63:剣と十字と肉の盾
弁明も弁解もなく殺す気の一撃を打ち込んできた大主教は、涼しい顔でローナへ言う。
「……不思議な心持ちです」
大主教は右手の慈悲の短剣を揺らめかせながら、ぼやいた。眼鏡の奥では優し気な瞳が光っていた。
「死したものだと思い込んでいた相手が、眼前に現れるというのはとても不思議だ。確かにあの日、ヘリテイジに向かわせた部隊からは遺体を回収したと報告が上がっていたのですが」
「あいにくと息を繋いでおりましたよ。隠れ潜み、今日この日まで」
「ふむ。如何様にして生き長らえたのかは私としても気になるところです……が、細かな点は後から知ればよろしい」
ひゅ、と大主教の構える切っ先がわずかに上向く。
にこやかな笑みの中に、黒く凝った悪意が見え隠れした。
「今は只、貴女の命を天に還す。天上の神の御元へ、ね」
「……神ですか」
ガルデンが最期の声として述べたときのような、ひたすらに敬虔な物言いとは程遠い。
この大主教という男がどのように宗教を考えているかよくわかる物言いだった。
つまりは先ほど口にしたように――装置に過ぎないとの考え。
「天上の神など、わたくしは信じません」
ローナは一歩踏み出す。
右手中段に慈悲の短剣。左手上段にナイフ。構えた姿勢を崩さず、大主教と一足一刀の間合いを保つ。
「ローナ・ガーヴァイスは……あなたの不貞の落胤は、飾り付けた美辞麗句で都合よく宗教を使うあなたを。教えの名の下にこの世に地獄成すあなたという害悪を、滅ぼします」
「私を滅ぼして如何なります?」
「知りません。その結果どのようなことが訪れるか、どのような事態になるのかなどわかりません。……予想は、つきますが」
唐突に最大宗教のトップが暗殺され、しかもそれを成したのが大主教自身の不貞の結果であると知れれば大きな動揺が生まれるだろう。
巻き起こる混乱は計り知れない。
だが、それでも。
「それでも、あなたをこのまま組織の頭に置いていてはならない。地獄を知らず地獄を考えもせず天上だの神だのと花畑のようなことをのたまうあなたを、生かしてはおけない。あなたを……滅ぼします。アークエの凶手としてでもラクアの内乱としてでもなく、わたくし個人として」
「……然うですか。では私も、自身と教義の行く末のため」
はさりと、裾を払った白き法衣が揺れる。
「貴女を今一度葬るとしましょう。ローナ・ガーヴァイス」
互いの気迫が発せられた。
引き寄せ合うように歩みが互いはじまり、速度を増して接敵した。
剣戟が鳴る。
紫電と火花が散り咲く。
互いに互いの軌道を書き換えようとする打ち合いの音は、常の刃組み――刃と刃が触れ合った鍔迫り合いなどのことを指す剣の用語だ――よりもほんのわずかに長く、ざらついて響いた。
そしていま、また。
翻った大主教の剣筋がローナの視界を右から左へ薙ぐ。
下からすくい上げるようにこれを打ち、絡め取ろうとすれば――ぎゃリりりりッと刃鳴り、完全な書き換えには至らず頭上へ受け流すに留まる。
こちらが打ち込んでも同じことだ。返す刃で左上からこめかみを狙えば、こちらの剣筋もまったく同じ打ち合いの残響によって逸らされる。
決定打に欠ける戦いだった。
ざ、っと距離を空けて向き合う二人。
「――捌けぬものですね」
にこやかな表情は崩さず、大主教は言う。
「裁けませんね」
ローナは表情を引き締めて言った。
互い、右半身中段。
切っ先を突き出し少々前傾した、構え。
見慣れた、《聖者の御技》に酷似した構え。けれど似ているだけで差異はある。手首の入れ方や肘の位置の保持などにかすかなちがいが示されていた。
《聖者の御技》はアークエに伝わってきた秘奥だが、その発祥は『武器を所持できない聖職者の自衛手段』にある。
