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悔打ちのジョン・スミス  作者: 留龍隆
血闘

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84/86

83:慈悲と短剣と断頭


 五階でジョンと別れて単独、所内をロコは駆け抜けた。

 計画通りに各所で隔壁が下りたことにより道が塞がれた箇所も多かったが、迂回して確実に先へ。なんらかのトラブルなのか時折研究所全体が震えているが、躊躇うことなく進んでいく。

 そうしてたどり着いた八階。大主教居室の存在する階層。

 マスターパンチカードによってこのフロアへの侵入防止措置も抜けてきた彼女は、すぐに居室ではなく実験室や会議室の並ぶ通路へ向かった。そこから先に、非常階段へ繋がるルートがある。

 警報鳴り響く通路の彼方、煌々と輝く非常灯。この真下にある鉄扉が、脱出の道だ。

 とはいえ隔壁によって八階フロア内の進路を妨害されていること。

 大主教の避難誘導役を潜入工作員が務めて時間稼ぎしていること。

 これら二点で、おそらく大主教の逃走には道を知るロコの到着よりもかなりの時間がかかる。予想ではこの扉を抜けているかどうかと言ったところだ。


「もしすでに逃げていたら、追わなくては――」


 ロコは駆け寄って扉を開け、外をのぞく。びょうと冷たい寒期の風が吹き荒れ、アッシュブロンドの髪が舞い上がった。

 下階に逃げている形跡はあるだろうか……と考えながら彼女が踊場を見やると。

 眼前を過ぎゆく人影があった。

 ロコはその人物がだれなのか判別を試みる。

 眼前を抜けていったのは――尖った赤髪を後方へ伸ばした歳かさの男、クリュウ・ロゼンバッハ。


 ――なぜいま、ここを通っている?


 疑問が浮かび、ばっと彼が下りていった下方を見やる。

 先頭を駆け下りるは白と黒の髪がまだらに入り混じる、剣鬼といった形相の男。あのときジョンから両腕を奪い去った騎士団長エルバス・ペイルだ。

 その後ろには団子になるように四人のよく似た白衣の男たちが歩んでおり、彼らは一名の老人を守り抱えるように進む。守られている対象はモノクルをかけた小柄な老人、ヴィクター・トリビア。


 ――なぜ、この街の重鎮たちが次々に?


 綿密な打ち合わせの予想をはるかに超える事態に、しかしロコは思考を停止せず高速で回転させつづける。上から、来た。ここ八階が最上階なのだからつまり彼らは屋上から来たことになる。そこにはなにがある?

 ……たしか緊急時の機密脱出ルートがあった。最奥実験室に存在する重要物を持ち出すためのルートが、一度屋上に出てから降りるものだったはず……そこを使うような事態があったのか? けれどなんらかの理由で使えず、やむなく非常階段を?

 考えている彼女の前を、さらに影が過ぎる。

 グレージュの髪の先端にオリーブの色味を宿し、目頭とまなじりに切れた痕のある面相。

 スレイド・ドレイクス。

 ジョンの仇敵にして、おそらくは今日の最終実験の対象者であるはずの彼までもがこの非常階段を駆け下りていた。


 なにかが起きている。それは間違いない。

 そして。

 これだけの人物が通り過ぎるということは。


「――――待てっ!」


 ドアを開けて踊り場に飛び出し、ロコは叫ぶと同時に抜剣。

 鞘を払った慈悲の短剣を突きつけ、上から降りてこようとしていた人物を止める。視界の端で、クリュウたちが振り返っていた。

 屋上の階段から降りて来るところだったのは、三名。


 ひとりは純黒のカソックに身を包む、頬のこけた背の高い男。一九〇近い身長には無駄な肉が一切ついておらず、立ち枯れした樹木を思わせる静けさがあった。なにも映っていないような灰色の瞳に刈り上げた白髪、徹底的に無駄を削ぎ落したような男は、ロコの臨戦態勢にもやはり無駄なく最小限の動きで応じる。

 腰に提げていた長さ六十センチほどの錫杖(ショートスタッフ)を片手剣のように中段へ構えた。これは両端と中央部に錫製の金具を取り付けた樫木の杖であり、儀式に用いる道具であるため神聖な場にも持ち込み可能な品だ。


