47:決着と聖書とその者の名
第三章、終幕。
吸血鬼の自然発生の原理はいまだ解明されていない。
ドルナクに長期、少なくとも数年にわたって滞在した人間は、突然に吸血鬼に変異する。
そこには老若男女・上等区画下等区画の区別もなく、ある日突然に隣人が吸血鬼化するというものだ。
ただ、吸血行為に至ろうとしていなければ外見には通常の人間となんら差異がなく、少ない解剖例からも特別に人間とのちがいは見つかっていない。
当然、急速分裂型、あるいは現象回帰型――後者はこれまで一例しか見つかっていないが――などがどのように発現するのかもわかっていない。
捕縛した吸血鬼を調べて研究しようとの動きもあったが、人権団体の反発にあって騎士団発足初期に計画は頓挫した。
……もっとも、その人権団体も「ドルナク内部でしか生きられない」「保護しても大して利権に絡まない」「大量の血液の確保ができない」「血を与えても吸血衝動は治まらず社会復帰はできない」などの点で早々に問題を放り出しているのだが。
どうあれ、吸血鬼は増える。
起きる現状には対処しなければならず、国は金の生る木であるドルナクを捨てることはできない。生活基盤をここに据えた者も多すぎる。
よって、懐に抱えた吸血鬼という脅威についてはわからないまま、この街は発展をつづけてきた。
だというのに。
アブスンは、『賭けになるが』と前置きした上で、吸血鬼と成り果てた。
成ると知っていて成ったのだ。
「……馬鹿な」
ジョンは絶句する。
しかも、縫合回復型ではない。
致死的なダメージだった首も、先刻自ら傷つけた左手も、瞬時に再生している。服の上からでは見えないがおそらく左脇腹も。
急速分裂型だ。
「さて。終わりが見えて来た、かな」
折れた剣を携えて立ち尽くすアブスン、だった者。
ロコは短剣を油断なく構えたまま、彼に問うた。
「……吸血鬼化を、自らおこなったというのですか?」
「その通りだ、シスターのお嬢さん」
軽い物言いで、吸血鬼は左手を剣のように模して己の首筋にとんとんと当てる。
「必要になるのは『ドルナクに滞在したこと』『深い憎悪』『強い殺意』そして『大量に失血すること』」
いままた、折れた剣先で左の手の甲に十字傷をつくる。
ジョンたちに向いた途端、傷口は端から閉じて均され、跡形もなく消え去った。
「以上が《急速分裂型》に変異する条件だ。……もちろん、条件を満たしても成らないことは多いがね。私はその点で言えば運が良かったのか」
ふう、と息を吐いて額を左手で押さえる。
首をぐらつかせた吸血鬼は、指の隙間からこちらを見据えた。
ジョンはやっとの思いで口を開く。
「吸血鬼に……成る、だと……」
「ああ」
「なぜそんな方法を……お前は、知っている」
「血盟を名乗る連中から、教えてもらったのさ」
《血盟》。
ドルナクで噂される、吸血鬼の同盟。
吸血鬼が互いを活かすために組んだ互助組織との話は、ひとつのフォークロアとして語られてきたものだ。
「実在、するのか」
「さてね……もしかすると血盟の名を騙るだけの酔狂な変人だったのかもしれない。だが事実として彼の語った方法は、私に変異をもたらした」
この手法は彼の実体験だったらしいがね、と付け足して、吸血鬼は剣をこちらに向ける。
「では、第二楽章といこうか」
ジョンは。
実体験だ、という言に引っかかりを覚えて、訊ねる。
「そいつの、名はなんという」
「ははは。名など吸血鬼には意味がないだろう? ただ、まあ。他と識別するためのものか、一応は呼ばれていたかな――」
スレイド、
ドレイクス。
と。
アブスンだった吸血鬼は、言った。
目の前が、
白くなった。
気づけば、
ロコを突き飛ばしてジョンは駆け出していた。
「――語れッ、すべてをッ!!」
もう蒸気過動寸前の腕にさらなる高出力を可能とするよう命じ、ジョンの走るあとには蒸気がたなびく、
低い疾走の姿勢から突き出した左の貫手が吸血鬼の剣先とぶつかる。すぐさま退いて、左側に回り込むようにステップワークを駆使しながらもう一撃。さらに一撃。
