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悔打ちのジョン・スミス  作者: 留龍隆
終章 牢獄

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69:半快とローナと鉄枷付き


 目を覚ましたローナは、辺りを見回す前にどぶの臭いに顔をしかめた。

 薄くだがたしかに漂う臭気。ここに滞在してずいぶん経ったが、どうしてもこの感覚には慣れない。


「起きたかぁシスター君」

「昨日よりはお元気?」


 男の低い声と、女の甲高い声が連なって届く。

 ベッドの上で身を起こしたローナは、狭い部屋の入口に立つ二人に視線を合わせた。

 かびた煉瓦壁の部屋は天井も低く圧迫感があり、置いてあるのはベッドとチェスト、吊り下がる灯りはランタンのみ。

 ゆらぁ、と揺れる灯りを頼りに目を細めて、二人の顔を見やる。


 撫でつけたこわい黒髪を後ろに流す男はレンズの大きな眼鏡をかけ口髭を生やした長身の中年で、窮屈そうに身を屈めて左手をドアの縁にかけている。服装は古代のトーガを思わせる、大きな一枚布をぐるぐると巻き付けた灰色の上衣。これによって上体が着ぶくれしている分、細いボトムスを穿いた下半身が貧弱に見えた。

 女は彼よりは頭ひとつ小さく、ドアの上部に頭がつくようなことはない。ばさばさと広がった赤毛の隙間に焦げ茶色の瞳がしぱしぱとまたたき、歳はそこそこいっているようだが恰幅の良さ、横幅の広さに由来してか顔のしわが薄い。こちらもカーキ色ということの他は男のそれと同じ巻き付ける上衣で、下半身は長いスカートでくるぶしまでを隠していた。


 そしてなにより特徴的なのは。

 女の左手首と男の右手首の間を、ジゃラりと硬質な音が繋げていること。

 すさまじく巨大な手枷が。

 鍵穴を鋳つぶされた複層錬金術式合金クワレウィタイトの枷が。

 太く重たい鎖で以て、彼らを分かたれぬものとしていた。


「……おはようございます、鉄枷付き(ジャック)

「あぁおはよう」

「ハイなおはよう、シスターちゃん」


 ジェイコブとジャクリーン。

 鉄枷付きと呼ばれる、夫婦コンビ

 かつてこのドルナクで麻薬の売人、フィクサーとして暗躍し、サミットが近づいてしのぎの場が摘発されるに従い部下を皆殺しにして逃げたと言われた悪人。

 それがいまのローナを匿っている人物だった。



 二人と共に部屋を出て食卓につく。

 といってもそこもまた先ほどの部屋と大差ないくらいに狭い。地下水路の脇にある隠し部屋である以上、文句など言いようもないのだが。


「それではぁ、神に感謝して」

「ハイよ感謝して」

「いただきます」


 意外にも鉄枷付きは敬虔なヴィタ教徒らしく、食事の前にはきっちりと祈りを捧げる。

 小さな机の上に所せましと並ぶのは山盛りのパンと大振りなチーズと干し肉煎り豆塩味のスープ。

 それから隅っこに、いくつか油紙包みの細長いなにかが置いてあった。ローナはこれに見覚えがある。


「……食べるのですか。その、圧搾固形食糧ミクスドブロック

「なぜか捨ててあったんだよ。もったいないねぇ、お前」

「ほんにもったいないことだわ、あなた」


 ふふっと笑い合う鉄枷付きの二人は平然とこれを食した。下水暮らしで嗅覚から味覚までがいかれたのか、と思ったがそれ以外の食事はべつに腐っていることもなく普通の味がするので単に食の好みの許容幅が広いだけらしい。大したものだと、素直に思う。

