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悔打ちのジョン・スミス  作者: 留龍隆
襲劇

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63/86

62:過去と列車と成り済まし


 アブスンとの戦いでジョンに明言したように、かつてローナはヴィタ教の中でもアークエ派に属していた。

 このナデュラ帝国全土においてもっとも信者の数が多いラクア派ではなく。いまや過激派とされ、迫害の憂き目に遭っている分派の信者であった。

 しかしそれは、生まれついての信仰ではない。


「――ヘリテイジという村をご存知ですか」

「ヘリテイジ……ああ。南部のターナー地方に存在する村だ。それが如何どう致しましたかな? 君よ」

「一年前に滅ぼされました。ラクアの手によって」


 襲撃は、前触れなくおこなわれた。

 孤児院と酒造所、あとは自給自足の畜産・農業を生業とするだけだったちいさな村は、一夜にして焼け跡と化した。

 理由はもちろん単純にして明快。

 そこには、アークエを信奉する者しかいなかったからだ。

 けれどほとんどの村人たちは、なにひとつ罪を犯していなかった。過激派と揶揄されるアークエではあるが、宗派のちがいだけで殺意を抱くような者ばかりではない。

 自分の中の信仰を大事にしているだけの者も当然、いる。

 この村はそうした『信仰の違いで外の世界に生きづらさを感じた』人々が集まってできていた。ほとんどの村人がそうだった。


 たった一人を除いては――無辜の民だった。

 そして、無辜ではあるが狙われるに足る由縁持つ者も――一人、いた。

 襲撃の原因はそこにあった。


「あなたがたラクアは、たった二人の人間を殺すためだけに、ヘリテイジを滅ぼした」


 目を閉じれば、いまも浮かぶ。


        #


 乾いていく土の臭い。

 焼ける家々の焦げた臭い。

 ひとの脂が燃える臭い――生きたまま焼けるのと死んでから焼けるのとで、臭いがちがうことを知った。


 響き渡る悲鳴。

 轟き渡る絶叫。

 唸りと怒号と呻きと笑い声――刺される直前から叫んでいた場合、叫び声は意外と変化しないものだと知った。


 地獄。

 ここが地獄だと、そう知った。


 ローナは隠れ潜み、ついにはその家にも火が放たれた。狙ってのものではないだろう。襲撃者たちはひとまず窓や出入口を塞ぐかたちで火焔瓶を投げていた。

 閉じ込められたローナは息苦しさで膝に顔埋め、ただただ死を、待っていた。

 そこに。

 自分の肩をつかむ手の感覚。

 顔を上げれば目の前にいる、見知った人物。


『……御父さん!』


 ローナは彼を御父さんと呼んだ。彼もそれに応えてくれた。

 厳しくも温かで、穏やかながら芯がある、自分を育ててくれた男。


『大丈夫か。もう安心だ、お前には伝えていなかったが、ここの地下には隠し通路がある』


 声をかけてきた彼の胸に、ローナは飛び込んでいった。

 けれど彼は引き離す。どうしたのだろう、と思ったら、ローナは気づいた。

 自分の顔にべったりと付いた血。

 怪我をしている、と思い、あわてて治療をと叫んだ。

 父は首を横に振る。次いでシャツの前を開いて、怪我がないことを確認させた。どうやら返り血でしかなかったらしい。ローナはほっとした。


 ところがその安堵もつかの間のことだった。

 彼は、燃え盛る家の中で、

 いつも修練に使っていた慈悲の短剣(ミゼリコルデ)をローナに手渡した。