身体の軸をずらしながら応じる吸血鬼の剣は正確にジョンの手首を狙ってはたき落とし、ともすれば腕の上を滑らせて胴に迫ろうとする。そうはさせまいと、距離を測りながら貫手のジャブのみで間合いの縁を行ったり来たりする。
「距離が、測りにくいね」
不思議と近づけない、という顔で吸血鬼はためつすがめつする。
言葉を放ついとまにも、またいなされ弾かれる左の貫手。
ひとところに居付かないよう、ジョンは一打ごとに左右へほんの五センチかそこら身を移す。それでも、折られて短くなった吸血鬼の剣には当たらなくなった。
もちろんこの局面で急にジョンの体術が向上したわけではない。
希代の剣士を前に善戦を可能としたのは、腕の出力の瞬間的な強化だ。
引き戻しの際に出力を上げる。いくら小型で駆動鎧装の中では軽い方でも、やはりこの腕は金属塊である。ジャブを引く際にその力を強めれば、腕の重心移動の勢いでジョンの身体も一気に攻撃の有効範囲から出ることができる。
だがこの相手に限ってはその動きの差もすぐに見切るだろう。
拳を戻す動きに追いつくかのように、前進してくる。
滑らかに切り返した剣先が、斜め下からジョンを襲おうとした。
「――そうは、させなっ、」「読めているよ」
横合いから打ちかかるロコの短剣を、吸血鬼は見もせずに左掌で受け止めた。
切っ先に貫かれたままにロコの右手を握りしめ、ぎょっとする彼女をジョンの方に投げる。
二人、ぶつかって転がる。身を起こすと跳躍した吸血鬼が二人に影を落としており、剣で二人を同時に薙ぎ払おうとした。
「くっ!」
跳び起きたロコが短剣の軌道を合わせた。
《裁き手》により吸血鬼の斬道は逸れ、無防備を晒す。
このわずかな猶予にジョンは身を起こし、右足のかかとを浮かせて、左足を前蹴りの要領で伸ばした。
爪先を奴の脇腹へと触れさせ、一気に腰をひねる。相手に背を向けるまでに身を翻し、同時に右足かかとを接地。
触れた爪先から左の足裏を貼り付かせるように踏み込み、かかとを脇腹に捩じ込んだ。
《捩止め》。
密着状態から重心移動の力積をすべて一点に沈みこませる技で、臓腑を割り砕いた。
「ごふ……、」
吸血鬼、再びの吐血。それでも剣を振るって牽制し、追撃はまぬがれた。素早い後退で距離を取り、二人から間合いを置く。ぜえと息つき、すでに再生を終えた左掌を眺めるように、ゆっくりと額を押さえてかぶりを振った。
ジョンの横に並んだロコは短剣を構え、わずかに挟み込まれた戦の間隙に、ジョンを見もせずにはあとため息をついた。
「……激昂して単身で飛び込まないでください」
「…………、」
「さっきの、ジョンさまの仇敵の名、でしたよね」
「……そうだ」
「だから焦ったのですか」
「ああ。だが、それだけでもない」
じっとジョンは吸血鬼を見据える。
その挙動には、やはり身体が重たいかのような鈍さがある。傷はすべて回復しているにもかかわらず、だ。
理由は、ただひとつ。
「失血だ」
「失血?」
「吸血鬼はいかに高速再生できても、身の内の質量が増大しているわけではない。血液は有限だ。失い過ぎれば脳への酸素供給も途絶え傷口を再生せよとの意識もできなくなる」
騎士団員で言えば、ルーの戦法がまさにそれを狙うものだ。レイピアの引き切りと突きで急所から的確に大量の出血を狙い意識の伝達を削ぐことで殺す。
ジョンは高熱を帯びて痛みを発しはじめた両腕を思いながら、話した。
「急速分裂と化したが、その条件のために奴は血を失い過ぎた。血の残量はあとわずか」
「削り切れば倒せる、と」
「その通りだ」
端的に状況を告げる。
ロコはその説明に、もう一度だけため息をつくに留めた。
「同時に掛かりましょう。おそらく向こうも捨て身でガードするでしょうが、それで出血させられればいいのですよね」
「そうだ」
「では」
とん、と軽い歩調で飛び出し、二歩目で加速。
ロコは左手側を。ジョンは剣持つ右手側を。
それぞれに襲い、激戦を開始する。
立ち尽くす吸血鬼は黒き瞳に光を宿し、白目を充血させながら笑った。
