46:魔剣と挟撃と最後の十秒
右片手中段に剣を構え、立ち尽くすアブスン。
足幅は広く取っており、引いた左足は爪先が外を向いている。列車内ということもあり、急な振動などに対処するための構えだろう。
左手は脇を締めているが、同じ右片手中段に構えるロコとはちがい腹部の横に腕を添えるようなかたちではない。顔のすぐ近くに五指を開いて配置しており、剣さえなければ右半身の拳闘の構えのようにも映る。
ジョンから見てアブスンの右に立つ狂信者は、先日と同じ構えだ。ロコをまったく鏡写しにしたような、左片手中段。足幅のスタンスは同じく広く、しかしアブスンよりも得物の短さの分わずかに前傾し、剣を届かせやすくしている。
「ジョンさま」
「ああ」
同じようにジョンとロコも並ぶ。
ジョンが左側、アブスンの正面へ左半身の構え。ロコが右側、右片手中段の構え。
鏡写しと鏡写し。ジョンについては、得物がないが。
「では……行くぞ!」
どちらともなく。だれともなく。
一歩を踏み出し、激突がはじまった。
最初に動いたのは当然、もっともリーチの長いアブスンだった。継ぎ足で踏み込んだ右足の制動により生まれた慣性を打ち込みに載せきり、左腕の引き手が広背筋をうごめかし剣を加速させる。
すべてが一の挙動のうちに完結している。
あまりに滑らかな流麗さは、なにが起きたかを大抵の者に悟らせない。
魔剣――《剣啼》と呼ばれた男の剣は、そう呼称されて然るべき斬撃だった。
それでもジョンも並ならぬ研鑽を積んだ闘士だ。
間合いに入り切る前に足を止め左腕を引く。
そんなジョンの前を刃が往き、
瞬時に復る。
切り返しの際はさらにリーチが伸びた。ぢィンと駆動鎧装をかすめた刃先が火花を散らし、ジョンの前で空気が弾ける。
「いい、いい動きだ」
その声にはホームで耳にしたような余裕はなく。ひたすら冷徹に現状を見つめているだけの『観の声』と呼ぶべきものだった。
攻撃後という通常なら致命的な隙でしかない現状においてなおも、姿勢にはわずかの乱れもなく。切り上げを放ったのではなく単に右片手上段に構えなおしただけとした見えない、完璧な体軸の支えを体現している。
誘いのように曲げたまま水平に突き出された左肘と、切り上げの際に踏み込んだ左足。
構えを変えたアブスンはここから左足を絨毯に滑らせ、前に出ると同時右足を打ち出した。
ぎりぎりの間を見切っていたジョンの左腕に、鋭く伸ばされたアブスンの前蹴りが当たる。左腕がわずかに逸れた。
その間隙を縫うような突き。頭を振って横に逃れると、寝かせた刃が首へと迫る――引き切りのカット!
「く、」
「掴みか」
逸らされた左手で剣身をつかもうとすれば、浅慮を指摘するアブスンの声と共に刃は煙がごとく消え失せる。
「具足の組討術ならそれも、常套手段なのだよ」
さらなる指摘と共に一閃。ついさっき己の右側から迫り来た剣が、つかもうとした途端に左側から首筋へ襲い来る。
ジョンの左の駆動鎧装がつかもうとしたのをすんでのところで察し、手首を返してきたのだ。
言葉にすれば単純明快、しかしその先読みからの行動選択を高速の攻防の中でどれほどの精度でどれほど多く挟み込んでいくのか。
つかみ損ねた左手、その肘を上に跳ね上げることでジョンは首への斬道をガードした。ぢュィんとまたしても装甲が啼く。
加えて伝わる、重み。ジョンは横に転がる。
打ち込みの始動に関しては、たしかに手首の返しのみだ。けれど動作の完結までに足の踏ん張りと、腰から伝わる螺旋の力を完全に上乗せして斬撃として昇華している。
とっさの返しで生まれる棒振りの芸ではない。凌ぐのであれば、相応の先読みがこちらも必要となる。
「……つッ」
膝立ちで姿勢を整えたとき、どろりと左のこめかみ辺りから血が流れた。ジョンの黒い髪が幾房か宙に舞っていた。
防ぎ切れていない。切っ先が身に触れている。
「通算五度の斬撃を防がれたか。私も少し、鈍っているな……」
膝立ちから左半身の立った構えに移行する暇を与えず、アブスンの剣が追撃する。