 彼の瞳の中は、燃えている。

 周囲の火が映ってのものではない。

 ずっと深く暗く濃く淀む奥底で、燻ぶりつづけてきた感情の熾火おきびだった。

 狂気に似た色のそれをローナに向け、彼は歯を剥き宣告した。


『よく聴け、お嬢(・・)。お前はラクアの大主教イェディン・ガーヴァイスの落胤だ』


 彼はいつも、ローナをお嬢と呼んだ。

 己が彼の実子でないということは、薄々感づいていた。

 けれどこの局面でそれを知らされたことには、さすがにショックを受けた。


『私はアークエ派工作員として、生後間もないお前をロングロという村から奪った……』


 そして育てた。

 今日この日まで。

 すべては、大主教の醜聞という……ラクアに対する切り札としてだった。ゆえにいま、狙われていた。ラクア派が醜聞を消し去るため。

 ――つまり。

 義理とはいえ、親子としてそこにあった愛情も。

 積み重ねてきた日々も。

 熱心に仕込まれた秘奥の体術――《聖者の御技》も。

 すべては、ローナをアークエの武器として磨き上げるためのものだったのだ。


『お前さえ生き延びれば、いい。我々はここまでだ。村の人間にはなにも伝えずにここまできたが……、なに。アークエの信者ならばこの終焉に、必ずや納得するだろう』


 そう口にする彼には聞こえていないのか。

 もはや響いているのが常となってしまい、

 耳の奥にこびりついて離れないこの悲鳴が。


『生きろお嬢。生き延びてアークエの正しき教えを、ラクアの愚昧な連中に叩きつけてやるのだ』


 言いながら彼は、自分の後ろにあった大きな布でかたちづくる包みの方を向いた。どうやら地下通路を通じて、ここまで運んできたらしい。

 妙に大きく、そして重たそうな包みだった。

 はらりと、布が開く。

 中には、短剣で胸を穿たれ目を見開いた、少女の亡骸があった。


『……ジェーン……』


 ローナが親しくしてきた、隣の家の娘だった。

 父の。

 父と呼んできたこの男の胸に付いていた、返り血とは……


『年も背恰好も似通っているからな。この村になにかあった際は工作員の仲間が、歯科医の経歴などをこの娘とお前のものと差し替える手筈になっている。疑われることはないよ』


 父は。

 父と呼んできたこの男は。

 ローナがよく知ると思い込んでいたこの男は。

 なんら悪びれることなく、ローナの友をアークエの犠牲にした。


『さあ。行け、お嬢よ。友の分も、お前は生き――――』


 もはや響いているのが常となってしまい、

 耳の奥にこびりついて離れないはずの悲鳴が、

 その瞬間――――新たな叫びによってこそぎ落とされた。

 生涯で耳にした中でもっとも大きく近い叫びだった。

 同時に産声であった。

 死んだ己が、ジェーンとして。実態無き存在として。

 この世に生を受けたことへの産声だった。



 血に濡れた慈悲の短剣を片手に往く。

 父と呼んだ男の通ってきた、地下の隠し通路を抜けて生き延びた彼女は、日々息を繋ぎながら己の出自について調べることにした。

 そうしてとある図書館で、当時の新聞を発見した彼女はあっけなく解答を手にする。

 ロングロという村は十四年前にアークエによって滅ぼされた、とあった。

 わずか一行。

 郷土史に刻まれるかどうかも危ういその文章。

 けれどたしかに人々が争い、死に絶えたのだ。

 自分の本当の母も、そこで死んだに相違ない。


「……わたくしは」


 なんだ?

 なんなのだ?

