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悔打ちのジョン・スミス  作者: 留龍隆
血闘

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85/86

84:ジョン・スミスと■■■・■■■■■■と名を捨てし者


『あーあぁ。天才の気分、ってどんなもんなんだろうね。僕は、わからない。弱いから、わからないよ』


『だから僕はずっと、きみ(・・)が憎かった。同じくらいの歳で剣をはじめて、僕よりもずっと早く成長するきみ(・・)が、ね』


『どうにかして勝ちたかった。手の皮が破れて腕が上がらなくなるまで剣を振って、目の縁が裂けるまできみの剣を目で追った。それでも僕は弱いから、きみ(・・)に勝てるはずもなかった』


『だから僕の剣は、僕が窮めたいと思った理由は、そこにはない。強さを得た先で■■■・■■■■■■に勝てるとは思っちゃいなかった。ならどこに僕の目的があったと思う?』


『僕はなぜきみ(・・)を殺さず腕を奪うに留めたと思う?』


『なぜこの街のすべてをお前(・・)に伝えたと思う?』


『……僕の目的は果たせなかった(・・・・・・・)。僕の目的はきみ(・・)たちにはわからない。腕を奪われればわかるかと思ったけど、まだわかっていないんだな……。なあジョン。ジョン・スミス。お前(・・)にすべてを伝えたのはね――一度だけ、チャンスをやるためだよ』


『腕を奪ってもまだ僕の前に立ちふさがるお前が、いい加減迷惑だし、怖い。決着を付けよう……ただしお前が、かつての僕の目的と■■■を殺さず腕を奪うに留めた理由とを、言い当てることができたならだ』



 ――問いかけ。

 スレイドの、問いかけ。

 それに対する、ジョンの答え。

 あの日牢獄の中にいるジョンへ投げかけられた、スレイドが強さ求めた理由と腕を奪うに留めた理由を答えよとの問いへの、解答。

 じっとこちらを睨みつけ、言葉を待つ仇敵は、その血走った目の奥にさまざまな色をのぞかせていた。

 長く、永く。

 この腕を斬り捨てたときより――否、それよりも以前から抱いてきたのであろう、■■■への深く暗く冷たい思い。互いすべてを賭してきたはずの、剣に対する思い。剣を通じて得た思い。剣士に対して抱いた思い。

 それらすべてを、ジョンは推し量り。やっといま言葉にしてぶつけようとしていた。


「そしてお前は、俺に――――――――」


 が。

 ぎヂり、

 と頭上から降ってきた破滅的な音に発声が止まる。

 ぱらりと上から降った塵と破片に、嫌な予感がした。

 とっさにジョンは背にかばっていたディアの襟首をつかんで飛びのく。

 途端、

 ガらんッ――、

 と、天井が薄氷のごとく割れ崩れた。


「――――――――――!」


 落ちてきた天井の構成物を身に受け、眼前でスレイドの身体がひしゃげる。

 どよめくクリュウ、DCのトップ層の姿が、積み上がる瓦礫でどんどん見えなくなる。

 立ち上る灰色の埃と粉塵にまかれ撒かれて、轟く重く低まった音に身の内をかき乱されて。ディアをインバネス越しに抱えたまま、状況が収まるのを待って。

 ようやく、視界を確保できるようになったときには。

 彼らの居た非常階段付近とこの廊下側とが、崩落によって分断されてしまっていた。

 こちら側にいるのはジョン、ディア、少し離れてグレア・ルインのみ。

 グレアは、床に伏せったままこの惨状を顧み、歯噛みしていた。


「……思った以上に、崩れてきているようですわね」


 両のくるぶしを負傷しており歩けない様子の彼女は、弱り顔でそうぼやいた。

 ジョンは血だまりになっている瓦礫の方を振り返る。

 ぐしゃりとあふれ出た黒い血、おそらくはスレイドのそれと死んだエルバス、ヴィクターのそれの混ざりものが、隙間からつつつと流れてきている。

 濃い鉄臭さが、砕けた天井構成材から漂うきな臭さを塗りつぶして空間に広がる。

 しんとして、ぱらぱらと破片や砂塵がその上に積もっていく。

 苦々しい顔でそこを見つめ、ジョンはディアから腕を離した。

 膝立ちに、瓦礫の傍へ、寄ろうとした。

 しかし、そのとき。

 落ちる破片や砂塵の動きが、ばらばらと大きなものとなった。

 …………血が。

 流れてきていた血液が。

 リノリウムの上で流れを止め、どころか、床を這った痕跡を残しながらも上澄みだけが瓦礫の内へ戻っていく。


 ……ずるずず。


 と、汚らしくすする音がした。

 ばらばらと落ちる砂礫の動きが多く大きくなっていく。

 隙間が。

 こじ開けられるようにして。

 爪の削げたぼろぼろの右手が、瓦礫の中より現れる。

 真皮まで抉れていたはずの指先は、見る間に新たな皮膚を張り爪の先端まで再生した。

 床を掻き、五指が突き立てられる。

 ばら、がら、と崩れた隙間から。

 赤き瞳がこちらを捉える。

 地を嘗める吸血鬼は床にこぼれぶちまけられた死者の血を啜り、生者の場へと這い戻ってきた。

 ひゅうる、ひぅるる。

 肺腑の奥から絞り出す吐息が、やがて声として形を成す。


「………………つ づ、き だ」


 言え。

 途切れた言葉を、言いかけた解答を、つづけろ。


 ジョンの言葉を求めて、吸血鬼は回帰する。

 ディアがちいさく、悲鳴をあげた。

 ジョンは。

 彼女を己の背に隠し、スレイドへ向き直ろうとして。


「――っ! いました、こちらで発見しました!」


 そのとき、後ろから声がかかる。

 先ほどジョンも通り抜けてきた、五階エレベーターホールの方向からばたばたと走る足音が聞こえてきた。

 やってきたのは身だしなみに気を遣っていない様子で白衣を着込んだ、いかにも研究者然とした男たち四名。

 まだ逃げ遅れていた者が居たか、と思うジョン。だがそれにしては、様子がずいぶんと落ち着いているように感じた。

 彼らの視線は、ディアの方を向いている。


「オブシディアン・ケイト・エドワーズ様でいらっしゃいますね?」

「え、あ、はい」

「探しておりました。我々は否戦派所属で……とある御方より命を授かり、所内へ潜伏していた者です」


 否戦派という名乗りに、ジョンは即座に理解する。

 つまり、鉄枷付き(ジャック)の配下だ。

 隔壁の操作や人員の誘導などで潜り込んでいた人間たちである。直接的なデータの盗み出しはスレイドに任せることになっていたとはいえ、下準備がなくてはそれもはじまらない。そういった意味では非常に重要な実働部隊の工作員だろう。

