5:貧民窟と駆動鎧装と戦い
吸血鬼との戦闘で気をつけなくてはならない基本は、防御と攻撃で一点ずつある。
防御の一点は吸血攻撃による感染を防ぐこと。
攻撃の一点は彼らの型や階位を見極めること。
「……今回は大した階位でもなさそうだな」
ぼやくジョンは、インバネスを翻して走っていた。
下等区画の歓楽街を外れ、
高層の住宅街も抜け、
産業区画の大工場地帯も過ぎ――いまにも軋みをあげて倒れそうなあばら家が密集する、貧民窟の一帯にて。
ジョンはどろどろに汚れたシャツと擦り切れたチョッキを纏う、労働者風の男を追いかけていた。
濃い茶色のひげに覆われた彼の口許は、真っ赤に血濡れている。後方には血を吸われたばかりの遺体がいまも横たわっているはずだ。
男は土気色の顔で目をぎょろりとさせ、時折ジョンの位置を確かめるようにしながら走る。
歩幅は乱れており、一歩一歩がでたらめな足運びである。
それもそのはず、男のシルエットはじつに大きく、右に傾いでいた。
肘から先に延びるは、鈍色に光る駆動鎧装。
丸太を模した鋼に指代わりの鉤爪を備えたようなそれは、男の膝に届くほどに長く大きく明らかにバランスを欠き、歩速を落とす原因となっている。
が、その巨大さはときに追跡者を振り払う脅威にもなった。
「お、おおおおおお!」
角を曲がると同時に振るわれる巨腕。
ばしゅんと蒸気を吐いて出力を上げた腕の一撃は、煉瓦壁を焼き菓子のように容易く砕き破片をまき散らす。
ジョンは踵でブレーキをかけて身を縮め、分厚いインバネスの裾を跳ね上げることでこの散弾に対処した。
おかげでダメージはほぼないが、防御姿勢をとったことで追う動きが止まり、差を広げられる。
とはいえわずかな差だ。ジョンは表情に微塵も焦りをのぞかせない。即座にちがう路地に飛び込んで、何度か道を曲がると巨腕の男の背後に躍り出る。男は迫る足音にぎょっとした。
ジョンは男よりよほど、この貧民窟の路地を知り尽くしていた。
「く、くそぉ……クソ騎士が……!」
その事実を察してか。撒くことをあきらめたらしい男は毒づき、角を曲がってすぐに階段をのぼりはじめた。建物の外壁にへばりつくように据えられている、細く頼りない階はガンガンと音を立てる。
ジョンもあとを追い、ところどころ錆び抜け落ちた段差を飛び越えていく。
「ちょ……ちょっ……、ジョン、さまぁ、速……!」
後ろからはバテバテになった少女の声が聞こえてきたが無視する。
なるべく手の届く範囲にいてもらいたいが、いまは吸血鬼を追う方が先であった。
階を上がるに従いスモッグは少しずつ濃くなっていき、踊り場でターンする都度男の姿が薄れていく。
と、三度目の角を曲がったところで、ジョンは踊り場の隅に靴が打ち捨てられているのを見た。
……さては煙にまぎれて屋根伝いに逃げる気か。やたら派手に足音を立てていたのも、屋根伝いに逃げる際に裸足で足音を消し突然の無音で攪乱する目的があったのだ。
「小癪な」
より力を込めて走り、ジョンはついに階段をのぼり切る。
が、そこで自分の予測が間違っていたことを知る。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ!」
男は逃げようとしていなかった。
階段をのぼり切ったジョンが視線を上げて周囲を見回す瞬間を狙い、横合いから振りかぶった右の巨腕でジョンの左方から殴りかかってきた。
先ほどと同じく、蒸気稼働により出力を上げた一撃である。
「チッ」
舌打ちして身を屈めかわす。
即座にすくい上げるような追撃の右裏拳が返ってくる――速い。サイズに比して高速の稼働、おそらく自壊を前提としての攻撃だ。
普通の人間ならば肩の関節が外れ筋を傷めるような動き。
それも、吸血鬼ならば即座に回復できる。
「死ねぇッ!」
叫ぶ男の巨腕の像が加速によって大きくブレる。
だがジョンは迫る巨腕を冷静に見据え、瞬時に足を振り上げた。
蹴り抜いて止めるわけではない。力で対抗すれば、駆動鎧装に生身が勝てるはずはない。
ゆえに――
「――受け流す」
右足で裏拳を踏んだと感じるか否かのタイミングで左足も地を蹴り後ろへ飛ぶ。
