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7:蒸気機関と帰路と夕食


 ひと仕事終えてすでに時刻は日も傾いた頃だった。街路にガス灯がともりはじめる。

 まあ常に分厚いスモッグに覆われていて青空も星空もないこのドルナクでは、日の傾きなど気にする者はそうそういない。


「ああ。もう夕暮れですね」


 しかしまだ外から来たばかりのロコには、この時間のあいまいな景色が慣れないものらしい。


「おい、道の真ん中で立ち止まるな」

「おとと、失礼」


 車体後部の六連排気筒から蒸気を噴き上げる蒸用車にはねられそうになっていたロコを後ろから肩で押し、道の端へ寄せる。

 連れ立ってプルトンの川辺を歩く二人は、蒸機動二輪オウトモビルを駆る者、駆動鎧装スチームアームをぶらさげてパブに向かう者、遠く見える駅舎の汽笛に慌て急ぐ者――その間をすり抜けていくところだった。

 貧民窟からの帰路。

 灰色の川を遡上するように辿る二人の傍らを、上流にある産業区画から下ってきた製品運搬用の巨大蒸気船がぽんぽんと音を立て過ぎ去っていく。

 黒光りする船が近づくその都度、川に掛かる跳ね橋がぎりぎりと持ち上がって道をあける。この様に興味を惹かれたまたロコが足を止めてしまったので、ジョンは軽く膝裏をすねで蹴って進むよう促した。


「止まるな。あまりこの街に慣れない様をさらしすぎると、スリやひったくりに狙われる」

「と言われましても。短剣と聖書くらいしか持っておりませんが」


 長いアッシュブロンドの髪で隠れている、後ろ腰に差した慈悲の短剣(ミゼリコルデ)と革紐で吊るした聖書とを指すロコ。

 財布は持ち歩かないのかと聞けば、彼女は硬貨数枚しか入っていない財布をローブのスカート部にあるポケットから取り出した。いま考えることではないが、スカートのポケットというのはなかなかに謎な構造だとジョンは思う。


「持っているのはわかった。しかし、なんだその貧しさは。お前たしかゴブレットから前借で給金をもらっていたはずだろう? 寄付でもしたか」

「清貧は豊かさに飽きたときの暇つぶしですよ。わたくしはそこまで豊かではありません」

「では単なる浪費か」

「それこそまさか。神に誓ってありえはしません」


 ロコは紐で縛られページの隙間が潰れた聖書の間から、器用に紙幣を引っ張り出した。はめていた白い手套を逆さにして振ると、そこから金額大きめの硬貨も出てくる。


「どうです」

「なぜ偉ぶるのかわからないが。存外したたかだな、とだけは言っておこう」

「わたくしの元居たところもそれほど治安はよくなかったので。この手の偽装は、それなりに嗜んでおります」

「治安が……、か。なるほど、それであの体術の腕か」


 最初に出会ったときのことを思い出し、ジョンはやっと納得した。

 ロコは手套をはめ直しながら「腕っぷしで切り抜ける必要もありましたので」と肯定する。


「ただ、これほどゴチャゴチャした街ではなかったので。うっかり周囲に気を取られているとスられそうですね。気を付けてまいります」

「多少は気を取られても仕方ないだろうがな。ドルナクはいまナデュラ帝国の中でもっとも産業が発達し、あらゆる文化と技術と人種のるつぼと化している街だ」


 いままた、蒸気船が横を過ぎていく。

 巨大な船は工夫こうふたちも甲板に乗っており、《火の山》で掘り出された石炭や鉄鉱石を主とした錬金術に使う資源を運ぶものだ。船体の側面には《ジェイムソンインダストリアル》と会社の名が刻印されている。

 それはドルナクが三十年前、偉大なる躍進の痕跡グランドコークスバレーと呼ばれ拓かれた当初から工夫たちをまとめて一大産業を興した会社だ。


「蒸気で動く乗り物などは、あの会社が生産に関わっているのですよね」

「さすがにそれくらいは知っていたか」

「わたくしが田舎に住んでいたように言うのはやめていただきたいですね……そりゃここと比べたら田舎ですけれども。蒸気の乗り物なんてなかったですけども」

「まあ、この都市で蒸用車や蒸機動二輪がよく見られるようになったのもここ数年のことだ。それまでは蒸気船や蒸砲戦車チャリオッツといった巨大なものばかり作っては運び出されていた」

