56:知己との遭遇と立食と競り合い
迎賓館の中はその広さをまるで感じさせないほど、ひとであふれていた。
天井の高い玄関ホールの端で受付を済ませたジョンとディアは、大理石のタイルが敷き詰められた中をゆっくりと進む。とは言ってもここにはゆったりとした速度で動く人間しかいないので、衝突などを気にすることはなさそうだ。
下等区画や貧民窟に存在する騒がしさあわただしさ、ところによって生じる気の抜けない静けさ……といったものがここには無い。常に低く這うような談笑の声と、周囲に気を配るひとびとの視線の交差があるだけだ。
ホール向こうの二重扉の先にある大広間へ入っても、それは変わらない。
ただ、人いきれに混じる香水や、薄く漂う食事の匂いが増える。視線をやるとそこかしこへ等間隔に置かれたテーブルは、しみはおろか皺すら無いクロスをかけられた上に、温度を気にせず口に運べる料理と飲料がいくつか並べられていた。
「午後いっぱいサミットに時間を取るということは、ここで食事を済ませろということか」
「いやぁ、正直食べるひとはほとんどいないけどね。かたちだけだよ。あまり食事を口に運んでると空気読めてないと思われて、足下見られる」
「そういうものか」
「でも食べたいなら言って。姫が取ったげる」
「要らん」
「……そう返すだろうとは思ったけどね。でもこれ冷めてるからきみでも食べやすいだろうし、つくってるのは腕のあるシェフなんだよ? もちろんタダだし」
「お前の評を下げてまで節約する気はない。それに」
「それに?」
「どの料理も、あまり食指が動かん」
銀の腕をぶらつかせながら言えば、ディアは冗句だと受け取ったのか「あは」と笑った。
だが実際、冗句ではなくあまり食べる気になれなかった。ディアの評価に繋がるかもしれないというのもあるし、それ以上に朝食のオムレツがまだ胃の腑に残っているのもある。
「それより、ぼうっとしていていいのか? こういう場は会話で交流を図って相手との力関係の変化や後ろ盾の存在を確かめるためのものだろう」
「お、なんだかきみらしくもない。そういう駆け引きとかだれかに教わったの?」
「前にゴブレットが上長の集いだのでそうした面倒に見舞われると愚痴をぬかしていた。奴はとくに後ろ盾もないからな」
「ああ、ゴブ兄はね……立場的にどうしても弱いよね。腕が認められてるとは言っても、騎士団の中でゴブ兄にお世話になるのもしょせんは平民の騎士だし」
「上位騎士隊の駆動鎧装遣いは、DC研究所から派遣された技師が診ていたからな」
「そのへんも当てつけっぽくて悪いなぁといつも思ってるよ。風当たり強くないか心配」
微妙に彼の身を案じるような吐息を漏らしつつ、ディアは膝の上に置いた手を揉み合わせた。
ゴブレットはもともと、ディアと同じ在野の工房所属の技師だった。都の方で育ったジョン、ディア、それから……スレイド。この三人を一回り歳の離れた年長者として、いつも見守ってくれていた。
ディアが果学研究学会に属し、そこからのツテでドルナクへ移るとなったときも。どこからともなく駆動鎧装技師兼任で騎士団隊長の職を手に入れ、先回りして待っていたほどだ。
その手練手管は大したものなのだが、かといって実力に見合った評価がされるとは限らないのが縦社会というもの。出自の不明瞭さ、身分の低さが災いして、彼をよく思わない者は多い。
「だがまあ、当人の素行もある。風当たりが強いとしてもそれは奴の飲みグセであるとか部外者を詰所に連れ込んだことであるとか、そうした部分によるものだろう」
「あとは部下に問題行動多いひとばっか、っていうのもあるでしょ」
じとっとした目でからかい半分に見つめてくる。ジョンは目を逸らし、ふんと鼻を鳴らした。
「否定はしないが、その分結果も出している。五名しか所属していないにもかかわらず吸血鬼の年間討伐数は現状、全騎士隊中で四位だ」
「その討伐のために個人プレーとか命令違反が目立って問題行動だって言われてるんだよ、きみたち」
「否定はしない。全騎士隊中、始末書の枚数も第七は四位だった」
「五人しかいないのに……」