 彼らは駆け寄り、ディアの傍へひざまずいた。ついでとばかり、グレアの方にも二名が膝を折っている。


「研究者たちの避難場所にお姿が見えなかったもので、まだ五階の研究室にいるものかと思いフロアを見て回っておりました。間一髪、といったところのようですね」


 崩落した天井の残骸を見やりながら、彼らはほっと一息つこうとして――隙間から伸びていまなお動いている不気味な腕を認め、顔をひきつらせた。


「ま、まだ生きている方が……?」

「よせ!」


 人道に背くことのできない人間だったのだろう。

 工作員の男はジョンの制止より一瞬早く床を蹴り、瓦礫の山に近づいてしまった。

 地を這い血を求めていた吸血鬼の下に、自らの身を投げ出してしまった。


「――助かるよ」


 せせら笑う声がした。

 ごぎん、と音がする。

 関節外しで伸ばした腕にて男の首根をつかみ、筋力限界を突破して無理やりに引き寄せ、瓦礫の隙間に彼の頭を引きずり込んだのだ。

 穴倉に顔を納められた男の悲鳴は、「ぁっ」という微かな響きだけで止まる。

 腐った果実を踏みつけにしたような咀嚼音の結果が、隙間からの鮮血というかたちで現れる。

 血の噴水はすぐに止まり、びくりびくりと痙攣する男の靴がリノリウムの表面を叩く音だけがつづく。

 喉笛を噛み千切られた遺体がごとりと落ちた。

 異様なほど、潤いが無い。大半の血を失った身体は、十か二十か老け込んだように見えるほどだった。

 次いで。

 瓦礫の山が、内側から盛り上がっていく。

 床に爪立てた吸血鬼の腕が、不自然なほど膨れ上がり。表面に異常なほど太く多くの血管を浮かび上がらせる。


 赤き瞳の光が帯を引くように起き上がった。

 瓦礫の上に、悪夢が降り立つ。


 血にまみれ穴だらけになった衣服の中で、吸血鬼の肉体が再生されていく。

 取り込んだ血肉をどれほどの速度で己の身に変えているのか。首も腕も胴も腹も脚も、一時的に膨れ上がっていたのが見る見るうちに元の状態へ還っていく。

 顔中に浴びていた血を以て、後ろへ撫でつけるように吸血鬼は前髪を掻き上げた。

 左手にはまだ手放していなかったか、騎士団長より奪いし剣を携え。

 切っ先を、ゆらりとジョンに突きつけた。


「――つづきだ、■■■。つづきだ、ジョン・スミス。つづきだ、僕の友だった男。つづきだ、僕の憎き敵。………………つづきを、はじめろ」


 まがつ

 きょう為す者が、ジョンを指す。

 場のだれもが恐れを抱いた。

 これほどの凶気があるのかと、だれもが思った。

 ジョンは。

 ジョン・スミスは。

 ■■■・■■■■■■だった者は。

 しかしこれを、真っ向から受け止めた。


「……すまない。ディアを頼めるか」


 振り向くことなく、工作員の男に告げる。

 男が息を呑むのが聞こえた。けれどこの場であの禍の相手をできるのはジョンしかいないと、すぐに悟ったようだった。無言で、ディアを抱えあげて後ずさる音がする。その動きに抵抗するような衣擦れが聞こえて、背後から悲痛な叫びが耳へ届く。


「ま……待って。■■■。ねぇ、きみ、きみは、」

「行け、ディア」

「でも! そいつはもう、現象回帰型でっ、」

「行けッ!」


 かけられる言葉は他にない。

 すでに現象回帰型になっていようと、騎士団長を下すほどの執念の剣を実らせていようと。

 すべてがいまここに収束しているのだ。

 追ってきた数年。追われてきた数年。

 ジョンが■■■であった頃からいままで。積み上げてきてしまったすべてのものを、清算するときが来たのだ。

 決着を。

 はじめなくてはならない。


「……ここまで手伝ってくれて、この腕をくれて。感謝する、ディア」


 最後に、それだけ口にした。

 工作員の男たちは、ディアとグレアを連れて離脱していく。

 ジョンの名を呼ぶディアの叫びだけが、長く伸びて残響となる。

 それが止んでも……相変わらず、研究所全体は微細な震動の中にある。

 現象回帰型となった吸血鬼、スレイドの足元にある瓦礫の山も、まだぱらぱらと揺れに伴って砂礫を散らしている。

 もはやぼろきれと化した衣服が鬱陶しくなったのか、スレイドは破れたコートをその場に脱ぎ捨てた。上衣は肩口から肺腑まで斬り下ろされた血まみれのシャツのみとなり、その恰好でジョンへと近づいてくる。

 左手の剣は下げたままで力がこもっていないが、手首や肘など関節は活きており不意打ちにも対処できる構えとなっていた。

 あの頃とは、ちがう。

 この男もまた、この数年で積み重ねている。圧倒的なまでに。

 ――スレイドは。

 あと一歩で剣の間合いというところで足を止め、赤き瞳でジョンをにらんだ。


「さあ、つづけろ」

「……ああ」


 そしてジョンは。

 その、目頭とまなじりに切れた痕残す目と視線を合わせ。

 もう一度、解答をはじめた。


「お前は――――……俺に、吸血鬼と(・・・・)なってほしかった(・・・・・・・・)のだろう」


        +



『――馬鹿にしていたのは(・・・・・・・・・)そっちだろう(・・・・・・)?――』

『――僕は、弱かったからね――』

『――タルカス流において僕はいっとう弱かった。そんな不便な義手に換装してさえなお剣士と互角以上に戦える、だれかさんとちがってね。そりゃぁ馬鹿にもするだろう(・・・・・・・・・)さ――』



 答えは、この言葉の中にあった。

 スレイドは、■■■に、馬鹿にされていると感じていた。

 共に長い時間を過ごし。共に剣の腕を競い合ってきた■■■に、裏切られたと感じていた。

 ■■■には、そのようなつもりはなかった。もちろん剣の腕を比べられることは流派に属している以上避け得なかったし、まったく驕りがなかったとは言わないが。それでも結果は出るものであり、スレイドもそこは納得していた。

 むしろその事実への反骨心と競争心でこそ彼と■■■は繋がり、軽口や悪態をつきあいながら友として過ごせていたのだ。『勝てると思っていなかった』とはあの牢獄での問答の際にもスレイド自身で口にしている。

 ならば、なにが彼に裏切りだと感じさせたのか。

 それは、きっと……■■■が、吸血鬼にならなかった、ことだ。

 両腕の切断による、死に瀕するほどの『大量失血』。

 騎士団に属すべくドルナクを訪れてからの『滞在歴』それに伴う『微細生物の摂取』。


 ――急速分裂型吸血鬼への、変異条件。


 スレイドと同じ存在へ至る条件は、ほとんど揃っていた。

 けれど、■■■はならなかった。

 だから、スレイドは失望し、裏切られたと感じたのだ。

 なぜなら最後の条件は……殺意(・・)憎悪(・・)。これらを抱くこと。

 ことこの腕を切断された状況に至っては、どうあがいても抱かずにはいられないはずの感情。

 つまり。

 この状況下で吸血鬼化しないというのは、「殺す気になれない相手だ」と、そう見くびっているようにしか思えない。

 剣の腕を競い、共に在ったはずの親友からの――それは、手ひどい裏切りだと感じたのだろう。

 ……なぜそのときの■■■が、殺意や憎悪を抱けなかったのか。

 それはあの、腕を斬られた瞬間にある。



 ――斬り、

 ――結んで、

 ――右腕が。

 ――落ちて。

 ――刃の向こうに。

 ――吹き飛んでいって。

 ――■■■は、均衡を失って倒れ、

 ――目頭とまなじりの切れた、血涙流す瞳と、見合い、

 ――仰向けに倒れこんだ■■■の上に覆いかぶさるように、奴の双剣が構えられ、

 ――■■■は。

 ――喪失に(・・・)

