2:祈りとスモッグとダストシュート
「満ちよ、祈りよ、天を見よ
その身、その精、その心
繋がりは解け、軛は落ち、いまあなたは昇る
見晴るかす天と見下ろす大地にて、あなたの生はいま全うされた
願わくは心安き眠りを。
満ちよ、祈りよ、天を見よ
然らばその身は天の物
――終わりはいま、ここに成った」
屈みこんで膝をつき、吸血鬼の傍らでロコは終末の聖句を唱える。ジョンに向けられた背中は、なんというか敬虔な印象だ。
聖句の終わりから余韻が消えた頃、ぱたんという音で聖書を閉じたことがわかる。
次いでロコは、腰に提げていた鞘から短剣を抜いた。
それは刃渡り三十センチ少々の、十字鍔を付けた代物である。
しかしジョンはすぐに気づく。これは、刃を研いでいない剣だ。
「慈悲の短剣ですよ。聖職者は、調理用のナイフ以外で刃物を携帯することを許されませんので」
「なるほど」
説明しつつ、ロコは柄頭の蓋を開くとそこに満たしてあったのだろうインクに指先を浸し、刀身につらつらと名を記す。
その短剣を吸血鬼の胸元へ置くと懐より硝子のボトルを取り出し、手のひらに受け溜めた中身の聖水を少しずつ垂らした。
インクが溶け消え、聖水と共に吸血鬼の身体へしみこんでいく。
完全に名が消えたところで、ロコはボトルに栓をなし両手を組んだ。
おごそかな語調で、安息を、と唱えた。
「死者への祈り、終わりました」
「ご苦労だった」
「いえ、特に苦労というわけでは。わたくしにとっては、これこそが仕事ですし」
「しかしそういう様を見ると、しっかりとした聖職者なのだと実感させられた」
「……しっかりしていないと思われていたのですか? わたくし」
「そんな恰好のシスターは見たことがないのでな」
じ、と視線を下げる。
上半身はまあ、普通だ。頭巾こそないものの、黒のローブに白の手套、聖者の最期を模す十字架の首飾り。至ってシンプルでフォーマルな装いである。
しかし膝から下はどうだろう。ざっくりと前から斜め掛けに切り取られたフィッシュテイルスカート。大きく露出した足には、白のショース。ふくらはぎの丸みや細い足首への曲線がよく見える。
じ……っと見つめつづけていると、ロコはあたふたとしながらテーブルの影に移動し、脚線をジョンの視線から隠した。
「あの、あまり注視しないでくださいますか」
「了解した。しかしシスターとは、もっと慎みのある服装ではなかったか?」
「元はそういうものだったと聞いております。しかし裾が長くては動きづらいですし、とくにこの街ではそれは命取りになるかと思い」
人差し指と中指を立てて、ロコはちょきちょきと蟹のように指を動かした。
「自分で切って縫製したのか」
「これでもお裁縫は得意でして」
「……仕立屋もびっくりだな。お前、ますますシスターの印象からは遠い」
「そうですか。わたくしもあなたのこと、騎士の印象からはほど遠いと思っております」
じ、っと。今度は向こうがこちらを見つめてきた。
それも非常に湿度の高い、半目である。
「わたくしと同じ騎士隊に所属しているというのなら、お給金は頂いている身なのですよね」
「当然だ。むしろ俺は給金以上に働くつもりなどない」
「そこはまあよいですが。しかし、しかしですよ! あなた、さっきわたくしを助けたあとでお金を請求しましたよね!」
「お前は俺に、命を救われたのだ。それなりの謝礼で以て応じて然るべきだろう」
「一言一句たがわずの再現どうも! でも騎士ともあろうものが、人助けに見返りを求めるとは何事ですか!」
犬歯を剥くようにしてロコはがなる。ジョンはばつの悪い顔になって目を逸らす。
同業者にたかってしまった以上、仕方のない状況ではあるが……とりあえず小声で言い訳した。
