72:組手と復調と会議への道のり
地下水路の、少し開けた空間。
雨天の際の貯水池として下等区画の中に設けられたその場所は、ゴミや枝葉の引っかかる金網を天蓋にして今日は足場もからりと乾いている。
動きやすい、平地だ。
そこに、刻む軽やかなステップでローナの革靴がぎゅきっと音を立てる。
「――ふッ!!」
呼吸と共に縦に一閃。
ガぎンと音がして火花が散る。
ジャクリーンの左手首に食い込んだ太い枷――複層錬金術式合金の手錠が、ローナの振るう慈悲の短剣を防いだのだ。
脂肪を蓄えたジャクリーンの横長な顔が、蛙を思わせるにいいと粘っこい笑みを浮かべた。
「いい一撃さ。でも、そぉらお返しだよシスターちゃん!」
前腕を掲げて防いだ構えから、フックを打ち込むようにジャクリーンは左掌底で薙ぐ。
動きに伴い鎖がジャラんッ! と蠢いた。飛び掛かる蛇のごとくうねり、鎖がローナの動ける範囲を制限する。
冷静にこれを見切って、ジャクリーンの右手側へ横っ飛びで回避。
着地した途端、ジャクリーンが右手に握るナイフを低い姿勢で突き出してくる。ローナは刃を立てて短剣の十字鍔で弾き反らし、逆に相手の懐へ飛び込もうとした。
しかし、急停止して後退。
するとさっきまでローナがいた位置には、ジャクリーンの肩を足場にして飛び上がってきたもうひとり。口髭をたくわえた長身の男、ジェイコブの踏みつけが叩き込まれていた。
「悪くないねぇ」
レンズの大きな眼鏡のブリッジを押し上げて。褒めているのか上機嫌で言いつつ、ジェイコブは左手のナイフで切り上げてくる。身を反らしてスウェーバックでかわし、ローナは右手に握る短剣をひゅん、と逆手持ちに持ち替えた。
ナイフが相手では鍔迫り合いの位置の強弱を利して剣を受け流す《裁き手》はほとんど使えない。
ならばいっそ逆手持ちにして体術との組み合わせを重視することにしたのだ。
「それも、悪くはない」
指摘をつづけて、ジェイコブは踏み込んでくる。ジャクリーンも彼の背後から現れ、ローナの左手へと駆けた。
左右からの挟撃。
真正面はジェイコブの右手・ジャクリーンの左手から伸びる長い鎖によって阻まれており、下手に抜けようとすれば絡め取られる。
だから、ローナは。
矢のようにまっすぐ、ジェイコブの前へ飛び出した。
「ほう?」
疑問符を付けたような声を漏らしながらもジェイコブの刃先は揺るがない。彼の左手に握られたナイフが斜め下から突きあがる。肝臓を貫いて失血死を狙う軌道だ。
ローナは逆手に短剣構えた右腕、その手首をジェイコブの前腕へ叩きつけるようにして突き上げを防ぐ。そのまま彼の左腕を這いあがるように腕を滑らせ、首裏に地面と水平になるよう短剣を構えた。
鋭く突き出した左手で短剣の先端を逆手につかみ、頭を引き寄せ。
飛び上がる頭突きでぐぼん、とジェイコブの顔面真ん中に痛撃を加える。
「ぐ、ほ、」
悲鳴が上がったときにはすでに右手を柄から離して。
ちょうど彼が反射的にのけぞって空けようとした距離は――左逆手で刃先を握って振るう短剣の柄が、こめかみに直撃するにちょうどいい間合いだった。
倒れゆくジェイコブを視界の端に認めながら、ローナは振り返る。
眼前にはジャクリーンの姿。
すでにナイフは横薙ぎに、ローナの左頸動脈を狙っている。
ローナは身を沈めはじめる。とはいえ出だしが遅い。回避は成立しない。
――彼女がなにもしていなければ、だが。
「ッ?!」
驚愕に目を見開くジャクリーン。かくんと刃の軌道が、上にずれる。
それはほんのわずか、力みが生じた程度の些細なずれ。
