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悔打ちのジョン・スミス  作者: 留龍隆
第三章 祭日
36/86

36:警護業務と駅舎と殺人


 連日の警邏業務で疲労も溜まってきたカーニバルの二日目、朝。

 騎士団詰所の第七騎士隊室にて今日の警邏ルートを確認しようとしていたジョンは、書類の山の向こうからゴブレットに「ちょっと、こっちに来てくれるかい」と呼ばれた。


「なにか用向きか」

「きみとロコ君の業務のオーダーが変更される。確認してくれ」


 向こうが見えないほど書類と書籍が山積みになったデスクの下をごそごそとくぐり抜けると、ゴブレットが腰かけていた椅子をくるりと回転させてこちらを向く。

 そのとき執務机の端に突き出ていた真鍮製の円筒――『送空管』という内部の圧力差で書簡を届けるための機械――が、しゅポンと音を立てメッセージの受け取りを告げた。

 固定ねじを回して中身の書簡を取り出したゴブレットは、丸められていたそれのくせを均しつつ机の上に広げる。

 書いてあったのは、警邏のシフトから警護への変更についてだった。


「昨夜の会議で決まったことなんだが、今日明日は警護業務を担当してもらうことになるらしい」

「警護? 街中の巡回はいいのか」

「警邏のシフトは我々下位騎士隊についてはランダムになる、と事前に通達があったろう。そういうことだ。お前の穴はまた別の隊が埋める」


 長い足を組んで膝の上に両手を重ね置き、ゴブレットは背もたれに深く身を預けながら言った。


「たしかにランダムとは聞いたが、まさか直前でこのように変化を加えられるとはな」

「上はいかにも『突発的な事態のため』ローテーションを変えるという口ぶりだったが……実情はまあ、我々下位騎士隊への信頼問題による業務変更なのだろうね」


 ゴブレットは苦笑し、広げていた指示書をまた丸めた。

 ――今回のサミットでは、国の重鎮も多く集う。

 そのためドルナク全体で警戒レベルは常の比ではないほどに高められているのだが……それでも『万が一、事件が起きたら』というのを上層部は気にしているらしい。

 なにせ下位騎士隊は平民出身の人間ばかりの部隊である。

 要はそんな連中の内に、謀反の心を持った者がいてもおかしくはない。貴族層の賓客や重鎮に良からぬことをするのではないか、という疑いからの『ランダム』。パターン化した業務を与えればそれはなにか仕掛ける隙にもなりうる、との判断だろう。

 とくにジョンなど、異名が《狂犬マッドドッグ》だ。


「噛まれる前に散歩コースを変えておけ、ということだな」

「いやな話だとは思うがね」

「警戒はどんなにやってもしすぎるということもあるまい。道理だ。して、そんな俺に任される警護ということは、相手もさして名だたる者というわけではないのだろう」

「まあ、ね。今回ここへやってくる貴族筋のようする速記者ステノグラファ数名が主な警護対象だよ」


 貴族の雇用する者。

 言い方を悪くするなら彼らの『持ち物』だ。貴族でもなく平民である彼らの警護なら、たしかに重要度は低い。


「そいつらを駅から上等区画まで警護する、と」

「そういうことだね」


 ドルナクはナデュラ帝国の中でも東端の方に位置しており、来訪するには大陸横断鉄道グレートトラヴァースを利用して山岳地帯と大運河を超えてこなくてはならない。

 そしてその駅は、ドルナクが興った三十年前に下等区画――当時はまだそのような呼称をされておらず、単なる労働者階級の住まう地区だった――近くに建設されており、いまもそのまま巨大な駅舎がそびえたっている。

 つまり上等区画へ向かう人間はまずここで降りるのだ。


「駅から蒸気式昇降機エレベータまで行けばいいのか?」

「貴族や果学研究学会の重鎮連中、あとは大主教なんかはカーニバルの四日目、駅前に蒸用車を呼びつけて大断崖を一時間がかりで迂回し、のぼってくるようだがね。速記者たちは昇降機で構わない」

