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悔打ちのジョン・スミス  作者: 留龍隆
血闘

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82/86

81:ふたりの戦いとひとりの戦いと研究所の崩壊


 可動重心機を使わないことで生じるひどい縦揺れの中。

 ゴブレットは履帯の動作グリップを握り締め、半分だけ押し上げた。蜘蛛のごとき多脚がたわみ屈んだ体勢となり、履帯が空回りをはじめる。


「なっにやってンだゴブレット?!」

「黙っていてくれ! 舌を噛むぞ!」


 ブルケットの叫びに返しつつゴブレットはギアを上げていき、同時に多脚の踏み込み幅シフトレバーを上限いっぱいまで動かした。

 一歩ごと振り出す脚が遠くへ叩き込まれるようになり、それはつまり人間でいえば大股で動いているようなものだ。一歩のモーションが遅くなる代わり、大きく移動する。

 同時に。

 この動きは、車体が低く沈むことを意味する。

 履帯走行と多脚走行を同時に稼働させた状態でのそれは――可動重心機で上下動のブレを殺していないことにより予期せぬ結果を生む。

 縦揺れが、履帯を接地させるのだ。

 大股の一歩を叩き込んだ直後に履帯が路面を噛み、ギャルンと前に車体を送り出す。


「ぐ、おっ、」


 この無茶な機動で生じる車内の人間への衝撃ときたらとんでもないもので、下手したら尾てい骨が割れるのではないかとさえ思った。

 ……けれど。

 速い。

 履帯が地面を蹴り、先に前方へ打ち込んでいた脚が引き寄せる働きをする。その間にほかの脚がまた前に出て、履帯が地面を噛み――恐ろしいほどの速度を実現させていた。

 だが真に恐るべきは、この土壇場でこんな運用を思いついたゴブレットだろう。

 ともあれこれでなんとか《一番槍》を引き離したジョンたちの戦車は、迎賓館の表口へたどり着く。すぐさま停車し、下部のハッチを開いた。


「行け、ジョン! ロコ君!」

「ゴブレット、ブルケット! お前たちは、」

「あ、足止めやんなきゃ、ならねェわ。でなきゃ小回りが利く《一番槍あれ》は地下までお前らを追いかねねェ」

「だそうだ!」


 少し酔い気味なのか口許を押さえたブルケットが言い、ゴブレットがうなずく。

 考えている余裕はない。ジョンとロコは目配せして、ハッチから飛び降りて迎賓館入口を見やる。


「頼むぞ」

「生きていてください!」


 声をかけ、走り出す。

 一度だけジョンたちが振り返ると――住宅街の隙間から、全高で二メートル半はあろうかという黑鐵くろがねの影が飛び出す。

 古き時代の甲冑を思わせるが、兜を模した頭部周りが巨大な肩部に沈み込むように一体化している。胸周りは鋭角かつ分厚いフォルムで搭乗者を守るつくりだ。腕部も脚部も丸太のように膨れており、関節部も装甲に覆われた崩しにくい形態を生み出す。

 両肩と背面及び脚部から蒸気を噴き上げている。自身が《銀の腕》を使ってきた経験則から、あれほどの蒸気を噴いている状態はすでに相当な高温になっていることが想像された。

 内部は焦熱の地獄だろう。ブルケットの話通りなら、あそこに乗り込んでいるのは死ぬことすらできない吸血鬼なのだ。

 ――《一番槍》は搭乗者の苦しみに耐えかねた咆哮のように激しく轟く蒸気排出を成し、白い帯をたなびかせるように多脚型蒸砲戦車に向けて走り込んできた。

 素早く向き直った戦車が、身を沈ませて脚を振り上げる。けれどそのときジョンは見た。

 一体目の《一番槍》が出てきた地点にさらに三体の同型機が、姿を現しているのを。


「ゴブレット……!」

「前を向いてジョンさま! わたくしたちは、行かなくては!」


 迎賓館に駆け込み、後ろでロコが扉を閉める。

 途端、鋼の騒音が奏でられた。

 打ち合う音、

 砕ける音、

 削り合う音、

 刻みつける音。

 近距離での格闘戦開始が軋む金属音で察せられ、それは迎賓館内を突っ切った二人が裏手の貯水槽に降りる間もつづいていた。

 けれど音が聞こえるということは戦っているということ、生きているということでもある。

 無事でいてくれと。

 ただそれだけを祈りながら、ジョンたちは地下を進んだ。


 目指す先はDC研究所地下階層。

 そこからは内部でマスターパンチカードを入手、大主教居室を目指し、中途でジョンはディアの居室へと別れる。

 助け出せれば、あとは離脱だ。険難の道を鉄枷付きたちが攻めたことでそちらへの警備が厚くなり、研究所周りが手薄になる。

 この隙を見計らい、脱出のため待機している班と合流して変装、警備兵の一部に紛れ込んで険難の道へ。あとは鉄枷付きが印付きの車輌を転がしてくるため、蒸気裂弾がはじけることなく停車したそれに乗り込んで後退、逃げのびる。