けれどローナの沈身が稼いだ距離と合わせれば、ぎりぎりでナイフを頭上に過ぎさせるに足る致命的なずれ。
ジャクリーンは舌打ちする。
ローナが空いた右手でジェイコブの手から伸びる鎖を握り締め、身を沈める直前から勢いよく下に引っ張っていた。結果、左手に繋がる鎖が引かれたことで上体のバランスが崩れ、ナイフを持つ右手が跳ねあがってしまったのだ。
空振りで大きな隙をさらしたジャクリーンに、当然勝ちの目はない。
真下から短剣の柄に右腕をかちあげられ、襟を引かれたと思ったときには足を払われ後頭部から落ちることになる。
ジャラっ、と鎖が落ちる音がして、決着した。
ローナは呼吸を整え、左手の内に短剣を回転させてから腰の鞘に叩き込む。
「……っづつつ……いやぁ。すっはり、ふくひょうしはかな」
血で鼻が詰まっているジェイコブが、身を起こしながらぼやく。ぐきぐきと首を鳴らし、ぢっ、と指で鼻の孔の片方を押さえて血を噴き出した。ゆっくりと立ち上がって、発声に問題ないか確かめている。
「ん、んんッ……ああ。あーあー。あぁぁぁ……ふう。いや、《聖者の御技》は私も何度か相手したことがあるが、きみはその中でも随一の使い手だなぁ」
「お褒めにあずかり、光栄です」
「なんというか、対応力の高さがずば抜けているねぇ。なぁそう思うだろう? お前」
「いたたた……え、なんだって?」
後頭部をさすりながら立ち上がったジャクリーンは、乱れたばさばさの赤毛を整えながら不満そうに答えた。相方のこの様子に肩をすくめ、ジェイコブは手を貸しに行く。
「加減してもらってこれじゃぁ、当日に我々の出る幕はなさそうだね」
「ああ、まったくね。組手はじめてすぐの間は、到底あたしらに追いつくことはなさそうだったってのに。たった数日で、頭へのダメージが小さくなるよう足払いに手心まで加えられるようになるとは……」
「私も頭突きの際に首裏にあてがった短剣の位置と力の込めよう次第では、首を折られていたかもしれない」
「しませんよ。そちらも、加減してくださってるのですから」
あくまでもこれは錆び落としのための訓練だ。本気で殺傷するつもりの技掛けなど、するはずがない。
呆れ心地でそう口にすると、鉄枷付きの夫婦ははたと首をかしげた。仕草がそっくりで、長く一緒に暮らしてきた家族なのだな、と場違いなことをローナは考える。
しかしすぐに、そんなのんきな思考を反省させられた。
「……加減?」
「あたしら、しちゃいないわよそんなこと。加減してたのは、あんたが腹の傷の痛みを抱えてた初日だけさ」
「え? でも、そのナイフは刃を潰したものでは」
「とうに本身でやっているよ」
ジェイコブは放り投げて回転させたナイフをキャッチすると、ちらりと視界の端をかすめたドブネズミに向けてひゅっと投擲した。
ひょろひょろしたしっぽを切断され、ぢッ、と悲鳴が上がる。そのまま慌てて逃げ出していく。
が、動きが唐突に停止した。
びくびく、と痙攣してうずくまる。腹を上に向けてもがきはじめる。
「……毒……」
なにも告げず当たり前のように訓練で毒付きナイフを使っていたこの男に、ローナはかなり引いた。
ジェイコブはナイフを拾い上げるとネズミの血をぬぐいもせず鞘に納め、くるりと振り向くと快活に笑い「では訓練は終わり。食事にしようかねぇ」と間延びした声で言い、てくてくと隠れ家に向かって歩き出した。鎖で繋がっているジャクリーンも当然それにつづき、ローナに声をかけてくる。
「行くよ、シスターちゃん。今日は襲撃に当たっての同志とも打ち合わせだから。ええっと、ちょっとあんた。だれが来るんだっけ」
「アークエの男がひとりと研究所の人間がひとりだよ」
