かたかたとちいさく震わしながら、親指と人差し指と中指を少しだけ、曲げていく。
けれど痛むのか、ひきつった表情になった。無理をするなとジョンは制止する。
ロコはたははと笑いながら、自由にならない手をまっすぐ前に伸ばした。
「……オムレツくらいは、そのうちなんとかつくれるようになると思います」
はにかんで、言う。
けれど。
そんな言葉に、ジョンはなんと返せばいいのかわからなかった。
動かせる、とは言うものの握力は相当に低下しているはずだ。細かい動きもどこまでできるようになるかわからない。
ボタンを留めることはできるのか? 靴ひもを結ぶことは? ペンを握るのは?
わからない。
わかっているのは、それら普通に行えていたことを、いま奪われているということ。
ジョンによって、失わせたということ。
「……すまない」
ジョンは謝罪の言葉をつぶやいた。
彼女はなにも言わず、ただまっすぐにジョンを見た。
「だれよりも俺はわかっているつもりだ。手が使えないこと、その不自由を」
「……そうなのでしょうね」
「お前にその不自由を、苦痛を、与えることになってしまった。俺は……俺は」
言葉が出てこない。
言ってはいけない言葉だと思ったからだ。
けれど心が軋みをあげて、
吐き出したくてたまらなくなる。
目を逸らし、うつむいたジョンは必死に言葉を探した。言っていいことを。彼女にかけるべき言葉を。やさしい言葉や、あたたかい一言を。
ところがロコは、うつむき下がったジョンの頭に、自身の額を押し付けるようにして。
自身の熱を伝えながら、ジョンにささやいた。
「……『あのとき死んでおけばよかった』ですか?」
胸を貫く、鋭い言葉だった。
なぜ、と思うが、しかしそう口にすれば肯定したことになる。あまり意味のない抵抗と知りつつ、ジョンはなにも言わなかった。
ロコは無言を肯定と受け取ったか、つづける。
「わかりますよ。わたくしも、たったひとり生き残ったときにそう思いましたから。ジェーンの代わりに生きねばならない罪深さ、ロコ・トァンの名を騙る生きづらさ、そしていまもまた、名前も知らないだれかの命の上に立ってる頼りなさ」
はっとする。
そうだ。ロコはたったいまも、研究所で死しただれかとの入れ替わりを――本人の望みではないとはいえ――成され、息を繋いでいる。
「それでも、生きたいのですよ。わたくしは」
「……お嬢」
「生き延びたことに、感謝したいのですよ。あなたという、わたくしをちゃんと知ってくれているひとがいる。その事実がなによりもうれしい。あの日からずうっと幽霊のように残響のようにこの世に影を落とすだけだったわたくしに、きちんと『ロコ・トァン』としての在り方をくれたあなたが、この世にいるだけで」
――生きてて、よかった。
そのように。
自分自身に向けてか、言う。
この、信頼に。
果てのないジョンへの祝福に。
彼はこらえられず、うめいた。
「………………吸血鬼、はッ……死ねない、存在だったのだ……!」
唐突に、ジョンはつぶやく。
ロコは一瞬呆気にとられたが、すぐに身を寄せてそれを聞き、彼がつづけるのを待った。
ああ。
頭の中ではまとまっているのに、言葉にするのがこわい。
自分の考えをだれかに聞かせることは、この世においてそれをひとつの真実としてしまうようで恐ろしい。
それでも言わずには、いられなかった。
「……詳しくは俺には、わからん。群体生物に脳髄を侵されたがための、生存本能なのか……どういうことかはわからん。だが奴はたしかに、死ぬ間際に言った」
刎ねられた首が、落ちるまでの数瞬。
空中で目の合ったあの男は、発声できずとも口だけ動かし言葉を紡いだ。
『――やっと、死ねる』
と。
……思えばこれまで遭遇した吸血鬼は自死を選ぼうとする理由や精神のない者たちばかりだったので気づけなかったが……あのとき戦車が向き合った全身駆動鎧装内での劣悪な環境は、自ら死を選んでもおかしくないものだったはずだ。
そこで、思った。
もしかして、スレイドは……
「俺は、最期の最後まで。友だった男の真意にすら、気づいてやれなかったのかもしれん」
なにが真実かはわからない。
奴は単にどこまでもジョンへの恨みと憎しみを増大させた、恐るべき殺戮者にして悪逆たる吸血鬼だったのかもしれない。
生き延びたかっただけなのに死ねない身体になったと気づいたから、自分を殺してくれそうな同門へ近づいた、ただの人間だったのかもしれない。
真実は、わからない。
わからないから、こわい。
ジョンは。
自分自身が、こわかった。
