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悔打ちのジョン・スミス  作者: 留龍隆
第一章 邂逅
1/86

1:吸血鬼と義手と騎士


 ジョン・スミスはちょっと運のない男だった。


 外に出れば雨が降る。道を歩けば泥が跳ねる。白い服が一週間無地を保てたことはない。

 注文したメニューは品切れか、品があっても財布を忘れているのが常。

 楽しみにしていた興行は蒸気路線事故の影響で延期になり、なんだちくしょうと思ってチケットを売り払うとなぜか急に線路が復旧し延期が解消される。


 まあ、そんな人生だったもので。

 目の前の光景もわりとよくある日常の一幕だな、とジョンは思っていた。

 狭苦しいパブの片隅で、屈強な男どもに追い詰められている者がある。


「……!」「……、」「……っ」


 人垣で向こうは見えず、また連中もぼそぼそとしかしゃべらないので会話の内容はわからないが……楽しい会話ではなさそうだ。周囲もこれを察してか、そろそろと音を立てずに店をあとにし始めている。

 まったく、いつも通りの日常である。

 今日こんにちもジョンは運がない。まだカウンターテーブルの上のポテトオムレツは冷めきっていない(・・・・・・・・)というのに、こんな騒ぎに巻き込まれるなんて。

 嘆息して、席を立とうとしたとき――


「――ッせいっ!」


 鋭い掛け声と共に、高く高く宙を舞う人影。

 足を払って投げられたのは、ひどく大柄な男だ。

 目方はジョンの五割増しくらいだろう――そう思わせるほど、鈍く重い音を立てて、

 彼はジョンの眼前のテーブルに降ってくるとパブの歴史を支えてきた板張りの床に叩きつけられた。

 めしりと聞こえた嫌な音は、骨か板かどちらが軋んだ音か。


「ぐぉっ――、」

「こっ、の、ガキ!」「クソが!」「やりゃぁがったなッ!」


 悲鳴に継ぐのは、仲間であろう男たちの怒号。

 さて怒号の向かう先には、先ほど大男を投げ飛ばしたばかりの人物が堂々と立ち尽くしていた。

 ガキとの呼び方に、まちがいはない。

 それは、背の低い少女である。


「なんですか徒党を組んで怒声を張り上げて。こんな細腕の女相手に、己ひとりの腕っぷしを信じることすらできないのですか? おお、神よ。哀れな連中にどうか慈悲を」


 落胆したような小ばかにしたような語調。

 よく通るその声は、己の周囲を囲む男たちへ突きつけられていた。

 少女は白い手套をはめた片手を腰に、ポーズを取るように肩にかかった髪を払う。

 腰まで伸びて長くうねり、渦巻くようにじれた部分のあるアッシュブロンドが飾り糸のように柔らかに流れた。

 その美しい髪は、着ている野暮ったい黒のローブによってさらに耀きが際立ち、あたかも宝石の台座に黒のベルベットを敷いているかのような印象を与えた。

 しかし、視線を下げていくと野暮なローブは途端に貞淑さや落ち着きを感じさせなくなる。

 なぜなら膝下あたりでざっくりと、前方から後方へ向けて斜め掛けに丈を切り落とされているからだ。フィッシュテイル、とかいうデザインであることをジョンは思い出す。

 そしてのぞく脚には、白のショース。膝からふくらはぎのラインを肉感的に表すこの大胆な衣裳合わせは、終端を小さくまとまったパンプスの中に整えられている。

 少女はずいと一歩を進めて言った。


「呆れてものも言えません。よくそのような心胆で、恥ずかしげもなく生きてこられたものですね。感動してめまいを催しそうです」


 てきぱきと煽る言葉を並べ立て、彼女は半目で男たちを見やる。

 真白い顔の中、青金石ラズライトの瞳が輝く。深く底を透かさせない青は、パブの薄暗がりではほのかに燃える高温の火種のようである。

 その反抗的な目の火が、燃え移ったのか。


「――るっせぇ、おとなしくしてりゃ付け上がりやがって!」


 ひとりが腰に手をやった。重たげにかざされるのは――束ねられた三つのパイプの後部に、銃把グリップの中に仕込んだボンベと連結された歯車ギアが並ぶ杭弾銃パイルガンだ。

 男が引き金を引くと歯車が半回転して圧を解放、ガシュン! と蒸気の抜ける音が響く。

 が、射貫いたのは少女の身体ではなく天井だった。


「え?」


 撃つ前に、少女によって己の腕ごと銃口を上方へ弾き払われていたことに気づいた男は、じつに間抜けな声をあげる。

 それが最期の声だった。

 腕の動きに合わせて上体の重心を崩され、鎖骨を砕く掌底と足払いを連続でぶちかまされ転がり吹っ飛ぶ。


「次どうぞ」


 くいくい、と立てた指先でおいでおいでする。

 頭の血管が切れたような表情で、残りの男どもが殺到した。

 それをちぎっては投げちぎっては投げ、少女は打ち倒した。

 次に挑んだ者は手首の関節をひねりあげられ床に倒され。

 次に挑んだ者は拳をいなされた直後に喉元へ手刀を打ち込まれ。

 次に挑んだ者は踏み込んだ足の膝を踏み台に顎への膝蹴りをくらわされ。

 たちまち、少女の周りに総勢八名から成る人の山ができあがった。


「加減はしましたよ。しましたからね。神に誓って」


 ぱんぱんと少女は手を打ち払う。

 たいした腕であった。

 これはなかなか見ない光景である。たまには変わったことが起こるもんだな、と思いながら、ジョンは砕けたカウンターテーブルごと足下に落ちたオムレツを名残惜しく見つめた。