 その後もくもくと、食事を進める。

 途中、ローナは机の向こうにあるバターとナイフに手を伸ばした。

 ぴり、っと脇腹に痛みが走る。


「痛っつ……」

「あらやだ。言えば取ってあげるのに」


 腹の傷跡がひきつったことで動きが止まったのを、ジャクリーンの方に気取られる。

 イブンズの治療を受けてから一ヶ月。ずいぶん傷は治ったが、まだ本調子ではないようだ。


「あまり無理しちゃだめよ。ねえあなた」

「そうだとも。早いところきみには本領発揮できるようになってもらいたいが、無理して長引いては元も子もない」


 パンにナイフでバターを塗って手ずから渡しながら、ジェイコブは言った。

 と、ローナの手に渡る寸前でぽろりとパンが落ちる。

 彼女がつかむべく手を泳がせたその一瞬、

 シュっと風切り銀の閃光が走る。


「――ん、なんだ。もうだいぶ動けるようになっているじゃぁないか」

「……おかげさまで」


 不意をついてローナの目を狙い刺しこまれたナイフを、寸前でかわして。逆に彼女の握るフォークがジェイコブの肘内を狙って寸止めしていた。


「とはいえまだまだです。技はどこまで使えるか、わかりませんし」

「鍛え直しが必要、かね」

「おそらくは」

「あらそう。必要になったら言ってね、シスターちゃん。錆び落としくらいならあたしたちも付き合えるだろうから」

「うむ。そうだねぇ」

「ご謙遜を」


 ジェイコブのナイフは戦闘の利き腕だろう左――手のまめでわかる――で繰り出されたものではなかった。

 まあそこまで含めて虚を突くための動きであったのかもしれないが、どこまでいっても彼の右腕が枷でおもりを付けられている以上全力とは呼べないだろう。

 ドルナクの闇の中で長く生き抜いてきたフィクサー。

 その腕前を彼らは護身の技だとうそぶいていたが、実力は生存した年月相応に高いようだ。


「食後にはこれを飲んでおくれ。上で買ってきた薬だ」

「……ありがとうございます」

「はははは。警戒しなくとも麻薬なんかじゃぁないよ」


 売人に言われると笑えない。

 ともあれ、体調を完全なものにするにはいましばらく日数がかかる。

 水で粉薬を飲み下してひと息ついたローナは、壁に吊り下げられたカレンダーを見やった。

 一か月後。

 大きく丸で囲まれた日付が、目に入る。


「昼過ぎには戻るから適当にリハビリしときなさいねシスターちゃん」

「あ、はい」

「着替えを買って帰るのでねぇ。洗う衣服があれば出しておきなよ」

「了解です」


 この下水に暮らす限り、いくら洗っても臭いについては気休め程度と思われたが。それでもなにもせず汗臭さとどぶ臭さにまみれているよりはマシだ。

 腰を屈めてやっとくぐれるちいさな戸口から、ジェイコブとジャクリーンは出ていった。ごそごそと、この秘密の出入口を隠す物音が外に響いている。

 やがて足音が去って、ローナはひとりになった。

 ローブの裾をたくし上げて、脇腹の傷を見やる。縫いあとは引きつって痕になっていたが、もうすっかり塞がったようだ。となると、まだ治りきっていないのは内側なのだろう。抉れた腹膜が痛むのか。