「蒸用車で、か。わざわざご苦労なことだな。大方、奴らの権力と財力誇示のためだろう」

「お前は本当に機微というものを解さないな。言外のことは言外に留めたまえよ」

「事実は事実だ。誤魔化しは本質を歪めるぞ」

「歪んだ人間のことは歪めたままにした方がいいものだよ。巻き付き伸びる蔓草に、まっすぐ育てと言っても無理があるだろう」

「それはそうかもしれんな……」

「ご理解いただけたかな? では仕事に励んでもらおうか」


 話を打ち切り、ゴブレットはぱつんと両手を合わせ打ち鳴らした。

 ジョンは鼻をひとつ鳴らして、業務変更を承諾する。また身を屈めるとデスクの下にもぐりこんで出ようとした。


「あ、それと」


 そこで声をかけられ、引き出しの下にくぐらせていた頭の位置を戻す。


「なんだ」

「速記者たちが降りるときに、すぐに出発せず少し待つといいかもしれない」

「なにが、いいというのだ」

「それは実際に現地に行ってのお楽しみだ」


 愉快そうにゴブレットは言い、背もたれをぎしりと軋ませた。含みのある物言いに従うのは癪だったので、「気が向いたらな」とだけ返してジョンは部屋をあとにする。


        +


 ドルナクの列車発着場、通称《最果て駅》は下等区画の向こう、歓楽街のさらに先で、煉瓦造りの倉庫群を挟んで建設されている。

 さすがに駅から降りてすぐにいかがわしい雰囲気の店が立ち並ぶタウンハウスがあるのでは、目に余ると思われたのだろう。ドルナクが労働者だけでなく鉱山業や製造業を生業とする上流階級の人間も多く訪れる地になってから、自然と倉庫群は構築されたのだという。


「相変わらず大きな駅ですね」


 教会から騎士団詰所へ合流したロコを伴い、ジョンは午前の内に駅舎へたどり着いた。

 駅舎の中へ先に入っていくロコは、六列のホームに目を走らせている。

 この終点を過ぎると、レールの行く先は整備ドッグだ。長旅の最後の受け皿であるそこへ、ゆっくりと蒸気列車が侵入していくのが見える。

 天に向けて戴く煙突より黒煙を吐き散らし、ごつごつとした車両がゆるりと進む。

 錬成された合金に覆われたボディも、後方の上等客車は黒光りする余地があるが、前方の安い車両ほど煤にまみれて光沢が無い。

 ジョンがこれに乗ってここまで来たのは四年前のことだ。それから、用もなかったのでほとんど来たことはない。


「行き止まりだな」


 なんの気なしに、ドッグへ進む列車を見て言う。


「再出発の場では?」


 ロコが返して、そうかもしれないなとジョンは小声で受けた。

 構内は、さまざまな人間でごった返していた。

 新しく来たのだろう労働者の一群とわかるそれもあれば、身ぎれいにして意気揚々と列車に乗り込む者――出稼ぎの一団か――もいる。

 離れた位置、奥の方の出入り口は後方の上等客車の人間が降りる場なので、この距離からでもきらびやかな衣装を身にまとった人々が見えた。


「あちらだな」

「すでに到着されているのでしょうか」

「さてな。ともあれ、長旅ご苦労とは声をかけずともいいだろう。上等客車の座り心地は安い客車のコンパートメントとは雲泥の差だ」

「そんなひがんだことを言わずともよろしいのでは……」


 人ごみの中で背伸びして、視線を抜けさせようとするロコ。その身長ではどうにもなるまいと思いながら、ジョンはつかつかと上等客車に近づいた。

 だがどこか、人だかりにはおかしな様子が見受けられた。

 動揺、どよめき、恐れ。

 そんな感情の沈滞が、距離を詰めるにつれ明らかになる。


「……なにかあったか?」


 自分が仕事を請け負う前に起きた事件であれば責任を問われずに済むが、と少しばかり保身に考えを巡らしながら、ジョンはインバネスをはためかせ小走りに駆けた。

 近づくと、彼ら上等な身なりの一団は、一様に同じ方を見ていることに気づく。

 駅舎の後方出入口。すぐそばに円形の花壇を模したロータリー(花壇と言ってもこの土地なので生育はまず成らず、ドライフラワーが刺さっているだけだ)があり馬車が常駐するその方向を、不安そうに眺めていた。