「ふうん……いまや陸も水路も蒸機化スチムライズドされたものばかりですね。そのうち、空も飛ぶようになるのでしょうか」

「さすがに蒸気機関を搭載すれば重すぎて重力には逆らえまい。基本的に蒸気機関は巨大でなければパワーが出ないものだしな」

「あれ、でもジョンさまの駆動鎧装は、ひどく小型なのに高出力ですよね?」

「……ああ、まあな」


 ふいに自分のことについて触れられ、ジョンは唐突に口をつぐんだ。

 ロコはしばらくの間不自然な反応に首をかしげているようだったが、ジョンが無理やりに「もう家だぞ」と話の筋を逸らすと大して気になる話題でもなかったためか、突っ込んでくることもなくぱたぱたと道の先へ駆けていった。

 面倒にならず済んだ、と一息つくジョンである。



        +



 かつんかつん、ジョンの靴裏で鋲が音を立てる。

 貧民窟からプルトン川を遡上して大断崖の方へと引き返し、ここは下等区画の三等地。

 三、四階建ての建物が密集しており、兎小屋のような狭苦しい空間にひとがひしめき合っている。

 下等区画はその全体が、上等区画や歓楽街に近い方に向けて建物の高さが増すつくりだ。その中で四階建てビルディングスの三階を下宿先とするジョンは、まあそれなりの暮らしぶりと言える。

 赤さびた、格子に囲まれた鳥かごを思わせる螺旋階段をのぼり。

 建付けの悪い扉のドアレバーを膝で押し下げて、ジョンは我が家へ帰宅した。入口にて靴を脱いで、滅菌水を張った水盆に足を浸して拭ってから室内へ。


「ああ、疲れました」


 だがあまり心は休まらない。

 気ままな独り暮らしを打ち崩してくれたこの同居人が、わが物顔で居間へ進んでいくのをなんとも言えない顔で見送る。


「……ああ、疲れるな」


 ぼそっとつぶやき、彼女のあとにつづいて室内のガス灯をともした。

 居間に入ったロコは左手すぐの位置にある炊事場で赤い蛇口をひねり、蒸気熱で瞬時に温められた湯を水盆に張る。ここへタオルを浸すと軽く絞り、まず顔を。次に髪をぬぐって最後に服をぬぐう。外から持ち帰ったスモッグと煤の汚れを落としたのだ。


「お疲れなら、拭きましょうか?」


 新しいタオルをジョンに差し出して、ロコは問う。

 ジョンは初日に彼女にこう訊かれたときと同じく「頼る気はない、自分でやる」と返して断り、彼女が隣にある自室へ去るのを待った。

 ロコはすぐに「そうですか」とだけ言い、短剣と聖書を腰から外しながら居間を出ていった。ジョンは水盆に目を落とす。

 腰を曲げ、端を噛んで持ち上げると流しに湯を捨てた。

 それから同様に蛇口を噛んで回し、湯を張ってから水盆にざぶんと顔をつける。


「……ふう」


 汚れを落として顔を上げ、手近な壁へフックで吊るしておいたタオルに顔を押し付けるようにして拭う。そのあとはまたタオルを噛んで持ち上げ、廊下にある洗蒸機スチームクリーナーの筐体へ放り込んだ。