 ――恐怖した(・・・・)


『         』


 ――言った。

 ――自分が言うはずがない(・・・・・・・・・・)と思っていたことを。

 ――自らの口で(・・・・・)

 ――言った(・・・)



 そう。

 そうだ。

 ■■■は、喪失に恐怖し(・・・・・・)言うはずがない(・・・・・・・)と思っていたことを、自ら口にした(・・・・・・)

 ただひとこと。

 それは、たったのひとこと。

 ――『やめてくれ』

 と。

 剣に生き、剣に死ねると思っていた男が。

 喪失の恐怖から、『奪わないでくれ』と。懇願したのだ。

 ……だから、そのとき■■■の中には憎悪や殺意の入る余地がなかった(・・・・・・・・・)。そんなものが生まれたのはもっとあと、病院で目覚めて悪夢が現実と地続きだったと知ってからだ。

 ただ、ただ。

 そのとき■■■が思っていたのは、

 自分への、失意。

 そしてそれもまた、スレイドの怒りを煽るものだったのだろう。

 この期に及んで剣士としての死に様を考えている、と。

 自分はもう、なってしまった(・・・・・・・)のに、と。

 きっと、すべてを否定されているように感じて。

 だからスレイドは怒りのままに腕を奪うだけに留め、殺さずに去った。すべて失った失意の中に居ろと、■■■に突きつけるために。

 ……アブスンに吸血鬼化の法を教えたのも、同じような意図だろう。剣士の頂、かつての憧れである存在に『剣士としての外法』潔く散るを良しとしない方法を教えた場合、どうなるのか。

 目的のためにそう成るのか、成り果てるのか。

 知りたかったのは、そこなのだ。


        +


「……そして、お前が■■■だった頃の俺に勝てないと思いながらそれでも剣を窮めようとしつづけたのは。ただそれを、なりふり構わぬ生きる手段のひとつとして持つためだ。剣士を嫌うのは、死に様にこだわって生きる手段をひとつに選ぶ者が多いからだ」


 腕を奪われた瞬間の、■■■のように。

 あるいは急速分裂型に決死の覚悟で挑もうとしたときの、ベルデュのように。

 剣士としての死に様をこそ望み、そのために生きる。

 そうした在り方が、スレイドにとっては……己の否定に映ったのだろう。

 そんなことに、腕を失くしていたから、気がついた。

 腕を失くしたから、気がつけた。

 もうすべては、遅いけれど。


「………………ふふ、はは」


 スレイドは嗤う。

 なにもかも終わっている。すべてはいまさらだと、言いたげに。

 言葉にすればするほど、ジョンも空虚さを感じていた。

 もう、遅いのだ。

 なにもかもが。


「ははは……本当にね。本当に、嫌いだよ。お前たち剣士が。剣士という生き様が。ああ、そうだよ。アブスンにあの方法を教えたのは、彼が堕ちるのを見たかったからさ。希代の剣士だったアブスンが、剣士の矜持とやらを忘れて僕らと同じ化け物に落ちるのを、見たかったんだよ」

「……そうか」

「だっておかしいだろ? それが普通だろ? 剣は生き抜くための術に過ぎないんだから。戦場でより効率よく相手を殺傷して、自分が生き残るための術のひとつに過ぎないんだから。勝てるなら、生き残れるなら、噛みつきでも杭弾銃でも騙し討ちでもなんでも使えばいいんだよ。そしてもちろん――吸血鬼化だって、ね」


 犬歯をのぞかせてスレイドは口の端を吊り上げる。

 目は見開いたまま。まばたきをしない。


「吸血鬼に腹を刺されて、組打ちで追い詰められて、死にかけて。それで相手の喉笛を噛み切れば勝てると思ったんだから、しないのは嘘だろ? 僕は勝ち筋に従った。そしてやっぱり勝った。まぁ、死に瀕してたせいで急速分裂型として覚醒したわけだけど……それをさぁ。タルカス流の修練場に行ったらあいつら、なんて言ったと思う?」


 微動だにしない眼球の真ん中で、開いた瞳孔がジョンを捉える。


「『自分で自分の心臓を貫け』って。……剣士らしい死に様を選べってさ。だからもう、いいや、って思ったんだ。生きるために仕方なく成ったことでまでそういうの求められるならさ」


 ふ、っと軽く笑って。


「剣士らしく、騎士団らしく。仕事させてやったんだよ」

「……お前」

「結果は残念ながら、ご存知の通りだったけどね」


 すべてを。

 師と、門弟のすべてを、スレイドは斬り殺した。平然と血の海にたたずむ奴の姿を、いまもジョンは夢に見る。

 奴は自身のことを流派でもっとも弱いと自称していたのに、なぜそんなことができたか。

 それは奴への評価が『人間同士の剣技でなら』という前提に基づくものだったためだ。

 たしかに試合という形式で剣を当て合うことにおいて、スレイドは相手に先に一撃を許すことが多かった。そして人間同士の戦いであればそれで大抵は決着する。

 別段ひと一人を戦闘不能にするために、胴を頭を急所を切り裂くような技はほとんど必要ない。手足の一本もまともに動けないようにできればそれで済むし、タルカス流は双剣の手数でそうした一撃を狙うことに長けていた。


 だが。

 人間同士という前提を外し、一撃をもらう(・・・)ことを前提とした場合、この評価と結論は一転する。

 スレイドは、相打ち狙いの技法であれば流派のだれよりも長けていた。

 弱さゆえに自身の弱所を正確に知っており、

 弱さゆえに臆病なまでの慎重さで戦術を組み立てており、

 弱さゆえに格上に挑むのであれば外法をなぞることに躊躇いがなかった。

 すべてが。

 そのすべてが、最悪のかたちで噛み合ってしまった。

 急速分裂型の高速再生は身に受けた一撃を瞬時になかったこととし、相打ち狙いの技法は確殺の戦法に進化を遂げる。

 だれも。

 スレイドを止めることはできなかった。

 ■■■も。

 その凶刃の前に倒れた。


「剣って、なんのためにあるんだろう」


 ジョンではなくどこか遠くに焦点を合わせながら、そんなことを言う。


「僕よりもよほど熱心に術理を探究してたひと。僕に剣の握り方から教えてくれたひと。僕と共に剣を振るって稽古したひと。みんな僕より強かったはずなのに、生き延びることはできなかった。わざと逃がした、お前以外はね」