 もうひとりも同じデザインのカソックに身を包み、こちらも上背がある。先の男よりは低く一八〇ほどか。身長では負けているものの体つきはがっしりとしており、剃髪した頭と、太くて肩との境界がわからない首には血管が浮かんで、脂汗でてらてらとしている。

 彼は得物なく、左半身に構えた。ただその手は指先の可動部を残して各所に鱗じみた金属装甲を施された手甲がはめられており、袖口で隠れているもののおそらく前腕外側まで伸びる籠手も装備されているだろう。防具を盾にした体術の使い手だ。


 最後のひとりは――もはや語ることもない。

 サイドのみ伸ばし、うなじを刈り上げた青灰色の髪。真白き法衣アルバに闇を煮詰めたような本心を隠し、銀縁の眼鏡の奥に青金石の瞳をのぞかせる男。

 刻まれた皺のすべてにさえ、柔和さを敷き詰めたような印象を抱かせる面立ち。それでいてなにも思うことなく村を焼く指示を出せる男。

 ヴィタ教ラクア派大主教、イェディン・ガーヴァイス。


「そこで止まりなさい」


 冷たく言い放つロコを前に、三名の教会関係者は足を止めた。

 クリュウたちもこちらを見て動きを止めていたが、大主教が声音で以て彼らをうながす。


「心配はありません。此方こなたは気にせず先へ進んでいて下さい、君よ」


 そう言われてもどうしたものかと一瞬の迷いが見えたが、結局は戦闘力としても頼りにならない自分たちが留まることに意義を感じなかったのだろう。すぐに彼らは無言で階段を降りていく。先頭に、なにやら追う相手がいるようだが……


「さて。まさか再び貴女と相まみえることになるとはね」


 ……いまはこちらの相手を考えるのみだ。

 話しかけられたロコは臨戦態勢を崩すことなく、イェディンら三名と向き合った。カソック姿の武僧兵二名はイェディンを守るようにそれぞれ三段ずつ階段を降りており、ロコの突撃の進路をふさいでいる。

 イェディン自身は、両脚を揃えた立ち姿において若干左右の均衡を欠いている。先日ロコが加えた痛打でへし折った左鎖骨が完治していないようだった。

 つまり挑むべきは――この二名。


「言ったはずです。わたくしはあなたを倒さなくては、前に進めないのだと」

「記憶しておりますとも。ですがそうした宣言というのは、得てして口先だけの者が非常に多い……正直なところを申し上げますと、くして私の前に現れ出でた貴女の姿を認めるまで、もう二度と対峙することはないだろうと考えておりました」


 しかし、と言葉を区切って彼は。

 目の前に立ちふさがったロコの行動を、蛮勇と笑うがごとく武僧兵を差し向ける。


「此度こそ、最後の遭遇となることでしょう。……あのときは周囲に賓客も多かったため死体を出す騒ぎに出来ませんでしたが。今日はそのようなことを案ずる必要は、ないのでね」