「ああそうだそうだった」
「あなたたち、アークエから指示されてるわけじゃない、と言ってませんでしたか」
ローナが訊ねると彼らは顔を見合わせ、「指示元じゃぁないよ」と声をそろえた。
「が、一部の人間と同盟は組んでいる。このドルナクで情報を集め動き回るには、それなりに他組織とも横のつながりを持たねばならないのでねぇ」
「研究所とも?」
「そいつは果学研究学会からの招聘組だがね。まぁいまから会食というかたちになる、そこでご紹介しよう」
「……そうですか」
「なにその顔。あー、なぁに? もしや心配してるの。安心なさいよ食事には毒なんて入れないから」
「はぁ」
そうは言われても。懐に毒を隠した人間と食事する、なんて考えたらあまりいい気はしない。
でもいまは、ほかに暮らしの糧を得る手段もないのだ。あきらめて彼らにつづき、ローナは隠れ家を目指す。
頭上の金網から差し込む陽光をまぶしげに眺め、残りの日数を思う。
サミットの日から今日で四十日。残り三週間で、大主教が再び来訪する。
腹部の傷をローブの上から撫でた。感覚としては引きつるところがまだあるものの、なんとか動きには支障なくなってきている。……二人から与えられた鎮痛剤のおかげだ。
あまりにも効果が高いので、もしかすると依存性のある薬物かもしれない。
「まあ、大して気にしませんが」
腹から手を離し、この傷を与えてきた大主教の姿を思い浮かべる。
サミットで遭遇したあのとき。あと一歩まで迫っておきながら、ローナは結局取り逃がす結果となってしまった。
思い返しても腹立たしい。あの男ならば、眼前の危機を避けるため他人を盾にするくらいやって当然だったろうに。
自分と同じ枠の思考で生きている人間だと、どこかでまだ甘い考えを持っていたのだ。加えてひとを刺し殺してしまった衝撃で動きが止まるなど、覚悟が足りていなかった。……まあ、結局は彼が吸血鬼だったために刺殺は未遂に終わったわけだが。
でも、とうのむかしに。
ローナは後戻りできない道の上にいて、己の手はかつて父と呼んだ男の血に濡れている。ドルナクに来てからも、吸血鬼との戦いで幾多の命を奪っている。
いまさらなのだ。人殺しの実感に、おびえようなんて。
「ずいぶん、斬りましたね」
この街に来てからジョン・スミスと行動し、自ら手にかけ葬送した者たちを思う。
吸血鬼。
かつてひとだった者。
死生彷徨う半端者。
ひとだった頃の記憶を持ち、動きつづけている、者。
だとしてもローナは迷わない。ためらわない。道を阻む者はだれであろうと倒して通ると決めていた。
けれど……なにも感じない、というわけではない。
信仰に生きて死すときにさえ神への言葉を口にしたガルデン。アークエに殉じて死を迎えてなお怨敵と定めた相手を殺すため吸血鬼と化したアブスン。
普通ではない。
彼らのごとき辛い生き方を強いるのが、宗教だというのか。刃を振り下ろしたあとにずっとそんなことばかり考える。
父と呼んだ男を慈悲の短剣で刺し貫いたときもそうだった。なぜこうなったのか。こんなことになったのはすべて宗教の、ひいてはヴィタ教を広める大主教である実父イェディン・ガーヴァイスのせいではないのか。
そんなことばかり考えた。
そんなことばかり考えて、生きてきた。
凝り固まった教義のために争い、殺し合う人々。生き場を求めて彷徨う者たち。ひとを救うはずの教えがひとを迫害させ、殺害をさえ教唆する。
もちろんそれは一面であり、今日もどこかでだれかが教えに救われているのもわかっている。葬儀、再銑礼などを取り上げてみてもそうだろう。儀式を挟み別れのいとまを生み出すことで、ひとは他者の死を昇華できる。残ったものを見つめ直すことができる。