 剣の切っ先をわずかに上げて、ジョンの心臓を指し示す。


「自分や周りを生かすための技じゃなかったの? ひとりも守れちゃいないじゃないか。なんのために修練積んでたの? 災害みたいに現れた凶意には抵抗できないじゃないか」


 嘲笑って。

 スレイドは唇を噛み、心底苛ついた表情に変わった。


「間違ってたのは、お前らじゃねえかよ」

「……もういい」

「死に際散りざま矜持に誇り。それが何になったんだよ。僕ごときにやられてんじゃねえか」

「やめろ」

「生きるために生きる。そんな当たり前のこともできてない愚図ばっかじゃないか」

「やめろと言っている」

「だから嫌いなんだ。だから死ねばいいんだ。僕だって死にたくなんかなかったのに……」

「黙れ!!」

「なんで死ねって言われなきゃならねえんだよ!!」


 がしゅんと蒸気吐く両腕で構えを取った。

 右手を添えて横薙ぎの剣戟を放った。

 交差、

 火花、

 衝撃。

 最後の一歩を踏み越えて互いを互いの死地に置いた二人は、真正面から殺意をぶつけあった。

 歪んだ笑みを浮かべるスレイドは、血走る乾いた目でジョンを捉えつづける。


「……終わりだ、ジョン・スミス。果てしなくこわい、剣士だった男。……なあ、この世にはさ。わかりやすい敵味方の構造なんてないんだよ。このドルナクひとつでも思い知っただろう? だから僕はより自分にとって自由の多い方を選んでいくだけだ。僕に合った主義を選んでいくだけだ。それが今回は否戦派だっただけで」


 ――なんでもいいしどうでもいいんだ。

 言いつつスレイドは、両手を添えた剣を中段に持っていった。

 右半身。剣握る両拳を腹の前に来るよう保持し、後ろに置いた左足は爪先を外へ開く。

 切っ先はジョンの喉元を指し示し、裏刃を外に向け四〇度ほど傾けた型。

 タルカス流の中で双剣ではなく剣一振りで使用する型――風見ヴェイン。裏刃による鋭い左下からの斬り上げで相手の左拳を狙う構え。左半身の拳闘の構えを多用するジョンのことを意識した選択だった。


「僕は生きるためになんだってやる。お前とも、ここでお別れだ」


 スレイドの目がさらに血走った。

 赤く染まる眼球がジョンのすべてを見抜こうとする。

 ジョンは歯噛みして、インバネスを脱ぎ払うと両腕の出力を上昇させた。噴き上がる蒸気の圧が増し、肘と肩から漏れて空を漂う。


「……自分の自由だの、合った主義だの、生きるためになんでもするだのと。いまさらなことを、言うな」

「なに?」

「そんなことは、剣を握る前によく考えておくべきだったのだ。いや……、剣を握ったあとでもよかった。自分の考えや生き方と照らし合わせて、それが本当に自分の魂と道と合っているのかどうか」


 言葉を切り、ジョンはぎしりと唇を引きつらせる。


「それをしかと考えず生きていたから、漫然と生きてきたから、こういう状況に陥っているのだろう。己の考え足らずを周りのせいに、するな」

「……お前が言うかよ、それを」

「ああ、まったくだな」


 剣に生き、剣に死ねるだなどと青いことを胸に抱きつづけ、結果すべてを失ってなお生きている。

 所詮、残響に過ぎない。

 俺も。こいつも。

 過去に縛られ現世に繋ぎ留められているだけの、幽霊スペクターじみた存在だ。

 だからここで。

 これで、最後だ。


「ここが終着だ、吸血鬼。お前という悔いを、俺はここで終わらせる」

「殺してやるよ、名無しの男。あとにはなにも残さない。僕の生の糧となれ」


 一足一撃の間合い。

 最期の斬り合い。

 積み重ねてきた感情が、修練が、記憶が、はじけるように脳を犯し。

 ただひとりの人間とただひとりの吸血鬼が、殺し合いに至る。


        +


 初手はスレイドの斬り上げ。

 風見の構えから半歩進み出て両手首を返し、右手は甲を天に向け左手は右前腕の下へくぐらせるよう押し込むことで裏刃――諸刃の剣を構えた際に己に向く側の刃――を、最小の動きで左下からの斬撃に変える。

 左手を引いて回避したジョンは、つづく表刃での右上からの斬り下ろしもバックステップで躱した。高速での二連撃。


「ッははァ!」


 からの、追い打ち刺突。

 諸手での心臓狙いの突きを、バックステップと同時に大きく足を引いた右の真半身になることで胸板の前にかすめるのみで済ませる。

 哄笑をあげるスレイドの剣を、ジョンは右手でつかみにかかった。

 剣の先端十センチほどの位置を五指で取る。力勝負でならば、いかに吸血鬼が筋力限界を突破した膂力を発揮できるとはいえ駆動鎧装の高出力にわずかに分があった。

 そのまま、コントロール。天へ打ち上げて、隙ができたところへ左拳を叩き込む。

 ところがそんなジョンの思惑を、スレイドは容易く打ち破る。


「ハーフソードが使えないと思ったか?」

「――ッ!」


 剣の中ほどをつかむことで接近戦時の間合い変化や杖術のような掛け・崩しに移行する技術、『ハーフソード』。

 本来ならば籠手を装備し刃に触れても斬れないことが前提のはずのこの技術を……スレイドは吸血鬼の再生力頼りに敢行した。

 スレイドは左手で刃をつかむ。けれど再生が高速すぎてほとんど血が出ない。

 そして離れた二点を同時に保持したことで力を加えやすくなれば、高出力の利があっても片手では勝てない!

 打ち上げようとした動きを利用され、一瞬早く動かれたことでジョンの手が剣から離れる。

 見逃さず、スレイドは天向いた切っ先を振り下ろした。左手を離しての右片手突き。猛然と心臓めがけて迫る死の刃に、ジョンは左腕をかざす。

 またも激烈な火花が散ったが腕の装甲部でガードできた。

 けれど押し込まれた突きが左腕を胸元に叩き付け、そのまま吹き飛ばす。

 肋骨と肺腑が押し縮められる感覚があり、げは、と息を漏らしながらジョンは後方へ転がった。途中でなんとか勢いの向きを変え、横に転がるようにして膝立ちに身を起こす。

 すでにスレイドは眼前へと駆けこんでいた。


 ――薪割り(チョップダウン)


 右肩に担ぐよう構えた剣を左足の踏み込みから腰のねじれを利して叩き込む、最も威力の高い斬撃。

 防ぎきれないことを察し、足捌きで身体を後ろに押し出しながら右腕で強く地面を叩いた。高出力の稼働によって後押しを得、なんとか離脱する。

 シャん、とひどく透き通った音がした。

 リノリウムを綺麗に切り裂いた剣は床に留まることなく、肩を回すような動きで左上段に構え直されている。


「ずいぶん焦っているじゃないか、ジョン・スミス!!」


 嘲弄するような物言いと共に、猛攻。

 なんとか距離を稼いで立ち上がったが、横に倒した8の字を描くようにスレイドの連撃がつづく。

 後退、前腕での受け流し、両腕を交差させての防御。

 スレイドはわずかな踏み込みの差、肩や肘の力の抜きを駆使してこれらジョンの動きに対応し、斬撃を止めない。それはまず以て初撃を得ることで流れをつくるべく『斬れるところを斬る』という――タルカス流の理念の体現であった。