「言ってなさい、大主教」


 短剣の切っ先越しに彼をにらみつけ、ロコは右片手中段の常の構えに移行する。

 空いた左手は脇腹の横へ配し。前傾気味の姿勢で、二名の攻め手を絡め取る所存。

 このスタイルを見て、大主教は疑問そうに言う。


「左手に、聖職の禁忌たる刃を持たずとも良いのですか。君よ」

「構いません。――わたくしはアークエの凶手としてでもラクアの内乱としてでも、ましてやローナ・ガーヴァイスという個人としてここにいるのでもありませんから」

「では何者として?」

「……ロコ・トァン」


 きっと大主教には聞き覚えのないであろう名を名乗り、ロコはふうっと静かに息を吐く。

 自分で口にして、その言葉が非常に心地よく身に溶けていくのを感じた。

 在りたい姿。なりたい姿。

 確たる己と認められる像を、やっとロコは手にすることができた。

 だから、もうこの道を踏みしめていける。

 未来を、信じられる、


「あのひとと共にこの街に生きた、第七騎士隊所属の聖職者ロコ・トァン。それがわたくしです。そう在るために……その生き方を、守るために。わたくしには刃は不要です」


 構え、息を吐く。身の内に凝っていた最後の緊張が、それでほどけて消えた。

 たとえこれで、終わるとしても。


「あなたをここで終わらせる。イェディン・ガーヴァイス」

「……大口はそこまでで結構」


 す、と彼が片手を挙げ、法衣がはためく。

 この音をきっかけにして、二名の武僧兵が動く。

 ロコの短剣が閃く。

 身命を賭した戦の、幕が上がる。



 初手は錫杖の男だった。

 上から飛び掛かって得物を振り下ろし、ロコの頭蓋を狙う。相手の左手側へ進み出るようにして躱せば、背後で胸元の高さにあった手すりへ錫杖がぶつかり硬質な音を立てた。

 ロコが踏み込む前に、男は手すりの上へ錫杖を滑らせる。左からの横薙ぎを屈んで回避し、頭上に男の腕が過ぎ去るのを見つつ前進。

 金属製の床面へ左手をついて低い姿勢を維持し、踏み込みによる加重が乗って引くことのできない右爪先へ短剣の刺突を叩き込む。


「――、」


 が、痛みに足を引くことはない。

 男は左の前蹴りを低く這わせロコを狙った。即座に切り返した短剣で横から弾き、相手の姿勢を崩す。空転した男の鳩尾へ、立ち上がる力で左足を前に一歩進めながらの左掌底を叩き込んだ。

 仰向けに落ちる男。その向こうから、籠手を身に帯びた男の方が迫りくる。

 両拳を拳闘の構えに据えて、左右の一発ずつ。横に身を振って躱したロコは錫杖の男を踏みつけにしながら男の左手側へ回り込み、腰だめに構えた短剣で強い刺突を匂わせた。

 わずかに籠手の男が身を硬くしたのを見逃さない。

 前の足に溜めた力を利して、彼女は後ろへ跳んだ。

 距離はさっきの打ち合いの内に確かめている。ふっと一瞬の浮遊感の後……、彼女は背後の手すりに飛び乗っていた。

 地上八階の高さ。まともな神経ならばまずやらないであろう曲芸の選択。

 だからこそ意表を突ける。

 踊り場の床面から手すりまではロコの胸の高さほど離れている。つまりその分の高さは稼いだということだ。

 ロコは細い手すりの上でぎゅきッと靴の摩擦音を鳴らし、屋上へ向かう階段へと一気に身を投げ出す。


「――――ッ!」


 突破された、と焦ったか籠手の男はすぐに身を翻しロコを追おうとした。

 けれどそう来ると読んだところまでが、狙いだった。

 上に向かうと見せかけた彼女は段の垂直面を蹴りつけて、振り向く挙動を省略した反転をおこなう。

 追いかけるためとっさに拳闘の構えが崩れていた男は、反転の勢いを載せたロコの短剣を右こめかみに食らって沈黙した。どざ、と錫杖の男の上に降り落ちる。

 ロコはかかん、と足を下ろしながら屋上への階段を振り返った。


「あっけないですね。これで、終わりですか?」


 上の踊り場に身を退避させていたイェディンに向き合うと、髪を払いつつ言った。

 彼は一瞬のうちに二名が倒されたことへ少々驚いていたようだが、ややあって苦笑を漏らした。


「いやはや仕上がっておりますね……けれど、ええ。まだまだですとも」

「ですか」

「ええ。彼らはこの程度では倒れません――《血盟》所属なのですからね」


 言うが早いか、背後で立ち上がる気配。

 長身の二名がゆらりと、身を起こしてこちらを見つめている。瞳は赤く染まり、土に似た死人の肌の色を示す。

 犬歯を剥いて、再びこちらへ挑もうとしていた。


「……吸血鬼、でしたか」


 にやにやとしながら、二名の吸血鬼はロコを見て舌なめずりする。到底聖職に就く者とは思われないその表情に、加減の必要が存在し得無いことを彼女は悟る。下ろしかけた短剣を、再び彼らに向けた。