横薙ぎを低く身を這わせることで回避し、ジョンはそのままの勢いで飛び込み前転する。
高く振り上げた右のかかとを一直線に振り下ろした。ズン、と絨毯にめり込んだ足が鈍い音を響かせる。
アブスンは前に居ない。
「相手から目を離し姿勢も崩れるのは技とは呼べないね」
振り抜いた剣に身を引き付けるように、ジョンの左手へスライドしていた。
繰り出す低い位置への払い。すぐさま左腕を掲げ、右手を前腕に添えた。
ばヂんと耳元で空気が裂けまたも転がされる。左腕を見れば――深く、装甲に切り込みが入っていた。ぞっとする。
ロコとの模擬戦のときのように、内部への打撃浸透で機構が壊れるのはわかる。だが装甲部をつくる複層錬金術式合金は、ガルデンのときのように同じ複層錬金術式合金とでもぶつからなければそうそう傷がつくことはない。
アブスンが手にしているのは一般人から奪った普通の鉄剣だ。それで術式合金に傷を加えるなど、もはや理外の技術だ。
へたに防御すれば斬り破られる。受けの勢いでまたも転がり脱したジョンは、立ち上がってすぐ左手にあったバーカウンターに手を伸ばした。
銘柄を瞬時に確認し――酔っ払い二人にいつも付き合ってきたおかげでだいたいはすぐ判別つく――一番度数の高いものを天井に投げつける。
ついで駆動鎧装の両手を、拍手でもするかのような姿勢に変えた。
接近しようとしていたアブスンは割れた瓶から降り注いだ酒をバックステップでかわし、
次の瞬間にジョンの打ち鳴らした手から散った火花がアルコールを爆発燃焼させた。蒼い焔とボンと押し広がる大気が周囲全員の鼓膜を打つ。
視覚と聴覚を塞いだ。
「ここだ」
一瞬目を閉じ視覚は奪われずにおいたジョンが焔を回り込むように走る。アブスンが剣を持つのは右手、よって逆側の左から攻める。
眼前を塞いだ閃光から反射的に目をかばったのだろう、両腕が上がって脇腹が空いていた。
ジョンは右の爪先からステップインする。かかとを相手に向けるほどにひねり込み、接地。相手に背を向け左の後ろ蹴りを叩き込んだ。
だが足裏に返ってきたのは硬い防御の感触。
「な、」
「 」
ジョンもまだ爆発音の影響があるため聞き取れないが、アブスンの口が動いている。
『読めている』
そう、彼は言った。ジョンの蹴りはアブスンの突き出した膝蹴りに防がれていた。
足を引き戻す。ふくらはぎに痛みと熱。
心臓の拍動に合わせて血が漏れていくのがわかる。斬られた。
「――――良い。良い、回避だ」
聴覚が回復してきたところで、アブスンはそう声をかけてきた。
足の怪我はまだ戦闘に支障があるレベルではない。すぐに立ち上がり、構えなおす。
右片手中段に戻ったアブスンは、二メートルほど間を空けている。その気になればすぐに詰められる距離だ。
斬られたこめかみから血が流れる音が聞こえる気がする。
アブスンの向こうでかちん、ちんっ、と音がする。おそらくはロコと狂信者の打ち合う音。
足元から伝わる、レールを滑る車輪の振動。
いまだ逃げきれておらずどよめく人々の息遣い。
どれもが一気に耳に入り込んでいた。過剰な集中のとき稀に起こることだ。頭の中の処理能力が向上している。
ふうう、と息を深く吐いて気を落ち着けた。浮いた肚を据え直し、半目でアブスンを見る。
冷徹にこちらを見据える彼の目には、どんな色も見えない。
「並ならぬ使い手とは察していたが想像以上だ。いまは腕を失くし駆動鎧装の拳闘を主としているようだが、剣士として非常に高い水準に達していたのがうかがえる……ふむ、ふむ。いまの蹴りと間合いの取り方。拳闘の構えに崩しているとはいえ、体軸から感じるのは両手持ちの剣ではなく左右それぞれの剣を意識した姿勢」
静かな、観察の結果を彼は思案している。
向こうの目をのぞきこもうとすれば、こちらもまたのぞかれる。当然の理。
じぃと見通す先でなにかつかんだか、アブスンはつぶやく。
「タルカス流。たしかその流派では、先刻君が見せたような低い位置からの蹴りで崩すことや双剣の勢法にも明るいはずだ。君の技は、それを義手での格闘術に落とし込んだものかな?」