 その後ディアは否戦派が都にて有利になるよう、肯戦派や果学研究学会がDCに指示していた証言や証拠提示を求められるが、代わりに身柄の安全が確保される。

 やり遂げねばならない。


「急ぐぞ」

「はい!」


 走りつづけ、地下水路の分岐を記憶のまま次々に進む。複雑に曲がりくねり幅細い道や天井低い道も過ぎ抜け、ひたすらに研究所地下階層を目指す。

 道中にはもちろん、人影がある。

 棍など構えた警備兵や、剣携えた騎士隊員、あるいはそれら一般人と異なる雰囲気持つ者――《血盟》の吸血鬼。

 そのすべてを、バレないようにやり過ごすことはできなかった。悠長に動くにはあまりにも時間が足りない。

 故に二人は、それが最短だと思えたなら。

 言葉もなく瞬時に互い連携に入り、最速の手順で相手を打倒した。


「……っ! し、侵入者っ、」

「貴様らァ!!」


 水路を右手に臨む道の上、前方に見えた二人組の警官が、それぞれ一メートル半といった長さの得物――先端部に衣服絡め取る鉤を備えた『捕物棒ツイスト』を構える。

 縦一列。狭い道幅故に相手は縦列になっているが、ジョンたちを視認した瞬間わずかに左右にばらけた。おまけに構えが前後それぞれで左半身、右半身に取っている。

 得物を突き出した際に相棒に当てにくいようにするための配慮だ。二人組、狭い場での戦いに慣れているのだ。

 ならばと、先行して走っていたジョンは相手と接敵する直前に、上体を屈めた。


「お嬢!」

「お背中借りますっ!」


 ジョンの臀部と背中を踏みつけ駆け上がるように、ロコが空を舞う。

 蹴り倒されたようなかたちでジョンは低く低く地面に身を落とし、結果それは前に居た警官の捕物棒による突きを回避させた。

 身をひねって受け身を取り、右肩から接地。

 ごろんと横に一回転し、懐にもぐりこむ。

 そのまま、左半身に構えて前に出ていた警官の左膝裏に、己の左ふくらはぎを差し込んだ。

 横に寝転んだ姿勢のまま右爪先で素早く鳩尾を蹴りつける。急所への一撃だったことと膝裏を押さえられていたこととで、警官はバランスを崩した。


「すまんな」


 右足から着地して相手に背を向けるように上体起こしたジョンは、そのまま左の後ろ蹴りに繋げて警官を突き押した。どぼん、と水路に落ちる音がする。

 振り返ると、ロコの方も終えていた。襟と棒の中ほどをつかんだ状態で、足払いでも仕掛けたのか男を背中から地面に叩きつけている。ずしん、と鈍い音が響いた。

 音に気付いたか、道の先でランタンの光が揺れる。


「ジョンさま、先行を」

「ああ」


 姿を認められる前に他の道へ移動する。

 それでも遭遇する相手は、次々に倒して進んだ。

 時にロコが前に出て――崩した相手をジョンが仕留め。

 時にジョンが先制し――固まった相手をロコが打倒し。

 同じ方向を見て走っている都合上、目配せすることすらなく。

 互いに「ここに来る」「ここで来る」と思った位置を相手が埋めてくれる。

 ほかのだれでもなく。ジョンにとってはロコだから、ロコにとってはジョンだから。

 その場所を、空けられる。

 信頼できる。


「――くっ、そぉぉあああああ!!」


 予定した経路も残りわずかなところで、道を守っていた男の絶叫に遭う。

 赤く濁る瞳。土気色に染まる肌。

 吸血鬼の男が、ロコの投げた短剣で左腕を穿たれ動きを崩しながらも右手の杭弾銃を向けてくる。

 三銃身トライバレル。駆け込むジョンへ、三連発が迫る。

 引き金と男の踏み込みを注視し、狙い定めるため動き止まる瞬間をジョンは冷静に見据えた。

 一発。

 右にスライドして回避。

 二発。

 足を交差させるように前に出しその場でターンして回避。

 三発。