 昨日の給金の一部をかけたささやかな贅沢品の無惨な姿に、彼は肩を落とした。


「……ガキぃ、やってくれやがったな……」


 と、そこで少女の前に立ち上がる影。

 それは長髪を振り乱した男で、連中で最後に残った奴だった。

 先の連中に比べてだいぶ細い体躯である。

 けれど動きの妙な迫力は、先の連中とは少しちがう。少女は、顔をしかめた。


「加減は要らない御方ですか? では……まいります!」


 少女は、今度は自ら仕掛けた。

 左半身で深く間合いをまたぎ、相手の右拳をかわしながら右手側に滑り込む。

 突きのストロークが戻る前に彼女は右手を男の前腕に添え、自らの左腕を上から巻き付けるようにして相手の肘を腋に抱えこんだ。

 そのまま、右手を押し下げることで――関節を逆方向に折り曲げる。


「がっッ……ごぉぅぅえ!?」


 次いで腕を離して腰を切り、左肘を喉笛に叩き込み、

 声をあげられなくなった男が仰向けに倒れ行くのを冷徹に見据えながら、


「お覚悟を――ぜええいっ!」


 振りかぶった右の拳槌を全力で心臓に打ち落とす。

 全身のうねりを活用した連撃だ。女の細腕とは到底思えない威力がはじき出される。

 しかし次の瞬間、顔を痛苦に歪めたのは少女の方だった。

 ごぅん、と鈍い音。

 男は、服の下の胸部に薄い金属製の防具をまとっていたのだ。


「……――ぉ、ぁははぁはぁはははっ!」


 哄笑をあげ、男が左腕で少女の胸倉をつかむ。

 足をからめて引き倒し、途端に上下を入れ替えると少女の奥襟をつかんで引き、前腕で首を押さえつけるようにして締め上げた。


「ぐくっ⁈ な、なっ!?」


 この行為に少女はあぜんとする。

 あろうことか、男が締め上げに用いたのは右腕(・・)だったのだ。


「ッはははははぁ! 残んん念だったなぁぁ、ガキぃぃ!」


 けたたましい笑い声と共に男はいよいよ少女に覆いかぶさり、全身で体重をかける。

 潰されたはずの喉といい、痛みを我慢しているのか? そうではない。

 すでに痛みはない(・・・・・・・・)のだ。

 腕の関節も喉の発声も常の調子を取り戻している。治っている(・・・・・)のだ。

 その事実に気づいたらしい少女は目を剥いたが、このままだとその目が色を失くすのも近い。

 必死になって暴れる少女。首元からは鎖で吊るした十字架がまろびでる。男の力が緩むことはなく、少しずつ少女の顔から血の気が失せていく。

 対して男は喜色満面、楽しくて仕方ないという様子で体を揺すっていた。


「ひひひ、おっと、まだ気絶するなよ! 意識のない奴をヤるのは趣味じゃぁねぇんだ」


 その目が赤く充血する。

 顔色は死人のような土気色になる、

 笑んだ口許から――牙が、のぞく。

 男の正体にやっと気づいたか、少女は歯噛みしてうなった。


「おま……えは……《吸血鬼》……!」

「いかにもそうさ。この街じゃありふれた異形だろう? ……んん。その様子だと外から来たばかりのようだな。ひはははは」


 なにも知らぬ者に暴力的にものを教え込む快楽に浸りながら、男は笑いつづけた。

 その間も少女の肢体から、力が抜けていく。

 助けるなら――ここらが頃合いか。ジョンはようよう、席を立った。


「まあこんなものだろう。善戦したな。外の一般人にしては、だが」


 称賛に近い言葉をかけながら、ジョンは少女に歩み寄る。

 苦しそうにもがく彼女はジョンを視界に捉えると戸惑いの色を混ぜた。


「あ、あなた……こいつは、危険、です! はや、く、逃げっ、」

「そんなザマでなお他人を気遣う精神。たいしたものだな。もしや聖職者か?」

「だ、だったら、なんだと――」

「いやなに」


 こつこつとブーツで床を踏みしめるジョンは言葉を切ると、残り三歩の間合いで足を止めた。

 そこから、

 袖に腕を通さず着ていた膝丈のインバネスコートの裾を払い。


「――死者への祈りは、任せようかと思ってな」


 低く身を屈めながら滑るように前に出て、左足を軸に回し蹴りを放った。

 振り向こうとしていた男の顔面を足の甲がひしゃげさせ、派手に吹き飛ばす。

 いや、自分で飛んで威力を殺したのか。


「っぐぐぐ、て、め」


 少し離れた位置で膝をついて止まり、男はジョンを睨みあげた。

 潰れた鼻孔を押し広げるように赤い液体が噴き出る。硬い革製のブーツで切れたのか、鼻を横一文字に走る裂傷からもだらだらと血が垂れる。

 しかし唐突に、血は止まった。

 傷口が――内部でうぞうぞとなにか、糸の群れがうごめくような気味の悪い動きを見せて、塞がっていく。これを見てか、後ろで少女がうめいた。ジョンは冷静に傷の回復を分析する。


