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悔打ちのジョン・スミス  作者: 留龍隆
第四章 会合

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53:ロコと女傑と遺し書き


 ロコ・トァンは天上の神を信じていない女だった。

 だが教会に赴いての朝の礼拝は欠かさない。

 なぜならそれが彼女に課された責務で、周囲に必要とされた役割だからだ。


「……ふう」


 けれどもちろん、その祈りにはなんら心が込められてなどいない。

 葬儀礼においてはさすがに死者の安寧を願うくらいするが、普段の礼拝においては己についても、周囲についても、なにひとつ祈ることはない。

 ただ瞑目して。

 その日の予定など脳内で組み立てながら、両手を組んで祈りを捧げるふりをする。それでも周囲からは「しっかりした姿勢だ」「敬虔な様子だ」と評されるのだからよくわからない。

 今日も無為なる祈りをだれに咎められることもなく、騎士団所属の聖職者としての任に出ることを上位者に告げ、それでつつがなく終わる。

 ひょっとしたら今日くらいは声をかけられるかもしれないと思っていたのだが、それも無用な心配だったようだ。


「確認しました。どうぞ、シスター・ロコ」

「どうも」


 教会務めの男はなにひとつ気づいていない顔でロコの顔と差し出したパンチカードを一瞥し、すいと記録機械に通すと次のシスターを相手した。……案外、彼もなんら心を込めずに祈りを捧げるクチかもしれないな、と彼女は思った。

 教会の小ぢんまりとした礼拝堂を出たロコは、薄く辺りを漂いはじめたスモッグにアッシュブロンドの髪をもてあそばれた。

 もう慣れたもので、顔をしかめることもなく手櫛で軽く梳るのみで済ませ、直射日光の差さない薄暗い十字路に立つ。


「さて、まいりますか」


 腰に帯びた短剣と、白紙の聖書の位置を正し。

 彼女は産業区画方面へと歩き出した。

 向こうを訪れた回数はさほど多くない。深いところまで向かったのは、それこそジョンと共に急速分裂を始末した最初のときの一回程度だろう。

 しかし彼女は、もともと道に弱くはない。訪れたことの無い土地であっても、傾斜の付き方や遠目に見た建築の密集度などからなんとなく路地の張り巡らせ方を把握できる。

 ロコ・トァンは方向感覚に優れた女だった。ドルナクに来てからも迷ったことは、無い。

 あの日ジョンに出会ったのも、本当はドルナクへやってきてすぐのことだったのだ。


        +


 騎士団詰所に立ち寄って本日の業務を受け取ることもなく、のんびりと歩いてきた彼女は産業区画の端に入ろうと路地から出た。

 すると腹の高さにぶつかるものがあり、あわてて足を止める。途端に噛みつくような大声で威嚇された。


「なんだい藪から棒にひとの食事を邪魔するでないよ! どこの馬の骨だか知らないがこの忙しいさなかに私の前に立ちはだかるとはいい度胸だ!」

「いや、前に立ちはだかったのはそちらでしょう……」

「道あらばひとが居る! そんな当たり前の道理にそのような物言いとはますますいい度胸だ、呑み込んでしまった圧搾固形食糧ミクスドブロックの味を楽しめなかったぶんの慰謝料をお前が払うまで私はここを一歩も動かんぞ!」

「味わえなくてよかったじゃないですかあんなもの」


 一度その味を確かめてしまったことのあるロコは、げんなりしながら声の主――《夜風の団(ナイトインゲイル)》率いる女傑イブンズ・ドラブロに肩を落としてみせた。

 いつもの装備である背嚢に腰かけてあのびっくりするほどまずい携行食料をかじっていたらしい彼女は、真鍮縁の多レンズ眼鏡を額に載せたままうん? とロコの顔をあらためる。

 ちょっとだけ身を硬くするが、ふわ、とわずかにあくびを漏らした彼女はすぐに膝に頬杖ついた姿勢に戻り、懐からがさごそと二本目の圧搾固形食糧を取り出していた。


「なんだいだれかと思えばシスターのお嬢ちゃんか。なら今日のところは勘弁しておいてあげるとしようじゃないか」

「顔も見ずに吹っ掛けていたのですか?」

「どんなかたちであれ印象が残っている方が基本的に人間関係は有利に働くのでね。あとから挽回するなりなんなりで関係を強固にするにもひとまずは最初のインパクトが肝心だ! というわけで私は初見の出会いの際はあのように接することが多いのでゆめ忘れるなかれ」