 ターンと同時、振り向きざまの遠心力で横薙ぎにした《銀の腕》が弾丸を逸らす。


「……なんだこれ、悪夢か?」

「現実を見ろ」


 弾切れになった吸血鬼の前に飛び込み、右の中段回し蹴り。

 防ごうと、男は左肘を脇腹に付けてブロック。

 だがジョンは曲げた膝を伸ばし切る前に、相手に背を向けるよう腰をひねりこみ、上体を地と水平にまで倒す。吸血鬼の防御を躱した。

 天を向いたかかとが、膝から先を伸ばし引き戻す動きで真下から顎を打ち抜く。

 脳を揺らされ思考ができなくなれば吸血鬼でも関係ない。


「が、ぁ、」

「夢が見たければ、眠れ」


 蹴り飛ばして仰向けに倒した吸血鬼の頚椎を、踏み砕く。

 同時、追いついてきたロコが左腕から引き抜いた短剣を逆手に持ち、心臓を貫く。

 かっ、と目を見開いたが抵抗できるはずもなく、そのまま吸血鬼は二度目の死を迎えた。

 ロコは短剣の血をぬぐうと、見開いたままの吸血鬼のまぶたをそっと下ろし、両手を胸の上に組ませた。


「再銑礼などはしている時間がないので。……ごめんなさい」


 両手を組んで祈りだけ捧げ、ロコはジョンと共に進む。

 こんなときでさえ、わずかなこととはいえ相手を慮る。

 その在り方はたとえ宗派がなんであろうと彼女に信仰がなかろうと、敬虔な態度なのだ、とジョンは思った。



 ……そして二人は、道の果てへ着いた。

 水路沿いの狭い道から一転、開けた空間である。天井もそれなりに高い。

 研究所地下階層の、エレベーターホールだった。

 石造りの空間は足音が反響し、左手には鉄柵が並んでいる。三つの乗り込み口があって、いまは階数表示計も動いていない。耳を澄ますと上の方からジリリリリ、と騒がしいベルが鳴っているのが遠く遠く聞こえた。


「すでに計画は始まっているな」

「いま、六時四〇分です」


 懐中時計で時刻を確かめながら、ロコは言う。潜伏工作員が火災の非常時セーフティを作動させて十分が経過していた。

 ジョンは昇降機の乗り込み口に近づき、ロコに顎でしゃくって指示した。


「あったぞ」

「ですか」


 ロコが力を込めて鉄柵を左右にこじ開けると、昇降機の鉄籠の中に貼り付けてあったものを手に入れる。

 マスターパンチカードだった。これがあればセーフティで隔壁の降りた箇所や大主教居室と言った通常入りにくい場所へも侵入できる。

 あとは、上を目指すだけ。


「階段はこの先だ。この内部階段は二階まで移動できるのだったな」

「ええ。三階から先への移動は、フロア内を経由してまた別の階段を使わなくてはですけど」


 そしてロコの目的地である八階へは、また別の内部階段か外付けの非常階段を用いる必要がある。

 五階で、ジョンとは別れるかたちだ。

 今生の別れとなるのかもしれない。


「急ぎましょう」

「……ああ」


 だとしても止まらない。

 二人の歩みは加速し、運命の決着へと迫っていた。


        +


 六時十五分。

 最終実験への立ち合いに、ディアも招かれていた。おそらくはもう引き返せないところにいると、彼女に知らしめる意味が含まれる。

 白衣をまとい、冷えるからと膝にブランケットをかけ。四日ぶりに彼女は室外へ出た。

 近づいてきた研究員の男二名によって車椅子を押され、八階の最奥にある機密研究実験室へゆっくりと動き出す。

 背後の研究員たちは「なんか今日は騒々しいな」「外で下の馬鹿どもが騒いでるらしい、険難の道でも昇降機でもえらい様子だとか」「面倒だな」と世間話などしていた。

 ぎいぎいと車輪は回り、上へ向かうためのエレベーターホールへ。ここから七階へ移動し、フロア内を移動した先で階段を上がって、実験室へたどり着く。無法者による占拠などを恐れての構造複雑化だが、移動に不自由するディアからすれば厄介この上ない。