「俺は……もっとも親しいと、そう思っていた相手の真意にさえ、最期まで気づけない愚か者だったのかもしれん」
「はい」
「お前が……そのように、俺を信頼してくれても。いつか、スレイドのときのようになにも気づいてやれず。信頼を、裏切ってしまうのかもしれん」
「はい」
「……それが、こわい。俺は、もうなにも、失いたくない……」
寄る辺なくたたずむ、幼子のようにジョンは震えた。
情けない話だった。
腕を失くし、友を失くし、仇を失くし、また友を失くした。
失いつづけたこの人生で、自分の愚かさゆえにまた失うのが、こわくて仕方がない。
こんな、弱音の吐露に。
彼女は、しばし考え込んだように天井を見つめ。
瞳を閉じてから、彼に言った。
「でもわたくしは、いまあなたを失うのがいやなのです」
諭すように。
宥めるように。
ただ優しく、語り掛けた。
「たとえまたわたくしが名前を失っても、いつものように変わらず呼んでくれるであろう人がいるのが。未来を、明日を信じられるのが、うれしいのです」
左手を。
もう二度とまともには動かないかもしれない手を。
そっと、ジョンの右手に重ねた。
この腕は、なにも感じない。
ロコも、包帯越しではなにも感じまい。
けれどたしかにそこにある。
つながりは、そこにある。
「生きましょう、ジョンさま。なにもなくとも、わたくしたちは互いを呼び合えるのだから」
かちゃり、と駆動鎧装の指先が鳴る。
ジョンの中にあった、最後のわだかまりが解けていく。
なにも、なくとも。
復讐を終え、空っぽになっても。
ロコは剣ではなく、ジョンは杭ではないのだ。
なにもなくても。
名前がなくても。
人であり、
命があり、
だれかにとっては、大切なだれか。
「お嬢」
「はい」
たったそれだけ。
なにも、得てはいない。
二人はなにも、取り戻せてはいない。
自分になにが残っているのかさえ、互いの手を取り合わなければわからない。
だから、ジョン・スミスとロコ・トァンは、
前を向いた。
+
+
+
ファクラスの中央架世駅は今日もひとで賑わっていた。
ドルナクも相当にひとの行き交う都市であったが、さすがに大陸横断鉄道の真ん中に位置しあらゆる経済・交易の中心地たるここには劣る。
高さ十数メートルにもなるアーチ状の天井にはステンドグラスがはめられており、日の傾きで路線へと複雑な紋様が降り注ぐようになっている。大抵は停車している機関車から噴き上がる蒸気に向かって紋様を投げかけることになるので、宙に浮いたスクリーンに絵が浮いているようにも見えた。美しい光景に、足を止める者も多い。
ジョン・スミスはこの都に住んでいた時期も長いので、とくに足を止めることはなかった。
路線の一番端、大陸横断鉄道で向かうはるか東方への車輌に近づき、四等客車の前で待つ。
ほどなくして、がらがらと大荷物を引きずる影が彼の元へ近づいてきた。
膝より少し下まで丈のある、黒いローブのような衣裳。
アッシュブロンドの髪を背に流し、青金石の瞳でこちらを見つめる小柄な人物。
前腕を通して肘に取っ手を引っかけるように、車輪のついた巨大な革のトランクを引いている。……手が不自由だろうにこんなもの持ち上げられるのか、とも思ったが平気なようで、「ほっ」と掛け声ひとつ、腰にはね上げて載せるようにしてかつかつとステップをのぼっていく。周りの人々は唖然としていた。
荷を置いてきたロコ・トァンはぱんぱんと白手套をはめた手をはたきながらステップまで戻ってきて、ジョンより一段高い位置でにこりと微笑む。
「それでは、行ってまいります」
「ああ。気をつけて行け」
これから彼女は旅に出る。
ローナ・ガーヴァイスが公的に死んだ以上社会的な立場がなくなってしまったわけなので、再出発にあたってはひとまず遠方へと考えたらしい。
そこでやり直し、なんらかのかたちでまずは身分を得る。この首都のあたりより戸籍の扱いや人の経歴査定なども比較的東方は緩いので、うまくすれば三、四年でそれなりの肩書を得られるだろうと目論んでいた。
「途中でラキアン様とルー様にも会ってきますね」
「ふん。お前、どうせ醸造酒が目当てだろう」
「だ、だって美味しそうな絵が送られてきましたし……否定はしませんよ」
「少しは遠慮しろよ。返信には俺が『樽で用意しておけ』と送ったから、まず底を尽きることはないと思うが」
「いやぁどうでしょう。一週間もあれば空にできるかと」
「……やるなよ」
半目で言えば、えへへとロコは頭を掻いた。
それからステップを降りてきて、ジョンの前に立つ。
彼の胸元を少し超える程度の背丈の彼女は、深々とお辞儀をした。