 さて、位置において上を取るのは兵法の基本だ。上からの攻め手に、下方からの者は非常に対処しにくい。

 けれどそれは人間相手の話であって、いくら叩こうと再生してしまう吸血鬼相手には話がちがってくる。ましてやロコには向こうとの身長差から生じる圧倒的なリーチ不足があり、位置の高低を利した攻めに威力を載せることもできない。

 よってすぐさま、彼女は階段を駆け上がりはじめた。見ればもう上の踊り場に大主教の姿はない。逃がすものかと、ロコは踏み出す足に力を込めた。

 後ろからは武僧兵二名が追いかけて来る。背の高さは歩幅の広さだ、飛び上がるようにして進むロコに二名は次第、距離を詰めてきた。

 足元を払う錫杖の横薙ぎ、跳躍しての手甲の殴打。

 ロコはこれらを段飛ばしで避け、手すりをつかんで身を引き寄せることで躱し、上を目指す。

 やがて、最後の一歩が屋上を踏んで。


「……これは」


 広い屋上を見やり、ロコは一瞬息をのむ。

 上る間にも断続的に響いていた、研究所全体の震動。その原因を、目のあたりにすることとなった。

 混凝土コンクリート造りの灰色の床にはところどころ亀裂が走り、大きなクラックからは蒸気が噴き出している。這い回る大小さまざまなパイプも斬殺された大蛇がごとくそこかしこで破損し、内部の液や排煙を轟轟と天へ振り撒いていた。


 そしてなにより、このドルナクを象徴していたような、天を衝く巨大階差機関――プロジット二号機の威容が、損なわれつつあった。


 八角柱の形状を成し各角を金の柱で支え面のすべてを強化ガラスで覆われていた階差機関は、いままさに倒れ行く最中だ。傾きはまだわずかだが、たしかに根本の固定基部が沈みつつある。割れたガラスが耀きと甲高い音を辺り一面に広げつつ、バラバラと降っていく。内部で複雑に絡み合っていたクランクシャフトやカラムや歯車機構が、金属特有の軋みをあげて崩れていく。