「……別段、『持ち金を全部出せ』『身ぐるみ置いていけ』というつもりではなかった……言っただろう? 払ってもよいと思った額でいいと。なにが悪い?」
「定められた職務が公的なものである以上、そこに個人の裁量で色をつけるよう迫るのは国家公安の根元をちいさく揺るがすものだからです! そういうのが行き着く先はね、『お金のないひとは助けない社会』ですよ!」
思った以上に理路整然と返されてもはや言葉もない。
「今度からは気を付ける」
騎士の身分を露見させないように、と心中で付け加えた。
そんな内心を見抜いているのか、ロコの視線はまだまだ湿り気の強いもののままだ。
「……まあいいですけども。助けられたことは、事実であるのですし。ありがとうございました」
信条に沿わなくともそこは律儀に感謝を口にして、ロコはぺこりと頭を下げた。
ああいや、と返したもののジョンはその先の言葉に詰まる。
どうにもこの少女はやりにくい相手だと感じていた。この街には、そぐわない人物像である。
くそまじめだ。
「ともかくも、騎士隊所属となるためわたくしはこれから詰所に赴かねばなりません。あなたは詰所をご存知なのですよね?」
「無論。しかし、所属となるのであれば当然、お前に渡った書状にも場所の記載はあっただろう?」
「お恥ずかしながらわたくし、自分の現在地を察するのが苦手なようでして」
「……なるほど」
「はい。ここ数日、たどり着けずいた次第です」
あまり恥ずかしそうでもなければ悪びれる様子もなく、ロコは言い放った。
わりと淡白なジョンにしては珍しいことに、本当に心配になってきた。この少女のことが。
「わかった。ひとまずは詰所まで案内を引き受けよう」
「助かります。……ところで、お名前を教えていただいても?」
「なにを言っている。先ほど、名乗ったばかりだろう」
「あれが本名だと?」
ぶっきらぼうに言い返せば、ロコは小首をかしげて不思議そうな顔をした。
ジョン・スミス。偽名に多く、また先ほどのような「名の知れぬだれか」の葬儀礼の際にはとりあえず仮のものとして短剣に記される名でもある。
たしかに、本名でないと看做すのも無理はない。
が、ジョンにその名の事情を語るつもりはない。
「本名ではないが、そう呼べ。ほかの名で呼ばれるつもりもない。どうしても偽名という虚偽を口にしたくないのなら、二人称ででも呼んでおけ」
「ははあ、了解いたしました」
いやに素直に引き下がり、ロコはしばらく悩んだ。
それからおもむろに、「ジョンさま」と呼んだ。
『様』は要らんだろうと返したが、目上の人間には敬称をつけるものだとロコは強硬に主張した。歳を訊ねれば彼女は十五、ジョンの方が四つほど年かさだったので納得しなくもないが。
「ともあれ、行くぞ。ここの後処理はどこかの情報網を経由して察した援護部隊が行う」
「わたくしたちは残らずともよいのですか」
「残るとしたら、それは吸血鬼との戦闘で負傷し感染の恐れが判じられた場合くらいだ」
「ああ、そういう」
「それにあまり長く滞在して、騎士団所属の身の上と周囲に広く知られるほうが面倒も多い、とだけ忠告しておいてやろう」
きびすを返して歩き出す。
ジョンの身体の横で、がちゃりと義手が鳴る。
大方は蒸気で洗い落としたとはいえ、インバネスの中でまだ、血は香る。
「所詮俺たちは殺しを生業としている。その対象は、昨日まで人間だった相手であることも多い」
「……それって」
「故、先ほどのように騎士団の図象を軽々に掲げることも避けるようおすすめする」
淡々と告げて、ジョンは歩き出した。
騎士団。騎士。そんな名乗りをしてはいても、ジョンたちが行うのはそれこそ慈悲の短剣の用途に似た、助からぬ相手の速やかな処分だ。
だがいくら処分すると言っても、それは以前まで人間だった相手である。