 そして居間へ戻ると、周囲へ雑多に物や衣服が積まれたソファ――ジョンの定位置だ――へ向かい、インバネスを脱ぎ捨てて腰かけた。

 足元には、缶詰の山がある。

 ジョンはソファの片隅に放ってあった缶切りを右足の指でつかむと、左足の裏で缶詰を固定し、きこきことこれを開けた。

 半分ほど開くと蓋部分を足の指でつまんで持ち上げ、ソファ横のチェストの上に置いていた平皿へ中身であるひよこ豆の水煮をどぼどぼとこぼす。

 次いで壁際の戸棚に入れていた紙袋を噛んで引きずり出し、逆さに振って硬い黒パンとジャーキーを平皿にひっくり返して浸した。

 塩気とタンパク質と炭水化物。少なくともそれだけは摂取できておまけに安くて多少は保存も利く。ジョンの定番の夕食である。


 チェストの横に膝をつき、ジョンは大口を開けた。

 がりがりとパンをかじり豆と塩水を吸い頬張り、時折細長いジャーキーをすするように食む。

 冷めた食事をあっという間に平らげると、皿の縁を噛んで持ち上げ、流しまで運んで中に転がした。

 また、赤い蛇口をひねり、温水で表面の汚れを流す。


「……あ! 先に食べてしまったのですか!」


 その水音を察したのか、自室からロコが出てくる。

 普段の黒いローブではなく、ゆったりとしたシルエットで踝まで覆う真白い夜着姿だ。長く緩くうねるアッシュブロンドの髪はひとつにまとめられており、白い服だと普段よりはおとなしい印象に感じた。


「なんだ。昨日もそんなことを言っていたな」

「昨日も一昨日も言いました! どうしてひとりで食べてしまうんです!」

「理由を言わなければいけないか?」


 ひとまず腹が満ちたいい気分になっていたところへこうぎゃんぎゃん言われるとかなわない。

 むすっとして返せば、ロコもつかつかと近寄ってきて眉端を吊り上げた。


「ぜひお聞かせ願いたいですね」

「わかった。ならば言おう。まず一点。気楽だ。つぎに一点。お前がいるとまたぞろ俺の食事が台無しになるかもしれんからだ」

「ま、まだオムレツのこと引きずっていたんですか」

「卵など久しく口にしていなかったからな」


 結局あのあと騎士団詰所へ行く用事やなんやかやでうやむやになってしまっていたが、一応食べ物の恨みは覚えているジョンであった。

 ロコは自分が悪漢を投げ飛ばしたせいでジョンの食事が台無しになったことについて思うところあったか、途端に眉をしんなりさせた。青金石ラズライトの瞳が、しゅんとして潤む。


「……あれは、申し訳なかったと思います」

「ならばあのときの代金をいま寄こせ」

「う。は、はい……」


 こそこそと部屋に戻ったロコは、聖書を携えて戻ってくる。利子だと思って、ジョンは少し多めの値段を口にした。ロコは言われるがまま支払った。


「ふん。まあこれで勘弁してやる」

「あの、ところでジョンさま」

「なんだ」

「今日、夕食はこちらの部屋でとってもかまいませんか?」


 ちらりと、散らかった周囲を見回して言う。

 いまは私室をロコに明け渡したためここがジョンの部屋のようになっているが、もともとは居間なのだ。炊事場もすぐそばであるし、使いたいというのなら別に否やはない。


「かまわんが」

「ですか。よかった」


 ロコはまた部屋に戻る。

 そして紙袋を手に炊事場へ向かうと、ごそごそと中から食材を取り出しはじめた。


「……む」


 出てきたのは卵である。

 そ、っと横目でこちらを見るロコと目が合う。


「……べつに罪滅ぼしに買ってきたわけではありませんよ。たまたま、朝起きて市場に行ってみたら、安かったので」


 どこか弁明するように言って、深皿に卵を割り入れた。

 次に塩と牛乳を少し垂らし、がしゃがしゃと大匙で皿の中を掻いて混ぜる。これを置くと、壁にかけてあった底の深いフライパンを手に取り――埃が積もっていたのでこれを洗い流して――ガス炉の上に載せ、中にバターをひとかけら落とした。

 マッチを擦り、炉に火を入れ。じりぢりとバターが溶け消えると、皮紙に包んであったベーコンを取り出して、ナイフを用いて薄切りに。

 反り返って焦げ目がつくまでこれを焼いたあと、先ほど深皿で混ぜた卵を上から注ぐ。じゅわっと脂がはねて、卵とからむような音がした。

 あとはフライパンを持ち上げて火の通りを調節し、時折大匙で端をめくり返して。

 さほど待たないうちに室内には暖かで柔らかなオムレツの匂いが充満していた。


「あと、缶のひよこ豆ありましたよね」

「ああ」

「お金払うのでひとつください」


 てきぱきと缶を開けると、今度はフライパンに牛脂を落とす。

 またベーコンを薄切りにしてぱらぱらと散らし、今度は水気を切ったひよこ豆を一緒に入れる。

 ある程度火が通るまで大匙で中を掻きまわし……頃合いを見て、紙袋から出した小ぶりなトマトを六つ。大匙で掻く右手を止めず、左手で握りつぶしてひとつずつその汁と実を垂らしていった。

