42:戦闘と聖者の御技と白紙の書
ジョンはちらりと足下を見やる。
遺体は男だった。脇には閉じた聖書が落ちており、ひと突きに殺された胸元には血の他にも腹部まで、濡れた痕跡がある。
その様にジョンは覚えがあった。
再銑礼の際に短剣に記した名を流すための、聖水だ。つまりこの黒ローブは、葬送を行っていたということになる。……教会ゆかりの者だろうか。
視線を上げれば眼前には、目深にフードを下ろした黒ローブをまとう小柄な影。
この影に突きつけられた短剣を前に、ジョンは即座にインバネスを脱ぎ払い肘内のストラップを噛みしめた。
「お前が……騎士殺しの犯人か?」
問いかけに、答えはない。だがまあそうでなかったとしても、こちらに剣を向ける以上応じねばならない。
首を回して内燃機関を始動し、どるんと低く粘り付く音を体内に聴く。
油圧ポンプが筋肉の代わりに軋み、雷電が疑似神経回路を覚醒させ、左半身の拳闘の構えに移行した。
相対する黒ローブは、肘を軽く緩めた左腕にて中段で構えた慈悲の短剣をゆら、ゆら、と揺らめかせている。
軽く膝を曲げて出した左足、大きく引いて伸ばした右足。右半身は完全にこちらの視界から隠されており、右手は五指を開いて腹部の横に配す。
なにからなにまで鏡写し。
ロコと対峙したときの、あの感覚を思い出していた。
「……同門か……?」
確証は持てないが、同じ流れを汲む者の動きと思われた。
もしもそうであるならば、油断ならない。
年齢に比して異様なほど熟達したロコの体術と、対応力とを思う。
あれと似た技が現れるなら、それは考えるだけでも嫌になる強敵と見ていいはずだ。
「――シッッ!」
鋭い呼気で踏み込んでくる。
開幕は、向こうからだった。
ジョンも左半身であるため、一番近くにあった左拳への打突。
普通ならば複層錬金術式合金でできている《銀の腕》に刃の無い短剣での横薙ぎはさほどの意味をもたないが……もしロコと同じ流れをくむ技を持つのなら、不用意に触れるのは危険だ。
触れたものの軌道を操る《裁き手》。
これの発動を恐れ、ジョンは自ら拳を引いた。
空ぶった横薙ぎは、すぐさま停止し突きへ移行した。これは右掌で外へ弾く。
反撃の左拳を放り込むが、相手は顔を背けてうまく逃れた。同時に体重移動を済ませたのか、するりと間合いから滑り出る。
ヒットアンドアウェイ。
間合いの取り方は、ロコよりも慎重な様子だ。
ならばこちらから攻める。
進めた左足に右足を引き付けるようにして、前に出た。手技に行こうとするよう見せかけ、突然屈みこみ下段へ回し蹴りを繰り出す。まっすぐに伸びる右足の甲で、相手のくるぶしを狙っていた。
かかとで臀部を蹴るようにぱっと左足を上げた黒ローブは、ジョンが蹴り足を引き戻す前に太腿を刺すべく突き下ろそうとする。
「まだだ」
ジョンは低い姿勢から後ろに手をつき、蹴りを外した右足が接地すると同時に左足を跳ね上げた。
変則の、後ろ回し蹴り。弧を描いた左のかかとが首筋に叩き込まれる。
突きを繰り出す寸前でこれに気づいた黒ローブは、即座に左前腕を耳の横に掲げてガードする。それでも体格差があるため、わずかに横に押しやった。
追撃を――と動き出すジョン。
ところが蹴った左足が戻せない。
「ちっ」
思わず舌打ちした、と同時にからんと短剣が転がる。
黒ローブはガードしてすぐに短剣を手放しており、手首を返してジョンの左足首を握っていたのだ。
後方へと引っこ抜くように左腕を振り回し、つられたジョンの左足が無防備になる。……この動き、ここから繰り出されるのはおそらく、
「《鉄槌》か」
「……!」
はじめて、黒ローブに動揺が見えた。
だが技はすでに始動している。左腕を後方へ振るう動きで生まれた上体の捻りとうねり、これを用いて逆の腕の加速を促すのがロコの扱う技術における重打《鉄槌》だ。
振り下ろされる右の拳槌が、ジョンの左膝を狙う。
関節を砕かれてはたまらない。駆動鎧装の両腕で身を支えながら、飛び上がったジョンの右足底が脇腹を押す。
それは突き放すだけの蹴りではあったが、それでも奇妙なほど感触は軽い。
「手ごたえ、というのは当然俺にはないが」
先読みして自ら飛んだような感じだった。