「はた迷惑な……」

「人間は生きつづける限り他者に迷惑をかけずにはいられない生き物だ!」


 真理を告げるように宣言し、がじがりとあの異様にまずい食料をかじるイブンズ。

 朝っぱらからあくの強いひとに会ってしまったと思いながら、ロコは彼女の横で壁に背をもたせかけ少し話しかけることにした。


「くま、ひどいですね」

「ああどうにもこういう部外者の多い時期は忙しいのでね昨日も寝ていないのさ! そういうお嬢ちゃんの方はくまはなくなったようだね! ふむふむ昨晩はゆっくり眠れたようだねけれど顔つきに険があるから全体の印象は悪いままだ! どこか病んではいないかね? 私もさすがに診てわかることには限界がある故やはり血液検査など中身をあらためるのも大事なのだが」


 ひとこと口にすれば三倍は返ってくる。本当にやかましいひとだった。

 だがジョンからの頼まれごとを思い出し、そのまま語り掛ける。


「検査は結構です。ところでイブンズ様……ちょっとお耳に入れておきたいことがあったのですが、よろしいですか」

「あと二分までなら無料で聞こう。その先は業務に差し支えるので移動しながら料金を払いながらになるが、」「血盟アライアンスが実在する可能性が上がりました」


 べらべらとまくし立てられているとそれだけで時間を使いつぶしそうだったので、申し訳ないとは思ったが遮ってこちらの要件を済ませた。

 イブンズは圧搾固形食糧にかじりついた姿勢のままで動きを止め、ややあってからぼりん、ざくざくと咀嚼を再開した。


「……どこからそういった情報を知り得たのだねお嬢ちゃん」

「昨日のアブスン・ブリュード・メスカルとの戦いです。アークエ派の信者だった彼は今回の事件を起こすにあたり、ドルナクに潜むその手の者と結託したそうなのですが……接触した相手が名乗ったそうなのです。血盟の一員だと」

「名乗るだけならだれでもできようと言うものだがね」

「けれどわたくしたちは見ました。アブスン様が、とある方法によって自ら吸血鬼化するのを。そして彼から聞きました。その方法を教えたのが血盟に所属する吸血鬼――スレイド・ドレイクスを名乗る者だったと」

「……、」


 二の句を継がせず言い切ると、イブンズは食事を終えたまま口を引き結んでしばし黙っていた。

 長い沈黙の末に、彼女はため息をひとつ吐く。


「……それは名無しの少年の仇敵の名だ」

「存じております」

「他人が名乗るには意味が無さすぎる上に吸血鬼はその性質上偽名を使いづらいからおそらくは当人だろう。三年前……彼の両腕を奪って以後死体が上がったとも聞かずドルナクから出た形跡もない故に生きているとは思っていたが。私の網にもかからずしかも血盟に属していたと?」

「それもアークエ派のアブスン様に関わろうと出てきたわけですから、そちらとも繋がりがあるやもしれません。イブンズ様、アークエ派の動向など、スレイド氏に関連しそうなことはなにか情報が入っておりませんか?」

「あいにくとそちら方面についてはあまり入ってきていないね。私はもともと身体の傷や疾病についてのみ請け負うのを専門としていた故に心の問題には触れずおくようにしていたのさ。他人の思想信条にはそれが他者を害するものだと断定できない限り踏み込まないように心がけておった」


 無茶苦茶なところばかりの人物だが、これと定めた一線は越えないことを徹底している。こうした気質こそが周囲の人々からすると好ましく、手を貸したいと思わせるのかもしれない。

 結局のところ集団を率いる頭に必要なのは人徳だ。ロコはそのことをよく知っていた。


「そうすると、もとからアークエについてはあまり情報が入っていないのですね」

「いやそうでもないのだよシスターのお嬢ちゃん。思想信条のせいで助けることへの優先順位などがついてはかなわん故、意図的にその辺りは無視するようにしていただけだ。さすがに貴族層については管轄外のためわからんが平民ならばある程度信者は把握している。……とはいえ彼らは蒸気裂弾など用意するような破壊的思想の持ち主ではないがね!」