つまり同じく聖職者が自衛手段を考案すれば、おのずとこうした同質の技に至るということだろう。あるいは、技の骨子自体はヴィタがラクアとアークエに分かたれる前から教えの中に存在していたのかもしれない。
まあ、なんにせよ。
故に動作が重なり、故に戦いにくいのだ。
先日の狂信者のようにまったく同一の技というわけではないため、噛み合っているようでテンポにズレがある。
大主教の力量そのものも、狂信者に比べ遥かにレベルが高いというのもあるだろうが。
「……護衛など必要なさそうな腕ですね」
「お褒めに預かり光栄だ。然し、それは幾ら何でも暴論でしょう。私が強くとも数には敵いませんし、人には其々、果たすべき務めがあるのです」
「務め」
「役割、と言い換えても構いませんが」
ゆったりとした物言いで、大主教は切っ先をきらめかせた。
役割。
先に述べていたことが頭をよぎる。
「あなたにとって宗教は、役割与える舞台装置だと言いましたね」
「ええ、申し上げましたとも。君よ」
空いている左手を掲げるようにして五指開き、招くような手つきで指を端から閉じて大主教は言う。
「寄る辺なき人々の命綱であり、悪事成した者への罰であり、希望を生み出す泉であり、そしてそれらに拠って社会を導く一助たるもの」
軸のぶれない歩み。
ゆったりとした法衣は足運びを隠す。
突き込みに気づいて剣身に左手をあてがう。構えた短剣の刃に大主教の剣の十字鍔がぶつかり、火花散らした。切っ先が鼻っつらまで近づく。
ぐるんと体を開いて左へ逸らし、流しきってから右の柄頭を突き出した。顔を狙う軌道を屈んでかわし、大主教は横へ抜ける。
「ひとは指針を求める。不自由を厭うが自由を好むわけではない」
振り向きざまの横薙ぎ。ローナは左半身で向き合うことになったため、左のナイフで受ける。
同時に右の短剣を止まった前腕めがけて振り下ろした。即座に腕は引き戻される。
「御分かりですかな? 役割です。役割が在るべきなのです。社会の中に於いて己が何を成すべきかの指針がなければ、不安ばかりが膨張肥大を続けてしまう。――故に、役割を与え、他者を制御する」
「その過程で、村を滅ぼすのですか?」
「必要とあらば。何故なら宗教は社会を導く一助、ですから」
鋭い突き込み二連。
左のナイフで弾き、二撃目は前腕を引いて回避。
大主教はつづけて踏み込み真っ向から斬り下ろす。ローナは腕を引くに合わせて左半身ごと後方へ下げていたのであとは身を反らしてかわす。
右半身になった。転身からの入り身。
だが振るおうとした右手首を大主教の左手がつかんでいる。
「く、」
引き寄せながら、大主教が左横蹴りを放つ。
右脇腹に入る寸前、ローナは身を浮かせて体を錐揉みさせた。打点をずらしつつ回転して威力を流し、同時に右手首の拘束もひきちぎった。
床に身を横たえ、追撃の頭への踏みつけを転がりかわす。ずきりと脇腹の痛みがひどく、起き上がるのがワンテンポ遅れた。大主教の踏み込みが迫る。
ギリギリのタイミングで、ローナは左のナイフを向けた。
ガチン、と音がして左手が跳ねあがる。
「――おっと」
首を逸らして大主教は刃の走った空間を避けた。アークエの男から奪った発条撃ち出し式のギミックナイフだったが、さすがに堂々と向けたのでは警戒される。
ちっ、と舌打ちしつつ、ローナは立ち上がる。とどめを刺される局面を抜けられただけ、上出来としておこう。
「危ないな。貴女の役割は、斯様な険しきを冒す行いにはない筈ですよ」
「役割、役割と反吐が出る。わたくしはあなたの考えなどに付き合う気は、ないのですよ!」
細く鋭い息を吐き切り、痛みを鎮める。
肺腑を膨らませたとき、ローナは飛んだナイフの行方を目で追った。視界の奥、壁に突き刺さっている。回収は無理だ。
ならば手の内の柄は無用の物。切り替えて、ローナはタンッと駆けだす。