「参りますね」


 裾を正してふうとため息をつく。

 自分にあてがわれた部屋に戻り、枕元に置いていた慈悲の短剣を手に取る。

 しゃりん、と鞘から抜いたそれを、軽く振るった。動きは硬い。《裁き手》を使うどころではなさそうだ。

 けれど泣き言などつぶやく暇はない。

 時間が、ないのだ。


「なんとしても、一か月後に間に合わせないと……」


 そのために、ローナは鉄枷付きと共にいるのだから。

 今日も阿片を捌いて金をつくってくる彼らに――その売り上げの金に、養われているのだから。

 そうまでしてでも生き抜かねば、ならないのだから。


「なんとしても。次こそ――」


 しゃおん、と振り切った短剣が空を裂く。

 その刃に載せた気持ちを、ローナは舌にのせた。


        #


 目を覚ましたとき、そこは病室だった。

 格子のはまった窓を見るに、おそらくは犯罪の容疑者などを押し込めておく警察病院だろう。

 起き上がると脇腹にかすかな疼痛があったが、なんとか歩けなくはない……怪我が癒えたのかは、わからなかったが。

 ローナは、すぐに行動を開始した。

 手術室に忍び込んでメスを盗み。病院着の袖に隠したそれを手に、廊下を歩いていてたまたま通りかかった男を物陰に引っ張り込んだ。

 即座に膝関節を蹴り体勢を崩し、背後から喉元に刃を突きつける。


「十秒以内に答えてください、ここからバレずに出るルートを。では十、九、」

「ま、まて! なんで俺がわかると、」

「わかるでしょう、調べていたでしょう? あなただってここから逃げたくてたまらない(・・・・・・・・・・)はずなのですから」


 男は、あの日カフェでローナに蹴倒され肘を砕かれたアークエの工作員だった。

 あのあと捕縛され、治療を受けつつここに閉じ込められていたのだろうと推測された。ゆえに、逃亡の経路を聞き出すにはもってこいの人材だと思ったのだ。


「ではあと四秒、三、二、一、」

「わっわかった案内窓口だ! 二階案内窓口横の男子手洗い! そこの小窓をだな、連日かけて細工して外しやすくし、っ、っか、きひゅっ…………」

「ありがとう」


 回答を聞いてすぐローナはメスを手放し素早く絞めに移行した。襟を引いて気道と頸動脈を塞ぎ、一気に絞め落とした彼女はまたメスを拾い上げるとすたすたと歩き出した。

 いまのフロアは四階である。

 階段をくだって二階の案内窓口近くへ出ると、人通りが絶えた一瞬の隙をついて男子手洗いに入った。

 知らない男が用を足している最中だった。

 先の男同様に背後から首を絞めて落とした。

 その際、もたれてきた男の背が傷口に触れてずきん、と痛む。


「……これは飛び降りると傷が開きますかね」


 男の言葉通り細工を施されていた小窓を外にかかった鉄格子ごとバコん、と外しながらローナはぼやく。

 だがこのままここにいるわけにはいかない。

 すでに背後ではバタバタと駆けまわる音がしている。絞め落とされた男が見つかったか、ローナの不在が見つかったか。たぶんどちらでも結果は同じことだろう。

 なら、いま見えている道に駆けだしてみるほかない。高さはさほどでもないが掴まる箇所もないなめらかな壁面を眺め、ローナは窓から上体を乗り出した。

 顔が冷たい風にあおられ、一瞬気が萎えそうになる。

 それでも意を決して足を上げ、そのときにもまた左脇腹にひきつる痛みがあったが、無視して窓をまたいだ。トイレのスリッパを履いた左足がぷらん、と下がる。

 病院着の隙間から腹部を見るが、巻かれた包帯に血がにじんでいることはない。

 塞がっていることは塞がっているようだ。


「よし」


 右足も持ち上げる。

 いよいよお尻だけで窓辺に腰かける姿勢となった。

 下の花壇へ先にメスを落として、両手で窓の縁にぶら下がった。

 ひとつ、息を吸って。

 止める。

 と同時に落ちる。


 ――着地。

 口からげぐっ、と濁った息が漏れ衝撃が傷口を貫く。……じくじくじくじく、と痛みは次第に納まっていったが根を張ったようにその後もずっと、完全に抜けることはない。

 もう一度腹部に巻いた包帯を見た。大丈夫だ、血は出ていない。……内部が裂けていたら、意味がないのだろうけれど。

 大主教の刺突が臓器を外していたことを、そして外していなかったのならいまの衝撃で裂けていないことを、祈り。ローナはメスを拾い上げ、ふらふらと歩き出した。