 少しだけ調子を普段のものに戻しながら――けれどその転調によってロコに『この先の会話は《夜風の団》の長としての顔でしか話せない』という薄い拒絶を匂わせ――イブンズは腕組みした。

 ロコとしてもラクアの聖職者という(それが表向きのものでしかないとはいえ)立場がある。アークエの人間について問いただすのは、宗教的な紛争を招きかねないことだ。だからここで切り上げて、彼女は背を壁から離した。


「それだけ聞ければ十分です。追及は、わたくしのやるべきことではないので」

「そうなのかね?」


 声は常態に戻したまま、上がり調子。けれどどこかに疑念をはらんだままである。

 簡単には油断しない。当たり前のことだが、それは彼女が己の立場と立ち位置と信念をよく理解しているが故だ。

 こういうひとも居るのだな、とロコはあらためて思い、同時に彼女へ好感を抱いた。


「ええ。申し遅れましたが別段わたくし、ラクアのシスターとしてでも騎士団所属の吸血鬼狩りとしてでもなく、ここへ来ております。ただジョンさまから血盟の存在、スレイド氏の存在、アークエの存在が絡んでいることをあなたに話すよう言伝されていただけなので」

「……そうなのかい」

「可能ならスレイド氏に繋がるしるべをお教え願いたかったのですが。ジョンさまが、必要としていらっしゃいますので」

「それについては心配無用だよ。元より情報が入ったならば彼に流す手筈になっているのさ!」

「……料金取るのでしょ」

「いただかないよ。それはあの少年の傷の治療に必要なことだろうからしてつまるところお代はすでにもらっているのでね! 三年前の、治療のつづきだ」


 がめついかと思えばそういうところは律儀だ。

 でも、つづき。

 つづきと、イブンズは言うけれど。


「いつ治るのでしょうね、その傷は」

「治らんよ」


 酷薄なまでに即断に、彼女は言う。

 背嚢を負っていつものシルエットに戻り、よれた白衣の裾をぱっぱと払って立ち上がると額にかけていた眼鏡を下ろし、ロコに向いた。


「仮に生身の腕がいま戻ったとしても治りはしない傷だよあれは。すべては対症療法に過ぎん有り合わせでありきたりの弥縫策びほうさくでしかないのさ。けれど間に合わせの手段を講じて延命している中で根治させる手が見つかるかもしれん……残念なことに人生は長い! 大半の人間には退屈か絶望の中でしか認識され得ないことだがね」


 両肩から斜め掛けに胸元で交差させているカバンの位置を調整して、イブンズはすたすたと歩き出す。

 こちらを顧みず手を振りながら去る背中に、彼女が見据えてきた退屈と絶望の多さを思った。


「健康でいたまえよシスターのお嬢ちゃん。血液検査はもうべつに強制しないから、不調になる前に診療所にはいつでもおいで」


 最後にそう言い残されて。

 身をこわばらせたロコは、頬を掻いてため息をこぼした。


        +


 街角にあったカフェに腰を落ち着けた。

 本日二杯目のコーヒーをいただき、テラス席で通りの彼方を見やる。

 白い石造りのブロックを敷設して細かな模様を成しながらつづくストリートの向こうには、大断崖を流れ落ちるプルトン川からくだってきたロンサ川を眺める。

 機械仕掛けの跳ね橋がかかった先には、産業区画の巨大な障壁がぐるりと視界の端から端、そのまた先、スモッグにけぶる見えないところまでつづく。

 改めて見ても巨きな街だ。

 三十年もの間このナデュラ帝国の発展を支えた産業発展の中核というのにうそはないな、と思う。

 カップを机の上に置き、その脇に放り出していた聖書を撫でる。硬い表紙は重く閉じ、加えて革紐で十字に縛っているため中身が周囲に露見することはない。

 彼女自身が見せようとしなければ(・・・・・・・・・・)