「よく悪びれもせずその剣を使えたものだな……!」

「人間は不便だね。一撃でも食らえばそれでおしまいだ。その意味で、やっぱりこの剣は僕に合ってるよ……生きる手段としては、ね!」


 右上からの斬り下ろしに防御を弾かれ距離があいた瞬間、連撃が途切れる。

 スレイドは剣を振り上げずに水平、ジョンから見た左側に向けてまっすぐ伸ばした。

 踏み込んでの横薙ぎ。

 テンポをずらした一撃に、ジョンは左腕を掲げ右手で前腕を押さえることでガードした。

 ……深く攻め込んできている。

 ならばここが好機だ。

 そのまま剣に左腕を添わせるように前進。じゃりりりり、と火花擦らせてスレイドの身体へ近づく。

 左腕で剣筋へのガードを保って、右の肘打ちを顔面へ叩きこむ。そこから鍔元を左手で握り込み貫手での止めに繋ぐ。

 組み立てた戦術で刺しに行った。


 スレイドは――慌てず、剣を引き戻して風見の構えに戻ろうとする。裏刃を使うタイミングでもないのに、なぜか。

 当然姿勢は崩れた構えになり、剣身は寝かせすぎてほぼ地と水平のまま。べつにジョンの攻撃を防げるような体勢に変じたわけでもなく、ただ剣身に己の身体を近づけただけ。

 だが。

 己に刃を近づける、という行動が。

 先ほどエルバスとの戦いで見せた、常軌を逸した自傷技を想起させた。

 スレイドがにやりと笑う。

 裏刃に己の右肩を、密着させた。

 鋭い剣先が肩に沈み込み上腕骨に食らいつく。

 これによりスレイドは、柄と切っ先の二点を保持した体勢と、なった。


「近づきすぎだよ、離れな」


 体幹からの力をそのまま体当たりとして放つかたちで、剣身越しにジョンの左腕に衝撃を打ち込む。

 強烈な破壊力に前進の力を跳ね返され、上体が大きく開いた。

 振り下ろすように右手を離し左片手で下方へ剣を流したスレイドが、その無防備な体勢を狙い右下からの斬り上げで迫る。

 みきり。

 腕に異様なほどの力がこもる。

 指先にまで太い血管が這い回るのが見える。

 関節外し・筋力限界突破と併用しての斬撃。


「っぉぉぉおおおおおおおぁぁああああッッ!!」


 咆哮と共に振り抜かれた剣を、ジョンはぎりぎりのところで防いだ。右肘を脇腹に密着させ、前腕で受け止める。

 すでに高熱を持ちはじめた駆動鎧装により脇腹が火傷を負う。

 けれどそれが叩きつけられた剣との摩擦で起きた熱ではないかと疑うほどに、重く鋭く刃筋の通った剣戟だった。

 肋骨が軋みを上げ、

 無理な体勢だったジョンは跳ね飛ばされる。

 無様に転がりさらなる後退。戦いに入ってまだほとんど、こちらからの攻勢に出ることができていない。

 あまりにも、スレイドの攻撃が苛烈に過ぎた。

 気づけば連撃からの後退もあり、エレベーターホールにまで戻ってきている。両側に並ぶ鉄柵の隙間から、上階や下階のサイレン、ベルの音が響いてくる。左右三つずつある乗り込み口は誤作動によるものかすべて開いて、闇への喉元がごとく不気味に風を吐き出していた。

 先ほどまでのリノリウム張りの床から変わって石板をはめこまれた床の上、足音が高い天井に吸い込まれていく。


「防戦一方じゃないか……威勢のいいことを言っていたくせに」


 中段、風見の構えでじりじりと迫りながらスレイドは言う。

 ジョンは左半身、拳闘の構えで対峙する。


「また、風見か」

「ん? ああ。だれかさんが性懲りもなく同じ構えを取るからさぁ」


 言いつつせせら笑いつつ、けれどスレイドは構えを変えた。切っ先はこちらの喉元へ突きつけたまま、剣は地と水平に胸の前へ持ち上げていく。

 己の肩辺りの高さまで掲げ、わずかに前傾した構え。右半身のためこちらからは剣先の一点しか見えなくなる体勢。

 アブソゥ流の牡牛の型(オクスフォーム)に似た、タルカス流・横笛フルート

 スレイドがかつて得意としていた、相打ちの技(・・・・・)へ繋ぐ剣だ。


「ならお望み通りに見せてやるよ。べつの技をね」

「俺を殺せるつもりか、それで」

「無理な理由が見当たらないよ」


 右足を少しずつにじるように詰めて、ジョンに迫る。

 残りの距離は二メートル。拳でも足技でも、こちらから飛び込まなくてはならない。

 そしてジョンの側に許される殺しの技は――《杭打ち》。両腕に仕込まれた蒸気圧縮機コンプレッサーを利用して放つ最大威力の貫手だけだ。

 頭部脳幹、ないし心臓。あるいは脊椎。

 ここへ向けて杭を放ち、潰すしかない。

 至近距離で一瞬止めることさえできれば。一瞬でも奴の思考を上回ることが、できれば。


「さあ、幕引きといこうか」


 踏み込むスレイド。剣先が迫る。

 横笛の構えからの技は刺突が多いのだが、この際に剣先を下に向けさせると相打ちの技が発動する。あるいはこちらの攻撃をいなされる際にも、同じことに留意しなくてはならない。

 だが剣へ下手に触れようとすればハーフソードへ切り替えてくるし、弾いても連撃に変更する。受け止めて近間を目指せば自壊前提の体当たりで体勢を崩されるし、躱して間合いを空ければ関節外しで追撃がくる。

 どの間合いにもスレイドは対応してきた。まるですべて見えていると言わんばかりに。

 数年の内に、これほどまでに手数を増やしてきたのか? 少なくともここまで使用したつかみ・防ぎ・受け・躱しといった手を潰す技は持つようだが。いくらなんでも対応力が高すぎる。

 思考を回し、これまでの経験とここまでのスレイドの行動・言動をすべて勘案してジョンは手を模索する。

 あの男の剣技の根幹には何がある? あの引き出しの多さは何に起因する?

 考えろ、考えろ、考えろ!


 ……そして至る、結論。

 これに賭けるしか、ない。

 ジョンは拳闘の構えのまま、そっと五指を開いた。

 指を揃えて伸ばし、けれど貫手のように関節ロック機構は用いず。

 開手のままで構えて向き合う。


「苦し紛れにまたつかむ気? 相打ち覚悟なら……やってみろよっ!」


 死線を一歩踏み越えスレイドが剣を放つ。

 刺突か。横薙ぎか。斬り下ろしか。

 技の判別にジョンはわずかな時間を割き、結果――微動だにしない、と察する。

 横笛の構えのまま前進することで、剣先を突き立てようとしているのだ。

 慮外の突撃チャージ。けれど即死しなければ後の反撃で相手を殺せる吸血鬼なら、当然採って然るべき戦法。

 得意の構えによって相打ち技、ジョンのよく知る技を警戒させておき――その実、『剣技の範疇で来る』と思わせることこそが最大のブラフ。

 だが刃が動かないのならと、ジョンは左手を伸ばし剣先をつかむ。それを見てスレイドは歯を軋ませるような笑みを浮かべた。


「ハーフソードを忘れてるのか?」


 スレイド、右手を離し中ほどを把持。左足を大きく一歩踏み込んで柄持つ左手を高く天へ掲げ、剣先を支点に柄頭で弧を描くようにする。

 さながら、断頭台のごとく。

 あるいは、襲いかかる獣牙がごとく。

 刃をジョンの頭部に叩きつけようとした。

 ……そのとき。

 ジョンは左手から剣先を解き放ち。

 右の掌底を、振りかざした。

 ――――高く、澄んだ音が、二人の間に響く。


「なっ、」

「悪いな」


 振り下ろされた剣は、わずかに屈んだジョンの頭上を過ぎ抜けて背中側へと逸れている(・・・・・)