「来るがいい」
互いの死力を、使い尽くす。
飛び掛かったロコに先んじて吸血鬼は間合いに入り、短剣突き出す彼女の右腕を左腕で絡め取る。ぐるんと左肩から床に投げ落とされ、ロコは息を吐いた。
この隙に挑むジョンの左の貫手を、吸血鬼は右手の剣ではたき落とそうとする。
「そうはさせん」
関節機構を瞬時にロックし、剣を受け止める。瞬間の硬直。ここで腕の上に剣を滑らせるようさらに前へ出る。
しゃりりりり、と剣が走り、がつんと衝撃が来た。
左腕の装甲部に、先刻アブスンが付けた切り込み。ここに刃が引っかかりジョンの身体への到達を阻んだ。
今度はこちらが絡め取った。すかさず関節のロックを解除。
前腕を内旋させながら引き戻し、剣ごと吸血鬼の右腕を引き寄せる。動作に併せて右の貫手を胸に突き立てんとした。
左の前腕を間に差し込み防御される。飛び散る血液。
「ぐぅぅっ!」
だが血が噴き出したのは腕だけではない。床に転がされたロコが短剣を逆手に持ち替え、左の大腿部に突き刺していた。
吸血鬼は手足を振り回し逃れると、小さなモーションで右手の剣をジョンに投擲し目をくらます。
隙をついて向かったのはロコの方だ。いま立ち上がったところだったロコは、無手でやってきた吸血鬼に向き合うことになる。
間合いに入ると同時、吸血鬼は左の中段回し蹴りを繰り出す。
冷静に右肘を下げて防御しようとしたロコだが、蹴りの軌道は変化した。
当たる寸前、足が伸びきる前に腰を入れ、吸血鬼は相手に背を向けるような姿勢を取る。
これにより防御を素通りした蹴り足は曲がったままロコの正面まで来て、一気に伸びきると真下から顎をかかとで蹴り上げた。
「かっ……」
体重の載った蹴りではないが予想していない方向から、急所に当てられた蹴りだ。
軽く意識が飛んだのかロコの全身が緩む。
左足を着地させて身を寄せた吸血鬼は左手で慈悲の短剣を奪い取り、倒れ行くロコを背にジョンへと振り向いた。
短剣の刺突が、一度の踏み込みの間に三連続で叩き込まれた。拳闘の構えを取って掲げた腕で一撃は逸らしたが、右肩と右胸から浅く出血する。
この突きで得物の間合いを掌握したらしい吸血鬼はさらに深く踏み込む。
カウンターを狙い、ジョンも右貫手を繰り出す。
が。
吸血鬼は低く身を屈めただけで、短剣で突いてはこなかった。
ジョンの貫手を前に、
その手首をこづくように内側から短剣で捌く。
――《裁き手》だ。
攻撃を逸らされ真正面が無防備になったジョンの心臓めがけ、吸血鬼の右掌底が打ち抜こうとした。
とっさに自ら後ろに身を逃がし、直撃は避ける。それでも突き転がされた。
仰向けに落ちながら、ジョンは身をひねって左手から着地する。駆動鎧装が軋み、蒸気を吐いた。
覆いかぶさるようにして突き下ろしてくる吸血鬼。
その腹にめがけて、右膝を叩き込んだ。左手の着地の際にひねった身体から生まれた力を奥深くに捩じ込む。
しかし臓腑を割るほどの威力は出ない。指を打ち鳴らす間ほどのわずかな停滞しか稼げず、吸血鬼はなおもジョンの命に迫る。
突きが落ちる。
胸部を貫こうとする。
極限まで狭まっていく視野の中でゆっくりと短剣が動き――――ジョンの前に鮮血がほとばしった。
力を失い逸れた突きがざぐん、とジョンの眼前に落ちる。
吸血鬼の左腕が血に濡れている。
彼の者の背後で折れた剣を手にしたロコが、左腋を切り上げて動脈を引き裂いていた。
「はぁっ、……はぁ、は、……」
息を荒くして、彼女は剣を取り落とす。
失血の限界を超えたのだろう吸血鬼は、それで沈黙した。
首から、肩から、背筋から、腰まで。
順に力を失くし、ジョンの横へ突っ伏した。
+
仰向けに転がした吸血鬼はすぐに目覚めた。
けれど、命を繋ぐには、少々遅すぎたようだった。
高熱を帯びた駆動鎧装を停止させ、大量の汗を流しながら壁に背をもたせかけたジョン。その横に立つロコ。二人を、視線だけで確認する。
左腋の傷は目覚めた瞬間に意識が向いたのかいまは治っているが、この目覚めるまでの数十秒でだいぶ出血していた。
