48:朝焼けとオムレツと彼女の独白
窓から差し込むぼんやりとしたやわらかな光で、彼女は目を覚ました。
むくりと身を起こし、体にかかる毛布と、そこにこぼれ落ちて伸びるアッシュブロンドの髪とを眺める。
うねり、捩じれを帯びたその髪を手櫛で撫でて、身震いした。
布団から這い出て部屋の壁にかかるぜんまい式の時計を見やれば、時刻は六時。
仕事へ向かうにはまだ少し早い時間だ。
「……さむさむ」
彼女はゆっくりとベッドから足を下ろし、白い夜着のまま姿見の前へ歩く。スリッパがぱすぱすと軽い音を立てる。
狭い部屋――置いてもらっている身でそのように言うのはいけないが、二歩で壁際に突き当たるのはそう呼ぶほかない――の隅で埃をかぶっていた鏡面は、彼女が使うようになってからは日々磨かれて本来の役割を果たすようになっている。
なおも手櫛で毛先を整えつつ立った、ロコ・トァンと名乗る彼女は肩から夜着を落とす。肌着のみになって、その真白い肌の上に月の無い夜のような色のローブをまとった。
手套をはめて、腰にはベルトで吊り下げる慈悲の短剣と白紙の聖書。
ベッドに腰かけてショースを穿き、またスリッパに足を戻すとのそのそ部屋をあとにする。
廊下に出て玄関に寄り、ロコは滅菌水を張った水盆の入れ替えをしてから新聞を手に取った。
来た道を引き返して自室を通り過ぎると、弱めたガス灯に照らされた居間に行き着く。壁面のつまみを回して明かりを強め、ロコは蒸気排熱暖房のスイッチを入れる。
左の壁際にキッチンとテーブルを備え、少し高めにとった天井ではファンが回る。ロコはテーブルへ新聞を置いた。適当に紙面を開いていくと、しばらく前の蒸気路線事故での死者について続報が書いてあった。
新聞を閉じて、キッチンのコンロでお湯を沸かす。窓からの日が手元まで這いよって来ていたので、彼女はそちらに目をやった。
奥の窓辺にはローテーブルとソファが置かれ、毛布を分厚くひっかぶっている影が寝転んでいる。
「まだおやすみですかね」
この家の主、ジョン・スミス。
ばさばさとした黒髪に膝丈のインバネスを着込んだシルエットが印象的で、いつも不機嫌そうな顔をした陰気な男だ。
とはいえ、眠っている間はさすがに険もとれている。おだやかではないが静かで落ち着いた横顔をこちらに見せていた。
このドルナクへやってきてもう、四か月近い。
ロコが彼との共同生活をはじめてからも、それだけ経過したことになる。
「長かったような……短かったような」
吐息を漏らし、ロコはコーヒーの瓶を出す。
粉濾しのフィルターをカップにはめて、コーヒーの粉末を散らす。それから手早く、キッチンカウンターの下にある収納から食材を探った。
イブンズの健康診断でもらった卵とバター、生クリーム、小分けにして包んだベーコンを取り出す。あとは三日ほどろくに帰ってこれなかったため硬くなったパン。……黴びても湿ってもいないので、食べるのは大丈夫だろう。
ついでに瓶詰のオニオンジャム――大量の玉ねぎと少量の果実、トマトソース、塩コショウにシロップをひたすら煮詰めたものだ――を出して、薬指でひとすくいする。仕上がりはよさそうだった。
「では」
壁にかかっていた、ほこりのかぶっていないフライパンを手に取る。
コンロで火にかけ、バターを溶かした。鼻孔の奥へふんわりと落ちてくる脂のにおいが立ち込めたら、ナイフで薄切りにしたベーコンをちらす。ぱちぱちっ、と表面が弾け、香ばしい匂いまとわりついた。
端がカリカリとしてきたら皿に分け、ボウルに割り入れてカラザを除いて溶いた卵を用意する。塩をひとつまみ、足りない気がしたのでもうふたつまみ。再度バターを溶かしたフライパンの上に、卵液をじゅあっと広げる。
全体に火を入れて、厚みの半分まで固まってきたところでクリームをわずか垂らし、端から丁寧に二つ折りにする。隙間からはみ出た日差し色の液が、フライパンの縁で固まった。