「行動規範に面倒が多すぎるからだ」
心底そう思いながら、ジョンは目を逸らした。ディアははぁ、と気の抜けたような声を漏らしている。
「ま、なんでもいいけど。午後のサミット中はさすがに個人プレーとかはやめてよね」
「善処する」
「政治家みたいなこと言ってないでよ」
前にロコにも似たようなことを言われたな、と思いながらジョンはああ、とうなずいておいた。
そんな二人の傍に、すたすたと近づいてくる影があった。
「おーおー。大きくなったじゃないのさ、オブシディアン。男連れで研究の場に来るたぁふてぶてしくなったもんだね」
かんらかんらと笑いながら、大仰に手を振ってやってくる。
それはとても大柄な女性だった。
ジョンともさして上背が変わらず、腕や胴も太い。といって歩き方や姿勢には鍛えた様子は見受けられず、おそらくはもとから骨が太い体型なのだろうと推察された。
厚ぼったい唇が目立つ、丸い顔。ばちりと開く黒い目、黒くばさばさと広がった髪。
顎と一体化した首筋より連なる隆起した肩から視線を下ろせば、樽のような胴で漆黒のドレスははちきれそうになっていて、長い裾から出た足はどっかどっかと床を踏みしめる。ミュールはその重みに耐えかねているように見えた。
視線を上げると彼女はジョンを見据え、にいいと笑ってみせた。歯並びが妙に綺麗なのが印象に残る。
その顔つきに、年のころは四十か五十だろうと感じた。推測の幅が広くなるのは、脂肪で皮膚が突っ張って皺がほとんど見当たらないためである。
彼女がぐつぐつと喉奥で蛙のような笑い声をかみ殺し、だみ声でつづける。
「研究職……ってツラじゃぁないね。あー、腕。《銀の腕》だねそりゃ。するってぇとあんたがオブシディアンの相棒? シケた目ぇしてるねぇ、ははっ」
事実を事実として指摘しながら、彼女はもうひとつ大きく笑ってみせる。
こいつはだれだ、と視線を真下のディアの頭頂部へ向ければ、彼女はうーんとうなって下唇を突き出していた。
「タリスカおばさん。シケた目とか言わないでよ」
「おやおやこの子ったら怖いね、怖い目ぇしちゃってるよまぁ。よしとくれよ寿命が縮む」
「ちょっと縮むくらいでちょうどいいよ。放っておいたらあと百年は生きそうじゃないあなた」
「いいねぇあと百も生きられたら。いま関わってるプロジェクトだって、完全な結果を見るに至れるのはあといくつあるのやら……うらやましいよあんたが。若いってのはとにかくずるいねぇ」
にたにたしながら、タリスカというらしい女は手近な机にあった食事を――というか、食事の載った皿を丸ごと片手に取った。つづけざま、この皿に載るチーズと刻んだハーブをハムでくるんだ軽食を、ひょいひょいと口に放り込んでいく。
「……食事をとりすぎると周囲に足下を見られるのではなかったか」
ジョンが口を動かさず小声で訊ねると、あー、と答えづらそうな声をあげてからディアが応じた。
「このひととか、数名に限ってはだれも意見なんかできる立場じゃないから」
「そういうことか」
言われてみれば、この会場の中でタリスカ含め数名の周囲は、奇妙な間合いが取られている。
視線と談笑が低く這い、互いのバックや現状を探り合う会話ばかり聞こえる中で、彼女らの周囲だけが空白地帯なのだ。
目をやるときにタリスカのところだけはすうっと通り過ぎるようにして、探る視線を向けない。会話の際も彼女に届かないような声で、近づけば声量を落としている。
触れてはならない領域が構築されていた。
「アタシはタリスカ・ストーミィだよ。専門は微細生物学、果学研究学会の、まぁ古株さ」
自身のことをそう紹介し、タリスカは皿をテーブルに戻した。もう上にはなにも載っていなかった。ジョンはひとまず会釈しておく。
「……専門は、ってだけでありとあらゆる分野に精通してるんだけどね」
そうディアが付け足す。
「なに言ってんだかねこの子は。どれも時間つぶしの片手間で覚えたことばかりだよ。あれを精通と言われたんじゃ、専門分野なんてかみさまの領域に踏み込んでることになっちまうじゃないのさ」
ふふんと鼻にかかる声で笑い、グラスの葡萄酒を飲んでいる。