「《縫合回復型》か。急速分裂や現象回帰に比べれば、回復速度も低い相手だ」


 対策を頭の中に描き、こつこつと近づく。

 前触れなく、右爪先で蹴り上げ。男が飛び退って避けるのを見越してステップイン、つづけざま左足底で踏みつけるように膝を狙う。

 これを右前腕で内側から払いのけた男はすかさず立ち上がり、左手を突き出した。


「――ひひっ!」


 キンと高い音。

 響きが貫いた空間をすんでのところで頭を振ってかわしていたジョンは、己の側頭部をかすめた仕込みの刃に気づく。

 手首の脈を裂いて出てきたようにも見える、細身のブレード。全長は十五センチほどか。


「防具といい、隠すのが好きらしいな」

「まぁな!」


 再び仕込みの稼働音、右手からも刃が現れる。

 途端の猛攻。左右から振るわれる双剣をジョンは巧みな足さばきと上体の移動でかわすが、次第にインバネスをかすめていく。

 時折ジョンも蹴りを出し、それは大腿部を打って動きを止めるなどそれなりのダメージではあるが……決定打にはならない。

 なにせ相手は吸血鬼、回復力とそれに付随するスタミナは人間の比ではない。


「オラどしたぁッ! ちまちまかわしたって無駄だぜ、吸血鬼(おれたち)にゃ首をねるか心臓を潰すくらいしか殺す方法がねぇんだからよ!」


 そしてそのうち心臓潰しは、防具によって防いでいる。

 男は勝利を確信して勢いづき、刃の連撃の回転数を上げていった。

 やがて。

 刃が、ジョンの左前腕を捉える。


「いただき――」


 突き出した刃の先端がインバネス越しに刺し込まれる。

 だが確実な負傷を与えたはずの一撃は、

 硬質な金属音を発したのみで弾かれ、折れる。男が驚きに身をすくめた。


「残念だったな。お前、俺よりも運が悪いようだ」


 言って、磁石が前の留め具を成していたインバネスを、ジョンは脱ぎ捨てた。

 現れた身体にまとうのは袖のない黒のシャツとタイトなボトムス。

 そして、両の二の腕から先を覆う、鈍い銀の光。

 尖り――角張り――旧い騎士甲冑の手甲を思わせる無骨なデザイン。


「義手……?」


 男の問いにジョンはああ、と応じる。

 力なくぶら下がっていたのは、たしかに義手であった。


「こいつでお前の心臓を、潰してやろう」


 宣言し、ジョンは左の肘で天を打つように。生身の肉残る二の腕に力を込め持ち上げる。

 肘の内側にあったストラップを噛み、首を回して引くと、チェーンが伸びきって発動機を稼働させた。

 どるんと低く粘りつくような音が鳴る。

 雷電エレキテルが流れて疑似神経回路を覚醒させ、油圧ポンプが肉の伸縮を再現する。内部で瞬時に高められた蒸気圧が肘の外側にあるあなより漏れ出す。

 背中のアクチュエーターを介して連動している右腕も動き出し、次の瞬間にジョンは構えを取っていた。

 左半身、両の拳を掲げたスタイル。

 古い時代の拳闘を模した、必倒の構え。


「お前……それは、駆動鎧装スチームアームか……? 馬鹿な! そんな小型のもの、まともに動いたところで戦闘などとても、」

「自分の身で確かめてみろ」


 ジョンは拳を握りこむ。