 と、鉄籠が来るのを待つ間に。

 ディアは少し気まずそうに、うつむいてみせた。


「……あの」

「なんだ、エドワーズ」


 ぶっきらぼうに反応したのは車椅子を押していた方の研究員だった。

 彼を振り返り、申し訳なさそうに言う。


「少し、冷えたみたいで。……手洗いに連れて行ってもらいたいんだけど」


 研究員二名は顔を見合わせた。嘆息し、「自室で済ませとけよ……」と言いながらもトイレ方面に進路を戻す。ホールから出て少し進んだところに女性用があった。


「どうせ窓もねえし、逃げられはしないだろうけど。変な気、起こすなよ」

「大丈夫、いまそんなこと考えてる余裕ないから」


 軽口を叩きながら押され、そしてトイレの中へ。

 個室に入り――ディアは扉に鍵をかける。

 すぐさま、膝にかけていたブランケットをはぎ取った。



 ……五分ほどしたところで、ディアは鍵を開ける。

 扉を開け放ち、乗ってきた車椅子を――強く押して、個室の外へ追いやった。

 きいきいきき、と車輪が回転して前に進み、壁にぶつかってがしゃんと音を立てる。

 すぐに研究員の男が踏み込んでくる足音がした。


「なんだおい、エドワーズお前なにを、」


 言いつつ、半開きになっていた扉に手をかけ、開く。

 からっぽの個室に、男の顔がおそらくは驚愕に染まったことだろう。

 だがそれをディアに確認する術はない。

 入ったふりをした個室の隣から出て来て、背後に立ち(・・・・・)

 手にしていたあるもの(・・・・)と持ち替えて振り上げたスパナで、男の頭部を殴りつけていたからだ。

 男が倒れたら、そのままにした。個室から両足だけがのぞいている状態である。

 次いでディアはスパナとあるもの(・・・・)を持ち替え、歩いて(・・・)トイレの入り口脇まで移動するとそこに潜み、もう一本持ってきたスパナを鏡に投げつけた。

 粉々に割れ砕け散る音に、もうひとりの男が血相変えて飛び込んでくる。そして視線は鏡、奥の個室から伸びる男の足、と順に発見し――そこで暗転。視線誘導で自分のいる方向から意識を逸らしてもらったディアが、再びスパナで真横から強襲した。

 足下へ昏倒する男。

 彼を見下ろしながら、ディアははぁぁ、と人生で初めての他人への暴力に痛む胸を押さえた。

 床にひっくり返った彼の視線の先には、ディアの膝から伸びる脚部(・・)がある。


「……よし、これで私はしばらくの間、研究所内を自由に動ける」


 言いつつ彼女はスパナをしまい、ポケットに納めていたあるもの――銃把に似たコントローラをつかむと、車椅子に駆け寄った(・・・・・)

 きしきしと軽い音を立てて動く細身のシルエットは《羽根足スティルツ》。その関節部分には黒いコードが伸びており、彼女が両手に握るコントローラと繋がっていた。

 つまりは、生まれつき膝から先を持たずその部位へ送る信号を持たない彼女は。

 疑似神経回路で繋いだコントローラからの信号で、ブランケットに隠し持ってきて装着した駆動鎧装に、指示を与えていたのだ。

 とはいえそれでは通常「動かせるだけ」であり、二足歩行の複雑な重心移動はフォローできない。歩き回れるようになるまでは、動く足に乗った己の均衡を保つという『道具に人間が合わせる訓練』を長期にわたって積む必要がある。実際、脚部型駆動鎧装は二か月から三ヶ月ほど『慣らし』が必要とのデータもあるくらいだ。


 ……が、ことをこの《羽根足》に限って言えば、その問題もクリアーできる。

 自動重心制御オートバランサー

 アルマニヤが駆動鎧装修理・歩行訓練といったサービスを元にして本体にかかる負担がどこに集中するかなどを研究したことで生まれた、『道具が人間に合わせる』システム。これが動作補助を成し、歩き出せば勝手に重心を補正してくれる。

 ディアでも、歩くことが可能となるのだ。


「いまのうちに、逃げなきゃ」


 おそらくジョンは自分を助けに来る。なによりも果たしたい目的であるはずの復讐より、自分の救出を優先する。

 それは、きっと。直面したなら、心の底からうれしいことだ。

 けれど同時に、自分自身への嫌悪が加速し、己を許せなくなることだ。

 ――どちらかだけがしあわせになるなど、ありえない。

 ジョンとディアはそのように在れ、と互いを縛っている。

 なんということはない。結びつきが強すぎるから……同じ過去に囚われているから、幸福も不幸も共に分かち合うしかないのだ。

 だから彼の足枷になるわけにはいかない。

 彼が本懐を遂げられるよう、邪魔にならない動きをせねばならない。


 車椅子の下部に仕込んだ荷物入れから、ディアは着替えを取り出す。オーバーオールを穿いて《羽根足》の足先には作業ブーツを履かせ、掃除夫然としたジャケットを着こんで頭には大きめのキャスケットをかぶる。目立つ金の三つ編みも、押し込んでキャスケットに納めた。

 不自然に見えないようジャケットのポケットの中にコントローラを入れて、手を突っ込み操作する。小脇にトイレの掃除用モップを挟み込み、清掃で出入りしている人間を装った。