 計画では、研究所内に混乱を生もうとの企みこそあったものの。さすがにここまで大規模な破壊工作は予定されていなかった。

 まさか研究所の人間たちが追い詰められたからと自爆に移ったわけでもあるまいし、おそらくなんらかの第三者、第三勢力の機関が攻撃を仕掛けたのだろう。

 イェディンは崩壊間際のガラスの尖塔の傍で、こちらを振り返っていた。

 穏やかな表情を絶やすことなく、試すような顔つきでロコを見ている。


「思えば貴女の命運も、このドルナクの吸血鬼出現とプロジット初号機の誤作動(正常稼働)によって翻弄されたものですね……」


 イェディンはつぶやく。

 と同時に、ロコの背後から足音が迫った。

 すぐさまくるりと踵を軸に反転、ロコは左右から攻撃を仕掛けてきた武僧兵に向き合う。

 左方から来る錫杖の振り下ろし。そのスイングは、明らかに先のものより威力が上がっている。

 鋭すぎる音とリーチの伸びは吸血鬼固有の自壊戦法により筋力と腱の限界を超えたことで生じるものだ。

 飛びのいて避ければ、その空間を潰しに籠手の男がステップイン。連ねる拳打に加え、掌底でロコの短剣を払いつつ剣身をつかもうとの戦法を織り交ぜてくる。

 しかしその手の技はジョンとの模擬戦で経験済みだった。

 冷静に切っ先でつかむ手を弾き、右の短剣を振るった勢いに載せた左の《鉄槌》で眼前にかざされた相手の右腕を打ち落とす。

 伸びきった右腕に引っ張られるよう、体勢が前のめりに崩れた。

 瞬間、右手の短剣を手放し相手の右手首を外側から取る。

 同時に腰を落とし、左肘を地に向けた状態で――腰を切り、左前腕を相手の肘関節へ向けて叩き込む。めしりと音がして逆方向へ関節がへし折れた。

 その痛みから逃れようとする反射で籠手の男の身がすくみ、縮こまり、腹部が屈曲・姿勢が前傾する。

 差し出された首へと、ロコは跳躍しながら飛びついた。


「ぐむぉッ、」

「さよなら」


 うなじから左頸動脈へと巻き付けるように、外側から右腕を絡め腋下に首を固定。左手で右手首をしっかりホールドし、一気に身体を右へとねじり切る。

《首枷》。

 ごりんと腋下で頚椎をひねり折る音がして、ロコが着地すると同時に籠手の男は地べたを嘗めた。とどめは刺していないがこれで無力化は済んでいる。

 そこで残る一名が、再び錫杖を振るう。

 無手になったロコめがけ、長いリーチを生かし縦横無尽に高速の連撃を放った。

 関節外しも混ぜた剣筋は間合いが異常に広く、回避には大きな後退を余儀なくされた。痛みをこらえつつの杖の連撃とロコの見切り、どちらが先に尽きるか――


 そんな勝負に付き合うつもりは、ロコの方には一切なかった。


 関節外しもガルデンとの戦いの際に見ている。それはどうしても力みを要する都合上、予備動作はむしろ普通のスイングよりわかりやすいのだ。あのときは駆動鎧装との組み合わせでタイミングがつかみづらかった、というだけで。

 また足腰からの力の伝達を用いず、『スイングを自壊による腕の筋力限界突破で威力上げする』技法も、呼吸が読めればどうとでもなる。静かな深い呼吸と身体運用の一致から繰り出される全身運動でなく、手先腕先だけ動かす技はどうしても浅い呼吸で済ませがちだからだ。

 所詮、小手先。

 繋ぎの荒い技の切れ目を計り間合いに滑り込むなど、造作もない。

 横薙ぎに右から左へ振り抜かれた錫杖が戻ってくる前に、ロコは杖の円運動の根元に潜り込み両手を男の右腕に添えた。

 引き込む動きで崩し、己の身体で男の長い腕を巻き取るように回転し、

 背後からの銃撃(・・・・・・・)を男の身体で防いだ(・・・・・・・・・)

 がふ、と血を吐き出す音がして男の力が抜ける。これを好機と、ロコは男の右膝裏に左ふくらはぎを絡め、股下の急所に右膝で痛撃を加えながら頭突きで顎を穿ち、意識を奪い去った。

 倒れ伏した男の向こうに、蒸気噴き上げる銃口を掲げた大主教がいた。


「……おや、怪我の完治は露見しておりましたか」

「いえ、鎖骨は治り切っていないのだと思ってましたよ」


 法衣の左袖に隠していた杭弾銃をこちらへ向け、悪びれることもないイェディンに対しロコは言った。


「けれどあなたのことです、必ず戦闘中にわたくしの隙を狙って乱入すると確信していました。右手は動くのですから、短剣くらいは握れるでしょうし」


 だから最初から注意を切らしていなかった。

 背を向けて戦いながらも、物音や気配の変化でこちらを襲ってくる瞬間を捉えるべく感覚器はイェディンに向けて総動員していた。それだけのこと。

 ロコは倒れた二名の吸血鬼を捨て置き、先ほど落とした慈悲の短剣を拾う。

 切っ先を向けて。

《聖者の御技》における右半身中段、前傾の姿勢で構えて対峙した。


「もう盾にも囮にもなるものはありませんよ。身一つで、どうぞ」

「おや、おや……ままならないものです」


 うめくように言いつつイェディンは右手に慈悲の短剣を抜き、左手に構えていた杭弾銃を捨てた。姿勢の左右均衡が崩れていたのはすぐに直り、怪我の完治が事実だとわかった。

 互いの距離は五メートルほど。

 どちらともなく右手側へ一歩を踏み出しはじめ、円を描くように歩いた。径を少しずつ狭めて、彼我の間合いの内へ閉じてゆく。

 円は螺旋となり絡み合った。

 ずん、とプロジットの砕け散る音が響く。身の内を揺らす。

 けれど心は平静で、どこまでも凪いでいた。

 ただ、終わりを予感して。

 ひたすら、集中して。

 もう手の内はわかりきった相手との、最後の一合が迫る。


「しかし……解せませんね。ここまで来て、私を殺して。如何成どうなります?」

「殺した場合、ですか。とりあえずはわたくしの気が済んで、代わりに世の中に波乱が起きますね。人々はラクア派についてなにかしら灰色の部分があると認識し、落胤などという醜聞のあったあなたとその周りは首が挿げ替えられるのでしょう」