 使用した技は――――《パリイ》。

 頭部へ振り下ろされる剣の鍔元に、側面から右掌底のフックを当てることで、落ちてくる軌道を書き換えた(・・・・・・・・)のだ。

 すなわち。

 これは彼女(ロコ・トァン)の最も得意とする技。


「《裁き手》だ」


 驚愕に、まばたきしない目をさらに見開くスレイド。

 一方でジョンは、つかめば必ずハーフソードに来ると読んでいた。目の前に起きているのは、予見して賭けた通りの流れだった。

 なぜなら彼はスレイドの異様なほどの対応の速さ、即応力に……修練の痕跡を感じ取っていたからだ。

 いくらなんでも、防戦一方に追い込まれ過ぎている。あまりにもジョンの手に対して優位を取れる技を持ち過ぎている、と。

 つまりこの状況。

『両腕が駆動鎧装の人間』との戦闘をおこなうため、前々から準備を進めていたのではないか……と。そう推測した。

 そうなれば異様な即応力の正体にはすぐ気づける。

 答えは、『反射の落とし込み』。

 防がれれば連撃。受けての反撃には体当たり。躱されれば関節外し。そしてつかみには……ハーフソード。

 そういったかたちで戦術を作り上げ、身体が反射レベルで応じることができるよう修練を積めば先ほどのような一方的な封殺も十分にありうる。――いわば、対ジョン専用の剣術を組み立てたのだ。

 だがその剣術には、二度目となれば先とまったく同じ流れになり、今度はその対応幅の少なさを突かれることになるかもしれない弱点がある。

 故にジョンが風見の構えを二度見せたことを指摘した際、わざわざ構えを変えたのだろう。


「これで――打てるな」


 ジョンは言う。

 左半身で振り下ろした体勢、無防備に左肩から背にかけてをこちらに向けるスレイド。

 対してこちらは、右フックを放った動きで左に溜めができている。

 スレイドが応じて逃れようとした。だがもう遅い。


 ――揃えた五指から手首までの関節機構をロック。

 ――雷電が特殊な経路を辿り『核』の赤熱を促す。

 ――発生した圧縮蒸気が内部を満たし準備が完了。


 奥歯を噛みしめ。

 地を踏みしめ。

 腰を切り、肩を回し。

 肘の噴射孔より、溜め込んだ蒸気を解き放つ。

 後方を、白く白く染め抜けて。


「《杭打ち》ッ!!」


 蒸気の暴力が轟き、瞬時の過熱に膨れ上がる大気がその衝撃を伝えた。

 加速して突き込まれる指先が、肉を裂き血をあふれさせる。

 振り下ろした直後のスレイドの左前腕の上を通るように。

 胸に鋭く差し込み、貫き。

 拍動を、止めた。

 心臓を完全に破壊している。

 撃ち抜いた貫手が、背から突き出しているのを感じる。


 ……しかし。

 脊椎を砕いた感触が。

 完全な絶命を約束する感触が、肉残る二の腕に伝わってこない。ジョンは焦りを覚えた。


「……くっ、」

「は、 は は」


 口の端からごぼごぼと血をこぼしながら、けれどスレイドはまだ死んでいない。

 原因は踏み込みの阻害だ。

 左半身でジョンが前に出していた左膝――ここへスレイドが、踏み込んでいた己の左膝で内側から外へ押すようにして力をずらしたのだ。

 振り抜く力自体は圧縮蒸気の放出によるものとはいえ、土台の足に加えられた力はほんの少しだけ指先の方向を逸らす。それが脊椎の破砕を食い止めていた。

 脊椎が壊れていなければ――さすがの、現象回帰型。


「ま だ、 動げ る」


 スレイドが凄絶に笑う。

 脳内の酸素が尽きるまでの数秒。

 まだ奴には、思考と行動が許されている。

 即、左の肋骨への柄頭での突き。ジョンは右手で受け止める。

 り上げるように柄頭をずらして斜め上方へ向け、中ほどを右手でつかんだハーフソードのまま左腋下を斬り上げ。ジョンは右肘をスレイドに向けるようにして突き出し、斬道に割り込ませる。……右半身みぎはんしんを前に出そうとする動きになったため、わずかに左腕が下がった。

 結果、胸から引いた腕の距離分だけ傷が即座に塞がる。高速再生で膨れ上がる肉も、ジョンの腕を内側から押し出そうとしている。

 スレイドの狙いはこのままジョンを引かせることだ。


「させ、るか……!」


 じりじりと押し込んできている。ジョンの右前腕へ下から食い込ませるように、スレイドは両手で剣を押し付ける。

 二点で剣を保持した体勢。この機を狙って、奴は先の体当たりのように体幹の力を打ち付ける技を使ってくるだろう。それで後ろに下がれば腕が抜けてこの杭打ちが無為なものとなる。

 絶対に、引かない。

 力を打ち付けてくるその一瞬にこちらも力を返すべく、ぎぢぎぢと軋みを上げる剣越しに互いの重心移動を読み合う。一秒一秒がいつまで経っても過ぎてくれない。終わりの見えない圧し合いに、ジョンは歯が磨り減るほど食いしばる。

 スレイドも同様で。凄絶な笑みはその実、極限まで歯を食いしばった中に顕れるものと見えた。


 ――だから、気づいた。


 顎の力を、ふっと緩めた瞬間を。

 なぜだ?

 いま力を抜けばジョンは前進し、せっかく引かせた距離を失う。心臓は潰されつづける。

 死の縁へ挑む理由は?

 意図がつかめず惑う一瞬。

 意識の間隙を貪り尽くし、スレイドは策を成功させる。

 抜いたのは、踏み込んでいた左膝の力だった。

 ジョンの右方へ、身体が傾いでいく。

 同時に柄握る左手を下げ、

 剣身の中ほど握る右手を、すくい上げるように天へ向けた。

 いままでのように斜め下からこちらへ押し込むベクトルではなく。真実、垂直に。真上に向けて斬り上げていく。

 ジョンの左前腕の装甲を肘側から削るように、刃が横から押し込まれた。

 前への踏ん張りしか利かせていなかった身体は、逆らえず右へ崩れていく。

 ずるり。

 ずる、ずり、

 左腕が抜けていく。

 けれどスレイドの目もうつろになってきている。もう脳内で意識保てる時間はわずかなのだ。

 留まれ、と指先の関節機構ロックを解除し臓物をつかみにいくジョン。が、凄まじい勢いで盛り上がる血肉にぬめり滑って空を掻く。止まれ、留まれ、と念じても、意思だけでは現実は動かない。変わらない。

 だぁん、と横倒しになった。

 即座、膝立ちに身を起こす。


 瞬間、

 怖気。


 スレイドの構えは、右肩に担ぐ薪割り(チョップダウン)

 だがちがう。

 先に見せた技とは、ちがう。

 強く根を張るように踏み込みを利かせ、構えた剣の先に――重みが宿ったように(・・・・・・・・・)感じられる(・・・・・)