 自分の周りでひとが死んでいく。

 生まれはラクアで育ちはアークエ。どちらの村もいまは亡きものとされた。

 宗教のために滅んだ。だれだって死にたくなかったはずなのに殺された。教えのために周囲の人々は相争い、互いを滅ぼしていく。

 どちらが良いとも言えない。どちらがマシとも思えない。彼女の中にはかたちの見えない教義に従う人々への恐怖が満ち、わだかまりだけが残った。



 生きることへの意味も見いだせず、彼女は各地を転々とした。

 いろんな場所に出向いたが、心はここにあらず。常にひとりだった。

 途中で、蒸気路線に乗る。この国を二つに切り分けるように完成した、大陸横断鉄道グレートトラヴァースだ。

 目的の無い旅路であるがゆえに、ただひたすらに進んでくれるのなら果てまで行ってみようかと、そう思っていた。

 そこで命運に出遭う。


『――お隣、いいかしら』


 ハットを外す人影がコンパートメントの扉を叩いた。

 己と色合いのよく似た、アッシュブロンドの髪がなびく。

 クリーム色のショートジャケットの中にフリルブラウスを着用し、タイトなスカートを穿いた恰好。時流に合った旅装と言えた。

 女は、自身と年の頃が近い。瞳の色こそ向こうは孔雀石マラカイトだが、背恰好も近いので傍から見れば姉妹のように映ったかもしれない。


『どうぞ』

『ありがとう』


 許可を出すと女は入り込んで、真向かいに腰かけた。親し気に片手を差し出し、握手を求められる。


『ロコ・トァンよ。貴女は?』

『ジェーンです』

『ファミリーネームは?』

『ない』

『あら、そう』


 深く訊ねるつもりはないようだった。ロコは座席の上で膝を組み、ふふんと鼻にかかる声で笑う。

 ロコは、腰に提げていた聖書を脇に置いた。彼女はそれを見てわずか、顔をしかめた。これをロコは素早く察した。


『聖書がお嫌い?』

『嫌いということはありません。ただ、教えに従う気にはなれないのみです』

『まあ。それでは神の教え無くして貴女はどのように道徳と思いやりを育んできたのかしら……』

『ひとの教えですよ』


 それも、いまとなっては正しいものなのかまるでわからないが。

 ぼやく彼女へ、ロコは愉快そうに笑ってみせた。


『ねえ、かみさまってなんだと思う?』

謎かけ(リドル)ですか?』

『そういうわけではないわ。ただ、貴女にとってのかみさまを知りたいの。ね、お答えになって』

『……天にも地にもどこにもいないものですよ』


 うんざりした気分で返し、彼女も膝を組んだ。


『いるとすればどこでもなく、ここ』


 自分の胸を指し示し、彼女は沈黙した。

 この答えが気に入るものだったのか、ロコは手を打ち鳴らして目を耀かせた。


『いいお考えね。いいお考えだわ、とっても』

『そうですか』

『あら、皮肉で言っているとお思いのようね。本当に感銘を受けているのよ? 私は貴女を気に入ったわ』

『そうですか』

『あんまりいいお考えだったから、……ふふ。このまま死なすには惜しくなってしまったわ。貴女のことは……見逃してしまおうかしら』


 ロコはふいに、不穏な物言いになった。

 瞳の奥にぎらついた光が見えた。

 それが周囲を蝕む、あの日父と呼んだ男の目に宿った火と同質のものだと、すぐに気づいた。

 けれどとくになにをするでもなく、彼女はもう一度繰り返す。


『そうですか』

『ええ。一方的な好意として、そうさせてもらうわ』


 ロコはうれしそうだった。

 一方の彼女は、なにがどうなろうと気にするつもりはなかった。どうせ行き場も息する場も無い。酸欠になるまで歩んで、なにも考えられなくなって、それで終わりになればいい。

 とっくのむかしに自棄になっていた彼女は、孔雀石の目をしたロコをぼんやりと見つめたまま時を過ごした。

 やがて、どれほど時間が経っただろう。

 黙ってロコと見合っているうち、急速に事態は進行した。

 コンパートメントの後ろの方――一等二等の車輌から、甲高い悲鳴が聞こえる。ガシュン、という排気音が連続する。おそらくは杭弾銃パイルガンで乗客の幾人かを黙らせたのだろう。