 急ぎエレベーターホールに戻ってボタンを押す。

 早く鉄籠がやってくるのを祈りながら、そわそわと待ちつづけ――けれど、階数表示計が振れていなかったことに気づく。よく耳をすませば、普段は絶えず響き渡っている上昇・下降の風切り音もしない。落下防止の鉄柵の向こうでは、ワイヤーが微動だにしていなかった。


「……もしかして、止まってる?」


 疑問を口にした途端に、

 ジリリリリリリリと巨大な警戒ベルの音が鳴ってびくりと身をすくめる。

 緊急時に鳴る代物だ。この音だと、テロなどではない。火災などを知らせるためのベルである。


「こんなときに……!」


 この場合、昇降機エレベータはもう使えない。徒歩で階段を降りる必要がある。

 フロアの方に戻って廊下を走り、階段へと迫る。生まれてはじめて脚で走る感覚は、不安定さはもちろん視線の高さも相まって、非常にこわかった。

 それでも前を向くしかない。

 無機質な白い廊下を駆け抜ければ、灰色の混凝土コンクリート打ちっぱなしの階段へ出る。たしかそこからは三階まで降りることができた。三階からはまたフロア内を迂回した先の階段を利用する必要があり、降りた先の二階がジョンともよく顔を合わせた応接室およびその向こうに通用口が広がる、出口だ。

 しかし階段は大混雑していた。ゆっくりとした流れで、上からの研究員たちが降りてきている。なぜここにこれほど集中しているのか、と思っていると「なんで隔壁が降りてんだ」「あきらかに火の元が無いとこも閉鎖するって、誤作動か?」などと原因を話しているのが聞こえた。防火隔壁の誤作動で、避難ルートが絞られているのだ。

 ここに混ざることはあまりにも危険である。横にいる人間と顔が近く、少し通り過ぎるだけではないので顔を確認されて正体がバレかねない。研究所外へ逃げようとすれば咎められてしまうだろう。

 こちらの経路はダメだ、ときびすを返すディア。ほかに考えられるのは……外付けの非常階段か。いま降りようとしていた階段はどのフロアにおいても研究員に割り当てられた個人研究室――ディアもそうだがそこで寝泊まりしている人間は多い――に近いため、このような混雑ぶりだったが。非常階段の方は会議室や上方の研究施設、プロジット二号機のある屋上へ繋がっている。

 この早朝の時間帯であれば使っている者は多くない。かなり大回りにはなるが、そこから逃げるのが人気を避けるにはちょうどいいだろう。


「最奥実験室は、たしか機密を逃がすための専用ルートがあったはずだし……」


 クリュウやヴィクターその他、上で実験を行っていた連中と鉢合わせする可能性は考えにくい。六時半に実験がおこなわれるなら、まだ終わった直後のはずなのだから。

 懐中時計を取り出して確認すれば、時刻は六時四二分。急ぎ、ディアは駆け出す。

 だが、そのとき。

 降りかかるような莫大な音の負荷に、身がすくみ止まる。

 揺れに襲われ、足がとられる。床の上に転んだが、その床面すらびりびりと振動していた。


「な、なに……?」


 たぶん、上からだ。降り落ちる細かい埃やチリに、ディアは頭上を見つめる。

 ぶら下がる明かりの電灯がゆらゆらとしている。

 ズンッ、と巨人に建物自体を踏みしめられているような、そんな音が貫いた。揺れは収まることはなく、常に全身を震わせる。床に振れている手がしびれを催しそうで、建物がわずかずつ傾いてきているような錯覚を抱く。

 動悸が激しくなり、床から伝わってきたものではなく自らの身の内から、震えた。

 なにか破滅的なことが起きている予感がする。


「う……でも、行かなきゃ……」


 よろめきながら立ち上がり、コントローラ握る手を壁につきながら歩きはじめる。

 さすがの自動重心制御もこういった事態にはうまく働かない。一歩一歩。遅々とした歩みで、非常階段を目指す。

 ビ―――――――――ッ、と別のベルが鳴りはじめた。テロなど、非常時を伝えるベルだ。

 一体なにが起きているのか。まるでわからず、ディアのちいさな胸中は困惑と不安でいっぱいだった。

 見慣れたはずの研究所内が、一気に恐怖掻き立てる場へと印象を変えていく。

 異常の中に取り残された実感がじわじわとディアを嬲る。

 けれど止まるわけにはいかない。なんとしてもここを脱して、どこかに生きているジョンに己の無事を伝えねばならないのだ。そしてスレイドが、すでに現象回帰型に覚醒してしまったであろうことも……。