右膝から股関節、腰から背骨へと柔らかく全身のひねりを用い、ジョンは身体を錐揉みさせて打ち上げられる威力を殺した。
一メートルほど吹っ飛ばされたが、後方宙返りして無傷で着地。
すぐさま強く踏み込み、腕を外へ振り抜いて身体の正面をさらした男に迫る。
「な、お、お前!」
「返しが遅い」
男の右爪先を左足底で踏み抜き、勢いに載せた右脛で股間の急所を蹴りつぶす。
「う、ご――がぼっ、ばはぁっ!」
冷や汗をどぅと流してうずくまりそうになった男の顔面が下がってくればここへ額を叩きつけ、のけぞったところで鳩尾へ右肩からの体当たり。
倒れかけた男はまたも蒸気稼働を用いたか、無理な姿勢から横薙ぎの巨腕を振るってくる。
ジョンはぱっと左足を離しスウェーバック、これを空振りさせた。
ところが男は仰向けに倒れつつ、なおも右の巨腕を振り抜いていく。
「む」
ぐるんと腰を回すようにして男は拳を床へ叩きつけた。
砕ける石材。生まれる反作用。
これを利用して体を投げ出し、男はごろごろと転がっていく。
勢いのまま横倒しになった身体を持ち上げ、長く伸ばした右腕で元来た階段の柵をつかみ――背後のジョンを見て蒼白な笑みを浮かべつつ、ぬるりと柵を乗り越え落下した。
「あ、はははははあ!」
男の哄笑に、ジョンは彼の『自壊を前提とした策の成就』を悟る。
階段を走って降りるより、落ちて回復して走り出す方が数段速い!
「逃がすか、腐れ吸血鬼が」
ジョンは口の端を歪め駆け出す。
インバネスを脱ぎ捨て、二の腕中ほどまでは肉の残る左腕を重く持ち上げた。
左肘の内側にある革のストラップを噛みしめ、首をひねってこれを引きつつ彼も柵に足をかける。
どるん、と低く轟く発動機の音。
ガンと蹴りつけ柵を乗り越える音。
撥と雷電が迸り疑似神経回路を覚醒させる音。
びょうと耳元で吹き荒れる落下加速の風の音。
凝と油圧ポンプが縮む音。
ガジャッ……と路地の反対にあった建物壁面に着地する音――ジャシリリリリ、と滑り落ちがはじまる音。
ふいに風が、切れる。
不動の鉄塊であった彼の駆動鎧装が稼働し、その銀の腕を振るったためだ。
「ここの住人、すまんな」
軽い謝罪と共に、ずどんと槌を打ち当てたような音。
建物の壁面に突き立てられた五指。
超金属で錬成されているそれは、煉瓦の壁にガリガリガリガリと爪痕を残しながらジョンの落下を減速させた。
それでも落下のダメージというのは多少ある。
靴底の跡をぬかるんだ地面に強く残して降り立ったジョンは、途端に下腹部から肺腑までせりあがる鉛のような重たい感覚を、深く慎重な息を吐き出すことでなんとか押し殺した。
「なっ、なんてことを……」
先ほどのぼった階段の下で足を止めていたらしいロコは、目を白黒させながらジョンと吸血鬼の男を交互に見ていた。
吸血鬼の男は頭からの落下は防いだらしいが、着地の犠牲にしたのだろう両足がまだ回復しきっていない。
予想外の方法で素早く降りて来たジョンを見上げて、男は途方に暮れた顔をしている。
「なんだ、その、腕……そんな小型の駆動鎧装、見たことが」
「回復速度が遅いな。また《縫合回復》型か」
なにかつぶやいている男を無視してジョンはその型を推測する。そしてぶしゅうと両肘から蒸気を漏らしつつ、拳闘の構えに移行した。
「では、始末する」
後ろに置いた足で地面をにじり、体幹をぶれさせることなく身を縮めてダッシュ。
やっと立ち上がったばかりで後ずさる男を追い詰めると、彼の反応より早く懐に飛び込んで左の拳を叩き込んだ。
反射的に防ごうとしたのだろう生身の左腕と衝突し、どぐちゃ、と重たい革の水袋を殴ったような感触が肩に響く。続けてもう一撃で、ばりんと骨を砕く軽い音が響く。最後に右の一撃を左鎖骨めがけて打ち落とし、男の身体をその場に縫い留める。
ジョンの流れるような連撃。
たたらを踏んだ男の目から意識が消えそうになる。
しかしそんなときでも生身とちがい、わずかな意識のみで動くのが駆動鎧装だ。
「――っあああああ!」
めちゃくちゃな体勢の崩れから繰り出す右の突きがジョンの顔を砕こうとした。