間合いを詰め、左手の内に残っていた柄を放り投げる。
払いもまばたきもせず顔でこれを受けた大主教は、銀縁の眼鏡の奥に凶悪な耀きを宿した。
「シッ――――」
ローナの振るった斜め掛けの剣筋を、足捌きのみでかわす。
左下方に短剣は流れ、攻撃後の隙を晒した。大主教の短剣が閃く。
それを意にせず、ローナはさらに強く腰を左へ捻じった。
右足を軸に。
左足裏を低く地を這うように滑らせ、大きく前に投げ出す。蹴りでは、ない。あくまで足の位置移動だ。ローナの体躯では短剣の間合いにて後ろ回し蹴りを繰り出してもリーチが届かない故。
だが、そこからなら。
左の《鉄槌》は、相手の右腕になら届く。
「――――ッぁぁあ!」
「ぐっ!?」
裂帛の気合。
短剣を斜め掛けに振り下ろした軌道を上書きするかのように、拳槌が大主教の右腕を襲う。大きく上体を捻転させて力を蓄えた一撃は、凄まじい威力で彼の手から短剣を弾き落とした。
とはいえ、こちらも無傷とはいかない。背中にずきりとした痛み。肩甲骨の際辺りに、突きを食らっていたらしい。その痛みの度合いから傷の深さを察し、「まだいける」とローナは判断を下す。
大主教の目がローナを捉える。
ローナの方も彼を睨みつける。
拳槌から即座、引き戻した左腕に大主教の左手がかかる。
とっさのことで振りほどこうとするが、その力を利用された。踏み込んでいた左膝裏になにか触れた、と思った次の瞬間に天井が見え、遠ざかっていった。
どすんと背中から着地。突きで穿たれた傷穴が灼熱の痛みを覚えさせる。
崩しを食らった、と判断してすぐに右手の短剣を突き上げた。
大主教の影が低く飛びのく。ちゃり、と金物が擦れる音がした。落とした短剣を回収している。
跳ねるように起き上がったローナを猛然と襲う乱れ突き。左右に身を振るいかわし、ときに後退する。
じゃり、と引いた左足にぶつかる感触。それで重心がわずかに後ろに傾き、背中がどんと壁にもたれかかる。
壁際に、追い詰められていた。
「詰みましたね」
大主教はこの隙を見逃さない。ローナの左こめかみへと斜め掛けに斬りかかる。
左半身に体重がかかってしまい自由に動けない。
後ろが壁では退くことも無理だ。
かくなる上は。
「……っせぇぁッ!」
左肩越しに背後を突き刺すよう、右の短剣を叩き込む。
がづん、と壁に切っ先突き立てられた短剣。
こめかみの真横にかざされたそれが、大主教の剣筋を弾く。予想外の防御に彼が固まる。
「なにっ、」
「防ぎましたよ」
姿勢そのままにローナは左手を右肩の方へ伸ばす。
たしか、その辺りだ。
後退してきたために正確な位置は把握していなかったが、
そこに――
在った。
先ほど左手から放たれた、ギミックナイフの刀身。
ローナは壁に突き刺さった刃の、剥き出しになった茎をつかみ取った。
左手の内にナイフが戻り、切っ先が壁から抜ける。
間を置かず壁に突き立てた短剣から右手を離す。
両腕が十字に交差した体勢となった。
「これで、終わりです」
動きはじめた左腕の、肘内にあてがう右前腕。
それを肘から手首までスライドさせるように押しつけ続け、加速を後押しする。
両の手首が重なり、速度が最高に乗ったところで、離れる。
鞭のように鋭い左の剣が振り抜かれた。
「っがぁぁぁああッッ!!」
ゴヅっ、と左肩から入った一撃に、大主教は叫んだ。
けれど出血はない。ローナは舌打ちする。
ナイフは、片刃の代物だった。つかんだのが茎だったため感触で刃の向きがわからず、峰を当ててしまっていた。鎖骨周辺の骨を砕いた感触はあるが、当然致命傷ではない。
すかさず振り抜いた下段の位置から右の脇腹を狙って突く。肝臓を割く腹積もりだった。
大主教は痛みにうめきながらよろめくように下がり、これを避ける。だらんと左腕が下がった。とはいえ右手の短剣はまだ生きている。