現に、黒ローブは腹部をぽんぽんと手ではたき……さほどダメージはない様子で、腰の後ろからもうひと振りの慈悲の短剣を取り出す。
仕切り直しだった。立ち上がったジョンとまた向き合い、彼我の間合いは約五メートル空いた。
じり、とジョンは右側の壁に寄る。
同時にスイッチして、右半身の構えになった。その意図を相手がどう取るか。そこがひとつの分かれ道ではあったが。
牽制のつもりか、黒ローブはジョンに向かって口を開いた。
「……おまえ、《鉄槌》と、言っだ、な」
ぎざぎざと耳に障る、喉が潰れたような声だった。しかし音は高い。
加えて先ほど脇腹を蹴りつけたときに足裏に感じた、骨盤の感触と位置……黒ローブはどうやら、女のようだった。
「ああ。俺の仲間が同じ技をそう呼んだ」
「……おまえは、こぢらの、剣どの接触に、警戒、しでいだ……つまり、そいづは、《裁き手》、も、使う者か……」
「その技も使っていた。やはり、同門か」
「同門、では、ない……これは、門派、では、ない……秘されじ、技法……《聖者の御技》…………」
ぎりりと鋸を引くような音がした。
フードのせいで表情が読めなかったが、それは歯軋りだった。
短剣の切っ先を震わして、黒ローブの女はフードの奥から鋭い視線を飛ばした。
「……信仰無ぎ、者より、身を守る、技……即ぢ、おまえ、だぢを、倒す技……!」
「俺たちを倒す、だと」
「邪教徒、異教徒……世を乱ず、者ども……我は、それらに、誅罰食らわず、者」
歯の根がすり減りそうなほど強く噛みしめ、黒ローブの女はなじるように言う。
闇の奥の目がこちらの目を射抜く。
それはどこか正気を失っているようにも思われた。
「おまえも、神を、信じぬ者、だろう……」
「…………、」
「わがる、ぞ。おまえ、も、そごの、男も……血の臭い、が、する……神を、信じぬ、目」
「いかにもその通りだ。俺は神のいない世界を信じたい人間だ」
「……教えを、解ざぬ、哀れ、で、愚がな、者……滅さねば、ならぬ、者……だが、おまえ、は、強い……な」
女はどこを注視するでもなく、ジョンの全身をうかがっているようだった。
やがてじり、とわずかに後じさりした。
「……増援が、来でも、問題、だ……倒しぎれぬ、なら遁走じ、ここは生ぎ、のびる」
「そうか。ならば止める」
「止められは、じない……」
ぎゅぎっ! と小石やごみが足裏で踏み躙られる。
突風のような、気づけば肉薄している動きがジョンとの距離を詰めようとしていた。剣先が闇夜に閃き突き込まれようとする。
瞬時にジョンは右手を伸ばす。
彼女の左腕の軌道に――と見えるルートで、まっすぐに出した。
だが狙いはそこではない。
途中で曲がったルートの先は、壁面。建物の排水管を、その手につかんだ。
「ぉぉおおおおおッ」
駆動鎧装の出力を上げる。バシュっ、と肘から蒸気を短く噴き、《銀の腕》は力強くうなりを上げた。
腐った果実を握りつぶすようにあっけなく、ブリキの管に指がめり込む。べきべりと排水管を壁に固定していた金具とビスが吹き飛び、
引き裂かれた管から汚水があふれた。ひん曲がった配管は相手の剣筋の妨害にもなる。
案の定、ぎぃんと弾かれた短剣の音。好機と見たジョンはつづけて躍りかかる。
視界を塞いだ汚水が流れきったあと、黒ローブの女は短剣を構え直していた。
接近し、ジョンは懐深くを狙った左のジャブを放つ。
短剣が軌道を逸らそうと左腕へと振るわれ、硬質な音が響いた。わずかに剣先が硬直する。《裁き手》の発動が、迫る。
けれど予期していた。
故にジョンは、左拳を追うように右手を出していた。
「もらうぞ」
掌で切っ先をつかみ取り、今度はジョンが引き寄せる。
出力を上げたままの駆動鎧装に、生身の力がかなうはずもない。彼女は短剣から左手を離した。
この動きで上段に意識を移しておいて、ジョンは腰を切る。短剣を奪い引っこ抜くひねりに連動し、左脚を振り抜いた。
右腕のガードの上からとはいえ、回し蹴りが中段に決まる。ローブの奥からうめき声が漏れてよろけた。
続けざまジョンは左手でフードをつかみ、壁に頭を叩きつけようとした。
さすがにこれは受けるわけにはいかないと思ったか、女は身を屈めた。脱皮のように、ずるりとローブだけが手の内に残る。
同時、屈んだことで低くなった手の内に先ほど落とした短剣を取った。