「……砂糖はいいのか?」


 ふいに、声をかけられる。机の上には大きなシルエットが重なっていた。

 ロコのコーヒーには氷砂糖がひとつぶ沈んでいる。それを含むようにひと口飲んでから、おもむろにロコは顔を上げつつ、


「ええ。糖分より塩分の気分でして」


 と返した。

 立っていた男はかぶっていたフェルト帽を脱いで禿頭を晒しながら「なら、ベーコンサンドは食べるかね?」と訊いてきた。ロコは「メニューにないですよ」と応えた。

 すると男は「然り、そのようだ」と言いつつ背広の襟を正してロコの正面に腰かけ、店の人間に「私にもコーヒーをひとつ、砂糖は三つだ」と告げた。

 浅く椅子に腰かけ、男は懐を探った。煙草を取り出す。黄燐マッチを背広の端で擦り火をつけると、指の間に挟んだ吸い口に唇をつけ、掌で口許を覆い隠しながらしゃべった。


「……《剣啼》は代理にきみを寄こしたのか。ロコ・トァン」


 合言葉の会話で確証を得たが、それでもまだ半信半疑という面持ちで彼は言った。


「代理というよりは言伝をあずかっただけ、ですかね」


 ロコは口をほとんど動かさないようにしながら言った。

 視線を男から外し、机の上の聖書に向ける。

 革紐を外し、ぱらぱらと白紙のページを、店員に見えないようにめくり。ページ数としては二章三節にあたる部分を開いた。

 本来ならば『ここではすれ違うにとどまったが、君は知り、私は知った。その道に二人分の幅があると、君を知り、私を知った』との文言がある箇所だ。

 そこには見慣れない筆跡で走り書きがある。


『――ロコ・トァン。きみの手元にこの聖書が戻り、私が動けずにいて、きみがいまもまだ任務(・・)を継続中であるのなら。サミットと式典の開始日午前九時に、産業区画六番街三のカフェ・アーガイルにて我が同胞が待つ。机の上に聖書を置くのが符丁だ。合言葉は以下の通り――』と。