吸血鬼の再生能力は、負傷部位を意識しないと機能しない。つまり先の背後からの一撃ではそれを意識する間がなかったため、目覚めるまで血は流れつづけていたのだ。
顔面は蒼白で、目も充血していない。
もはやそこに血液を回す余裕がないのだろう。
「……今度こそ、君たちの勝ちだ」
ぼそりとつぶやき、吸血鬼は笑う。
ジョンは彼と視線を交わしながら、上体を起こして言った。
「……さあ、死ぬまでに語ってもらうぞ。すべてを。血盟とはどこで知り合った? なぜ奴らは吸血鬼化の方法を知っている? そして――スレイドは、いまどこでなにをしている?」
問いかけに、吸血鬼はゆっくりとひとつまばたきをしてから、口を開く。
「……血盟は、私もよくは知らないね。我々の同志のうち一名が、そこに属していたので、蒸気裂弾の部品受け渡しを兼ね、酒席で会っただけさ……名の無い存在はヴィタの教えに背く者だが、大主教を狙った大事の前にそこにこだわることは、なかった。……そして接触した際の案内役が、スレイド・ドレイクスだった」
「吸血鬼化はどうやって知った」
「彼らのつかんでいる情報がどこまでかは、私もわからない。ただ、任務遂行のため、どうしても必要なときに使え、と……先の方法を、教えてもらった。まあ…………結局、任務はすでに終わっている状態で……私は、君たちを殺すためだけに、こう成ったわけだが」
かは、かは、と空咳のような笑い声をあげる。
ジョンはもうひとつ問いかけた。
「スレイドを名乗ったのは、どのような奴だった」
「……無表情で無関心そうな、男だった。瞳孔が開き切ったような目で……まばたきを、ほとんど、しない。……目頭とまなじりに、切れたような痕がある」
アブスンの言葉に、ジョンは静かに目を見開いた。
耳に聞こえる自身の鼓動と血流が痛いほどに高まる。
――他人の空似にしては。それは、あまりにも当てはまりすぎていた。
「ほかに、聞きたい、ことは」
「……無い。もう、眠れ」
「ああ…………そう、させて、もらおうかな……」
開き続けていた目を、半ばまで下ろす。
眼球だけ動かしてロコを見た吸血鬼は、もうひとつだけ、つぶやいた。
「……君。私の、背に。聖書が、……ある」
「はい」
「葬送を、頼む」
はい、とロコは言い、彼に近づいた。
ごそごそと衣服の内を検めると、たしかに革紐で縛った聖書があった。わずかに血濡れたそれを手に、ロコは吸血鬼の言葉に耳を傾ける。
「……君も、大変だな。嫌な役回り、損な生き方、だ……」
ロコは、ほんの少しためらったように固まって。やがてちいさく首を横に振った。
「……もうわたくしは、アークエではありません。だからこそ、べつに損だとは思いません」
慈悲の短剣を拾い上げて、彼女は言う。
身に宿した『聖者の御技』なる術。そのルーツがどこにあるかは、いまの言葉と、先ほどの狂信者の言葉ではっきりした。
だがいまさら、ジョンに深く訊く気はなかった。
そして、吸血鬼は事切れた。
半ば開いたままだったまぶたを閉じさせて、ロコはうなだれる。
列車は、走りつづけている。
+
山岳地帯に入る前の駅で停車した列車を降り、ジョンとロコはドルナクへ戻る列車を待った。アブスンの遺体と、狂信者の遺体を連れて。
その間に電信で連絡を取ったところ、賓客も無事に到着して滞りなく上等区画への警護も終わったと、駅舎の人間が返信をくれた。わずかながら安堵して、二人は列車が来るまでの三時間ほど仮眠を取った。
昼前、ドルナクに戻って駅舎に降り立つと、周辺の警護をしていたルーとラキアンに出くわす。
二人はジョンたちの無事を喜び、次いで駅舎の最奥で止まる列車を指さした。
列車手前のホームにはぐったりした様子で横になっているゴブレットと、その横になぜかロイ=ブレーベン。二人の周辺には螺子からバルブからピストンからパイプから……さまざまな部品と、それらを扱うための工具が種々雑多に転がっていた。
「なんだ、あれは」
「んぁー、あの二人な、上官と部下の関係だったんだとよ」
