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20:全景と幸福と蒸姫の診断


「楽しい方々でしたね」

「あれをそう評するか」


 酒場を出て、ジョンとロコは上等区画を目指していた。

 たどり着いたのは産業区画の脇を流れるロンサ川、この流れをさかのぼった先にある大断崖にあるプルトン川である。

 川と言いつつも、それは落差五十メートル・幅にして百メートル超の灰色の滝。はるか頭上から降り落ちるそここそが、上等区画へ至るための蒸気式昇降機エレベータが設置される場所だ。

 滝に沿うように設置された鉄の大舞台。

 四方を鉄柵に囲まれた中、ひとや積み荷がひしめいている。全員が通行証を持って、上等区画へ向かう者たちだ。

 上は貴族層や鉱山の管理に関わる者たちが住まう土地である。ゆえに、ジョンたちのような身なりの者は少し周囲から浮いていた。

 隣の紳士が懐中時計を取り出している。じきに十七時、昇る時間だなとジョンはぼんやり確認する。その視線が高価な品を盗もうとしているそれだとでも思ったのか、紳士はさっと時計を懐にしまいなおしていた。


「先ほどのお酒の席、ジョンさまは楽しくなかったのです?」


 ロコがなんの気なしな顔で問うてくる。ジョンは、紳士から目を離してぼやく。


「楽しいかはわからん。ただ、奴らといると少し疲れる」

「そうは見えませんでしたが……」

「今日はまだマシだったがな。酔いが回るとルーの奴は俺に挑んでくるのだ。そして奴はベルデュよりよほど手ごわい。いなすので手一杯になる」

「ああ、そういうことですか。たしかにルー様も剣腕にはかなりのものがあるようでしたね」


 考え込む顔で、ロコは言う。

 ルーは掌を見てロコの剣技を見定めようとしていたが、あのとき同時に彼女もルーのなにかを見て取ったのだろう。


「……わかるのか? 奴の剣が」

「わたくしも流派などまではわかりかねますが。おそらく、ベルデュ様や先日の吸血鬼のような長剣を操るタイプでないということはお察ししました。歩くときの独特な狭い足幅のスタンス……手のまめ……もしや、突剣レイピア術では?」

「ふん。悪いが俺は、他人の剣の種を明かすほど下衆ではない」

「それはそれは。失礼しました」

「気を付けろ。ルーはお前の腕にも興味を持っている。いずれ挑まれるかもしれんぞ」


 言えばロコはけらけら笑い、まだ少し酔いで上気したままの頬をほころばせた。


「あはは、気を付けます。ジョンさまに《鉄槌》も《裁き手(さばきて)》も破られたばかりですし、新しい戦い方を考えておかないと」

「《裁き手》?」

「あ……うう、少し酔いが残ってますね。失敗しっぱい……まあ、あれですよ。慈悲の短剣で相手の剣をいなし逸らすあの技術の名です」


 こつこつと自分の頭を小突きながら、ロコは口が滑ったという風にあさっての方に目を逸らした。

 技の名称が二つもわかればなにかしら辿る手がかりにもなろう。今度時間があいたら調べてみるか、と思うジョンであった。

 そこで、刻限がきた。


 ぼ――――――、と。船舶の汽笛を思わせる、低く震える音が轟いた。


「動くぞ。揺れるからな、酔うなよ」

「あ、はい」


 ごうん。

 ごどん。

 ジョンたちの立つ大舞台が、重く軋んで持ち上がっていく。

 大断崖の絶壁に、上等区画まで垂直に伸ばしたレール。この溝に沿ってまっすぐ、この大舞台は昇っていくのだ。

 ぶしゅうと辺りを取り巻く蒸気の白。大舞台の真下にある炉でくべられた石炭が燃え盛り、動力機のタービンを回し、ベルトチェーンとシックワイヤーを幾重にも張り巡らして吊るされたこの場を引き上げていく。

 この昇降機がなかったころは、大断崖を大回りして一日がかりで上等区画へ向かわなければならなかったのだという。進歩はいいものだなとジョンは思った。


「わ……」

「ん。ああ、景色か」


 感嘆で言葉を飲み込み、黙り込んだロコの視線を追ってジョンは言う。

 蒸気が晴れ、ある程度の高さまで昇ると、ここからは街の全景が見渡せる。

 右手へと蛇行していくロンサ川、それに巻かれるかたちで広がる産業区画とその高い障壁。

 左手からは下等区画の高層住居群が並び、針山のようなそこを過ぎるとタウンハウスと平屋がガタガタと立ち並ぶ地区へ。

 正面まっすぐを見据えれば下等区画と貧民窟の境界がはっきりしており、そこからはあばら家と廃屋立ち並ぶ混沌の図だ。その、最果てには曲がりくねって伸びてきた川を受け止める最終処分場がある。先は大河に繋がり、海へ往く。