 ジョンは開け放たれた門扉よりブーツの靴音高く飛び出し、階段を駆け下りて左右を睥睨する。

 するとそこに、こちらを見る者が三名居た。

 服装はジャケットであったりハーフコートであったりまちまちだが、動き方からして、上着の背にショートソードなどの得物を隠している。

 そして、ジョンに向ける視線が皆同じだ。嫌悪と恐れと少しの同情が混じったような目。

 ジョンの事情を知る者の目。


「たしか、第五騎士隊の者だな」

「いかにもその通りだよ、ジョン・スミス」


 三名の内でもっとも小柄で、もっとも落ち着き払った様子の中年の男が、前に進み出た。

 肩越しに己の後ろを親指で示し、「仕事中さ」とぼやいてジャケットの内から煙草を取り出す。

 その指先が向いていたのは、停められていた馬車。

 ジョンがのぞきこむと、キャビンの下に血だまりがあり、敷設された煉瓦の目地に沿って流れてきている。


「殺人か」ジョンが問うと男は黄燐マッチで煙草を一服しながらうなずいた。

「まだ死体は温かいがね。心臓を一突きだ」

「一突き……剣士か」

「まぐれで心臓を一刺しにするなんざそうそうできんよ。よくわかっとるだろ」


 男も騎士である。つまり剣術にある程度熟達しているわけで、もみ合いの中で急所だけを的確に突く難易度の高さはよく心得ているようだった。


「……吸血鬼か?」


 剣術を使う者の殺し。

 そこから派生して己の仇敵に思い至り、ジョンは静かに問う。

 だが男はこの問いには首を横に振る。


「いまのところ牙痕などは見つかっとらん。殺した際の傷口から啜った可能性もないではないが、衣服に乱れはなかったんでな。おそらくそれはない」

「そうか」

「とはいえ、うすら寒くなるような剣筋だったぞ」


 男は肩を縮こまらせて煙草の端を噛み、灰を落としながらその場を離れた。

 残り二名がいろいろと調べている横から、ジョンは馬車に近づく。


「おい、ジョン・スミス。まだここは調査中なんだが」

「俺はシスターを伴っている。調べをする際に遺体を動かす必要もあるだろう? ならば奴に再銑礼を頼めばいい」

「……ああそうかよ」


 どうも第五に御付きの聖職者はまだ現着していないようだったので、代役を買って出ることで通してもらう。後ろを向いてロコに目配せすると、彼女ははいとしっかりうなずいた。

 通り行きかう人の目から隠すように、馬車の影に置かれた死体。

 濃厚な血の臭気が、鉄さび臭さが、鼻をつく。

 端正な顔立ちの男だった。長めの栗色の髪が顔に垂れ、うつむいている。車輪に背を預けるような姿勢は、ただ酔って座り込んでいるだけのようにも思えた。

 しかし力なく投げ出された肢体と、黒いジャケットの内に着たシャツが真っ赤に染まっていることが、確実なる彼の死をそこに表している。

 それからもう一点。

 彼の死の状況を示すかのような物品が、転がっていた。


「……剣。こいつは……ああ、こいつもなのか」


 彼の右手のすぐそばに落ちている剣。騎士団支給の、複層錬金術式合金クワレウィタイトで製作された代物だ。

 彼もまた、騎士だったのだ。


「この辺りも警邏のスポットになっていたな……だれかと戦闘になり、殺されたということか?」

「ああ、現場を目撃した奴がいたそうだ。いま駅長室で保護してもらってるがよ」


 現場周囲の証拠品などを探している様子の男は、面倒くさそうにそう語った。

 その横に腰を下ろし、ジョンは騎士の死体を検める。

 牙痕は、たしかに見える位置にはない。極端に衣服の乱れた様子もない。

 死因であろう心臓への一突きは――


「いやに、小さいな」


 貫かれたシャツの傷はかなり小規模だった。

 繊維のほつれが目立つ、ひし形の穴。


「短剣だってよ」


 傷口を見るジョンには目を向けず、第五騎士隊の男は言う。


「短剣?」

「目撃者の証言だ。なにやら黒いフードつきの服装で身を隠した奴とこいつが話してるのが見えて、こいつがサっと剣を抜いたと思ったら、もう倒れてたってな感じだったそうだ。で、黒フードの奴が、短剣ぶら下げてるのが見えたと」