「はぁ、あぁ……」


 少しずつ前進し、なんとか扉が見えてきた。リノリウム張りの床の果て、いくつかの研究室を通り過ぎた向こうに鈍色の扉が見えている。

 外付け非常階段を降りた先は蒸気式昇降機方面へと食事処や商店の並ぶ街路が近い。あまり雇われの若い掃除夫がいるような場ではないので、速やかに表通りの排気や煤で汚れやすい一帯へ移動した方が怪しまれず済むだろう。

 頭の中で次の行動の算段をつけながらディアは進む。

 もうあと数歩で、たどり着ける。

 左手は壁についたまま、右手を扉の方へ伸ばし、外からの侵入を防ぐための内鍵を解除して――

 ばん、と強く外から開けられた扉に驚き手を引っ込める。

 飛び込んできたのは女の人影だった。彼女は急いで後ろ手に扉を閉める。鍵は自動でかかる仕組みなので、すぐにガチャンとロックがかかった。

 ずるずると扉に背をもたせかけ、床に滑り落ちる女。

 白衣をまとう痩身、栗色の長い髪、目元と頬の疲労感を化粧により誤魔化した顔つき。

 だれかと思えばグレア・ルインだった。


「ぐ、グレア姉……」

「はぁっ、はっ、は、ぁ……え、お、オブシディアン? なぜ貴女がここに」

「こっちのセリフだよ! というか、この非常時で逃げなきゃいけないときなのに、なんでこっちに入ってきたの? 階段、下の方で途切れてたとか?」

「そういうわけでは、ありませんわ……ただ、私が、追われていただけのこと……」

「追われてた?」

「あの、忌々しい……美しさの欠片もない階差機関に。私はどうしても、我慢がならなかったのですよ」


 憎々し気に言い放ち、次いでグレアはやり遂げたという顔で笑った。

 その目には、一種の凶喜が宿る。

 おぞましい目つきだった。スレイドが見せたような、自分の中に深く深く閉じこもっている者特有の目つき。

 彼女は立ち上がり、揺れる廊下を歩き出す。鍵をかけたというのに、時折後ろを気にした。

 ……追われているから、か。


「グレア姉、もしかしてこの揺れ……」

「ええ。してやったり、というところですわね。はは、あははは! 入念に下調べをして、この建物とあの忌々しい階差機関の接続部で最も結合の弱い位置と――支えで最も加重がかかっている箇所とを、同時に蒸気裂弾スチームバーストで吹き飛ばしてやりましたわ」


 先日、ブルケットに配車手続きをお願いしたときのことを思い出す。彼はたしか、蒸用車スチームライドの盗難が相次いでいると言っていなかったか。

 加えて今日の零時半ごろ、スレイドが訪ねてきたときに部屋の前を通りかかったグレア。台車に乗っていたのは、小型の階差機関に見えたが。つまりあれは……。


「ああ、よかった。あのくそったれの階差機関、ガージェリー先生の傑作マスターピースを廃してつくった馬鹿どもの阿呆知恵の結晶を壊せて、本当によかった……ですが、しくじりましたわね。まさかこうも早く追っ手がかかるとは。貴女が扉を開けてくれて助かりました、オブシディアン」


 よほど全力で走ってきたのか、まだ足下おぼつかないグレアはそんなことを言った。

 遠ざかる背中に、ディアはなんとなく抱いた疑問を投げかける。


「追っ手がかかるとは、って。そこまで入念に計画したのに警備員の配置気にしてなかったの?」

「もちろん、そこはクリアーしていましたわ。ここからの逃亡ルートも確保しておりましたとも。けれど、どうもあのクソ階差機関と屋上部の破壊で、最上階(八階)の会議室や研究室の機密保守用の脱出口を潰してしまったようでして。そこに居た方々が非常階段の方へやってきてしまったのです……」


 とんでもないことをしでかしてくれていた。

 そうなると、追ってきているというのはその階層にいた警備の者か? いや、でもこの最終実験はごく少数の者だけで内々におこなわれている。警備員などという繋がり薄い者は呼んで居まい。

《血盟》はもともと上層部が信を置いていない組織なので地下にほとんどを回しているし、警察機構はドルナクと密接でないことに加え先日のテロで潜伏犯がいたことから疑いの目を向けられている。

 故に、配置されていたのは、たしか。

 騎士団。

 その中でも。

 有事の際に対応できる(現象回帰型を殺せる)者。


「――――扉の開閉音がしたのはこの階か。扉の前にだれか居るならば三秒以内に引け」


 従うことを余儀なくさせる、鉄のように重い声が扉の向こうから響く。

 きっかり三秒後。

 きシン、と音がして扉が開いた。

 まるで鍵が外れたかのように――ちがう。

 鍵を、斬った(・・・)のだ。

 ごくわずかな隙間を通して。それこそ針の穴に糸を通すような精確さで。

 剣を、振るったのだ。

 現れた人影は上背のある男で、ゆったりとその歩みをリノリウムの上につける。


「罪状はプロジット二号機への破壊工作及びその場からの逃走。暫定的なこの場における我が主君、ヴィクター・トリビアの命においてお前を逃しはせぬ、グレア・ルイン」


 剣を提げる腕からつづく肩は、ジャケットの下から盛り上がって見えるほどに発達している。太く頑丈な首の上には、人間の顔をひたすら厳格さで削り上げたような面相を載せていた。

