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41:嫌味と出迎えと左の短剣


「となると、蒸用車スチームライドで移動予定だった人間はどうなるんだい」


 ゴブレットが訊ねた。第十の男は無機質な声で答える。


蒸気式昇降機エレベータでの移動になるとのことだ。明日、カーニバルの四日目はそういう次第で下等区画からの賓客の移動が多くなる……明日は大主教も来るしな。よって、警護態勢は上位騎士隊を蒸気式昇降機の近くに配置したとのことだ」


 手渡されたローテーション表を見ると、たしかにそのような構成になっている。第三および第四の騎士隊が下等区画の居住区付近に配置され、代わりに第八が上層へ。

 おそらく第八は元より埋葬部隊であり、上等区画への出入りも多い隊のためある程度慣れているからこその配置だろう。


「第七には下等区画の目抜き通りよりも産業区画近くを重点的に見張ってもらう」


 通常の警護よりも位置をずらされた、というよりもかなり外れに追いやられたかたちだ。ゴブレットが眉をひそめる。

 ロコの拘束によって第七騎士隊そのものに対する不信が生まれたのだろうことは、この配置図ひとつからでも想像に難くない。


「……まあ仕方がない。甘んじて受けよう」

「そうして下さると有難ぁく存じますよ、ゴブレット殿」


 貼り付くような低い声音が、第十の男の向こうから聞こえた。

 途端に第十の男はすっと一礼して引いていく。

 その向こうから、ぬっと人影が現れた。

 細身で、顔も頬骨が突き出てひどく痩せた印象を受ける男だ。

 落ちくぼんだ眼窩に収まる目玉はぎょろりとして、灰色に濁っている。


「急な変更にてご迷惑お掛けし、誠に相済みませんねぇ」


 慇懃な態度で両手を腰の後ろに組んだまま、頭を下げる。

 背丈はジョンと変わらない程度だろうか。下げた頭の上、薄い色の金髪は額の左右が頭頂に向かって食い込むように禿げあがっていて、短く刈り込まれていた。

 着用しているのはベルデュが着ているような詰襟の、肩幅ががっちりとした上衣だ。が、裾が非常に長く膝を超える程度のものとなっている。中には白いスラックスを穿いていて、この足もやはり頼りないくらいに細く見えた。

 けれど見た目で力量を判じてはならない。

 なにせ彼は、上位騎士隊の長を務める男だ。


「ロイ隊長。べつにあなたの差し金というわけではないでしょうし、頭を上げてください」

「そうですかな。そう言って頂けると私としても実に有難い。疲れるのでね」


 ゴブレットが言えば、すっと頭を上げる。

 その動作の速さに、彼にとっての頭を垂れることに対する軽さ、とでもいうべきなにかがうかがえた気がした。

 それもそうだろう。彼の主な業務は騎士団外部との交渉や会談で、円滑な業務遂行のための潤滑油となることである。いっそ剣の力量以上に対人関係のスキルに長けているなどと揶揄されるほどだ。

 ロイ=ブレーベン第三騎士隊隊長は、にいと笑んで歯茎を剥いた。


「しかし、大変ですなぁ第七も。優秀な部下が多いと(・・・・・・・・・)