 たん、と軽い動きで踏み込むと左拳で二撃放り込んだ。

 速く、それでいて重い。金属製であるが故だ。男はこの高精度な稼働に驚いた様子で、二撃をまともに食らう。またも顔から出血。


「飾りじゃ、ないようだな、くっそぉ!」


 男は肘を曲げ、顔の前に左前腕を掲げた。右の剣は折れたがこちらはまだ残っている。前腕に沿って伸びる剣を籠手代わりにして打撃をいなし、反撃に転じようとしたのだ。

 だがそれこそがジョンの狙いだった。

 左拳に接して剣の動きが鈍った瞬間、追うように伸ばした右手が剣先を握り止める。

 素手ではできない、金属の義手だからこその芸当。


「あ、」「間抜けめが」


 上体の引き戻しが遅くなった隙を、右爪先の蹴り上げで突く。

 剣を引っ張られていることで後ろに威力を逃がすこともできない。左わき腹に、斜め下方から刺さる重たい一撃が男を悶絶させた。

 しかし痛苦に身体を屈させることをジョンは許さない。握った剣を引っ張って、無理やり相手の身体の正面をこじ開ける。

 その上で、銀色の左手を相手の胸元に突きつけた。


「では、さらばだ」


 五指を揃えた。

 途端にかきん、という音がいくつも連なった。手首から指先までの関節がロックされた音である。

 奥歯を噛みしめジョンが踏ん張りをきかせると同時、左腕の深いところでまたも、どるんと低い音が轟いた。

 雷電エレキテルが特別な経路を辿った。

 機関の鼓動が広がった。

 金属の震えと軋みが一点に集まった。

 内部の核が瞬時に赤熱――注入されていた水を弾けさせ、ボンベ内の圧力を限界まで高めた。

 ジョンが右手の剣を離し腰を切る。


「――《杭打ち》」


 蒸気の暴力が咆哮した。


 肘の噴射孔から解放された蒸気がジョンの後方へ膨れ上がり、重く空間を揺らす。

 凄まじいまでの推進力を得た義手の一撃は、傍目には銀の光しか残さない。

 内旋させ捩じりこむ左の貫手は男の防具へ中指から順に潜り込み、容易く向こう側へ突き抜けた。

 それは先の杭弾銃の弾丸など比にならない重量の大破壊だった。心臓など跡形もない。

 肘まで胸にめり込んだ腕を、男は呆けた顔で認めて、それからやっと血を吐いた。


「ば、が、な……なん、だ、その、腕……」

「これか」


 ずるりと腕を引きずり出したジョンは、すでにこと切れる寸前の男に向かって語る。


「杭だ。お前たち吸血鬼を滅ぼす――《銀霊騎士団シルヴァ・オーダー》の杭だ」


 ごとんと身を横たえた吸血鬼の瞳孔は開き切っている。

 ジョンはぶらりと腕を身体の横へ下げると、わずかに残っていた蒸気をぶしゅぅ、と吐き出して左腕を染めていた血の痕跡を溶かし落とした。

 と、そこで右腕からもしゅううう、と吐き出す蒸気の音が小さくなっていき、かたかたと小さく震えたのを最後に動作を停止した。

 あとに残ったのは死屍累々。

 ジョンは辺りを睥睨してから、落としたインバネスのところに戻る。爪先でこれを蹴り上げ、宙にある間に襟元をくわえると、首を回して肩回りへふわりと被せた。前のあわせは磁石のボタンによって自然に、ばちん、ばちんと留められる。