 テロか、と彼女は状況を認識した。


『貴女はラクアではないようだから、生かしてあげる』


 ロコは席を立つと、傍らに置いていた聖書を手に取る。

 ぱらりとページを開く。

 そこには本来あるべき聖句がなにひとつ記されていなかった。

 非ざる道の書だ。

 アークエにおいては、教義とは口伝で暗誦あんしょうできるまでに覚え込むものであり中身は必要ない――との考えからこのミスプリントの書を扱う。

 つまり、ロコの正体も。


『真に正しき教え、アークエの名の下に。このテロで私たちは革命を起こす……もしまた会えたら、次はもう少し長くお話してみたいわ。ジェーンさん』


 くすりと笑んで、ロコはコンパートメントを出て行く。

 なんらかの目的があって、彼女らはこの列車テロを仕掛けたのだろう。

 止める気もなく、彼女はそれを見逃した。

 ただ、他人からジェーンと呼ばれたことで感じた違和だけが、胸の内に疼いた。


『ジェーン』


 口に出すと、寒気がした。

 彼女の友だったジェーンは、もういない。いないのに、そう呼ばれる()が歩きまわっている。まるで幽霊スペクターだ。

 こんな生き様を。死に様を。まだこれから先も、つづけていかなければならないのか。

 怖気がして、彼女は己の身をぎゅっと掻き抱いた。

 その、身を丸く縮めた姿勢が。

 幸いした。


「――――――――!!」


 強すぎる衝撃と吹き飛ぶ身体。

 叩きつけられたことでまだ生きていることを感じ、また衝撃。吹き飛ぶ。

 三度、これを繰り返した。

 それでも生きていた。

 彼女はぐしゃぐしゃに潰れたコンパートメントの座席下にある隙間にすっぽりと納まるかたちで、難を逃れていた。

 頭の中を揺さぶられた心地がして猛烈な吐き気に見舞われ、胃の中身を吐き出す。

 狭い空間に、しかし吐しゃ物の臭いは立ち込めない。

 粉塵と埃と煤とが舞い、それどころではなかった、というのと。彼女の足元へ、すぐに液体が流れていったということがある。


 彼女が足下を見ると、さっきまで外の風景を眺めていた車窓がいまは灰色の地面を割れた硝子越しに見せつけている。

 車輌は、横転していた。

 列車事故、ということなのだろう。

 げほごほと喉奥につかえる気体と吐しゃ物をまき散らしながら、彼女は座席の下を出た。頭上……コンパートメントから出る、通路の方を見る。高さにして二メートル半はありそうだ。跳躍しても届かない。

 仕方ないので、横長のシートに慈悲の短剣を突き立て、岸壁をのぼるように上を目指した。

 やっとのことで這い出た通路もひどい有り様で、コンパートメントとコンパートメントの間を飛び越えながら彼女は車輌の出入口に向かった。


 足下を見れば……各コンパートメントの中は死屍累々。

 彼女が無事で済んだのは、たまたま取っていた防御姿勢と、周囲にだれもいなかったことが要因かもしれない。ほかの室内は人と人とがぶつかりあって揉みくちゃのミキサーと化していたようで、どこも一目で生者がいないとわかる程度には血であふれていた。

 気持ち悪さをこらえつつ、出入口から外へ。

 本来はホームへ降りるための段差ステップが、いまは天と地に向いている。

 ひとまず地面の方へ着地しようと、彼女は下を見た。

 そこに。

 ロコ・トァンが死んでいた。


『……死にましたか』


 ずいぶん早い再会だったが、語らう機会ではなくなったようだ。

 彼女の遺体は――車輌と地面の間で押しつぶされ、首から上が粉みじんにされていた。おそらく次の車輌に移ろうとしているときに列車が横転し、しがみつこうとしたがつぶされた。そんなところか。

 即死、だったろう。

 苦しむよりは幾分マシだな、と彼女は思った。

 横に降り立つ。まだ気持ち悪さが残っておりふらついて、がくがくと膝から屈しながらまた少し、吐いた。

 胃の中身がなくなったことで軽くなった身体を、少しだけ上向けて彼方まで見やる。

 横転した列車が、死んだ芋虫のように身をうねらせて線路わきに転がっていた。

 先頭の蒸気機関部からは焔と煙が上がっている。

 よろよろと近づくと、スコップを手にした機関手数名によって叩きのめされている者がある。


『……お前がっ』『お前らアークエの糞どもが、』『んなことしやがっ』『ろしてやる、この異教徒ども、』『くそっくそっくそっくそぉぉぉぉっ!』


 叩きのめされる男の脇には、風にページめくられた白紙の聖書。

 だいたいの事情は、それで理解できた。

 アークエのテロリストのせいで、この列車は横転させられたのだろう。それが元よりそのように計画してのことだったのか、それともなんらかの失敗によってせめてラクアの人間を道連れにしようとしてのことだったのか、そこまではわからないが……。

 いずれにせよ、結果は結果だ。

 アークエはテロによって多くの犠牲者を出した。


 ……ほかの車輌からも、生き残りの人々が少しずつ姿を現している。

 だれもかれもが重軽傷を負っており、彼女は自分の無事が本当に奇跡的な確率で起きたことなのだと知った。

 が、それすらもどうでもよかった。

 自分の身の無事を喜ぶより――またか、という忸怩じくじたる思い。

 また、自分だけが無事に済むのか。

 周りのすべてが宗教によって乱れ、堕ち、歯車がかみ合わなくなった末に砕け崩れていく。

 単なる巡り合わせに過ぎないのかもしれないが、これで三度だ。三度目なのだ。

 さすがに――かみさまを、呪いたくなる。


『天にも……地にも……神なんて、いない』


 いるとすればここに。

 自分の中に。

 思って、彼女はぎゅっと胸元を握り締める。


『なにが宗教ですか……なにが、かみさまですか……』


 そのためにどれだけのものが無くなっていく?

 何人が、ジェーンや、ロコや、この場の人間たちのように命を落としたり傷ついたりする?

 ラクアの大主教――己の血縁上の父親だという男は、なにを思って教えを説き、生きている?