ローナは冷静に、壁へ突き立てた短剣を回収した。これでまた双剣の構えである。
呼吸を整え、剣を突きつけた。
左は潰した。つかみや崩しはもう来ない。
いざ、尋常に。
駆け出すローナの短剣が閃く。
と。
そこに乱入する音があった。
激しい音で扉が蹴り開けられる。
見れば、産業区画の人間や研究者に見受けられる鳥頭マスクの男が、こちらに迫っていた。
「――!? だ、だれですかあなたは」
戸惑うローナをよそに、彼は大主教との間に割り込んだ。
大主教の方は彼が何者なのか理解しているらしく、「随分と、遅かったではないですか」と不満をこぼすようにしていた。
マスクの男はじりじりと、大主教をかばったまま壁際に移動している。
体軸の定まった動きだった。格闘術……いや剣術だろう。ある程度修めた者である。
「護衛、ですか。ここまで追い詰めたのに……!」
マスクの男は答えない。ただ、行動で、身を以て己の在り方を示している。
さすがに、ローナも大主教以外の人間を殺す気はない。
盾になっているのなら、まずは彼を引きはがさなくては。
「どいてください、とお願いしたところで無理でしょうね」
逡巡は二秒。
ローナはすぐに、排除に移った。
とはいえ殺す気がないため左のナイフは使えない。右手の短剣で、打ち据えることに決めた。
接近し――再び両腕を十字に交差させる。
今度は右腕だ。肘内に押し当てた左前腕を手首までスライドさせていき、勢いに載せて斜め掛けの一撃を放つ。
大主教をかばって掲げたマスクの男の右腕に当たる。尺骨をへし折った感触があった。
つづけて右下から切り返し、横薙ぎに左腕を狙う。二の腕、上腕骨に響かせる一打。
だが男は苦悶の声すら漏らさなかった。
いや――、それどころか。
尺骨を砕いたはずの右腕を、おもむろにこちらに伸ばしてきた。
「っ!?」
下から上に短剣で弾き上げる。みし、と剣先から手首まで伝わる破砕の感触。まちがいなく骨折を悪化させたはずだ。
なのに男は止まらない。痛撃加えたはずの左腕も伸ばし、両手でローナの首を狙っていた。
「こ、の!」
ナイフの茎、左手の小指側から少し突き出たこの鉄の塊で、顎先めがけ《鉄槌》を放った。
その、左手首を。
マスクの男が恐ろしく速い挙動でぎゅるりと絡め取った。
絡みついたのは、伸ばしていた右腕。
ゆっくりとした挙動で、折れていることが明白だった右腕で。あまりにも速すぎる動きを見せた。
……この男、痛覚が無いのか? そう思わざるを得ない俊敏性。
次の瞬間。
引き戻そうとした腕をねじられ、崩しをかけられそうになった。
「! しまっ――、」
ここで崩されるのはまずい! ローナは腕をねじり返そうとする。
そのとき力が拮抗し、ねじられた腕の先で手首が揺れた。
刃先が。
マスクの男の首筋に向く。
「あ、」
まずい、と思った。
けれどそれだけならば、まだ刺さるようなことはなかった。
なのに。
マスクの男は、唐突に前に進み出た。
意図しての動きではなかった。
つんのめったような動作だった。
つまり。
後ろから、押されてのこと。
「――いい盾だ。感謝致します、君よ」
大主教が。
マスクの男の背中を押し、首筋にローナのナイフを食い込ませていた。
この動きで完全に硬直し、ローナの左半身が居付く。
攻めも守りもままならない絶対的な隙が、ここにきて生まれてしまう。
大主教がマスクの男の影から素早く短剣を突き込んできた。
左の脇腹に、激痛が走る。
ごぼ、と目の前でマスクの縁から鮮血がこぼれる。
顔に降りかかる血しぶきと己の腹からあふれる血流に黒のローブが色濃く濡れる。
最悪だ、と思った。
最悪の、状況だった。
そして。
扉は再び、開かれた。
ジョン・スミスがそこに立っていた。