 苦渋と苦悶を感じさせる額の深い皺から先は、白と黒がまだらに入り混じった頭髪を後ろに向かって撫でつけており、漆黒のスリーピースを纏う身体が踏み出すたびにわずかだけ、揺れる。

 身体の中で制御できていない部分、己の意思下にない部分は、おそらくその髪だけだ。

 あとはすべてを己の下に置いている。不随意筋すら、どうにかできるのかもしれない。

 ……だがかつての時代、騎士たる者はだれしもそういうものだったと以前ディアは本で読んだことがある。だれかに仕えその身を捧ぐにあたり、まず己を完璧に御することができなければ使命を果たせない。

 主君は命に責任を持ち、配下は行動に責任を持つ。行動に責任を持つには、己のすべてをあますところなく己の制御下に置かねばならない。

 騎士の時代のそんな当然を、現代においても忠実に守る男。


「エルバス・ペイル卿……」


 思わずその名をつぶやく。

 唯一、単身で現象回帰型を討滅した生ける伝説がそこに立っていた。

 厚ぼったいまぶたの隙間からのぞいた、切り裂くような視線が、ディアにも注ぐ。


「オブシディアン・ケイト・エドワーズ技術長。このようなところでなにをしている」

「いや、その……」


 彼はへたりこむディアのオーバーオールを膨らませる脚部に、目をやった。

 彼は別段駆動鎧装にほとんど知見を持たない。護衛としてクリュウやヴィクター、果学研究学会の面々と関わる中で多少は知識を得たかもしれないが、それにしたって市井の人間と大差ないもののはずだ。

 けれど戦場勘、とでも呼ぶべきものだろうか。

 己の出向いた場において「あってはならない」異物を感じ取ることに、おそらくは長けていた。


「ふん」


 と言って通り過ぎていったあとには。

 左膝から下の《羽根足》はディアから切り離されていた。


「な……!」

「たしか貴殿はこれで二度目の脱走を図ったことになると記憶している。処遇を上の人間に問うまで、そこでおとなしくしておれ」


 一歩、二歩、と踏み出してディアから離れていく。足がもつれたのか倒れ伏してしまったグレアに近づいていく。

 そして足を止めた。

 それだけにしか見えなかった。


「っ……ぎゃあああっぁあ!」


 グレアの悲鳴が上がったことで、斬撃が有ったのだとようやくわかる。

 エルバスは剣身を胸元に差していたハンカチでぬぐうと鞘に納め、何事もなかったかのようにきびすを返してディアとグレアの中間あたりへ戻った。

 グレアは、両のくるぶしから出血していた。腱を断ち切られている。


「逃亡は防いだ」


 短く、命の遂行を告げる。エルバスは鍵の切断で開きっぱなしになった扉の方に向くと、右腕を胸に押し付けるように構えて会釈をした。


「あとはご随意に。ヴィクター様」

「ご苦労だったな、ペイル卿」

「いえ。我が道は他者に仕える騎士なれば」


 エルバスの言葉を受け取りながら、非常階段より次々に上層階に居た人間たちが現れる。

 禿頭から、まぶたと頬の肉が垂れ落ちたような面相で、片目にモノクルを嵌めた老翁。黒の礼服に身を包みステッキを床に打ち鳴らし、前傾気味の姿勢で小さく刻むような足音でやってきたヴィクター・トリビア。

 後方に向けてとがらせたような赤髪を持ち、炉の中のような色合いの瞳を輝かせ柔和な笑みを絶やさない長身の男。仕立ての良いダブルボタンのツイードジャケットのポケットへ手を入れ、面白そうに状況を見つめるクリュウ・ロゼンバッハ。

 他、白衣に身を包んだよく似た風貌の四名――ディアより上の地位を持つDC研究所のトップである《四人長》。

 大主教は……いないようだが。

 最後尾に――目立つ姿を見つける。


「この差し迫った局面になってもまだ騒がしいんだね、この街は」


 くしゃりとしたグレージュの先端に、オリーブの色味を宿す髪。

 目頭とまなじりに切れた痕跡残る双眸。

 高い鼻梁と、下唇を噛む仕草が印象に残る面立ち。

 ジョンと同程度の背丈をした細身の身体には、立襟のシャツと絹織りの黒いウエストコートとジャケットを合わせている。線の細いスラックスの膝までかかるベージュのチェスターコートを着込んだ彼は、悠然と近づいてきた。