 おっかねぇ話、と言いながら男は去る。

 短剣、とジョンは考え込む。

 奴の、ジョンの仇敵の得物は、短剣ではない。得物を変えた可能性も、考えにくい。


「……ちがったか」


 落胆と苛立ちをわずかに滲ませ、すぐに噛み殺し。ジョンは立ち上がると場所をロコに明け渡す。


「調査は、もうよろしいのですか?」

「ああ。再銑礼を頼む」

「了解しました」


 ロコは入れ替わりに屈みこむと、静かに瞑目して両手を組んだ。

 ほどなくして祈りの言葉がはじまり、その敬虔な様子に、周囲で調べを進めていた第五の人間たちもわずか、目を奪われていた。

 さて、こちらも仕事に戻らなくてはならない。不安そうにしていた一団の中から速記者たちを見つけるべく、ジョンは駅舎に足を向けた。


「……それにしても」


 少し待った方がいい、などとゴブレットは言っていたが。いいことが起きるどころか騎士に対する殺人である。これはサミットを前にして治安維持に関した提言がなされること請け合いだろうと、ジョンはげんなりした。

 毎度のことだが、運が悪い。

 ため息をつきつつ駅舎への階段をのぼる。

 すると。

 ジョンの脇を、通り過ぎようとする者があった。


「――――ああ、ああ。良い音色だ、実に良い。長旅の疲れも癒えようものだ。もし、どなたかな? この素敵な詠唱の主は!」


 軽やかに歌い上げるような声が、ジョンの横を通り過ぎる。

 暗い蒼を帯びた滑らかな白髪を一束にして肩に流し、その肩からは、子供用の棺くらいのサイズがある大きな木製の箱をバンドによって提げている。

 面長で鼻の高い男だった。色の白い肌に黒く照り返しのない瞳が目立つ、眉を小さく細く削った顔。肩幅のある長身で、非常に均整の取れた体つきをしている。

 彼は黒地に黄と赤のチェック柄をあしらったダブルボタンのジャケットをまとい、すたすたと歩く。細身の脚部にはぴったりとしたスラックスを穿いて、よく磨かれた革靴の足取りを優美に見せていた。