先にベーコンを下ろして置いた皿に載せて、ジャムをふた匙。ちょっと贅沢に、もうひとすくい。フライパンに載せて温め、焼いていた脂の残りと共にオムレツに振りかけた。
そこでやっと、ジョンが「む」とうめき声をあげて身を起こす。
「お目覚めですか」
「ああ……。……オムレツか?」
「ええ。食べましょう」
袖の無い黒いシャツの内からは二の腕まで、血の通った肉がのぞく。
そこから先は鈍く耀く騎士甲冑のような義手が延びており、彼が寝床にしているソファから足を下ろす間もぶらりと体の横で揺れるばかりだ。
寝起きの髪を掻き上げることもない。だからいつもばさばさとした髪型で、彼はそれを気にも留めない。顎先でこするようにして、襟元が右に寄っていたのをちょっと中央寄りに戻す程度だ。
暖房を入れて間もないため冷えるであろう板敷の床を、彼は素足でめしめしと音を立て歩いてきた。
「めずらしいな。朝からずいぶんとしっかりした食事だ」
「まあ、たまにはいいでしょう。昨晩まで疲れることばかりでしたし」
「……そうだな」
椅子の足を、右足の親指と人差し指の間で挟んでずずっと引きずりテーブルにつく。
顔色はよくない。
まだ、先日の戦闘を引きずっているのだろうと思われた。
――《剣啼》アブスン・ブリュード・メスカルとの戦い。
ジョンにとってはあこがれだった彼の剣士は、ヴィタ教アークエ派に属していた。彼は大主教を殺害するテロに加担するべく数年を生きてきた過激派であった。
その相手を追い、戦い、斬り捨て……吸血鬼化して死の縁より戻った彼と第二戦をおこなうことになり、また斬り捨て……なにも思わないということはないだろう。
しかもアブスンが「《血盟》に所属する、スレイド・ドレイクスからこの吸血鬼化の法を教わった」と口にしたのだ。
心中の動揺はロコには計り知れない。
「コーヒーは召し上がりますか?」
だが、あえてあまり気にしないことにした。
ロコの応対にジョンは片眉をわずかに上げ、ふんと鼻を鳴らす。
気遣われたと、感づいただろうか。どちらでもいいけれど。
ジョンは椅子へ斜めに腰かけた姿勢で、首を横に振った。
「手洗いが近くなる。俺はいい」
「了解です」
「だが、湯をくれ」
「お湯ですか……」
「飲める温度でな」
「ああ、はい。わかりましたとも」
短いやりとりと表情で、彼が「感づいたが気にするな」と思っているのがなんとなくわかった。
フィルターで濾して薄いコーヒーを淹れ、しずくがすべて落ちるのを待つ。ジョンの方には湯を注いだ。
薄切りにしたパンもフライパンの表面で脂を吸わせて軽く焦がし、皿に盛りつける。
ジョンの分も程よく冷めた頃合いだ。
「では、いただきます」
習慣だからというだけでなにも思わずロコは十字を切り、ジョンは無言のまま。
ふたつに分けあったオムレツを、各々口に運んだ。ロコはフォークで突き刺し崩し、ジョンは皿に突っ伏すようにして端からがつがつとかじり頬張った。
オムレツは、上に載せたオニオンジャムとそれにからんだ脂の味がにっとりと沁み落ちて、卵の香ばしさとバターの風味の広がりに合わさった。歯が通ると中心だけ半熟の卵液が甘くちゅるんと漏れ、もぐもぐと飲み込む間にいっそう卵の味を感じさせる。
まあまあの出来だな、と思いながらロコはベーコンを刺し、卵を追うように口に運んだ。かりかりとしてスモーキーな味わいの脂と塩気が甘さを流し去る。パンをかじる。古いパンだが、幸いひどく味が落ちていることはない。
ちらりと正面を見ると、ジョンはいつも通り舌先と唇のみで平らげていた。
咀嚼の音は立てないし、皿を舐めるようなことはしない。首を振るうようにして噛み千切ったパン切れで皿の脂をぬぐって食べることはあるけれど。
「なんだ?」
「いいえ。よくお召し上がりだなと」
「まあ、な。……料理の腕に関してだけは、ここへ来た当初から認めてやらんでもないと思っていた」
皮肉るように彼は言う。