「感動するような景色ではあるまい」

「いえ、スモッグもなくこんなに遠くまで見渡せたのは初めてだったので」

「そこか」


 言われてみればそうだった。

 長くこの街に住んでいるが、こうもくっきりと向こうの方まで見渡せることはめずらしい。

 彼方にわずか橙色の光が差しているように見えるが、もしや沈む太陽の残光だろうか。


「久しぶりだ、陽光なんて目にするのは」

「ここ日が差しませんものね」

「ああ。俺もここへ来てから、そう何度も見ていない」


 とはいえ、長く見つめていることはできなかった。

 ゆるゆると溶ける氷のように、残光は失われ薄いスモッグの向こうに消える。

 同時に街の景色も闇に落とされ、今度はぽつぽつと点るガス灯の耀きがそこかしこにちりばめられた。

 日が落ちると、風も冷たくなる。冬の接近を感じさせられ、ジョンはインバネスの襟に口元をうずめた。

 半分まで昇ったので、往路はもうあと十分ほどだろう。十八時までにはディアの下に着きたいところだった。

 ディアに、……会わねば、ならない。

 少し気落ちして、ジョンはますます深く襟元に埋まっていった。


「きれいですねぇ」


 眼下の夜景を目にして、ロコは静かにうれしそうな顔をしている。

 ラキアンとルーを目にして楽しい奴らだと言ったり、景色ひとつではしゃいだり。自分とちがって、気の持ちようが明るいやつだとジョンは思った。


「いつも幸せそうだな、お前は」


 べつに皮肉ではなく、心底そう思って――不思議に思って、ジョンは言った。

 こちらを振り返ったロコはそうですか? と小首をかしげてなぜだか自分の身なりや、白手套をはめた両手などを見つめている。


「しあわせ、ですか。わたくしあまり考えたことがありませんでした。自分ではよくわからないですね……幸せか、どうか。ふむ」


 顔を上げ、悩んだように眉根を寄せて言い、やはり彼女も冷えてきたのか、両手をこすりあわせて全身を震わせた。

 手に吐息を吹きかけて温めながら、ロコは青金石の瞳をぱちくりさせてジョンを見る。


「ジョンさまは幸せでは、ありませんか?」

「俺か。……俺も、考えたことがない」

「ええー。わたくしに『幸せそうだ』と言うのなら、ジョンさまの中には幸せの基準がお在りなのではありませんか? それに照らし合わせて考えればよいのですよ」


 問われて困った。

 基準、と言えるほど大したものはジョンの中にない。

 いま彼女に対して『幸せそうだ』と形容した理由ならば、単純なのだが。

 その理由を基準にするのなら、


「基準をもとにすれば……やはり俺は幸せではなさそうだな」

「あら。そうなのですか。ちなみにどのような基準で?」

「言いたくない」


 ぶっきらぼうに返し、ジョンはロコから視線を外す。彼女はなおも気になる様子で「教えてくださいよぅ」と詰め寄ってきた。ちょっと酒が残っているからか、常より距離の詰め方と口調がくだけた感じになっている。