 湧いては弾ける泡のような疑問で心中が満たされ、彼女はロコ・トァンの遺体の元へ戻った。


 あなたは、なにを思っていた?

 アークエに属してその教えの下にこんな凶行に及んで、なにがしたかった?

 黙っていては気がふれてしまいそうだった彼女は、けして返事をしないロコへとひたすらに問いを繰り返した。


 そのとき。

 なんの気なしに見た彼女の所持品が、目に留まった。

 先ほど機関手たちに叩きのめされていた男のものと同じ――――白紙の聖書。

 非ざる道の書のページに、なにか記載があった。


『……書き込み?』


 しかも筆致筆跡がページごとにちがう。何人かの人間と、やりとりしていた。

 ものが聖書だ、どこに持ち歩いてもさほど違和感はない。おそらくこれを交換するなどして、行動の符牒や合図を伝えあっていたのだろう。

 ぱらぱらと、その場で読み進める。

 そこには、このあとのロコ・トァンが予定していた動きが記されていた。

 線路の果てにある蒸気都市ドルナクへの潜入。騎士団内で動きやすい聖職者の立場取得。きたるサミットで来訪する大主教を暗殺するべくおこなう情報収集。そののち、やってくる工作員との連携について。

 幾多の筋書き、および向こうでのロコ・トァンとしての身分、ロコ・トァンの個人情報の設定――外見や来歴、血液型(・・・)など。そういったものがこと細かに記載されていた。


 サミット。

 大主教。


 そのふたつの単語が、とくに彼女の気を惹いた。

 暗殺は蒸気裂弾による裂殺となっているが、大主教が来るポイントやタイミングを知ってそれを回避したあとならば。

 自身が大主教に近づくことが、できるのではないか。

 かみさまを信奉して数多の人間の人生を崩壊させてきた宗教の首魁に……自身の本当の父である男に、会えるのではないか。

 そう思った。

 だから。

 彼女は。


『――――ああ、貴女もこちらのブルネル号の乗客で? いや、ご無事でなにより。生存者のほとんどが重傷を負ったというのに運がありますなぁ……してお嬢さん、御名前は?』


 蒸気路線事故発生から一夜明けて保護にやってきた鉄道警備隊と警察の人間に、


 顔を上げてこう答えた。


『ロコです。ロコ・トァン。……これから、ドルナクへ向かって騎士団御付きの聖職者の任をお受けするところでした』


 すべては、大主教と対面するため。


 己の運命と向き合うため。


        #


「……滅ぼし滅ぼされ、滅し滅され。ラクアもアークエも己の信ずるところのために、命を粗末にしすぎています」


 かつてローナであり、ジェーンと成り、ロコに成り済ました彼女は、いまふたたびローナ・ガーヴァイスとしてここにいる。

 とうに死んだ存在だが。名無しの己ではなくひとりの個人として、大主教に意思をぶつけんがためここにいる。


「答えてください、大主教。……あなたにとって宗教とはなに? かみさまとはなに? あなたの神は……どこにいるの?」


 短剣とナイフを向けながら問う。

 イェディン・ガーヴァイス大主教は、じっと見つめていたローナから目を外し、静かに立ち上がった。

 ふわりと法衣アルバをなびかせて、ソファを回り込むようにローナの方へ歩み寄る。

 歩法はしかと地を捉えるもので、体幹がしっかりしている。

 彼は、残り三歩まで間合いを詰めて、足を止めた。


「宗教とは。うですね……」


 大主教は。

 ゆったりとした袖に覆われた右腕を掲げ、


「差し詰め役割を与える舞台装置(・・・・)――でしょうかね?」


 袖内に滑らせていた慈悲の短剣を抜き放ち、一挙動のうちにローナへ打ち込んできた。

 不意打ちに即応し、絡み合う短剣。

《裁き手》の発動。

 そのいなす動きが、ぐるんと相手の剣筋に飲まれたように感じた。

 同じ技法の、使い手!


「残念。仕留め損ねましたかな、君よ」


 悪びれもせず、大主教は笑みを浮かべたまま。

 ローナはその在り様に、腹の内が煮えくり返るのを感じた。


「……それがあなたの答えですか」


 ローナはもう一度だけ、瞑目した。

 鼻孔に命焼ける臭いが、まぶたの裏に紅蓮の焔が、鼓膜の奥に死の絶叫が、よみがえっては消える。

 地獄の光景。悪夢の呼び声。


 この男には、それを聞かせなくてはならない。


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