だれかの友、だれかの父、だれかの母、だれかの子。
殺めるのは『それ』なのだ。いくら変質し異形と化したとはいえ――身内や知己に、割り切れと言うことはできない。
「騎士団は好かれる立場ではない。所属を知られぬ方がいいということ、努忘れるな」
パブを出て歓楽街の細い通りに出た二人は、緩くうねる道の両側を埋める石造りのタウンハウスに見下ろされながら並び歩く。
道すがらジョンは、彼女に問うた。
「騎士団に所属するというなら、お前。吸血病についての知識はどれほどある」
「一通りは」
「述べてみろ」
「ええと――」
斜め上を見つつ、ロコは指折り特徴を数え、述べ始める。
――吸血病。
それはこの蒸気都市ドルナクにだけいつからか蔓延しはじめた、不治にして不死の恐るべき病。
吸血鬼に噛まれることが原因で起こるというこの病は、罹患した者に脅威の体力と再生力とを与える。
具体的には『心臓の大部分を破壊する』『頸部を刎ねる』以外での殺害がほぼできないほど、その再生力は圧倒的である。
斬られても傷は塞がり、撃たれても弾丸を押し出し、眼球や脳髄への損傷すらほとんど意にしない。
そしてなにより恐るべきは、罹患した者が発症する重度の吸血嗜好である。
彼らは長期にわたって人間の血液を摂取できないと、激しい渇きと餓えに苛まれ凶暴化する。
そうなってしまえば摂血行動で幾人も殺す。
治療法は、現在のところ確立されていない。
「……故、それに対処すべく組織されたのが《銀霊騎士団》だと。そのように聞き及んでおります」
おそるおそるこちらの顔をうかがいながらの説明に、ジョンは小さくうなずいた。
「及第点だ」
「えへ」
「しかし、あのようにお粗末な戦闘では先が思いやられる」
「うぐ」
「対人用の戦闘技術に頼り切るな」
「あぐ」
「相手が異形であり、対人用の技術で応じきれない可能性をなぜ考慮しなかった」
「むぐ」
「……正直なところ。金をなんとか工面して逃げて、どこかの街の教会でシスターをやる方が向いていると思うぞ、お前」
「そういうわけにはまいりませんよ」
途端、凛と。
芯の通った返事をして、ロコはまっすぐに前を見つめた。
「わたくしがいなければ、他のシスターがここへ派遣されるはずです。そうしてそのだれかが傷つくのだとしたら、それはわたくしにとって我慢ならないことなのです」
「そうなったならそれも、天の采配とは思えないのか」
「思えません。それにきっと、神は逃げた者をお許しにはならないでしょう」
指を絡めて手を組み、ロコは信心深い様子でうつむく。
いかにも、様になっていて。道行くひとの中にも目を留める者があるほどの、堂に入った祈りの姿である。
「そんな考えは理解できないな」
「できませんか? 祈り捧げ信じるということを」
「あいにくと俺は、祈るため組む手もない身なのでな」
「……あの」
「冗談だが」
「……そのセンスこそ理解できませんね……」
ひどいことを言われたような気がした。
そのうち、二人は歓楽街を抜ける。漂っていた客引きの目つき、ぎらついた明かり、飯の匂いや客の罵声や女の嬌声、そういうものがすうっと薄くなる。
どこからか流れてきたスモッグが視界を煙らせる通り。
頭上を見ると影が遠く、建物の高度が増していることがわかる。建物と建物の間に渡されたワイヤーがぼろ布のような洗濯物や、ときには干し肉干し魚などを吊るしていて、生活感がある。
歩くひとも、酔漢や女はまばらだ。屈強そうな強面や、じろりと伏し目がちに周囲を油断なく睥睨する者が増える。中には片腕を炭坑や加工の職務で失ったのか、金属製の義手を帯びている者もある。
しかしそういった者は皆義手に引っ張られて姿勢が傾いでいた。さもありなん、腕は丸太のように太く重く、巨大な鉄塊そのものとなっているからだ。