 一体。

 剣と身が。

 一体となっている。

 ……まさか、と思った。

 すぐさま斬道へ左手を掲げた。

 しりッ、

 と。

 空気が裂ける音がした。

 左腕が。

《銀の腕》が。


 内から弾けるように、前腕部を斜め掛けに切断されていた。


「……ああ、こうするのか」


 ひとりごちて、スレイドはやっと目の焦点をジョンに合わせる。

 つまりほとんど、いまの剣戟のあいだ意識は飛んでいたのだろう。

 死の際に至って――手の内の剣と己の身とを、一体化させたのか。

 左腕は手首から肘近くまで、斜めに落とされている。機関が破壊され、ぼんと蒸気を吐いたきり左腕は動かなくなった。

 斬鉄。

 ここに来てこの男は、その領域にも手をかけるのか。


「……アブスンと話した折……、」


 自分でも成し得た技に実感がないのか、うすぼんやりとした表情で振り下ろした剣を見つめている。


「その工夫を耳にして……以来、ずっと修練を積み、それでも……できなかったんだけどね。なるほど。こう、やるのか……」


 やっと脳に酸素が行き渡ってきたか、再度スレイドは剣を薪割りに構える。

 天へ掲げられた切っ先に、重みが宿っていく。芯の通った背筋からみなぎる力が、剣尖に集中していく。

 もはや、防御の手はなくなった。立ち上がったジョンは距離を空けようとじり、と後ろに右足を滑らせて、ブーツの中で小指の辺りに踏ん張りの利かなさを感じた。

 後ろを振り向く愚は犯さない。けれど周囲の景色から、察するに。

 ジョンは闇へと口を開けた鉄籠ゴンドラ乗り入れ口を、背にしてしまっていた。

 退くこともできない。

 防ぐこともできない。

 いままさにスレイドは、ジョンの命を摘み取る存在として目の前に立って居た。

 血の赤示す瞳が。

 最期のときを告げようと、斬鉄の魔剣で以て迫り来る。

 もう、スレイドから言葉は無い。

 ただ一度の剣戟にて、ジョンを絶命させようとしていた。

 ……どうする。

 どうすればいい。

 残る手は右の《杭打ち》が一発のみ。左腕は切断された。後退も防御も不可能。

 横に躱したところで左腕を失くしたいま連撃には対応できず、返す剣かその次まで息を繋げるに過ぎない。

 ここに来て。

 打つ手が、無くなった。


「――――――――ハ、」


 ……いまさらだ。

 手が無くなるなど。

 そのどうしようもなさを抱えて、今日まで走ってきたのだ。

 この男との決着をつけ、己の悔いを終わらせるためだけに生きてきたのだ。

 ただ振り出しに……戻っただけ。

 ため息をつくほか、ないけれど。

 ジョンは。

 ジョン・スミスは。

 最悪の場合こうなることも織り込み済みで、この場へ残ったのだ。


「…………これまでか」


 斜め掛けに鋭く切られた左前腕を、掲げる。

 曲げた肘を前に突き出すようにして、首と口許を防ぐように。

 左足を大きく踏み込む。

 右手の指先から手首までの関節機構をロック。

『核』を赤熱させる内部機構を起動。

 圧縮蒸気の充填が瞬時に完了。

 右腕を静かに構えたところ、びりりと接続部に痛みが走る。ディアを助けに入ったときからいまこのときまで動かしつづけていたことで、過動限界が近づいていた。

 でも、もう気にしない。

 どうせここまでだ。

 最悪の、最悪。追い込まれた状況。振り下ろされる魔剣は確実にジョンを切り裂くだろう。斜め掛けの斬撃で肩か頭か、どこをやられるか。いずれにせよそれで終わりだ。意識は途絶えるだろう。

 けれど自分だけ終わるつもりもなかった。

 この腕は。この駆動鎧装は。そのためのものであり。

 斬られる最後の一瞬まで意識を切らすことさえなければ――負けはない。


 お前と同じ技に至るのは、癪だがな。


 口には出さず、心の内にだけつぶやいておく。

 すなわち、

 相打ち。

 最初からこうなる可能性も織り込み済みで、ジョンは生きてきた。

 駆動鎧装だからこそ可能な、荒業。

 いつか彼女にこの業について語ったのを、ふと思い出す。


『心臓を貫いても吸血鬼は殺せるが、血の流れが途絶えるまでの数瞬は生きている。駆動鎧装を纏った相手だと、意識さえあれば稼働するためその数瞬で反撃を食らう恐れがあるのだ。頚椎を砕けばその点、身体への指示経路を破壊するから反撃もない』


 ……そういうことだ。

 たとえ斬られて果てるとしても、駆動鎧装ならば意識をトリガーにして最後の稼働を命じてから死ねる。

 掲げた左前腕で頚椎と脊椎への斬道は守った。たとえ斬鉄の魔剣が相手でも、切り裂くまでの過程を寸毫が燃え尽きる時間程度には稼げるはずだ。

 頭を斬られ脳髄を割られるとしても。最後に信号を送るルートさえ〇.一秒でも残っていれば、《杭打ち》は発動される。

 その一撃で狙うのは――頭部脳幹。やはり完全に死留めきるには、そもそも思考能力自体を奪うほかない。

 この身で以て剣を受け、

 入り込んだ間合いで、

 攻撃後というどんな生き物でも避け得ない最後の隙を、突く。

 あの日、腕を失い、この腕を手にしてから考え続けてきた、最終手段。

 ……このためだけに、生きてきたのだ。

 ……このためだけに、ぶざまな生き様を晒してきたのだ。


 息を、吸う。

 吐く。

 もうあと何度呼吸ができるだろう。

 そう思いながら、ジョンは息を、止める。

 奇しくも同じタイミングでスレイドも呼吸をやめた。

 迫る。

 迫る。

 すぐそこまで迫る、死。

 死の時。

 どちらが至るか。

 どちらも至るか。

 そう思っても、まだ来ない。

 まだか。

 まだか。

 まだ。

 まだ。

 まだ――

       ――――時が、

                 滞る。

 瞬、

 斬、

 撃。


 自分の命を奪いに来る魔剣を、ジョンはたしかに見た。

 同時に後ろに置いた右足を踏み出していた。

 剣の下へと己の身を滑り込ませる。

 白刃の下で息を繋ぐ。

 まだ生きている。

 まだ。

 まだ。

 まだ。

 まだ。

 まだ――――――――――――――――――――――――――――

 ――――――――――――――――――――――――――――生き、


 繋ぎ、

 たい。


 …………なぜ。

 ここまで来て。

 このためだけに生きたと思っていたのに。

 この決着を付けられればそれでいいと思ったのに。

 どうしてここで、死の覚悟が消えてしまうのか。

 ああ、それは、些細なきっかけから思い出してしまったせいだ。

 駆動鎧装のこの使い方。

 それを話した相手。

 ……ロコ・トァンに。

 そういえば彼女に、ジョンは言ったのだった。

『お前が終わるとしても。お前がここに居たことは、俺の記憶に留めておこう』

 と。

 未来の約束を。

 したのだった。

 些細な、ひどく、どうでもいいことだけれど。

 けれどどうしようもなく、

 大事なことに感じて。

 ジョンは。

 ジョン・スミスは。

 それを果たさなければならないと、

 そのためにまだ生きねばならないと、

 そう思った。


 ――――――――直感で。

 ――――――右腕の。

 ――――関節機構を。

 ――肘で、ロックする。


「         !」


 互い、声もなく。

 ただ

 結果だけを見る。

 後方への蒸気噴射が、肘関節のロックによって急にフックの軌道に変わる。

 貫手が、

 振り下ろされる魔剣の、

 側面を突いて打ち抜いた。

 大きく逸れる魔剣。

 とはいえこれでジョンは必殺の手段を失った。

 一撃目は逸れたが――二撃目か三撃目か。追撃を仕掛ければそれで殺せると、スレイドはまだ思っている。

 まだ、そう確信した顔をしている。

 その顔が、

 蒸気に撒かれて見えなくなる。

 向こうからも、ジョンの姿は消える。

 つまり、

 ――認識を(・・・)