 その言葉に従い、ここへやってきた。

 まさかまだ、アークエの残党がいるとは思っていなかったが。念のために確認しに来たのだ。

 かつての、ロコ・トァンの立場がために。

 いまの彼女の生き方が故に。

 あとは今朝まで共に暮らした同居人に、可能なら話を持ち帰るために。


「アブスン様はこの聖書にメモを遺されました。『目通り』をもし実行する者があれば、このメモを一案として動けとのことです」


 そのメモにはご丁寧に、上等区画への通行証であるパンチカードも付いていた。……針金とタグで『押収品管理部門』と丁寧に印の捺してあるものが、だ。


「……やはり彼は自分の亡き後のプランも用意していたか。さすがに十年近くも楽団の皮をかぶって暗躍していたアークエ(我ら)随一の工作員だけはある」


 男は聖書に目を落とす。

 ロコはページを閉じると、自分の椅子の脇に置いた。


「あなた含め現在ドルナクに残っているアークエの人間は、実行の意思がありますか? わたくしはそれを訊ねるために参りました」


 まっすぐに男の目を見る。

 厚ぼったいまぶたによって半ば塞がったような目は、何とも言えない濁りを帯びてロコを見ている。

 ややあって、男はとうに燃え尽きていた煙草を床に落として踏み消すと「ない」と答えた。


「昨日の計画露見からかなりの潜伏メンバーが官憲の手に落ちた。実行に移せるだけの人数も機も実力者もいない。俺たちは手を引く」

「そうですか」

「またいちからやり直しだよ。選定の前になんとか終わらせておきたかったのが心情だがね」

「心中お察しいたします」

「ありがたくその言葉、頂戴しておこう」


 男はフェルト帽を頭に載せる。

 運ばれてきたコーヒーを、ろくに味もわからないだろう勢いでぐいっと飲み干した。

 かつんとソーサーにカップを置き、帽子のつばの位置を正す。

 つばの縁に目元が隠れ、一瞬、彼の意思が見えづらくなった。

 次の瞬間、


「――そう、いちからやり直しだ。だからここで、不安要素は消していく」


 机の下でうごめく気配を感じた。

 帽子に手をやって視線を上に集めながら、左手で得物をつかんだのだろう。

 だがこの席へ近づいてきたとき、腰に得物の気配はなかった。懐にはあったかもしれないが、煙草を出すときに襲ってくるようなら撃退する算段があった……いや。そうか。

 そのときだ。

 煙草を取り出す動作に合わせ、懐ポケットから出した得物を背広の裏で腰元まで滑り落としたのだ。

 うまく警戒を解く手管。彼もそれなりの場数をくぐった工作員なのだろう。


「お前はだれだ?」


 男に問いかけられ、現状把握に割いていた思考を戻す。

 帽子の縁越しに見つめられ、ロコは返す。


「ロコ・トァンです。あなたも先ほどそう呼んだでしょう?」

「ああ呼んだな。確認のためだ。俺たちの――アークエの同胞(・・・・・・・)として、数か月前からここに潜伏しているはずの工作員の名だからな」


 疑いを超えて露骨なまでの敵意を滲ませ、獰猛な笑みを浮かべながら男は言う。ロコはそれでも、口をほとんど動かさないしゃべり口調を維持した。


「でしたらなぜ武器を向けるのです。たしかにわたくしは身なりだけだとラクアのシスターを務めているように見えるのでしょうが、」

「ああ。それも潜入工作のためだと言いたいのだろう? わかっている。お前の言いたいことは承知している。妥当性があることもな。だがな……そもそも、ロコ・トァンがここに居ること自体があり得ない(・・・・・)のだ」


 確信を持った物言いで、彼はロコをにらんだ。

 どうやらもう、言い逃れできないらしい。肩をすくめ、ロコも目を細めた。


「新聞をお読みになったのですね」

「ノコノコとここまで来てくれて助かったよ。追いかけて消すことになるのでは苦労が段違いなのでね」


 殺意が膨れ上がる。

 ここまでだな、とロコはあきらめる。

 必要な情報は聞き出せたので、べつに構わないのだが。


「最後にひとこと、よろしいですか」

「なんだ」

「しゃべりにくかったです」

「……なに?」


 問いを返されたとき。

 ロコの口の中でかろん、と氷砂糖の破片が転がった。

 べつに彼女は読唇術封じで唇を動かさなかったわけではない。

 念のための暗器として、これを口に含んでいたため動きを小さくせざるを得なかっただけなのだ。


 ブッ、と目つぶしに吹いたそれは帽子の縁が上がったわずかな隙を狙い、男の目を撃つ。

 あっ、と声を上げのけぞったのを見るや否やロコは机に手をついて飛び上がり、机の下で向けられていた武器を回避しつつ横蹴りを放った。


 男の顔面がひしゃげ、ばだんと後ろに転がる。ロコは油断なく机を飛び越えて追撃、膝を鳩尾に落としながら彼の左肘を掌底と地面で挟み込んだ。ごきんと関節が外れる感触。痛みに耐えかねてか男は目を剥いて失神した。


「ナイフですか。この距離ですし、どうせ発条仕掛けのギミックがあるタイプでしょうが」


 己に向けられていた得物を鞘に戻し、自分の懐にしまい込む。

 振り返るとカフェの店員が突然起きた暴行沙汰にわなわなしていた。ロコはああ、と気持ちを切り替えて応じる。


「お騒がせして申し訳ございません。潜伏していた犯人に抵抗されたので、少々荒事になりました。壊れた椅子やカップの弁償請求は銀霊騎士団シルヴァオーダーの第七騎士隊へお願いします。わたくしは、」


 と名乗りかけて、ロコは視界の端に新聞を見て取った。

 店員はすでに読んでいるだろうか? 計算が働く。


「……ええと。第八(・・)騎士隊所属の者です」


 名乗らず、お代を取り出して。

 カウンターの上に置き、ついでに新聞も失敬してその場を去る。

 後ろではのびた男とロコを交互に見ている店員が目を白黒させていたが、あの困惑具合ではしばらく警察や騎士団が呼ばれることもないだろう。

 ともあれ、これで憂慮すべきことはなくなった。

 アークエの邪魔は、入らないことが確定した。


「あとは……まあ。なるようになるでしょう」


 彼女はてくてくと、蒸気圧昇降機エレベータの方へ歩みの先を向ける。

 そうして途中で見かけたくずかごに、手にした新聞を放り込んだ。

 しばらく前の、ドルナク行き蒸気路線事故の死者で身元が判明した者の名が、そこには記されている。

 ロコ・トァンの名が、そこには記されている。


「教会でもカードは通りましたし、まだ手配されているわけではないようですしね……」


 ロコは。

 ロコ・トァンを名乗る彼女は。

 いつものように悠々と、ドルナクを闊歩していた。



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