「ジョンさまのような小型の義手はめずらしいのですね?」
「ああ」
まあな、とだけ答えておく。
さて斯様な者どもが肩で風切るここは労働者の住まう下等区画。
この蒸気都市ドルナクを回す歯車の集いである。
つまりはすべての基礎にして、替えの利く者どもの集いだ。
「ん……スモッグの警報が流れているな」
「え?」
「スピーカーからノイズが流れている」
ジョンがぼやいたとき、壁に設置された音響装置より低い音が流れ出す。じじじじじ、と繋がりの悪い音をしばし垂れ流し、次いで若い女性の声が無機質に告げはじめた。
『ささ産業区画からののお知ららせですす ささ産業区画からののお知らせです』
不吉な予兆である。いやな静けさが辺りを満たす。
「今日も、上等区画からの風向きは厳しいらしいな」
「え、え? なんです?」
「知らないのか。ひとりの時でなくてよかったな。お前、運はあるらしい」
建物の隙間を抜ける風の音が止んだ。
そろそろか、とジョンは物陰に移動し、肩でロコを突き押して自分の方に招く。手近な扉を蹴り開け、勝手に建物の中にお邪魔した。
扉を閉じるとき、微かに足ごたえが重かった。大分ぎりぎりのタイミングだったようだ。
「来るぞ」
「は……」
ロコが返事しようとしたのと同時。
止み、溜められていた大気の波が、轟と通りに押し寄せ溢れた。
びりびりと窓硝子が震える。けたたましい音を引き連れて、灰色の暴風が外を流れていく。
通り雨のように瞬間的に訪れた風は、外のすべてを揺らし震わし破滅的な音色を響かせた。
しばししてから。
通りにつむじ風だけを残し、灰色は去っていった。
静けさが一瞬あって、次にばたんばたんと窓の開く音。色々と物を外に干していた住人たちが、馬鹿野郎、クソが死ね、と次々に悪態を吐き散らす。
室内に、濃いスモッグの臭いが少しずつ入ってきていた。またスピーカーから、『ささ産業区画のの洪煙排出はは終わりましたたた 速やかなな撤収をお願いい致しますす 繰り返しますすささ産業区画の……』とエコーがかった声が流れていた。
「下等区画名物、洪煙だ」
「これはまた……豪快な」
「上等区画にとってはここなど、産業排出物を捨てる掃き溜めに過ぎないからな」
ため息と共にジョンは建物の廊下を進みはじめ、上階を目指して階段をのぼり出す。
「だが、外に皆の注意が向いた。ちょうどいい」
「え?」
「言っただろう、騎士団への所属はあまりひとに知られない方がいいと。つまりは詰所への移動もひとに見られない方がいい」
かんかんと階段を上がり、ジョンは三階で足を止めた。おっかなびっくりついてきたロコは、足を止めたジョンの後ろできょときょと周囲を見回す。
この階に詰所があるのかな――? そんなことを考えていそうな彼女に向けて、ジョンは爪先をひっかけるようにしてガコンと開いてみせた。
扉を、ではない。
開かれたのは黒々とした穴。
下階までつながる、ダストシュートであった。
「行くぞ」
「え……うそですよね? ……また冗談ですか?」
「俺が言う笑えない言葉のすべてが冗談だったなら、俺は真実などひとつも口にしていないことになりそうだ」
この冗談は少し通じたのか、ロコは引きつった笑みを浮かべた。
それを見てうなずき、ジョンは催促するべく彼女の足を軽く蹴った。
「行け」
「え、ちょっと待っ、あのわたくしスカートで、」
「ならばなおさら先に行け」
「先にって! こんなの心の準備が、あっ」
あっ。
それで終わり、悲鳴はたなびくことがなかった。
おそらく息を呑んでそのままになったのだろう。かつて自分が最初にここに来たときのことをジョンは思い出していた。
それから彼も飛び込んだ。