豪快な人物であった。微細生物学というと細菌や真菌などだろうか、とジョンは考える。
「というかタリスカおばさん、お酒飲んでていいの」
「アタシの出番は午後の最後の方なんでね。その頃にゃ酒気も抜けて頭も回るようになってるさ。それまでは一杯二杯飲むくらい許してもらわないと、このつまらん立食の時間なんて耐えられやしないよ」
「ああ、そう……そういやさっきグレア姉から、あとはブルケットさんと会長が来てるって聞いたけど」
「ブルケットは駆動鎧装の調子が悪いとかでいまは外してるよ。会長はほれ、向こうの方。クリュウのやつと話してる」
タリスカが指さした方を見ると、そこも空白地帯になっていた。
つまりは視線や声音の届かないスペースを構築しているということであり、そこにいる人物が周囲にとって近づきづらい人物であることを示唆する。
まあ、それもそうだろうとジョンは思った。果学研究学会の会長というのなら、この国の頭脳のトップということになる。おまけにその横にいるのは、この国の産業のトップだ。
産業のトップ――その、燕尾服を纏う彼の身の丈はジョンよりも十センチは高い。多くの皺が柔和さを醸し出している顔の中で白い歯が光る男だ。
燃えるような赤髪がまっすぐに後ろへ追いやられ、背後に向けて尖るようである。また炉の中を思わせる黄金とも琥珀ともつかない色の眼も、燃え耀きこちらを見つめる。顔つきや皺が六十半ばを超えた彼の実年齢を物語るというのに、その眼は奇妙なほど若々しかった。
タリスカやディアの姿に気づいたのか、彼はグラス片手にやってくる。
「ごきげんよう、タリスカ氏。その身の樽に葡萄酒を戻す作業は捗っておられるようだな」
あくまでも冗談であるというのが伝わる口調で、彼は言った。
タリスカはふんと鼻から息を抜くようにして、片眉を上げながら応じた。
「失礼しちゃうね、クリュウ。アタシの身体はまだ樽ってほどじゃぁないよ。せいぜい丸太ってとこさ」
「これはこれは。見誤っていたようで申し訳ない」
軽い調子で言いながら、炉のような眼をしばたく。
クリュウ。クリュウ・ロゼンバッハ。
ドルナクが三十年前に拓かれた当初からいままで、街の屋台骨として存在してきた大企業ジェイムソンインダストリアル。
その取締役社長である彼は、多額の寄付や献金によってドルナクの市長であるルゴー・ドメイシーはおろかDC研究所の人間、はては果学研究学会の人間にまで名を知られ傅かれる存在だ。
その後ろから、クリュウより一回り小さな体躯の老人が、ステッキをついて進み出る。
「……うちの者に軽口を叩くのはよしたまえ、クリュウ」
低い声は常に気落ちした溜め息を孕んでいるかのように響く。
垂れ下がっているのが常態らしい口角と、それに引きずられるように落ちた頬の肉。
たるんだ上下のまぶたと鷲鼻と、血管の浮いた皮膚が目立つ禿頭。時の経過で溶け落ちる中途のようにも映る顔の彼は、モノクルに覆われる金色の眼でジョンたちを睥睨した。
もう片方の目はすでに光を失って久しいらしく、角度によって魚の鱗のようなきらめきを見せ、視線の向きが変わらない。義眼だ。
かつ、っと黒檀のステッキを床について、彼はダブルのジャケットの胸ポケットに納めていたハンカチーフで口許を押さえて咳をふたつ。
「……失礼。歳でな」
「もう七十七か八だったろう、ヴィクター。ご老公は引退の時期であらせられる」
クリュウがふざけた面持ちで肩を叩くと、鬱陶しそうにこれを払いのけて老人――果学研究学会会長の地位を戴く世の叡智の結晶、ヴィクター・トリビアはうめく。
「馬鹿を言うでない、クリュウ。引継ぎが終わるまであと三年半はかかる。それまで私は降りぬ、降りられぬよ」
「ということを先ほどからずっと話し続けておられる。優秀な後続が欲しくて仕方ないのだそうだぞ、ご老公は」
「おあいにくさま。アタシは面倒が多くて遊ぶこともできない地位はごめんだよ。この子とかブルケットとか若い子をいまから仕込んだらどうなんだい?」
タリスカが横のディアを指さす。ヴィクターは静かに首を横に振った。