 動揺させるつもりか向けられた会話に、ロコは淡々と答えた。

 イェディンはさして気にしたふうでもなく。にこやかな笑みを湛えたままに歩みつづける。


「正答でございます、君よ。そう、大局は変わらない。依然としてこの国とこの街は此れまで通りに動くのです。役割務める者に欠員があれば別の者が務め、大筋は変わることなどない」

「……あなたは宗教とは役割与える舞台装置、と言いましたね」


 大主教としての物言いに、ロコは一言さしはさむ。彼は受けて、ちいさくうなずいた。


「ええ、言いましたとも。君よ」

「ならば誰しもその舞台装置システムの求めに従って動くが当然、と?」

「左様です。――寄る辺なき人々の命綱であり、悪事成した者への罰であり、希望を生み出す泉であり、そしてそれらに拠って社会を導く一助。国を回す機構の一部(・・・・・・・・・)。それが宗教であり、ヴィタの救いを最大多数の人間へ届けるための道筋なのですから」

「ではそのトップにいるあなたもシステムの求めに従うのですね」

「故にこそ、私は此処にいるのでしょう」


 周囲とシステムの求めに応じてこの地位にいると。

 そうのたまい、イェディンは剣先を揺らめかせる。

 ロコは。

 天上の神を信じない女は。

 この物言いを肚の内に呑み込んで、イェディンにつぶやいた。


「その言葉、もう撤回はさせませんよ」


 二人の歩法が描いた螺旋が収束する。

 短剣の切っ先がこすれあう際の際まで至る。


「我が言の葉は人民を救うため天より与えられしもの。返すことなど、最初から想定しておりませんとも」


 二人の命がかけられる。

 剣の切っ先、二センチの部分で剣身の側面同士が触れ合う。

 両者は動きを止めた。

 ……手の内は、互い知り尽くしている。

 ならばあとは読みの深さがそのまま決着に繋がる。

 相手の思考を、志向を。人生の軌跡を、奇跡を。どう感じ取りどう返すか。

 触れた切っ先から肌に伝わる微細な揺れ、腕の位置認識が察する力をどうするか。

 歩法で描いた螺旋が収束し点となり、ひとつに交わり融けたこの一合。

 二個の人間でなく一個のまとまりとして場に顕れた二人の、

 命運でさえひとつのものとなっている二人の、

 間にあるものすべてを取り払い、

 彼女は。

 ロコは。

 剣先を……――自ら引いた。

 途端、剣筋がうねりを帯びる。

 しかしロコが自らかけたうねりではなかった。

 イェディンから生じたうねりを、自ら引き込むよう螺旋の動きでいなしただけ。

 そのとき彼の表情に微笑み以外のなにかが混じる。

 法衣の左袖から、閃き飛来するものがある。

 視界が血で赤く染まった。

 なにも見えない。

 けれど。

 剣先にかかる重みだけは、たしかに感じつづけている。

 目の前にいる男がどういう歩みで生を為し、どういうものを背負い、どういう取捨選択でここまで来てこの剣を振るっているのかが――そこからなんとなく、想像できた。

 おそらくはその取捨選択で彼が捨てたものこそ、自分にとっては大事なものなのだと。そう認識できた。

 それこそがロコ・トァンをかたちづくるものであり。

 目の前にいる男との、決定的なちがいなのだと。

 だから。

 受け、

 流し、

 螺旋の流れに乗ってロコは剣をイェディンの右腕に沿わせ、突っ込んだ。

 見えなくとも触れている箇所から、全身の動きを割り出したのだ。

 短剣を、腕の上へ地と水平を保ったまま右肩まで滑り抜く。

 手首を返して掌側を天に向け、剣身を首裏に宛がう。

 同時にイェディンの左肩の上へと左手を伸ばす。

 首裏から突き出た剣身の先端をつかんだ。

 交差させて固定した両腕の力で。

 身を強く引き寄せ、

 顔を潰す頭突き。

 ――《断頭だんとう》。


「っ、 ぶぐ、 ぁッ、」


 鼻がひしゃげた声をあげ、ごぼりと息を吐き切り倒れ行くイェディン。