 白い衣服を着ているのにまるで汚さないほど、手早く手慣れている。

 ただ潰した汁が手首から袖に垂れそうになったときは、あわててこれを舐めとっていた。


「……な、なんです。はしたないとは言わないでくださいよ。恵みを粗末にするのはわたくしの神に反することでして……」

「べつに俺はなにも言っていないが」

「目がものを言っているんです! 目を閉じていてください!」

「知るか。神の方に目をつぶっていてもらえ」

「それは無理です!」


 どうしろと言うのか。

 ……やがて酸味のある、独特な香りが部屋の中に満ちる。

 左手を洗い気を取り直したロコは、塩と揚げた玉ねぎの粗砕きを混ぜ込んで先の汁を煮詰めていく。

 最後に大匙を舐めて味見をし、嬉しそうにひとつうなずいた。


「はい、完成です」


 深皿に載せたオムレツと、フライパンのままのトマトスープ。

 これを炊事場の後ろにある机へ持ってくると、上機嫌に席へついた。

 食事用の小匙とフォークを用意して、ロコはさっと己の向かいを手で示し、ジョンの方を見た。


「さあ、どうぞ」

「? どうぞとはなんだ」

「食事です」

「見ればわかる」

「……いえ、だから食事に招いているのです」


 ジョンは眉根を寄せてみせた。


「……さっき金を請求したことを引きずっているのか? 久しく卵を食っていない人間の前でそれを食うことでそんなに愉悦を感じたいのか、お嬢」

「ちがいますよ! わたくし、そんなに性格悪くありません! そうじゃなくて、席! 席について、一緒に食べようと言っているんです!」


 両手を振り回して主張するロコ。その手からフォークが飛びそうに思えて若干ひるみながら、ジョンは仕方なしに席へつくことにする。


「ふん。だが少し待て」

「なんでしょう?」

「ほれ」


 インバネスの襟元を口で探り、先ほど受け取ったオムレツ代の紙幣とひよこ豆代の小銭が入った財布を引きずり出す。

 ぽいっとこれを机の上に放り出し、ジョンは席についた。


「お代だ」

「……いやあの、お代請求するためにこれ作ったわけではないのですが」

「ちがうのか?」

「言いましたよね、一緒に食べようって!」

「ならば見返りは」

「求めませんよ! はいこれとこれ、あなたの分!」


 雑な態度で皿に取り分けて彼女は言う。金を請求されないのならいい。ジョンは背筋を正し、しずしずとオムレツとスープを眺めた。

 ロコもこほんと咳払いし、背筋を正す。そのあと静かに両手を組み、瞠目して祈りをささげた。

 ジョンも祈りが終わるまでは待った。

 目を開けた彼女に視線を合わせ、一言だけつぶやく。


「あと、わかっているとは思うが」

「はい?」

「俺は食い方が汚い。そして手伝いを受けるつもりもない」

「……あの、誘った手前いまさらこんなこと訊くのもなんですが。もしかして、一緒に食事はお嫌ですか?」


 おずおずと尋ねてくる。ジョンは少し面食らう。

 この女は、普通なら聞きにくいであろうことを平然と問うてくる。苦手だ苦手だとこの七日間も何度も意識させられたが、根底にあるのはいつも同じくこういう部分なのだ。


「……俺の方はかまわんのだ。ただ、」

「こちらもかまいませんよ。わたくし、ひとりの食事は嫌いなのです」


 二の句を継げないほど素早く返事をされて、言うことがなくなってしまう。

 有無を言わせない。やはり、こいつは苦手で認めたくない相手だとジョンは思った。

 だが。

 この食事をつくる腕は認めてもいいかもしれない。曲りなりにも食後のはずのジョンだが、目の前のオムレツとスープには引き寄せられる。


「……まあ、いい。ならば、いただこう」

「はい。召し上がれ」


 にっこりと笑って言われて、なんとも反応に困ったのでそのままうつむいた。

 さすがにスープはまだ熱かったので、ゆっくりとオムレツに口をつける。

 その、温かみ。

 そういえば温かいものを食べること自体もずいぶん久しぶりなのだと、ジョンは思い出した。



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