 だが言いたくないものは言いたくない。

 ジョンは眼下の景色を眺めた。

 それでも……やはり、自分は『幸せそう』にはならない。


「ふん」


 無表情で。

 幸せそうだと判ずるような『顔』にはならず。

 ジョンは眼下の景色から視線を切り、上等区画への残りわずかな断崖の距離に目を移す。

 もう間もなくだ。気持ちを整え、ジョンは肚を決める。

 やがて大舞台はじりじりとその縁を上等区画の地面へ合わせていき、

 ジョンはハッとした。


「そうだ、お嬢。到着時も揺れが、」


 言いかけたところでもう遅く、ごうん! と縦揺れがジョンたちを襲った。

 間近に詰め寄ってきていたロコはぐらっと身を崩しかける。

 とっさのことで、ジョンは彼女の前に進み出た。ぼふ、っと顔から胸板にぶつかるかたちで、ロコの身体がジョンに支えられる。

 思ったよりずっと軽かった。とても《鉄槌》のような重撃を放つ身体には思えない。


「と、と!」


 ついで体勢を立て直そうと、ロコはジョンにしがみつく。

 インバネスの表面を掻いて――服の中にぶら下がる駆動鎧装の腕に、その手が触れる。


「あ……、す、すみません!」


 途端にばっと飛びのき、ロコは平謝りした。

 腕に触れてしまったためだろう。先日はそれでジョンを激高させる結果となったからだ。

 そう理解して、「気にするな」と口にしようとした。

 だが。

 うまく口が回らなかった。


「……?」


 戸惑っていた。ジョンにしてはめずらしいことに。

 なぜ戸惑ったのか、その理由は――いま、触れられたことについて実際にジョンがなんら不快感を覚えていないからだった。

 なぜか。

 わからない。


「……いや、気にするな」


 なんとかそれだけは口にして、けれど不快がなかった理由はいまだわからず。ジョンはかぶりを振る。

 ロコはまだおそるおそるといった体で、「ふらついてしまいました、お酒はもう少し控えます……」と反省することしきりだった。あまりに恐縮するので「本当に怒ってなどいない」と重ねて言う羽目になった。

 そんな自分に、また不可解と戸惑いを覚えるジョンだった。



 さて、上等区画へたどり着いた。

 昇降機の傍から離れて歩き出すだけで、一気に下等区画とは異なる雰囲気に包まれることとなる。

『巨人が山肌をナイフで平たく削った』と評される拓かれた大地には、煉瓦造りの建物が整然と居並ぶ。

 下等区画の高層住宅群のような高さはないが、ほぼ均一に等間隔に建てられたその様は、建てられるところにとりあえず建てたように雑然とした下等区画とは一線を画す。製作者たちの美的感覚がうかがえるものだ。

 下等区画では少ない、蒸用車スチームライドも多い。馬車の客車に四輪を備えたようなそれは、後部にひん曲がった金管を八つ並べた排気筒が突き出し、停車中も内部のピストンの動きに合わせてぼっぼっと蒸気を吐いている。

 道行く人々の身なりも整っており、男ならばだれでも、スリーピースとステッキを合わせ持ち。女なら歩くにも億劫そうな裾を引きずるドレスを着こなし、ボンネットかハットを目深にかぶっている。

 一方、そんな人々に囲まれた中、毛羽立ったインバネスをまとうジョンと、黒ローブの裾丈を切り詰めて動きやすくしているロコ。

 ここの人々とはあまりに対照的で、ますます浮いていると自覚させられた。


「では、行くぞ」


 だからと言って気にするようなジョンではない。ロコの方も大して周囲とのちがいは気にならないようで、はいと返事してついてくる。

 昇降機を降りてすぐ。半円形に切り取られ石敷で固められた広場から、放射状に何本も延びる道のうちまっすぐ進むものを選ぶ。

 薄くスモッグけぶる彼方には上流階級が集う社交場がでんと構えている。回廊状の二階建て建築を二棟繋げた異形の建物は平民たるジョンたちでは近づくことすらはばかられる場で、当然目指すはそこではない。

 中途で右に折れると、メインストリートにはないうらぶれた雰囲気が滲みだす。

 しばし行けば唐突に開けた空間に出、

 そこから視線は天に吸い上げられる。


「ここだ」

「……首が痛くなりそうですね」


 見上げる、塔。

 錬金術を駆使して作成される強化ガラス製の障壁で八角形に囲われ、それぞれの角を金色の柱で支え天蓋を頂いた巨大建造物。

 中では数千、数万、数十万というカラムがぎりぎりとせわしなく回転してそれぞれの階層で歯車に刻まれし数字を突き合わせては離れるを繰り返し。

 それらの動力となる蒸気管は噴き上げる間隔を出力の機としてタービン、ピストン、クランクを回しシャフトを絶え間なく動かしつづける。

 そんな機構を天衝くガラス塔に隙間なくびっしりと詰め込んだそれは、巨大であるのに一切の大雑把さを感じさせない。

 緻密。

 精密。

 精緻の極み。

 この蒸気都市ドルナクにおける労働の基軸たる群衆の動作をつぶさに記録、上等区画から産業区画への物資搬入量や出来高・それに伴うコストの計算など「産業区画の一日を数値化・最適化する」――街の一日の決定機関がそこにある。