 その男、スレイドは。

 ディアの傍らに屈みこむと。

 切断された《羽根足》の、バラバラになったパーツの中から脛当て(レガーズ)にあたる細長い装甲を取り上げるとこれを眺めた。長さにして三十センチ少々のそれの、エルバスによって成された切断面をひとしきり眺める。

 と、おもむろに。


 スレイドは左の手首へその切断面を、押し付けた。


 この国で最高の剣士が放った斬撃によってなによりも鋭く切断された断面は、剣刃にも負けない切れ味を示して彼の手首へ切れ込みを入れる。

 が、切れ込みだけだった。

 血が流れ出ない。

 まるで彼の腕が蜃気楼か幻影でできており、そこを通り抜けているだけであるかのように。装甲破片は手首の肉に沈み込んでいるのに、一切の血を流させなかった。


「ふうん。こんな感じか、いまは」


 実感が追いついていないように、スレイドは平坦な口調で言う。

 彼が得た力は。

 その再生は、彼が視認し意識している範囲においては、これほどの速度に至るのか。

 切り裂かれても切り裂かれても、その直後から再生がはじまることによって成し得る『切れていないように見える』奇術じみた高速回復。

 切断された、撃ち抜かれた、叩き潰された、という『現象』を、『回帰』しているかのように瞬時に再生してしまう悪夢じみた特性。

 ――現象、回帰型。

 次第に自分でこの再生力を面白がってきたのか、スレイドは何度か素早く装甲破片を振るい、だんだん速度を上げていった。ある程度の速度に達するとさすがに再生が少し遅れるのか、ぷつりと赤い血がわずかに散ってディアの顔にかかった。


「なるほどね」

「趣味の悪いことをするでない、スレイド」

「ん……ああ、一応気になったから。試してみたかっただけだよ、どれくらい再生するのか」


 ヴィクターにたしなめられ、スレイドはにやりと笑いながら振り向き返した。

 それから立ち上がると、エルバスに向かって言う。


「それと騎士団長、ひとつ忠言ですが。この女の駆動鎧装は両脚とも断ち切った方がいい。《羽根足》と言って、片足でも発条ばね仕掛け機構で機動力を持つことができますから」


 そう説明し、ディアに残されていた最後の抵抗手段を奪った。

 どうやらスレイドはサミットにわずかながら参加していたが故か、《羽根足》の機能についても把握していたらしい。エルバスは表情を変えることなく「そうか」と応じて、鞘から抜剣しつつ近づいてきた。

 ……斬られる。そうなればもう逃げる手立てはほとんど失われる。

 囚われたディアを、きっとジョンは探しつづけるだろう。 

 彼の心の重荷になるのは、自身で覚悟したことだ。あの頃、腕を失った彼と暗い思いをぶつけあった末に、己の肚に決めたこと。そうある方が、ある意味でジョンにとっては楽になるだろうという判断もあってのもの。

 けれどその代わりディアは、彼の目的に向けた行動においては、一切の枷とならないよう己に定めたのだ。

 だからそれを破ってしまうのは嫌だ。

 嫌で嫌でしょうがない。

 なのに。


「――……■■■、」


 振りかざされる剣を前に。

 最後の最後に、呼んでしまう。

 したくないと思っていたのに。

 重荷になりたくなんてないのに。

 でも、心の支えであるが故に、最後の最後、口にしてしまう。


 ――エルバスの剣先が。

 閃光と化して迫る。

 残る右脚へと、

 叩き込まれ、


「……――ぐゥッッ!!」


 そこに重たい金属がはじき合う音が割り込む。

 斬撃が遠のく、剣先の風切る音が通り抜けていった。

 恐怖に目を閉じてしまっていたディアに、影がかかっている。

 ……おそるおそる、彼女は目を開けようとした。

 でも本当は、目を開ける前にすでにわかっていた。

 なつかしい匂いがする。

 いつも彼の傍にあった、不器用で硬い鉄臭さに混じる、あたたかな匂い。

 ディアの作り上げた腕をつけたことで少し質が変わっても、そこは変わらない。


「……なんで、いるの……?」


 彼の背が見える。

 インバネスの裾から突き出した腕も見える。

 鈍く耀く、騎士甲冑をモデルにデザインした、無骨な腕。

 蒸気噴き上げるその義手を盾に、彼は――

 ジョン・スミスは。

 ディアの身を護り、エルバスに対峙していた。



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