「おかげさまで」


 鼻を鳴らして顔を背けるゴブレット。

 ジョンが招集された上位騎士隊を差し置いて急速分裂を産業区画で討ち取った件や、今回のロコの件といったいろいろについて言っているのだろう。

 別段ジョンとしてはさほど気になるほどのことでもないが。ゴブレットとしては安定コースを失ったとか言っていたので、それなりに響いているのかもしれない。

 ちまちまねちねちと、ロイはつづけてゴブレットににじり寄っていた。


「先日の新設部署での仕事も、今回のポストは第八のギイ・タウネスト殿に回しました件は誠に相済みませんでしたなぁ」

「状況によるものです、気にしてはおりません」

「本当ですかな? 重ねて、悪く思わないでくださいますようお願いしておきますよ?」

「わかってますとも」

「そうですかそうですか。ゴブレット殿は物分かりの良い方で、いつも助かっております」

「そうですかね」

「ええそれはもちろん。それにしても、所属の聖職者が騒ぎを起こすとは運がありませんなゴブレット殿。良き御仁ほど憂き目に遭うのはなぜでしょうな?」

「なんででしょうね……」

「ああしまった、憂き目だなどとはこれは失礼を。まだ状況としては、証拠集めの最中でありましたな」


 こつこつとゴブレットの周囲を回り込むようにして、身長差でじろっと下から見あげる。

 敵意があるというわけでもない。

 ただただ、じいっと見つめるだけ。真意は計り知れないが、とにかく嫌な感じで粘っこい。


「しかしこう、教会側の人間の騒ぎとなりますと。いくつか向こうに話を通してみなくてはなりませんのでなぁ。都合がつくまでご不便お掛けします」

「なるほど」

「もちろん向こうからの反論も聞きますし、そこに筋が通っておればすぐにでも彼女は解放されますので」

「そうですか」

「お手数お掛けして実に申し訳ないです。ただまあ、これも私の職務遂行のひとつですのでなぁ」


 言いながらもロイの視線はやむことなくゴブレットに注がれる。まばたきをせずに見据え続ける様には、若干の不気味ささえ感じた。

 嫌そうに顔を背けるゴブレットをひとしきり観察したあと、「んっ」と納得したようなため息をついたような声をあげて、第三騎士隊隊長はジョンたちの方を向いた。


「まあ諸君らも、くれぐれもお気を付けくださいますよう。あまり部署としての働きに支障をきたすようであれば、第七自体にいろいろと枷を付けなくてはなりませんのでなぁ」


 ではごきげんよう、と、ロイは去り際にかぎって会釈のひとつもなく姿を消した。

 ジョンはルーとラキアンと顔を見合わせ、嫌味ばかり言い残されていったゴブレットに三人揃って視線を向けた。

 この二、三分で少し老け込んだように見えた。


「……苦手なんだよ、あのひと」

「あのような言いぐさの奴を好む者は居るまい」


 さすがにちょっと同情して、ジョンは同意してやった。ルーとラキアンも同じような感想らしく二人してうなずきあっている。


「ともあれ、仕事は仕事だ……俺はロコ君の件の真犯人を調べておくから、お前たちは警邏の方に行ってくれ」

「あいよー……ところで、ローテーションはどうする? 僕ぁ昼でも夜でもどっちでも構わねぇけど」

「俺は夜を空けてもらえるか?」

「なにかご用事でもあるのかいジョン」


 ルーの問いにこくりとひとつうなずき、かの音楽家との約束を持ち出す。


「アブスンをな。飲みに連れ出すと約束をしている」

「ああ、かの《剣啼》!」

「あー、名前は噂にゃ聞いたことあるぜ」


 色めき立ったルーに比べてラキアンは反応が薄い。

 もともとナトリス流で剣を修行したというルーとはちがい、ラキアンは田舎暮らしのなか独学で剣を覚えた人間だという。

 ひょっとするとラキアンは『剣士』という生き物ではないのかもしれない。故に、アブスンについて思うところも少ないのだろう。


「へえ……うまいこと話をするきっかけになったわけだ、昨日の警護」


 にやっと笑ってゴブレットは言う。彼の目論見通りに動いたことで成った約束なので、手の上で動かされた感は否めない。少し釈然としなくて、ジョンは下唇を突き出す。


「お嬢の件もある故、そちらの調べを進めるのを第一に動くが。約束は約束なのでな……ある程度は同道してくる」