推測を告げられ、ジョンは一度口を開きかけ、閉じる。
久しぶりにその名を聞いた。
己の半生を賭して磨き上げ、失い、なおも執着した剣。
「……そうだな。かつて俺はその流派に属していた。剣士だった」
青い夢を抱き。騎士として生きることを誓い。剣を磨いて過ごしていた。
剣に命を捧げたつもりだった。
剣を奪われてなお生きながらえることになるとは思っていなかった。
だからその覚悟の甘さを恥じ、もうジョンは名乗らない。
いまは亡き流派も。その生きざまも。
「だが、俺はもう剣士ではない。――ただの杭だ。吸血鬼を、人に仇成す者を滅するのみ」
この駆動鎧装はなにも手にしない。
名誉も。武功も。なぜならそれらは遠く過去に奪われているのだ。
やり直しはきかない。ただ進み、突き進み。打ちの滅す。
この杭打ちの腕はそれだけのものだ。
「なるほど」
決意をいま一度心に括ったジョンを前に、アブスンは剣先を揺らしつつ言う。
「剣士ではない。なるほどいまの状態ではそうなのだろうね。だが……剣腕を失くしながら、君もずいぶんとひとを斬ってきたと見えるのだよ」
「ひとは一人も斬っていない。俺は、吸血鬼だけを狩ってきた」
「その理屈が君たち騎士団の心を守っているのならなにも言うまいが。しかし、私見としては、君は私と同じ目をしていると映るよ」
「同じ、だと」
「四十人以上斬っているだろう、君も。一度に相手したわけではなかろうが」
暗く黒い瞳がジョンを捉える。
渦巻く闇のような瞳が、ジョンの奥底をのぞく。
かぶりを振って視線を振り払い、ジョンは構えた左拳越しにアブスンの全身を強くにらむ。顔を、目を、一部を注視しないように努めた。
「だったらなんだというのだ」
「いや、いや。君もいずれ、なにもかもが虚しくなるかもしれないと思えてね」
アブスンは、哀しそうな笑みを浮かべた。
ロコと狂信者の打ち合う音はまだつづいている。
ジョンとアブスンの戦いも、まだ。会話しながらもわずかずつ、爪先を進めて距離を測っている。
けれどその足も止まった。アブスンの笑みが、異様に頭に残った。
「……なぜ哀れむ」
「これは吸血鬼だ、と君たちは区分の線を引いているけれど。実際には人間を斬りつづけていると、心の奥底ではわかっているのだよ。そしてその数がかさめば嵩むほど必ず己の心にひびを入れる」
「経験から語っているのか」
「そうだね」
笑みには既視感があった。
いや、正確には同じ表情ではないのだが。
物言いと、感じ取れるものが……あのガルデンが意識を取り戻した際にジョンへ向けた哀れみと重なった。
「前に遭遇した宗教者も、同じようなことを俺に言った」
「そうかい」
「先の物言いだと、お前はすでになにもかもが虚しいと感じているのだろう。ならばこのように事件を起こす理由はなんだ」
「語ってなにか変わるかな」
「俺がただ、知りたいだけだ……お前は、ひとを活かす音楽の道を選んだと言ったろう。生き方は変えられると言っただろう。他者に思想を押し付けるのは醜い、とも……それならばなぜ、と思ったのだ」
「…………」
笑みのままに硬直して、アブスンは静かに剣を下ろした。
とはいえ武装を解除したわけではない。足幅を縮め、左手を片刃の剣の切っ先近くへ包むように添える。下段、後の先を狙った構えに移行しただけだ。
なぜ、と思ったが理由はすぐにわかる。
アブスンの向こうで打ち合っていたロコが、出足を払おうとした狂信者の左足を引いてかわした。すぐさま、引いた右足をもう一度送り出してロコはまだ宙にあった狂信者の蹴り足を押し、加速させる。
体勢を崩した狂信者の喉元に左の肘打ちを当て、そのまま壁に叩きつけた。
「かっ、」
と息を吐き狂信者は動きを止める。
そこで終わった。
下から突き上げるように肋骨の隙間を縫い、刺し込まれたロコの短剣が心臓を穿っていた。
狂信者の熾火色の目がぎんとロコをねめつけ、喉から肘が離れるとずるずると床に身を落としつつ、怨嗟の念を声音に載せる。
「この…………破戒者が……アークエの、面汚、…………」
こと切れた。
アブスンはこの結果を、わずかながら早く予見したのだろう。