でも。
だからって。
ローナの村が――生まれた村と、育った村が――滅びるを良しとした大主教の罪が消えるわけではない。
彼が教えを広め百万のひとを救っていたとしても、ふたつの村の人命を取るに足らないと言うことは許されない。『汝の隣人を愛せ』と教義のたまうその口で、彼は村を焼けと言ったのだ。
故に。
ローナは殺す。
あの男を、実父を、不貞の証拠を消そうとした人間を、この世から消し去る。
宗教を、役割与える舞台装置と言い切った男を滅ぼす。次は、次は、次こそは。刺してか、折ってか、切り伏せてか、叩きつけてか、潰してか、噛み千切ってか、方法はわからないが殺す。確実に殺す。殺し尽くして終わらせる。なんとしてでも殺してのける。
……しかし。
「…………あ」
並んだ二人のあとを歩いていたローナは、
ぼんやりと前を見ていて、ふと。二人が歩く際にぶらぶらと前後に揺れる腕の動きに、既視感を覚えた。
枷によって重さを増した彼らの腕は、普通のひとが一歩踏み出すときの動きよりも少し遅れた挙動になる。
その遅れが。
駆動鎧装を両腕に纏う彼の歩みと重なって、途端にいやな気分になった。まるで彼の後ろで、こんな――殺すことについて深く深く考え込んでいたかのような気分になった。
ローナはかぶりを振る。
「……感傷的に、なるな」
己に言い聞かせて、静かに目を閉じうつむいた。
――見られていい姿では、なかった。
あのとき彼と大主教の私室で遭遇した際たしかにそう感じ、口にしてしまった。
それはなぜなのか。傷を縫ったばかりで無茶をしたため高熱にうなされながら、ローナはそのことについても何度となく考えていた。
……答えはとうに出ていたのだが。繰り返し噛みしめるように「なぜ」と考え、何度もそこにたどり着いていた。
結局のところ。
ローナは彼に、背負わせたくなかったのだ。
最初はただ利用するために近づき、うまく取り入ったと感じていただけだが。途中からローナは、彼に自分と近しい部分を感じて、情がうつってしまった。
大して多くを語らず、語っても虚偽のことばかり口にしていたローナを、ロコ・トァンを、本当は名など無いこの女を……ぶっきらぼうながら受け入れてくれた彼に、感謝していた。
ローナに気を遣ったわけではなく。自分がその方が生きやすいから、気分が良いから、『自分が自分であるため』そのように振る舞ってくれた、自分と近い考えを持つ彼。
己の救いも、行動の責任も、すべて自分の中にしか見いだせない彼。
そんなジョン・スミスに、『殺しを目的として近づいていた』ということを、直接に知られたくなかった。
ああ。そうだ。
いつの間にか。
ローナは、彼に虚偽を語って作り上げていた『ロコ・トァン』の在り方を崩したくないと、そう願ってしまっていた。
自分に課した復讐を果たすまでの単なる記号でしかなかった『ロコ・トァン』を、彼女自身が自分のためつくりあげた虚像を、まるごと己の平穏の中に置いていてくれた彼を。
裏切ってしまっていることを、直接に叩きつけられたくなかった。
だから動揺した。予期せぬ遭遇に、己の目的を知られてしまった状況に、焦った。
同時に、それでももう止まる気になれない自分を知った。
ジョンに知られても、彼に抱きとめられても、それでも自分は仇に刃向けることを選んだ。
とうに自分は、壊れている。
「ああ」
嘆息して、己の身を掻き抱く。
奴に終わりを突きつけるまで止まれず、止まったときにはどうなるのかわからない自分を抱えて。名無しの女は胃の腑に重たさを感じる。