恐れず、ジョンは迫る右拳の軌道上に左前腕を伸ばしていく。前腕は男の右手首に内側からこつんと当たり、突きを外へ逸らす。
左頬をかすめていく巨腕が巻き起こす風の中、伸びていった左腕はカウンターの掌底となって男のこめかみを打ち抜いた。
今度こそ男の意識は途絶えた。
「終わりだ」
ぐにゃりと膝から崩れ落ちた男の頭を左手で鷲づかみ、吊り下げ、右の五指を揃える。
かきん、という音が連なって指先から手首までの関節をロック。
今回は防具相手ではないのでそのまま《杭打ち》を使わず、
鋭く振り下ろした右の貫手で首を刺し貫き、頚椎を握りこんで破壊。
左手で捩じり切るようにして胸板を蹴り飛ばし、首を胴から離した。
ぼだぼだぼだぼだ、と粘度の高い血液が生首からしたたる。
倒れていく胴の首の穴からも、噴き出す血が勢いよく、辺りを汚す。
その血流の先に、ロコがいた。
びゃっと顔から衣服まで、斜め掛けに血をかぶる。
「……うっ」目を閉じ顔をしかめるロコ。
「……ああ、すまない」
「い、いやすまないじゃないでしょうあなた! なぜそうも散らかる方法でとどめを刺すのです!」
「心臓を貫いても吸血鬼は殺せるが、血の流れが途絶えるまでの数瞬は生きている。駆動鎧装を纏った相手だと、意識さえあれば稼働するためその数瞬で反撃を食らう恐れがあるのだ。頚椎を砕けばその点、身体への指示経路を破壊するから反撃もない」
「……うううむ、ううむう」
「安全策だ」
ぶしゅん、と蒸気を吐いて両腕の血を落とし、ジョンは自分の正当性を主張した。
なおもなにか言いたげなロコであったが、やがて肩を落とすと首をふりふり、ジョンと遺体のもとに近づいてくる。
「はあ……血なまぐさいです」
「それについては、すまん」
「もういいです。仕事なのですし」
ロコはあきらめたような顔でため息をつき、ハンカチで顔の血をぬぐうと腰の革紐に提げていた聖書を手に取った。
ジョンが倒れた遺体の胴へ、首を戻してやる。
かっと見開いた目を閉じ、軋みをあげて食いしばった歯の根を揉んで苦悶の表情を少しだけ崩し、胸の上で両手を組み合わせ――右腕が長いため、少し不格好ではあった――それから足を揃える。
その足に履かせる靴を取りに階段を上がり、ついでにインバネスを拾って、降りてきたところでジョンは両腕の蒸気稼働を解除した。
しゅう、ん、と細くたなびく息を吐いて沈黙した機関は、また重たい不動の鉄塊へと戻りインバネスの中にぶら下がる。熱がこもって、少々暑い。
「あ、もう停止させてしまったのですか」
「日に稼働できる回数と時間は限られている。節約せねばならないのだ」
「便利なようで、使いどころが難しいですね」
まじまじと、ロコはジョンの腕がある辺りを見つめた。
どうも彼女は出身地があまり産業化の進んでいない地域だったようで、駆動鎧装や送空管、蒸用車や排熱暖房といった蒸機化の物品にいまだ物珍し気な目を向ける。
ジョンはこの街でそうしたものに慣れ親しんで長いため、どうも視点の差を感じざるを得ない。
「それで。腕を停止させたから、なんだというのだ」
「ああそうそう。遺体が通りの真ん中過ぎたので、もう少し端に寄せようかと思っていたのです」
「……どうせここは馬車も通らないしいまは洪煙の排出経路でもない。真ん中にいても大して支障はないぞ」
「そうなのですか?」
「ここで暮らしたこともあるからな。それくらいは知っている」
空へ目を凝らしながら、ジョンは言った。
遠くから、ごうん――ごうん――と、鐘の音のような轟きがある。
視線の先、スモッグの幕の向こう、いくつもの区画を隔てて遥か彼方には大きな断崖が見える。
その上で音を放っていた代物――塔のように巨大な階差機関、プロジット二号機が硝子の大障壁に覆われた姿をさらしていた。
内部ではぎりぎりと回転する鈍い金色のカラム、鍵盤、クランクシャフトが絶えずせわしなく動き回り、ふもとの下等区画にその威容を見せつけている。
今日は《火の山》の風も強く、上等区画がよく見えるのだとジョンは思った。
「あそこに暮らしたこともあった」
「え?」
「いや、なんでもない」
かぶりを振って、ジョンは足下の遺体に目を落とした。