ロコがすっと立ち上がり、血濡れた短剣を無造作にアブスンへ向ける。
ジョンとアブスンとロコが、一直線上に並んだ。
挟撃。
これを危険視して、アブスンは構えを変えたのだった。
「狂信者がこうも容易く敗れるとは思わなかったがね」
真横を向いて、ロコの方に右半身を向ける。ロコには斬りかかることができ、ジョンには突きを繰り出せるよう姿勢を変えつつアブスンは言う。
「容易くはありませんでしたよ。同じ技術の使い手でしたから、手の内はすべて露見しておりましたので」
「だが実際に、上回ったのだろう」
「こちらは吸血鬼相手に実戦漬けの日々でしたから。人間相手でも常に二手多く仕掛けるくせが抜けませんで」
ロコが突きつけた短剣が揺れる。
アブスンはクッ、とうめくような笑いを漏らして、軽く首を回した。
「はははは……はっは! 剣の道を離れてから、こんな凄腕に出会ってしまうとはね……もう少し、研鑽する場にとどまっておくべきだったか。いや、ここでいまこうして出会えたことこそ神の思し召しか。いやはやままならないな……」
声の終わりが意識の切り替わりだった。
急速に笑みが乾いていく。
アブスンの剣に、見る間に『重さ』としか形容できないなにかが宿っていった。剣啼と呼ばれるまでに至った、彼の鍛錬の成せる技だろう。
真剣を相手に戦う者は皆、危険であるからこそ剣先を意識しすぎないよう訓練を重ねる。
しかしアブスンの気迫と練度は、訓練を積んだジョンをして刃に意識が向くよう仕向ける。
それが『重さ』を可視化しているかのような、威圧感を生んでいるのだ。
「ジョン君」
「……、」
「十秒後、君たちが生きていたなら。先の問いに答えよう」
に、と最後に笑みを残す。
飲み込まれそうな気迫が周囲を満たす。
ロコとジョンは――――わずか一瞬、目を交わすだけで動き始めた。
地を向いていたアブスンの片刃剣の刃が、くるりと反転して天を向く。
左手は変わらず切っ先近くの峰を包んだまま。
わずかな膝の屈伸があり、
アブスンは、跳んだ。
切っ先を押さえていた左手が、引いていた弓の弦を放つかのように切っ先を送り出す。
右腕が大きく弧を描き剣先が鋭く音を成す。
着地と同時に真上から打ち下ろす一撃で、ロコの頭蓋を切り伏せようとしていた。
「――ふっ」
跳躍に寄る奇襲と一気に間を詰める剣戟にロコは《裁き手》を繰り出す。内から外へと払う横薙ぎで、切っ先をはねのけようとした。
が。
「正直に過ぎるね」
急速に勢いを失ったアブスンの剣は、ロコに逸らされる前に彼女の左手側へ狙いを外して振り下ろされた。二人の剣は噛み合わないまま空ぶる。
予想だにしない動きに困惑するロコ。
その短剣に、アブスンの左手が伸びる。
切っ先を強く握りしめた。返す右手の剣でロコの首を狙っている。
そうはさせまいと、ロコに向けて跳躍したときからすでに駆け出していたジョンが彼の背、もっと言えば腰骨へと蹴りを叩き込まんと迫る。
左の横蹴りが骨を踏み折らんと速度を帯びた。
途端にアブスンがこちらを顧みる。
黒き瞳にジョンを映して、左のかかとを軸にギュンと左へ旋を描く。
彼の左肩の上から――ロコに向かっていたはずの切っ先が現れ、突き出される。驚愕にジョンは目を見開いた。
またしても、手首の駆使だ。ロコに当たる前に手首を返し、同時に左手の短剣を切り放してフリーに。あとは左肘を張って後ろに倒れ込むような挙動に併せて、剣を肩越しの突きに変化させた。
察してすぐ蹴りの姿勢を崩し、ジョンは慣性のままにスライディングするかたちで突きを避けた。
低い姿勢での横蹴り――タルカス流で多用する技だ――を読んだアブスンの剣は突き下ろすような軌道を描く。
狙いの深い突きは床に向かって放たれ、切っ先が沈み込む。すぐには切り返せない。
ジョンは絨毯の上で滑る身体を無理に起こして反撃に出た。ロコも右隣でほぼ同時に飛び掛かっている。
いまのアブスンは剣が使えず死に体。かつ背を向けている好機――
などというのは、思い違いだった。
ふいに明滅する視界。