「無神論者、がッ!」
耳が出るほど髪を短く刈った女だった。目玉だけぎゅるんと動かしてジョンを睨みあげる。
這う姿勢から逆手の二連斬を繰り出した。
ジョンは足を狙う軌道からバックステップで避け、動きが止まったところへ前蹴りを打ち込む。女は獣のごとく蹴りの下を掻い潜ってこれをかわし、ジョンの脇を抜けた。
「逃がすか」
右手の中に残っていた短剣を、振り向きざまに投擲する。
捕えて話を聞くため、殺さぬように足を狙った。回転する刃は持ち主の元へ飛ぶ。
だが女は低く駆ける途中で拾い上げた聖書でこれを防いだ。ずどんと真ん中に突き立つ短剣をそのままに、こちらに聖書を投げつける。
上体を振って回避する間に、女は道を曲がりジョンが来た方へ走っていた。
追って駆け出し、角から頭を出そうとして――後ろ足に重心を移して身体を戻す。
眼前の空間をもうひと振りの短剣が貫いていった。遠くから「ちぃっ」と舌打ちが聞こえる。直接戦闘だけでなく、逃走にも長けているようだった。
そのまま逃がすわけにはいかない。ジョンは追いかけ、元来た道へ。
うねる路地を駆け抜けて、通りに出た。左右を見回す。女の影はない。
広い方の通りへ出ると、道行くひとに「髪を短く刈った女が走ってこなかったか」と問う。答えはかんばしくなく、だれもが首を傾げた。
人込みに紛れるのでなく、さらに狭い道を選んだか。
「くそっ」
きびすを返し、近くにあったモーテル――騎士団と繋がりのある宿だ――に裏口から入り、符牒を示して騎士団へ電信を打つよう依頼する。
それから駆動鎧装を停止させ、また遺体の元へ戻った。
インバネスを蹴り上げ、肩に羽織る。壁に背を持たせかけながら、ジョンは待った。破壊した排水管から水が垂れ続けている。
何の気なしに、その流れを目で追った。
すると水の行き先に、妙なものを見つける。
排水溝付近のブロックが一部、わずかに浮いていた。
近づいたジョンは、ブーツの爪先でブロックを小突き、裏返す。煉瓦をひっくり返したそこには、なにやら金属部品らしきものが埋まっていた。
「なんだ……?」
さすがにこれは足先で扱う気にはなれない。まだ熱が残る腕を少しだけ稼働させ、拾う。
金管楽器のような金属の管が曲がりからまった手のひら大の形状で、各所にバルブとピストンがしつらえられた部品だった。錆びているわけでもなく、ブロックの周りには真新しく掘り返した土が散っていたため埋められたのはつい最近だろう。
と、眺めていたところどかどかと人の気配が近づく。腕も熱くなってきたため、一旦部品をインバネスのポケットへしまって応対した。
ほどなくして警察と共に騎士団の人間が現れ、路地の現場で聴取と調査がはじまった。
「いやまったく、今日は忙しいな。今度は殺人か」
制帽をかぶった初老の警官が、ダブルの茶色のコートを翻しつつ屈みこむ。
忙しいというので、ジョンは訊ねた。
「ほかにも事件があったのか」
「上層で、だがね。居住区に住む小金持ちが蒸用車が盗まれただなんだってやかましいったらない。崩落した険難の道についてもぐちぐちと言われるし……」
なかなかに警察も大変そうだった。
……さて、今回もまた、被害者は騎士だった。
この辺りのスポットを警邏していた人物で、第六の所属であるらしい。第五のサルバトレと同じく反撃すらできずに心臓を貫かれた様子である。
ジョンは犯人の外見特徴と短剣術を用いたこと、そしてどうやら葬送をしていたと見受けられることについても語る。
が、警官は怪訝な顔をした。
「葬送を?」
「なにかおかしいか」
「いやね、おかしいというか……うーん。ひょっとして、ヴィタはヴィタでもちがうのかもしれないよ」
警官は聞き取ったことをメモに記しつつ言った。
「ちがうとは」
「だってねきみ、ご覧よ。この聖書」
差し出されたのは証拠品として押収された聖書だ。ジョンが投擲した短剣が真ん中を貫いている。
警官はこの刃を手袋はめた手で抜き取ると、ページを開いてみせた。
「……これは」
まっさらだった。
なにひとつ、文字が書かれていない。
非ざる道の、書。
「葬送をしていたならヴィタではあるんだろうが。もしや別の宗派……アークエの人間かも、しれんね」
ペンの尻で頬を掻きつつ、警官は言った。