言葉の裏を察するなら、「当初は料理しか認めていなかったが、いまはちがう」ということだ。
迂遠な言い回しにロコは嘆息し、パンを手でちぎって食べた。
「失礼ですね……もう少し素直に褒めていただいてもいいのですよ?」
「ふん。ひとを褒める手管の持ち合わせはあいにくとない」
もくもくと食べ、マグを噛んで持ち上げぬるま湯を飲む。
落ち込んでいるかと思い、せっかく料理を振る舞ったというのにこの言いぐさである。
……あるいは、そうと見せないために強がっているのかもしれないが。
「ま、いいですけども。あまり反応が悪いとつくる気がしなくなります」
「……金を払えばつくるか?」
「あの、どれだけわたくしを褒めたくないのですか……?」
本当に読めないひとだった。コーヒーのカップ片手に問いかければ、わずか眉間にしわを寄せてこまった風にじろんと視線だけ下げる。
「あまり謝意の示し方がわからん」
「歪んでますね」
ロコの返しに彼は眉間のしわを強め、「そんなことはない」と言いながらがつがつとまたトーストをかじった。
食事を終えて、まだ家を出るまでは間があった。
新聞をめくると、昨日二人が警察にて取り調べを受けている間の出来事も大きく記載されていた。
楽団とアークエ派残党の捕縛。および、警察の内部にいたアークエ派の信奉者の叩き出し。
楽団についてはアブスンの手駒として動いていた四名を除いてなにも知らずにいた者が大半だったようだが、アークエ派の残党は至るところに存在した。そしてなにより、警察内部に居たのが問題だ。
押収品管理部門と、現場周りの所轄。
今回の蒸気裂弾を作成する部品集めだけでなく、押収品の名を借りての暗号符牒・伝達なども常々行われていたとのことで現在は余罪を追及しているという。
これでまた、アークエ派の風評はいっそう悪くなるだろう。
「……まあ、関係ありませんが」
ロコはテーブルへ頬杖つく。
ふっとソファの方を見やると、柔軟運動を終えたジョンと目が合った。
無宗教の男。
きっと彼にも、関係はない。
「なんだ」
「いえ。お粗末様でした」
「……粗末ということは、なかったがな」
不器用で無理をした誉め言葉に、ロコは苦笑した。
心地よい関係だったのだな、といまさらながらに思った。
なにも訊ねてはこない。アブスンとの戦いでロコがかつてアークエに属していたと名乗っても、彼はなにひとつ詮索してこなかった。
けれど、それはきっとロコのことをどうでもいいと判じているからではない。
過去がどうあれ、彼は「だから、どうした」程度のことしか言わないだろう。もしも気になるのであれば、自分にとって不快であるのなら、彼はきちんと表明する。
かつて彼と吸血鬼を倒したあとに、騎士団詰所のパブで話し合ったことを思い出す。
いまも彼の考える彼の平穏の中に、ロコは存在することができている。
彼もロコも神を信じてなどいない。
それだけが共有された想いで、しかしそれは世界への接し方だ。ロコは自分と似たような気持ちで世界を見つめる彼が居るというだけで、なんとなく気が楽になっていた。
向こうもそうなのではないかと思う。
そうであればいい、とも。
「お嬢」
「なんです?」
「イブンズに送ってもらった卵はまだ残っている。仕事が終わればまた、頼めるか」
頼み事の下手な男だった。ロコは笑って「さあどうでしょう」と返す。
不器用で、無骨で、無頼漢。
そのくせ変なところで真面目で、ひととの距離を測るのが苦手な彼。
けれど細かくロコのことを見ていて。心配し、気にかけてくれることも多々あった。
この好ましき人物に、少しはなにか返せただろうか。
思いながらロコは後ろ手に腰の聖書を撫でる。白紙の聖書。非ざる道の書。
アブスンから最期に手渡された――けれど真実、ロコ自身の聖書を。
「機会と気が向くことがあれば、ですかね」
二度と戻ってはこないこの部屋のことを思いながら、ロコは曖昧に微笑んだ。