 やがて彼はぴたりと馬車の横で動きを止めると、朗々と詠唱をつづけているロコに目を留めた。

 途端にぱつぱつぱつ、と小気味とキレのよい拍手を彼は奏でる。


「心地よい。実に心地よい詠唱だ! ではひとつ私もお邪魔させていただかねばなるまいね、このように良い詠唱を聞かせてもらうのだから」


 両手を掲げて、指先をぱきぽきと鳴らす。

 第五騎士隊の男たちがあぜんとして呆気に取られているのもまるで意にせず、彼は肩に下げていた棺のごとき箱を下ろした。

 側面に打ち付けられていた、おそらくは内部のものを固定しているのであろうボルトを器用にきゅりきゅりと外していき――ニスを塗りたくられた蓋を、がぱんと開いた。

 中には。

 楽器が、納まっていた。


「……グラス・アルモニカ……!」


 思わず、ジョンはつぶやく。

 それは、ガラスで出来た半球状の器を、下から順に大きなものから小さなものまで重ねていって――横倒しにして、箱に納めたような形をしている。

 器は真ん中を軸棒が貫通しており、箱の端に納められた発条ぜんまい機構を巻くことで一定の速度で回転しつづける。

 そして箱の底には水が満ちており、常に器たちの縁を濡らすような設計。

 暗い蒼の白髪を持つ男は、懐からフラスコを取り出すと、中身を両手にかけて濡らした。


「それではお聴き願おう。鎮魂の調べをここに」


 細く、繊細な男の十指が、

 それぞれ別の意思を持つ生き物のようにうごめき。

 器の縁に、そっと口づけた。

 途端に甘やかで涼やかな音色が駆け抜ける。

 ガラスと指先の摩擦で生み出される共鳴が、高く脆くいまにも崩れてしまいそうな、それでいて包み込むような……そんな音の広がりを生む。

 ピアノを弾くかのように彼の十指は器の縁の上を左右に飛び回って、音の広がりを重ね、厚みを持たせ、ときに静寂でふつりと途絶える美しい余韻を表し。

 その圧倒的な演奏は、普段祈りの聖句を唱える間はなににも反応を示さないはずのロコでさえ、詠唱を止めて耳目を奪われてしまうほどだった。


 ――ひい、ぃん――と、最後の一音がほどけて消えていく。

 上等な酒の最後の味わいと香りが舌鼻ぜつびから抜けるように、さみしさと満足をもたらして、鎮魂歌は終わる。

 満足げに、男はそっと手を下ろす。沈黙が落ちる。

 もしジョンに腕があったなら、手のひらに血がにじむまで拍手を送ったにちがいない。まだ遺体の温かい殺害現場であまりにも不謹慎だが、そう思わざるを得ない演奏だった。

 男はぱたりとグラス・アルモニカの蓋を閉め、ロコに近づきひざまずくと手を伸ばした。


「良い、良い詠唱だった。伸びがあって色気もある。ただもう少しだけ音の切れ目を意識して、前の一小節との意図のちがいを演出してはくれまいか?」

「は、はぁ」

「よろしい!」


 ロコと握手して、男は立ち上がる。

 グラス・アルモニカの箱をまたバンドで肩に担ぎ、すたかたと階段に戻ってくる。中ほどで足を止めていたジョンは、すれちがう彼をまじまじと見てしまった。

 髪型と服装がずいぶん舞台のときと印象が異なるため、わからなかったが。

 彼は――楽団の。


「アブスン・メスカル」

「おや、おや。私をご存じなのかな少年」


 はたと気づいた様子でジョンと同じ段に足を止め、男――アブスンは、にやりと笑った。

 ジョンは会釈して、なんとか頭の中で言葉をまとめた。


「いい、演奏だった。前にも一度だけ聴いたことがあり、もう一度聴きたいと心から願っていた。こんなところで、こんな状況で、だが……聴けて、よかった」

「あはははは、はは! たしかにこんな状況、こんな状況だ。だがね少年、むしろこんな状況だからこそなのだよ。弔いは丁重に行われねばならない、しかし暗く行う必要はどこにもあるまい。私はね、少年。音を楽しんでもらいたいのだ。いついかなるときもどんな相手でも」

「……なるほど」

「というわけなので、楽しんでいただけたのなら幸いだ!」


 アブスンは右手を差し出してきた。ジョンはその手と彼の顔を見て、戸惑う。

 握手を求められてこちらが気まずく感じたのは、生まれて初めてのことだった。


「……せっかく手を差し出してもらって恐縮だが」

「うん? ああ。ああ……なるほど。駆動鎧装、か。いや、いや恐縮などするな。握手など気持ちの問題だよ少年。気にすることはあるまい。むしろそのように言葉で断りを入れさせてしまった、こちらの無粋を詫びねばね」


 のけぞるようにからからと笑い、アブスンはそこではっとした。

 ジョンも上を見ると、出入口の真上についていた時計、それが十一時を示しているのをアブスンは見ているようだった。


「っと、すまないな少年。実に、実にまずい時刻だ。私はいまひとを待たせてしまっているかもしれない」

「ひとを?」

「迎えだ! 私はあまりひとりで出歩くのに向いていないのでね、先だって車内で知り合った速記者の一団が迎えと共に移動するというので、同伴させていただこうと思っていたのだよ……!」


 あたふたとして、暗い色の髪をがしがしと掻く。

 やっとゴブレットの思惑に気づいて、ジョンはハ、と息を吐いた。



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