「彼、剣の達人だろう? ついでだから彼にも短剣での刺殺について見解を訊いてきな」


 ゴブレットの指示に従い、ジョンたちはそれぞれの持ち場へ向かった。


        +


 冷え込む風が吹き、ジョンはインバネスの襟を噛んで立てる。

 夜になり、業務を終えた彼は蒸気式昇降機のところへ来ていた。

 上からは鉄の大舞台がごうん、ごうん、と大きな音を立ててゆっくりと降りてくる。

 ややあって、地鳴りのような轟きと共に着地すると、その上で身じろぎしていた人々がふうと息をついてぞろぞろと降りてきた。

 眼前を流れていく群れ成す人々の中に、見慣れた顔を見つける。


「おや。第七の持ち場は向こうだろうジョン・スミス」

「もうそちらの業務は終えた。いまからは、個人的な約束のためだ」


 額の真ん中で黄土色の髪を左右に撫で分けた、几帳面そうな長身の男。

 ベルデュ・ラベラルがいつものように背を丸めた姿勢でジョンの前に立っていた。


「そうか。第八は上の方に警邏の箇所が移動したのだったな」

「警邏とは言うものの、実質的には土砂の運搬が主だったがね。ずいぶんと崩れてしまい大変そうだった」

「もともと険難の道(スティープヒル)は崩れやすい地質だからな。それゆえに、上等区画まで直接に線路を引いて駅舎を建てることかなわなかったと聞く」

「だからこそ、日々路面の状態確認は怠っていなかったはずだし、とくにサミットが近づくこんな時節にはしっかりと確認していたはずだがね」


 自然には勝てないのさ、とぼやきながらベルデュは肩を回した。


「慣れない土砂運びで疲労したか」

「ああ。そういう次第で、今日は貴様に挑む気にもなれない」

「上位騎士隊も周囲に居るしな。やめておけ」

「……そうだね。この上私までだれかに敗北している様を見られると、騎士団内におけるインヘル流の立場もなくなってしまう」


 第五のサルバトレが死んだことを言っているのだろう。ベルデュは遠い目をした。

 騎士団は皆ばらばらに、諸流派を修めている。なので吸血鬼戦での騎士の勝敗、生死はその騎士が修めていた流派の評判にも直結する。

 今回は吸血鬼どころか、謎の人物に殺害されたことになる。インヘル流としては騎士団内で立場に辛いものが生じるのだろう。


「それで、貴様はなぜこんなところに立っていたんだい?」

「ひとを待っている。飲みに連れていく約束をした」

「第七の面々は同じ持ち場であるからしてちがうだろうし……第八うちに知己がいたのか?」

「いないな。昨日知り合ったばかりの相手だ」

「人嫌いのお前がめずらしい」

「別段俺は無闇に突っかかってくるような奴でなければ嫌いではない」


 苦手な人物は多く居るが。

 そんなことを考え、ベルデュににらまれているうちに横合いから声がかかった。


「やあ、やあ! すまないねまたしてもお待たせした。夜景の眺望に気を取られて、降り口の傍を離れてしまったのだよ」


 片手を振りながらやってくるアブスン・ブリュード・メスカル。蒼みを帯びた白髪を一束にまとめて鎖骨へと流し、ダブルボタンのジャケットを着用した姿で現れる。

 その人相に見覚えがあったのか、ベルデュはしばし眉間にしわを寄せて観察した。

 やがて記憶の中の像と一致したのか「あ、」と声をあげてジョンの方を見た。軽くうなずいてやる。


「あ、アブスン……《剣啼けんてい》のアブスン氏、か?」


 期待に震えた声で言うので、ジョンはもうひとつ深くうなずいた。


「ああ。楽団の興行で来たとのことだ」

「なぜ貴様と知り合っている」

「昨日、警護業務で速記者たちを上等区画まで連れていく際にたまたま、な。その際にどこか飲めるところを知りたいと言われた」

「で、ではいまから、き、貴様と二人で出かけると」

「そういうことになるな」

「貴様……! それなら私も連れていけ!」

「おや、ジョン君の飲み仲間かな? 私としては人員が増えるのは構うまいが」


 アブスンは気さくに笑って、ベルデュが付いてくることを容認した。ジョンはベルデュが飲み仲間だなどと言われてひどく気分を害したが、ベルデュの方はもう酒の席さえ共にできるなら自分がどう見られようと構わないようだった。大して否定もせず、「お供させていただければ」と申し出ている。