「? どういう意味ですか」
「戦時のね。前線に配備されたときからの関係なのだそうだよ。そして蒸気裂弾は前線で多用された兵器で、我らが隊長は曲りなりにも蒸気機関技師だ」
どうやら解体はゴブレットとロイがおこなったらしい。時限式機構の停止は賓客が来る前に終わったそうだが、暴発しないよう安全に蒸気を抜く作業でついさっきまで掛かり切りだったのだという。
ノびているゴブレットに、ねちねちとなにか言っているらしいロイ。遠目に二人を見やって、ジョンたちはようやく一件が終わったと実感した。
「つーわけで賓客の移動はなんとか終わったが、色々ごたごたしちまったし。サミットは一日延期になるってよ。ジョン、おめーなんか研究発表会みたいなの出るんだろ?」
「ああ。また上等区画へ向かって、打ち合わせもせねばならん」
ディアに連絡を取らねばならない。昨晩は結局打ち合わせもそこそこに切り上げてしまったのだ。
「ルー、もし手が空いていたら送空管でDC研究所へ連絡しておいてくれるか」
まだいまから警察の聴取と騎士団への報告とで時間を取る。ちらりと後ろを見て、共に列車に乗ってきたアブスンと狂信者の遺体に目をやると、この仕草で次第を理解してくれたルーは「構わないよ」と請け負ってくれた。
――それから、ロコと共に聴取を受けて。騎士団にもアブスンの吸血鬼化と顛末を報告し。
すべてが終わって解放されたのは夜の九時を回ったところだった。
一旦の帰宅および明日からの業務への復帰を許された二人は、ひとまず家路につく。
仮眠を取ったとはいえ夜通し探し回り、戦闘をこなし、やっと訪れた安息だった。明日の朝にはまたサミットの打ち合わせですぐ上等区画へ向かわなくてはならないとはいえ、いまだけはなにも考えず自宅の寝床で眠りたい。
凍てつく風吹く通りを抜けて、二人は無言で歩いた。
いつものように下等区画を抜け、階段を上がり、家の前に着いて。
「ああ、疲れました」とつぶやくロコに「そうだな」と適当に返した。
とたとたと居間へ歩いていく足音。ジョンはブーツを脱ぎ、滅菌水の水盆に足を浸し拭いてから居間へ。
明かりと共に排熱暖房を入れたロコは、蛇口から出した湯でタオルを濡らし煤とスモッグにまみれた髪と衣服をぬぐっている。
と、そこで机の上に目をやり、なにかに目を留めた。
「あ。これ、この間の健康診断の」
「血液検査の結果だ」
置きっぱなしにしていた紙片を、ロコはしげしげと見つめた。
「……これ、ジョンさまの本名ですか?」
タオルを首にかけて紙片を片手に取る。
ドルナクの騎士団所属、教会所属の人間は皆、個人情報が情報機構に集積されている。イブンズはそこから疾病歴や血液型といったデータを呼び出して比較の元としたため、こちらにはその情報機構の氏名――ジョンが、ジョン・スミスなどと名乗る前の名が記載されているのだ。
「そうだ。かつての名だ。呼ぶなよ」
「わかっておりますよ……」
そっと紙を置いて、ロコはソファに腰を下ろす。
「名前を変えたいと思うようなことが、あったのですよね」
腰の短剣と聖書を外し――書は、アブスンの遺品をそのまま持ってきたようだ――彼女は言う。
聖書の表紙にはぬぐったもののまだ血の跡がある。
アブスンが。かつて憧れた剣士が。その名に付随するなにもかもをさえかなぐり捨てた様を、思い起こさせた。
「……俺も後戻りは、できんのだろうな」
「え? なにかおっしゃいましたか」
「なんでもない」
いまさら、変えられない。
アブスンがいつからあのような生き方をしたのか、なぜあのような生き方になったのか、どのように生きてきたのかは、わからない。すべてを知る日はおそらく来ないだろう。
それでも自身にとって譲れないものがあったから、彼はあのように成った。成り果てた。
ジョンもきっと、同じだ。
「剣で諭し、血で濯ぎ……」
自嘲するように言いながらも、逃れられなかったアブスンを思う。
生き方は、変えられない。
いまさらのように自覚して、ジョンは深くため息をついた。