顎先から首へ走る衝撃と熱と遅れて来た痛み。
突きを繰り出したはず――、背を向けていたはず――、攻撃を受けるなどあり得ないはず――と、いくつもの疑問が膨らんでは消える。
白くなっていた世界が色づく。
答えは目の前に、ある。
蹴られていた。
床に切っ先が突き立った瞬間、アブスンは右腕と右足で身体を支えて渾身の力で左の後ろ回し蹴りを放っていた。
「……!」
それはあのジルコニアのステッキ術併用蹴撃と同じ技法だ。
兵卒昇位の爵位とはいえ彼もまた貴族。上流階級。
その筋の人間が身に付ける術は当然覚えているということか。
見ればロコも蹴り足に短剣を弾かれたらしくのけぞっている。
今度はこちらが死に体に追い込まれていた。
「あと三秒」
蹴り足を戻すと身を翻し、つぶやきと共に反転したアブスンの横薙ぎがロコを襲う。
のけぞった状態で十分な回避が取れないロコの右こめかみへ迫りくる白刃。近すぎてもう《裁き手》も使えない。
それでもなお短剣を軌道上に伸ばし、防ごうとする。
噴き上がる血。
だが量は少なく傷は浅い。
慈悲の短剣の剣身に左掌を添え、両腕の力で防御していた。この左掌がわずかに刃に触れ、出血したにすぎない。
とはいえ回転力を載せた横薙ぎの威力を殺しきることはかなわずそのままジョンの方へ吹っ飛ばされる。
二対一でもっともまずい状況に追い込まれた。位置が重なればもはや単なる一対一の連戦に過ぎなくなる。
胸板で受け止めたロコはまさに死に体であった。
両腕は弾かれた衝撃で左右に開いてしまい、ろくに防御も取れない。
そこに放たれる上段からの斬撃。アブスンの剣が絶命の一撃としてかたちを取る。
ロコの頭蓋を断ち割りに向かう刃を捉える。
――死が。
くっきりとした輪郭を伴ってジョンの前に現れようとする。
腹の奥底がねじ切れそうになる。
――冗談じゃない。
もう身近な人間に、
目の前で死んでほしくはない。
雷電が走る。
腕が蠢く。
音が遅れる。
交差する双つの掌が、
頭上で火花散らし閃いた。
「――――、」
両肘からの蒸気噴射が周囲に白く熱を巻く。
左右同時の《杭打ち》で白刃を挟み取っての強打が、アブスンの剣を砕いている。
短くなった剣身が空ぶる。
跳ね起きたロコがその剣の峰へ短剣を添えていく。
《裁き手》。
振り下ろした勢いのままさらに加速を付けられたアブスンは、もんどりうって身を崩す。
いなされた右手の剣に引っ張られるかのように、反転して首筋を無防備に晒す。
そこへ。
短剣を振るったことでうねりを帯びた上体から繰り出される、
ロコの左手の《鉄槌》が叩き込まれた。
威力のまま床に打ち付けられ、
アブスンは動きを止めた。
――――――――…………、
……時間と音が戻ってくる。
止まっていた呼吸を必死に取り戻し、ジョンは掲げていた腕をぶらりと下ろす。
吐き出した蒸気が薄れていく。両腕にこもった熱が痛い。
ロコもぜはぁと息を漏らし、《鉄槌》を打ち込んだ体勢で固まっていたのが膝から崩れ落ちた。
うつぶせに倒れ込んだアブスンは動かない。
「……生きて、ますね」
「……ああ」
互いに確認し合う。
へたりこんだままジョンの脚に背をもたせかけていたロコは、慌ててそこから離れた。
「す、すいません」
「気にするな。さて……」
アブスンはまだ倒れたままだ。
殺さず済んだ以上、そのまま拘束して引き渡すのがいいだろう。
まだ腕が動かせるうちに、とジョンは近づき、手近なところに紐かベルトでもないか探す。
と――
ばんと低い音がして、床を叩いたアブスンが膝立ちになる。
そのまま後ろに重心を傾け、素早く後退した。
三メートルほど。瞬時に詰めるには難しい程度の距離を置き、彼は……
「ごほ、……」
血を吐いた。
飛び退った距離の間にも血が落ちている。
倒れたときに折れた剣先が刺さったらしい。衣服の左脇腹にだくだくと濃い血が浮かぶ。
膝立ちのままでこちらを見据えるアブスンは、乱れた白髪の隙間にのぞく面立ちに、死の影を宿し始めていた。
「アブ、スン」
「……いや、はや。駆動鎧装の、隠し機構か……これはさすがに堪えた」