 辺りの景色を見て上等区画の三番地付近だと知り、空の明るさに――と言ってもスモッグ越しのいつもの曇天だが――昼前だと知る。

 通勤の時間でも昼食の時間でもないので、人通りはまばらだ。せいぜい、表の空気を吸いに来ただけの患者だと見えていればいいが。


「とりあえず……地下ですね」


 足を引きずるように歩き、先日迎賓館を襲撃したときと同じように地下の下水道へもぐることにする。

 潜入だけでなく潜伏も目的としてかなり道を調べていたので、こういうとき身を隠せる場所もいくつかは思い当たる。

 ローナは思い通りにならない脚を重く感じながら歩み、薄汚く腐臭のあふれ出る地下へ、身を投じた。


 歩く。


 歩く。


 歩く。


 明かりも持っていないため非常に足取りはゆっくりだが、それでも止まることだけはないように。

 少し歩いては壁に肩をもたれさせ。だんだん脇腹の痛みが増していることには気づきつつ、それでもひたすらに歩いた。


 どれほど経ったのか。

 まだそれほど経っていないのか。

 時折マンホールから差し込む明かりのほかにしるべもない彼女は、荒い息遣いを数えながら歩き、つづけ。

 やっとのことで、目的地とする場所――下等区画へ繋がる蒸気圧昇降機エレベータ近くにあるホテル――の真下まで来た。あとは建物に地下から侵入し、休憩してから夜になるのを待つ。昇降機も夜になれば積み荷の警備が少し緩むため、こっそり紛れ込んで下におりる。

 あとは『アークエの工作員がいる』と、白紙の聖書にアブスンが記していた詰所を目指す。そこにまだひとがいるか、それともすでに引き払っているかはわからないが……少なくとも体力を整える程度の時間は得られるだろう。


「……希望的観測に、過ぎないですが……っと」


 ばたばた、と足音が近づく。予想よりも早く、地下への警戒網が敷かれたようだった。

 こうなってはもう機動力で勝ち目はない。

 頭上に見える逃げ道――ダメだ。下からのぞきこまれたらそれで終わる。

 ではどうすれば?

 考えたが、うまい考えは出て来ず。

 すぐそばまで迫った足音に、ローナは覚悟を決めた。


 足先を水路へ向ける。

 爪先から、音を立てないよう静かに沈み込む。汚水の中で息をひそめ、ぜえぜえと漏れそうになる息を細くしぼりあげて気配を殺した。

 足音が近づく。見つけたかどうか確認し合う声が聞こえる。そのあいだもローナの身は水路を漂い、彼らの足元を流れていった。


 誤算だったのは二点。

 ひとつは予想よりもはるかに多くの人員がこの地下に割かれており、上陸する場がなかったこと。

 もうひとつは、前々日に雨が降ってかさを増していた水路の勢いが、終端に近づくにつれどんどん増していったこと。


 ……気づいたときには手遅れだった。

 ごうごうと唸りをあげて落ちていく大量の水の中にローナはいる。

 ほとんど滝といった方がいいその太い水の流れは、下等区画へ通じている。

 そう、蒸気圧昇降機の横を流れ落ちるプルトン川と下で合流する水筋なのだ。

 もう、どうにもならない。


「――――――――っ」


 どっ、と押し出され放たれた。

 身が空を踊り。

 凄まじい傾斜角の放水路を、ローナは滑り落ちていった。


        #


 正直、なぜ助かったのかわからない。

 偶然なのか悪魔の導きなのか、再び目覚めたローナはこの部屋にいた。

 さすがに発熱と悪寒で数日は動けずにいたが次第に回復し、感染症などにもかかることなくいまではこのようにそこそこ満足に動き回ることもできる。

 そうして意思疎通も可能なレベルまで回復したところで、ジェイコブとジャクリーンは己らがあの鉄枷付きであると正体を明かして。

 それからカレンダーをめくって、彼女に言った。


『あと一か月半、といったところだ』

『なにがですか』

『あんたの宿敵がここへ戻ってくる日よ。シスターちゃん』


 にやりと笑い、彼らはどこからか仕入れてきた慈悲の短剣を彼女に見せた。


『私らはあんたと同じ目的を持っているんだよ』

『アークエじゃぁ、ないがね。まあ()の方でいろいろ判断が下った、というところかな』


 二名はジゃラりと鎖を鳴らし、揃って指先でローナを示した。


『なんとしても、次こそ――大主教を、殺せ』『あたしらはそのためにあんたを拾ったんだよ、大主教襲撃犯』


 短剣を渡し、彼らはぐつぐつと笑った。


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