 不可能とする。



「      か  、     」



 スレイドのうめきが飛ぶ。

 飛ぶ。

 飛ぶ。

 舞い、飛ぶ。

 胴から切り離された首が。

 絶命の吐息をあげて飛ぶ。


 ジョンは。

 肘からの蒸気により現れた白幕に身を隠し、踏み込んだ右足を軸に《杭打ち》の勢いで左に身を回転させた。

 そうして左足で最後の一歩を踏み出しつつ――斜め掛けに切断された左前腕を、蒸気の幕越しにスレイドの首へ横薙ぎに叩きつけたのだ。

 斬鉄の、魔剣……この世で最高峰の剣士であるエルバスやアブスンがたどり着いた極致。それによって切断された複層錬金術式合金の腕。切れ味は、おそらく名剣にも勝る。

 左腕を振り抜いたジョンの前に、首が落ちてくる。

 唇が、言葉にならない言葉を紡ぐ。


「   、   」


 最期に。

 こちらの顔がひきつるようなことを、言った。

 どちゃりと、首が落ちる。

 首を失くした身体が、倒れる。

 スレイド・ドレイクスが。

 名を失った吸血鬼が。

 かつて友だった男が。

 憎きいまの仇敵が。

 ジョンの前で、事切れた。

 言葉に、ならなかった。

 さまざまな思いが去来し、乱れた息と共に胸の内で荒れ狂った。すべてが終わったというのに、終わるまでに考えておくべきだったいろいろなことが、頭の中をめぐりつづける。

 終わった。終わったんだ。終わったのか? 終わらせたのか?

 本当に、これで?

 蒸気過動を起こした右腕で肉が焼けるのも放って、呆然自失のジョンはそこに立ち尽くしていた。

 ……だが状況は、いつまでも立ち止まることを許さない。


 ずずん、と大きく研究所全体が揺れた。


 疲労も相まって足元覚束ないジョンは、揺れに足を取られ体勢が崩れる。

 まずい、と思ったときには背後に開いていた昇降機の乗り入れ口に、身が投げ出されている。

 横の鉄柵に右手を伸ばした。端の一本をなんとか握り込み、ぶら下がる。ぎりぎぃぃ、と嫌な音を響かせながら鉄柵は歪んだ。なんとか右足だけは踏みとどまったが、左半身はすでに暗い縦穴の上に頼りなく揺れている。

 戻らねば、と右腕を稼働させるため足を踏ん張った。

 ところが鉄柵の歪みはジョンがフロアへ戻ろうとするあいだにどんどんひどくなっていき、根本から、ばりんと石板の床を砕いて離れる。踏ん張ろうとしていた右足の力が逃げて、床から落ちた。

 右手の中で鉄柵の一本がぎぎぎぎと滑っていく。終端はすでに床から引っこ抜けて浮いている状態だ。あそこを過ぎれば、もうジョンを支えるものはなにもない。

 真っ暗な穴底で、潰れて死ぬ。

 死ぬ。

 ただ、死ぬ。

 運が無い、死に様。


「く、そ、ぁ、あ、」


 どう握ろうとも滑ってしまう。出力を上げてひしゃげるまで柵をつかもうとするが、無茶な戦闘による過動限界のあとで疑似神経回路にも異常が出ているのか指示を受け付けない。

 あと十センチ。

 終端が、

 手の内で、

 薬指を抜け、

 中指も離れ、

 人差し指と親指だけになり、

 最後、


「……――――ジョンさまッ!!」


 じう、という音と共につかまれた。

 重力に引かれつづけていた身体が止まる。

 右腕の先に、たしかな繋がりを感じる。

 ……見上げれば。

 見慣れた人物がそこに居た。

 いつも、そうだ。

 彼女はジョンの窮地に、なぜかいつも駆けつける。


 ロコが。

 ロコ・トァンが。


 フロアの縁から身を乗り出して、ジョンの右腕をつかんでいた。

 ……素手で。

 左手は前腕を、右手は指先を。

 手を震わせ、肌を真っ赤にして、駆動鎧装の熱に身を焼き焦がしながら握り締めている。


「っ、お嬢……!」

「はや、く……戻って、ください……!」


 言われるが、左腕もない身では己を引き上げることもままならない。

 どうする。

 どうすればいい。

 考えた結果、左前腕を壁に突き立てた。鋭い先端が石壁に沈みこみ、わずかだが支えになる。

 あとは壁面に触れた爪先をわずかな隙間にもぐりこませ、蹴り上げるようにして身を持ち上げる。……こんなにも自分の身体は重かっただろうか、鈍かっただろうかと思うほど、作業は遅々として進まない。

 けれどロコは「慌てないでください」と静かに言い、苦痛の中でも、穏やかな顔をしてみせた。

 やがてロコが懸命に引き上げたことで、なんとかフロアに左腕を突き立てることができる。

 あとは必死になって足を這いあがらせ、スレイドの遺体が転がる傍まで戻る。


「がは、はぁ、はッ……お、おい。お嬢。お嬢ッ!」

「う、ぅぅぅううう……!」


 呼吸が整うのも待たず、ジョンは駆け寄る。

 足を崩して座り込んだロコの震える両手は、直接腕に触れていなかった部位は赤く、それ以外の部位は蝋を垂らしたように血の気が失せて、組織の焼ける臭いが漂っている。指先は曲がったままで震え、汗だくになって瞳に涙を滲ませていた。

 そこまでして。

 苦痛に耐えて。

 ジョンを、助けてくれたのだ。


「お嬢…………お嬢、俺は…………すまない……」


 感謝以上に申し訳なさが先に立つ。

 その手は。その両手は。

 大丈夫なのか。

 元通りに動くのか。

 もし、動かないとしたら。


「あ、ああ、あぁぁああああ、」

「ジョンさま」


 苦悩し、身を引き裂かれそうになっているジョンに、ロコが語り掛けた。

 苦痛に流した汗と、涙で。

 いっぱいになってしまった顔で。

 それでも、

 精一杯の笑顔を見せて。


「生きてて、よかった」

 

 ただそれだけを。

 伝えて。

 ジョンはもう、堪え切れなかった。


        +


 ……二つの命が、並んで帰る。

 地獄の戦場から、揃って帰る。

 半生を賭した復讐は終わり、


 決着の、その先を見る。



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