「お前、仕事あがりだろう。詰所への報告はいいのか」

「あ。そうか、まずは報告をしに行かねば……だがアブスン氏と酒を酌み交わすなど、今後一生の中でもまずないことで……ああ……」


 ベルデュは常にない様子でわたわたと慌て始める。

 だがまあ、無理もないことだと思えた。その絶大な力量により、アブスンは剣士にとって憧れの存在である。英雄譚の登場人物だとさえ言えた。ラキアンの反応の方が、めずらしいことなのだ。


「ジョン、ジョン・スミス! 店が決まったら第八の方に送空管で場所を送れ」

「……私用で濫用だな」

「いや、だが。ううむ。それでも、」

「わかった……なら一軒目は《笑い蓋》にしておく。店を変える場合は店主に言づけておくからそれを辿れ」

「恩に着る」


 あの男から恩に着るなどという言葉を聞く日がくるとはな……と思いながらジョンが見ているうち、ベルデュは何度も会釈しながらばたばたと詰所の方へ去っていった。

 アブスンはにこやかな笑みをたたえて「面白いご友人だ」と言っていた。友人ではないと否定しておくべきか迷ったが、面倒なのでやめておいた。


「それではジョン君。案内をお願いするよ」

「ああ。まずは先ほどあの男にも言った、《笑い蓋》という店だ。肉料理がうまい」


 ジョンは歓楽街近くのタウンハウスの並びを目指して、歩きはじめた。



 歩いていく途中にも、仮装姿の人々と行きちがう。

 通りの頭上に吊るされた電飾。ガス灯のぼんやりとした明かり。暖色に染まった街並みの中で影絵のように、黒っぽい衣裳に身を包んだ人々が往来する。

 死者の祭り。死者を弔い生者との間に区切りをつける祭り。


「こう、大規模な精霊祭を見るのは初めてのことなのだよ」


 アブスンは興味深そうに周囲を見つめながら言った。

 視線はあちらこちら、路地や通りの裏手にも及び、そんな散漫な視界でありながら人込みの中を歩くジョンを見失うことなく一定の距離で歩く。


「そうか。たしか元は、西都のフィーディー出身だったと記憶しているが」

「あちらは隣国との境目――というより昔の戦で併呑した地域に位置するのでね。もちろんヴィタが勢力としては強いが、土着の信仰も生きているためあまり大規模には行われない」

「なるほど」

「それにしてもこの街では、どこか祈りの要素が強く感じられる。聖職者が多いというわけでもあるまいに」


 見回すアブスンの視界には、おそらく道の端につくられた墓石を模した飾りやところどころにある献花が映りこんでいる。

 とくに献花については、それの在る場所を見るとなんとも言い難い感情がジョンの中にも沸き起こる。


「……死者との距離感が難しい街だからな、ここは」

「というと?」

「吸血鬼が居る。名の無い死者がいる。それでいて墓地はない。献花は、つまりそういうことだ」


 ああ、ああ。と、アブスンは理解した様子で何度もちいさくうなずいた。

 このドルナクでは金のある者、名のある者(・・・・・)しか墓石を購入し土の下に埋まることはない。大抵の死者は水葬で、吸血鬼に成った者となればさらにその扱いは雑なものとなる。

 それこそ《夜風の団》がなければいまごろドルナク市民の不満が噴出して、そもそも街としての体裁を繕うことすらできていなかったかもしれない。奇矯なところの多い女傑だが、それでもジョンはこのシステムで人々の嘆きに寄り添うことにしたイブンズを、少なからず敬意をもって見ていた。


「戦地ほどではないのだろうが、死者が多い。だからこそ、精霊祭のような『常ならぬ在り様の構築によって彼の世と現世を繋げる』との催しには、そもそもこの街は向いていない。なにせ、彼の世がこの街においては非日常ではないからだ」