「若いのは壁と柵を知らぬ。突き当りで散々にもがいて、来た道を戻る経験をした者でなければ、上に立たせるなど土台無理なことだ」
「あら、そう」
「若いうちはとかく研鑽に励むこと、励むにあたって有用な師を見つけることだけに注力しておればよい。ひとりでこなそうとするのがなによりも時間の空費を招くのだからな……そこのきみも。そこは理解しておきたまえ」
急にぎろっと、義眼でない左眼でジョンを見据えながらヴィクターは言った。
なんと返したものか、判断に迷う。そうしているうちに彼はぐ、ぐ、とステッキに重心をかけて身を乗り出し、モノクル越しにジョンの顔を見つめた。
たるんだまぶたをミリ単位で開いたり戻したりして。
数瞬してからヴィクターは怪訝な顔をした。
「……だれだきみは。ブルケットか? しばらく研究室に籠る内にずいぶん人相が変わったな」
「……ちがう。俺はジョン・スミスだ」
「スミス……ああ、比較言語学研究をしている奴だったか」
「ちがう。だれだそれは」
「ちがう? ではどこの研究棟所属だ……?」
「彼は私の駆動鎧装技術におけるモデルケースとして呼んだ者です、ヴィクター会長」
硬い口調で遮ったディアの声に、ヴィクターは乗り出していた身の向きを変える。
車椅子に腰かけた彼女に目をやり、またまぶたをひくひくさせた。
「《蒸姫》。久しいなオブシディアン」
「ご無沙汰しております、会長」
立てないので着座にて失礼、と言いながらディアはドレスの裾をつまんで持ち上げ、頭を下げる。ヴィクターはそうか、と言いながらそちらを見ていたが、目の焦点は合っているのか微妙なところだった。
「会長、あんた見えてなかったの……アタシがさっき指さしたじゃないのさ」
「すまぬな、タリスカ。理解したフリをして話を進めてしまうのは、老いたが故の私の悪癖となりつつある」
ごほん、と肘の内側へ咳を放ちつつ、ヴィクターはステッキでかんかんと床を叩いた。
「ステッキをついているのも膝を悪くした以上に、目がな。いまでは歩行の補助なくしては、勝手知ったる研究所内くらいしか動けぬ」
「いよいよ会長の跡目争いが本格化しそうねぇ」
「くだらぬ……金で動く蒙昧に跡を任せる腹積もりは毛頭ない。求められるのは先を見据える目だけだ。私よりも先を見通せる力持つ者があれば、いますぐにでも座を譲るであろうよ」
小柄な身の内に壮絶な思いを溜め込んでいると思しき老人は、笑みのひとつもこぼすことなく静かにそう言った。
果学研究学会会長。このドルナクがあるナデュラ帝国の、中枢部に食い込んでいるであろう人物だ。その目は現実の間近が見えなくなりつつあってなお、遠く未来を見つめている。
クリュウはそんなヴィクターを横目に見つつちいさく肩をすくめ、「ご老公はじつに御健勝であらせられる」とふざけた口調で述べた。
「ともあれ、偉大なる躍進の痕跡で行われるこのサミット。我々ジェイムソンインダストリアルもこの国の今後に多少なりと関与する企業なのでね、ぜひとも成功に終わらせて頂きたいものだ」
クリュウの語調は変わらず、のんびりとしたものである。
けれどどこか、語尾に挑戦的な響きを感じた。
そこでタリスカが「はン」と鼻にかかった声で返す。これもまた、どこか挑むような、クリュウに対してのそれだとわかる声音であった。
「成功? あんたがどの程度を成功と思ってるのかわかんないからね、なんとも言えやしないよ。そこはアタシら作り手と経営者であるあんたらとの、見解の相違ってもんさ」
「自信の表れと受け取ってよいのかね?」
「利権にありつけるかの算段をいまから付けといたほうがいいだろうね。長い付き合いだからこその御忠告だよ、クリュウ」
「それは楽しみだ」
今度は揶揄や挑発ではなく、純粋な感情の発露と見える発言で彼は区切る。毒気を抜かれてか、タリスカはふんと苦笑いするに留めた。
「……複雑だな。研究だの開発だの、そこにおける人間関係といったものは」
「小競り合いは絶えないからね」
ジョンがディアに漏らすと、慣れた様子で彼女は笑っていた。
そういうものか、とジョンは受け流しながら、その後もつづく彼らの会話をじっと眺めていた。