「《プロジット二号機》だ」

「一号機はあったのですか?」

「そいつは十四年前に破棄された。ある日エラーを吐き出し、街全体にまるで仕事を与えないような計算結果を出してな。故障したと判断され、こいつにすげかわった」


 そのときは、一時出荷も受注もストップ。ジェイムソンインダストリアルはじめドルナクに存在する企業がかなりの損害を被った一件となっている。

 開発者のガージェリー・ウィールーンズという男は《果学研究学会》でもかなりの地位持つ人物だったが、その際の損害の責を問われドルナクを追い出された。

 最後まで自身の作品たる一号機に瑕疵かしはなかったと言いつづけていたが、訴えが受け取られることはついぞなかったそうだ。


「まあそんな話はどうでもいい。とにかく、ここの背後に広がっているのが上等区画における錬金術や蒸気機関研究の中核、《DC研究所ラボ》だ」


 ジョンは進む。ロコもついてきた。

 プロジット二号機の台座部分に当たる位置には大きな扉があり、守衛が横についている。

 ここへ近づき、ジョンはラキアンから借りた通行証のパンチカードを見せた。

 守衛は受け取り、扉の脇にある解析機関アナライザにこれを差し入れる。雷電が通り抜けカードの情報を読み取っている様子が、鍵盤タップキーを備えた機器の横で明滅するランプの光でわかる。

 数秒して、ランプは青く点滅した。

 守衛は帽子のつばを軽く持ち上げ、ジョンに向けていた怪訝な視線をやわらげる。


「通行権利は確認しました」

「すまないな」

「ですが……失礼、『通行資格』は」

「わかっている」


 ジョンは襟元に仕込んでいるジッパーを噛み、ジリジリと引き開けた。

 そこから重たい布袋を取り出す。

 守衛に向かって、噛んだこれを投げ渡すと、彼は受け止めて中身を検めた。

 取り出されたのはぎっしり詰まっていた大振りの金貨と銀貨だ。ロコが「え」と不可解なものを目にしたような声を上げる。

 しばしして、守衛は金額を数え終えて「たしかに」とまた帽子のつばを持ち上げた。扉が、ごどんと音を立てて両側に開かれる。

 物資搬入にも用いる都合上、やたらに幅と高さのある道が、だだっ広く奥までつづいて油ぎった風を中から外に送り出していた。

 ジョンは歩みを再開して通路に足を踏み入れる。革靴の音が遠くまで響いていった。


「い、いまのは……もしや修繕料では」


 がたがたと震えながらロコはジョンの横にぴったりついて歩く。うっとうしいのでこれを肩で押すように払いのけながら、ジョンは答えた。


「ちがうと言っただろう。《通行資格》を買うための金だ」

「資格?」

「ここは上等区画だ。貴重な産業研究者の人生の時間を、無料で無資格の平民に割り当てることなどない」


 だからお金が必要になる。

 たかだか三十分ほど会って話して、駆動鎧装を診てもらうために。

 ロコが震えて、今後三か月ほどの己の食事を心配しなくてはならないほどの金額が必要になるのだ。


「だから、俺は吸血鬼を狩るのだ。給金と報奨金のため」


 右手にあった豪奢なつくりの扉を前にしてジョンは立ち止まる。

 パンチカードをまたも解析機関の差込口に挿入し、ランプが点灯するとその部屋に入った。

 中は外とちがい暖かで、空気は適度に湿り気がある。

 縦長に伸びる部屋の奥を見れば暖炉のようなマントルピースの中に等間隔の噴出孔を開けられた排気筒が見えて、ここから定期的に蒸気が噴き上がっている。排熱を利用した暖房だ。

 床一面に緋毛氈ひもうせんを敷き詰めた客間は、簡素ではあるが必要な家具は揃っている。

 二人掛けのソファが二脚、猫足のローテーブルを挟んで置かれており。壁際には大きなチェストが茶器類と菓子盆を備えて鎮座している。天井からの明かりもガス灯であるが揺らめくことはなく常に一定だ。