「長く、お世話になりました」
「大したことはしていない。俺もディアに、頼り切りだしな」
「ヒモですか」
「やめろ。先週から護衛の職に就いたのは知っているだろう」
「まあ知ってますけど。でも、その……腕、大丈夫なのですか?」
ロコが視線を落とす。腰丈のコートを羽織った下にのぞく指先。
それは左右で色合いがちがう。
あの戦いで残った右腕はそのままに、斬られた左腕だけ別型の《銀の腕》を取り付けたのだ。
「同型は軍事研究用だったとのことで用意できず、その腕になったと聞きましたけど。それならば両方取り換えた方がバランスよかったのではないかなと」
「ん、ああ」
きしりとぶら下がる右腕を見つめながら、ジョンは居心地悪そうに身をよじった。
「べつに。なんとなく、だ」
「……仕事道具でしょうに、なんとなくでいいんですか」
「仕事はほとんど足技だけでなんとかなる」
「それもそれでどうかと思いますけど。まあ本人がいいと言うならいいんですかね」
「お前こそ、東方で気をつけろ。べつに悪人が多いとは言わんが、向こうは勝手がちがう地域だからな」
「身を護る程度なら足技だけでなんとかなります」
「……そうか」
どっちもどっちな会話だった。
やがて、汽笛が鳴る。
周囲でも別れを惜しむひとびとの抱擁や握手が散見される。
ジョンも、ロコが車輌に乗り込むだろうと思い半歩引く。
すると彼女はすいっと懐に入り込み、ぎゅっと彼に抱きつくようにした。
「おい、なんだ」
「いえ、渡しておきたいものがあっただけです。『――ここではすれ違うにとどまったが、君は知り、私は知った。その道に二人分の幅があると、君を知り、私を知った』」
にっと笑う彼女がなにやら文言を唱えつつ離れると、腰の辺りに重さを感じる。
肩越しに振り返っても見ることはできないが、どうも重さ的に聖書のようだった。
「もうわたくしには、必要ありませんから」
「俺も要らんのだが」
「そう言わずに……それでは行きます。手紙、書きますね」
「ああ」
「手、最後にいいですか」
ロコは右手を差し出した。
ジョンは応じて、右腕に繋いだ革のストラップを引き、稼働しないよう気を付けながら義手を持ち上げた。
ふたりの手が、つながる。
離れてもどこかに自分を知るひとがいると、信じられる。
それだけで、十分だった。
「また、会おう」
「ええ。また近いうちに」
ふたりは未来の約束を交わす。
なんの保証もない約束を交わす。
ひとの命は偶然と幸運の上に成り立つものであり、いつどこでなにが起きるかわからないけれど。
それでも途切れることのないものがあると信じられる。
信じたくなる。
ただ、
ただ、
それだけで――。
+
+
+
ひとりの男が墓に入る。
それなりの数の列席者に見守られ、彼の棺が墓穴の傍に置かれる。
開かれた蓋の下、どうも男は無神論者だったのか手を組むことはなく。ただ直立の姿勢で棺に納まっていた。
その、両腕は。
奇妙なほどに色合いがちがう。
左腕はつい昨年取り替えたばかりと言われてもうなずける、真新しい義手だ。
けれどもう片方、右腕の方は。
数十年の歳月に耐えて長く永く使われてきたことをだれもが認めざるを得ない……言い方を悪くすればひどくみすぼらしい、そんな義手だった。
騎士甲冑を模したような角ばったフォルム。左腕に比べ、明らかに時代遅れで洗練されていない型式。
参列者のひとりがその事実に奇妙さを覚えたか、首をひねっている。
その様を見て、葬送を請け負っていた黄土色の髪を真ん中分けにした老人が、ふっと笑った。
故人の遺品が棺に納められていく。
写真、好んだ酒、愛用のインバネス。
最後に、黄土色の髪の老人が一冊の聖書を納める。
この男は無神論者のくせに、生前なぜか老人に頼んだのだ。棺には部屋の棚に置いているこれを共に納めろ――と。
革紐で厳重に縛られたそれは、一ページだけ折り目がつけてあるのがうかがえた。
さすがに、中身を確かめるほど下衆な真似はしない。
そっと、棺の蓋を列席者全員で持ち上げる。
最後の別れを、皆が惜しむ。
老人も、最後に顔をあらためる。
……らしくない顔を、しやがって。
老人は笑い、
蓋を閉めた。
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『 わたくしは、なにが幸福かはいま以てよくわかりません
けれどあなたが生きていなければ、不幸だとは思います
あなたの明日を照らすので、
わたくしの明日を照らしてください。
それだけで――十分です。
名も無き女より
名も無き君へ 』