口の端からぽつ、ぽつ、血が垂れる。
傷口を押さえることはなく、右手には折れた剣を携えたまま。アブスンはじっと身を縮め、荒く息を吐きつづけた。
「はは……なにもかも、やはり、虚しい」
「……それは、」
「回答だよジョン君。私はもう、なにもかもが虚しい」
じっとりと顔が脂汗で滲んでいく。
アブスンは視線を床に落とし、背を丸めた。
「いまも、剣が好きだ。音楽が好きだ。どちらも真剣にやったさ、そこに嘘はないのだよ」
だがね、と区切ってアブスンは一度口ごもり、少し呼吸を置いた。
伏せた目はいまを映していない。おそらくは過去に向いている。
それがなんなのかはわからない。
語るには、もうアブスンの命は短すぎるのだろう。
だから言葉を選んでいる。
「生き方が、アイデンティティのすべてではない、というひともいるだろう。それを私は否定しないが」
「……、」
「けれど、私にとってはすべてだったのだよ。寝ても覚めても、自分とちがう考えの人間がいることに吐き気がしていた。それが異常なことだと、己で認めてなお、異常であると感じなければいけないこの世界への恨みが、ただただ膨れ上がるだけだった……」
はー、と息吐き、口中に溜まった血を飲み下す。
「剣で打ち合うとき。音で繋がるとき。……それだけが唯一、他人と接していて、楽な時間だった……」
飲んだのよりも多い血が喉奥からあふれ出し、アブスンはせきこんだ。
「…………でも、一時の気休めでしか、なかった。癒すことはできない。私の他者との隔絶は、宗教観は、世界の観方は……私に憎悪を溜め込むばかりで。ああ……生き方は、ついに、変えられなかった」
呪うように。
祝うように。
アブスンは吐き出し、開いた目をこちらに向ける。
その言葉は、心の奥底まで響いてジョンを絡め取る。胸の奥にどす黒いものが溜まっていく感覚があり、ジョンは、高熱がこもりつつある指先であるのも構わずシャツ越しに胸を押さえた。
言葉はしばし途切れた。
死の際が、いよいよ彼にも近づく。
アブスンはぐ、と右腕に力を込めた。ロコが反応して半歩前に出、短剣を向ける。
彼は折れた剣を持ち上げて天を指し、その峰に額を当てた。
「そろそろ、お別れのようだ」
はっきりと一音一音を発して、アブスンは剣を掲げた。
「……葬送はどうします」
「要らない。いや、君に受ける気はない、ということではなくね……」
ロコの問いにうろんな返事をして、彼はつづける。
「賭けにはなるが……まだ、手がひとつ残っていてね……必要なのは、あのドルナクに居たこと。加えて『憎悪』。明確な『殺意』。そして――」
掲げていた剣を。
勢いよく。
己の首筋に、突き立てた。
引き抜く。
ばたたたっ、と鮮やかな色の血がこぼれ、ついで心臓の拍動にあわせて噴き出す。壊れた蛇口のように漏れ出す命は止まらない。
すぐに勢いは弱まっていく。アブスンの顔は真っ白になっていった。
生きた者の肌の色では、なくなり。
目を伏せ。
剣を突き刺した腕が床に落ちる。
血の流れが止まる。
完全に、静止する。
アブスンの目から光が失われていく。
暗く。黒く。
淀み。沈み。
瞳孔が開き。
――じくり。
白目の一部に、
朱が、差した。
「……は?」
朱は赤となり、瞬く間に広がる。
白い肌がさらに時を進めたかのように土気色に変貌する。
血と怨嗟を吐くばかりだった口許に震えが宿り、
犬歯が下唇を噛むように目立ち、喉奥から吐息が漏れ出す。
血は、完全に止まっている。
首筋にこびりついた乾きかけの血が、痒いかのようにアブスンの指先で引っかかれて落ちる。
傷は。
無い。
「………………はは。生きながらえた、というべきか……」
首を上向けて。
こちらを見る。
折れた剣を携えたまま、その者は、立ち上がる。
ふいに、気になったかのように、剣先で己の左手に切りつけた。
血はわずかに出たが、その端から傷口は閉じて再生していく。
これを見て納得したように、静かに深くうなずいた。
「…………アブスン」
ジョンの呼びかけに。
彼は、彼だった者は。首をかしげた。