 あまりに整った部屋に気後れしたか、ロコはジョンから一歩分しか離れずに歩いていた。


「……すごくお金がかかってそうな内装ですが」

「上等区画だからな」


 上等区画は住むだけでも、おそらくジョンの収入の数倍は必要になる。生活を維持するならさらに数倍。

 そんな場所でこれだけの好待遇を受けるのだ。

 それがディア。

 ジョンの専属技師にして、

 彼が苦手とする人物。

 その再会のときは、ソファに腰かけるか迷うまでの間にやってきた。


「――や、久しぶり。なかなか来てくれないものだから、姫のこと忘れちゃったのかと思った」


 きい。

 きい。

 と。

 奥にあるメイプルの扉を開けて彼女がやってくる音がした。

 足音はない。

 回る車が彼女を運ぶ。

 華奢な両腕をいっぱいに使って、彼女は椅子の両側についた車輪を回す。

 銀色の、軽合金製車椅子。その上に子供のような小さな身を納めた彼女は、だるだると伸びた白衣の中、素肌に濃紺のオーバーオールを着用している。

 起伏の一切ない胸部の上で、折れそうに細い鎖骨から肩に流れた肩紐。

 そこにかかる、一束の三つ編みに結った金色の髪。

 目元を鼻先まで覆う長い前髪の向こうから、彼女はしかとジョンを見つめていた。


 赤みがかった、黒曜石オブシディアンの瞳が穏やかに揺れる。

 本当にちいさく、ジョンの駆動鎧装ならば鷲づかみにしてしまえそうな顔いっぱいに、彼女は笑みをたたえていた。

 この笑顔にどう返せばいいのか、いまもジョンはよくわからない。


「ああ……いや。忘れていたわけでは、ない」


 曖昧に、力なく返すだけだ。

 それなのに彼女はうれしそうだった。


「じゃあ、なぁに?」

「なんというか。なんだろうな」

「あー、あれか。ここに来る『足がなかった』?」

「お前じゃあるまいし」


 反射的に返せば、にまっと笑ってまたきいきいと車輪を回す。

 ジョンの目前まで来た彼女。

 着用する、オーバーオール。

 その膝から先は中身なく、ぺたんと平たく地面に向かって流れていた。


「ふふ。ひさびさの軽口が聞けてうれしいな」


 にまにまと口の端を吊り上げながら、彼女はうかがうように下からジョンを見つめる。

 視線から逃げるように、彼は天井のしみに目を移した。


「……そうか」

「なに? こっち見てくれないの。ああ、そっか。その位置だとね。視線が見下ろすかたちだからなぁ。今日は姫、肌着忘れちゃってたから」

「妙なことを言い出すな」

「まあまあ。いま見えないようにするから、もうこっち向いていいよ」

「……、」

「こっち向いて」


 ちょっと強めの語調で言われて、おとなしく従う。

 すると、


「ていっ」


 車椅子の座面から、上体と腕の力のみでぴょんと跳ねた彼女がジョンに向かって飛んできた。


「なっ、」

「えへへ。つかまえた」


 ジョンのうなじへ両手を回してぶらんとぶら下がり、三つ編みと白衣とオーバーオールの裾を垂らしてゆらゆら。

 密着する彼女はんーとうなって鼻先をジョンの胸元に押し付ける。


「ふふん。これだけくっつけば上から見える心配もないでしょう」

「…………、」

「ん? 少しは反応してよ。姫も恥ずかしくないわけではないんだから…………う、ん。あー。だめだ。冗談だったけど、ほんと恥ずかしくなってきた。あのね? 鼓動が聞こえてそうで、なんかヤなのこれ。やっぱ降りるね。というか降ろして」


 勝手なことばかり言い、催促するように身をぶんぶんとよじる。たまらずジョンは上体を屈め、彼女をそっと下ろした。

 座面に降りた彼女はふうと息をつくと、前髪が長いせいで見えづらいが若干紅潮した頬を隠すようにうつむき加減になった。


「ふふう。緊張しちゃった」

「……そうか」

「でもきみの方こそ緊張してるんじゃない? ほら、そんな風に腕がうまく動かないようだと、戦えないものね」

「……!」

「右腕の蒸気管からの不具合かな。重心が左に寄ってるし待機状態維持の駆動音もしない、ってことは雷電の入力回路も少し不具合出てる。アクチュエータに手を入れて、雷電制御の調節もしなきゃだね」


 膝に頬杖ついてこちらを上目遣いに見、彼女はふふんと鼻にかかった笑い声をあげた。

 たった数秒触れただけで、そこまで読み取ってしまう。


 ディア。

 全名を、オブシディアン・ケイト・エドワーズ。

 ドルナク最高峰の技師にして《蒸姫プリンセス》と呼ばれる彼女は、いつもこうしてジョンを翻弄するのだった。


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