「きみは詳しいのだね、精霊祭に」

「特別に詳しいというわけではない。周囲に信仰者がいたというだけだ」

「ふむ、ふむ……それにしても、吸血鬼の存在が死者と生者の間に立ちはだかるとは」

「いまだに自然発生のメカニズムは判然とせず、噛みつかれた際に発症するかどうかも個人差があってわからない。謎の多い存在なのだ」

「縫合回復、急速分裂、現象回帰だったかな。縫合回復以外の吸血鬼がどのようにして成るのかの条件もわかっていないとか」

「詳しいな」

「特別詳しいわけではないさ。知己によく知る者がいただけなのだよ」


 先のやり取りを繰り返すように言って笑い、アブスンはつづけた。


死生彷徨う半端者(ミディアンズ)と呼ぶのだったかな? 自己の名を認識できず、しかし生前の記憶などは保ったまま動き回る存在。これをどこまで『生きている』と定義しどこからを『死んだ』と定義するかはなるほど確かに、難しいところであろうね」

「どうあれ、人間に仇成す以上は殺すしかないがな」

「まあ、それは真実その通り。斬る他あるまいね……私が四十人を斬ったのと同じく」


 並ぶ屋台の一軒でいつの間に買ってきたのか、先日ロコも食べた電気焼きの肉を頬張りながらアブスンは言う。


「剣も定義もやはり、それ単体では、それだけのものだと私には思われるね」

「それだけ、とは」

「他者を対象に振るわれる限り、『手段』に過ぎない、その枠を出ない……まあこれは、宗教についても似たようなものかもしれないけれど」


 わかるような、わからないような言葉が、『宗教と似ている』との言葉で一気にわからなくなった。

 黙り込むジョンを前に、アブスンは肉をかじりながらはてなと首をかしげる。

 そう言えば言っていなかったと思い、ジョンは申告しておいた。


「そも、俺はヴィタを信仰していないのでな」

「おや、おや。きみは無神論者かい」

「神のいない世界を信じたい。それだけだ」


 ぶっきらぼうに返すと、アブスンは口の中にあった肉を飲み込んだ。


「すべての責任を己の中に置く、ということかな?」

「そうだな」

「自分の中でのみ完結しているのなら、それはそれで良いことであると私は思うよ。問題はそれを他者にも適用しはじめたときなのだね」

「だれにでも言えることだろう、思想の押し付けが醜いということは。ならば逆に訊くが、なぜヴィタを信仰している?」

「その考えが、教義が、私の性質に当てはまっていて。かつ私の人生を歩むにあたっての指標となりえたからに他ならないよ」

「指標」

「そう、指標なのだよ。宗派に属したとて、別に縛られているわけでもあるまい。現に私は生まれてこの方ヴィタを信仰しつづけているが、中途で剣から楽器へと持つものを変えた」