 剣から左手を離し、距離を空けるロコ。

 膝をつき、荒い息で酸素を取り込む。ほんの一瞬の立ち合いに、気力も集中力もすべて使い切っていた。血流の音が耳に痛い。

 どっ、どっ、どぅ、と鼓膜に響きつづける自らの心拍示す血流の音。

 生きていることを、実感する。

 終わらなかったことを、知る。

 ……やがて落ち着き。

 ひたすらな静寂。

 そのあとに残ったのは、

 確かな手ごたえ(・・・・)と、真っ赤に塞がったままの視界。


「……う、はっ、あぁ」


 うめくロコはごそごそと懐を探り、聖水のボトルを出すと目を洗った。

 視界の赤色が取り払われると、自分の足元に剃刀を思わせる刃が落ちていることと、右眉のあたりに鋭い痛みが走ることに気づいた。あの閃きは発条仕掛けで袖内から放つ、暗器かなにかだったのだろう。

 そして。

 眼前には、イェディン・ガーヴァイスがいた。

 彼は仰向けに倒れ伏したまま、震える顔でロコを見上げる。

 微笑みはすでになく。

 どこか、おそれと憎悪と惑いと……あとは、わからない。とにかく複雑に、さまざまな感情が渦巻いた表情を成していた。

 ロコは。

 彼を見下ろしながら。

 短剣を、静かに鞘に納めた。


「かっ……身体、が……腕、が、足、も……!」


 イェディンが震える声で、蚊の鳴くような声で、言う。


「……動かないでしょうね」


 平坦な声音でイェディンに告げて、それが己の技だったのだと伝える。

 ――《断頭》。

 鉄枷付きとの修練でも彼に向けて予備動作までは仕掛けた、殺し技のひとつだ。

 けれどこの技は確実な死を与える以上に……頚椎への攻撃による、ほかの使い方がある。


「呼吸器などの生命活動には支障が出ないよう、手足を司る頚椎を砕きました」

「私を、こ、殺す、の、では、なかったの、ですか……」

「倒さなければ進めないとは言いましたが殺すとは言っていませんよ、今日は。そしてあなたは……もう二度と前には、進めない」


 ロコが言葉を切って、沈黙が場を満たす。

 けれどどれほど時間をかけても、どれほど歯を食いしばっても、イェディンの身体が動くことは、もうなかった。

 これを見て取ってようやく、彼女は短剣の柄から手を離す。


「それでもシステムの上で、あなたは生きている。あらゆる面、あらゆる点でラクアの動きは鈍りさまざまなことが滞るでしょうが、まさか大主教を殺すわけにもいきません。……その身で、求められる限り、システムの中に居続ければいい」


 殺しても首が挿げ替えられるだけだというのなら、システムそのものを遅滞させる。

 それがロコの考えた『大主教を倒す』ということだった。

 あのときは――ジョンに見られてしまったときは、怒りと憎悪に任せてただイェディン個人に恨みをぶつけようとしていたが。


「失脚し、醜聞を明かされ、なおその舞台装置システムの上で生きつづけなさい」


 大主教、という役割ごと含めて宗教への復讐を果たすには、これが最善だと思った。

 宗教への憎悪が、どうやっても消えない以上。ロコにはこうするよりほかになかった。

 ……イェディンは、自由を奪われた男は。

 視線だけで彼女に言う。

 命じるように。

 懇願するように。

 必死に、言う。


「……こ……殺、せ……」

「ご冗談を」


 言いつつ、ロコは踵を返す。

 イェディンから遠ざかる。

 己の運命のくびきから、離れていく。


「わたくしは、慈悲の短剣しか持っていませんので――あなたにかける慈悲は、ない」


 ロコは歩き、吸血鬼二名へ止めと再銑礼をおこなう。

 それからイェディンの身を引きずって、滅びゆく場をあとにする。

 この広い世界の、終着点で。

 やっと終えたという、空虚な気持ちを、味わった。



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