 食べ終えた串を口の端にくわえたまま、アブスンはごそりと腰の後ろに手を回す。

 取り出したのは聖書で、革紐で縛って閉じたままのそれを掲げながらおそらくは聖句であろう文言を口にする。


「『与えし人に与え、奪いし人を諭し、清き人に捧げ、悪しき人を濯ぐ、其は御業にして御業に非ず、其は人のわざ』」

「つまり?」

「私は剣で諭し、血で濯いできたのだと、そう気づいたのだよ」


 気づくのに時間がかかったが、と言いながらアブスンは聖書をしまった。

 立ち止まったジョンを追い越して、死者の祭りの只中を往く。

 気づき。

 自分の歩んできた道への振り返り。

 そんなものを思ったことはついぞなかったな、と思い、ジョンは足下を見た。


「どうしたんだいジョン君?」

「いや……」


 かぶりを振って考えかけたことを振り払い、ジョンは己の左方の道を顎で示した。


「そっちが、店だ」

「おや、おや」


        +


 いただく酒は乾杯の一杯と勧められたもう一杯だけで止めて、ジョンは聞き込みのため席を外すことにした。

 アブスンは残念がっていたが、途中からやってきたベルデュが話し相手を代わりに務めると息まいていたのでそちらにあとをお願いしておく。

 見送りに店のドアまで来てくれたアブスンは、半地下から階段をあがるジョンを見上げつつ片手を振った。


「それではね、ジョン君。なかなか楽しい会合だった」

「ああ。こちらこそ感謝する。直に会えて言葉を交わせたのは貴重な時間だった」

「次はステージを聴きにきてくれたまえ」

「……運があれば」

「あるさ。きっと」


 最後までにこやかに、アブスンは去っていった。

 ――さて、あとは聞き込みである。気持ちを切り替えて、ジョンは歩き出した。

 一応アブスンにもサルバトレの遺体に見られた傷、サルバトレの剣と相対した際の対処法として考えられる技などについて問うてみた。

「他流派のことはさほど造詣が深いわけでないけれど」と前置きした上で語られた彼の知る技法には、右手持ちの剣でも左利きの突きのような傷に仕立てる技があったが。いまいち現場状況や目撃者の証言にそぐわないものだった。

 やはりこれは左利きの仕業かな、とアブスンもうなずいていたため、その筋で調査すると決める。

 寒風が酒の火照りを冷まし、顔の熱を払う。

 インバネスの襟を立てたジョンは、簡易宿――普段は民家だが、こうした催事中だけ宿として体裁を整える、言ってしまえばグレーゾーンの経営宿だ――に、足を向けた。後ろ暗いところがある者ならば、こうしたところの方が使うに易いだろうと判断した。


 路地に入り、進む。うねる道筋は、ドルナクの無秩序な開発と建設によってかたちづくられた歪さ。

 その構造ゆえに上等区画のようにまっすぐで見通しが利く路地裏とはちがう。曲所で視界が悪い場合は、常に爪先から出るようにして接敵に備える。

 曲所に差し掛かるごとにこそっと行く先をのぞくような進み方では、のぞこうとした頭を不意打ちされた際に危うい。後ろ足に重心を残していれば引くことが可能だ。

 歩き、歩く。足下をネズミが這い、散らかった生ごみを蹴る。リンゴの芯が転がる。

 転がった芯が、止まる。

 ぴちゃ、と水音がした。


「……、」


 足を止め、水音の方を見やる。

 一瞬ひゅっと風の向きが変わった。ジョンの位置が風下になり、芯が転がっていった向かい側から吹く。

 脇を過ぎ抜けた風に、

 血の臭いが混じった。

 闇に目を凝らす。芯が浸る水たまりは、少しずつ、こちらへと広がっていた。

 暗く、黒く。

 粘り気のある、ゆっくりとした流れ方で。


「……!」


 右手に曲がってすぐのところから血は流れてきている。

 身構えたジョンは左手の壁面に窓枠を見つけ、この縁を蹴って飛び上がる。

 曲がり角の向こうに身を躍らせたジョンは、そこで、

 胸を突かれ絶命した男の遺体と、そこに覆いかぶさるようにしている黒ローブの人影を見た。

 男の胸の上に、光るものがあった。

 それは男の命を奪ったものであり。

 同時に。

 男を葬送するためのものだった。


「慈悲の短剣……!」


 思わずつぶやいたジョンは、歯の根を軋ませて空中から右足を蹴り下ろす。

 すんでのところで攻撃に感づいたらしい黒ローブは、滑るような動きでその場を離れた。

 蹴りを外して着地したジョンは、跳ねる血だまりの中で遺体を見やる。

 短剣がない。


「くっ、」


 突き出される短剣の軌道。

 それは一度立ち合い、ジョンの駆動鎧装を故障させたときの彼女の動きとよく似ていた。

 しかしすべてが真逆。

 こんなにも殺気に満ちていなかったし、

 このように左手で得物を操ることもなかった。


「お前が……!」


 後退してかわしつつ、ジョンはなじるように言う。

 黒ローブは。

 左手に構えた慈悲の短剣を突き出しつつ、無言で立ち尽くしていた。


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