「さて」


 こつ、こつ。

 足音を立て、ジョンは少女の元へ歩んだ。

 身をすくめる少女は、たじたじとしてパブのカウンターの方、ジョンが座っていた席まで後ずさる。

 追い込むように距離を詰めると、ジョンは少女の身体を上から下までとっくりと眺める。


「無事か」

「え、ああ、はい……ありがとう、ございました。なんとか無事です」

「そうか。しかし吸血鬼にあの反応とは、お前この街に来て日が浅いな」

「その通りです。腕にはそれなりの自信があったのですが、いざ異形に遭遇してみるとまるで通じないものですね……お恥ずかしい」

「最初は、だれでもそんなものだ。あまり気にすることはない」

「はは……そう言っていただけると気が楽ですが、しかしわたくしは気にしておかなくてはならない立場なもので」

「? よくわからないが……ともあれ、無事を確かめられた。では次は、これの話といこう」


 左の義手――肉の部分は二の腕中ほどまで残っているため、蒸気稼働がなくとも腕の上げ下げくらいはできる――を動かし、ジョンはインバネスの裾をはためかせた。

 ポケットからは、ちゃりちゃりと硬貨の擦れる音がする。

 理解していないのか、少女は説明を促すように首をかしげた。


「……?」

「察しの悪い。金の話に、決まっているだろう」

「かっ……お金、ですか!?」

「ああ。お前は俺に、命を救われたのだ。それなりの謝礼で以て応じて然るべきだろう」

「は、はあ……」


 少女はぽかんとしていた。こういう風に金銭を求められた経験がないのかもしれない。

 世の中には無償でひとを助ける輩もいるそうだが、ジョンはあいにくとそういった思想信条のもとに生きられるほどの余裕がない。ちょっとの運の悪さは、図太さ図々しさでカバーするしかないのだ。

 というわけで、たかれるときはたかっておく。少女を助けた理由はそこに尽きた。


「額は自分で決めてくれ。払ってもいいと思った額で構わない」

「う。額、額ですか」

「ああ。さすがにひとの命に勝手に値をつけられるほど偉いつもりはないのでな」


 催促するようにずずいと顔を近づけると、少女はなんとも言えない顔で目を逸らす。

 何度かこういう人助けをした経験から、ジョンはそれが持ち合わせがなくて困っているときの人間の顔だと知っている。

 ふっと、そこでジョンの視界に足下のオムレツが目に入った。

 その金額と、漂っていたうまそうな匂いを思い出す。惜しかったな……、と思い、次いでさっきまでの空腹がぶり返した。

 ジョンはそれをごまかすように、乾いた唇を舌で舐めた。


「……ああ。金がないなら、他のもので払ってくれてもいいぞ」


 あまりに空腹だったもので、妥協案として食事の提供を求めての発言だった。金がないと言っても、自宅に食料の蓄えくらいはあろう。

 先ほどのオムレツと同額とまでは言わないが、せめて空腹をしっかり満たせるだけの量くらいは要求したいところである。

 ところが少女はジョンの言葉がまるで毒であったかのように、耳から顔までをぼうと紅潮させひしと己の身体を抱きしめた。


「――なっ!? なっ、あなた、なんてことをっ!」

「なんてこととはなんだ。なんてことは、ないだろう」

「こっ、この街の風紀はそこまで乱れているのですか⁈」

「生きる上で不可欠の営みに風紀もなにもあるものか」

「不可欠って、それはまあそうかもしれませんが……いけません! なりません!」

「ならないのか」

「絶対にです! た、助けてくださったことにはお礼を申し上げますし、わたくしに貯蓄があれば謝礼をお支払いしたいところですが……ないものはないですし出せません!」

「ないのか」

「さっきの連中も、お金がないわたくしに食事を奢ってくださるというからノコノコついてきてしまっただけなのです! それくらいお金、ありません!」

「……そうか……」


 可哀そうな上、いろいろと心配になってくる少女だった。

 さて、しかしこうなってくるとさすがにジョンもあまりたかる気にはなれない。今回は完全に骨折り損になりそうだ。


「……仕方がないな。今日も運が悪かったと思おう……おい、お嬢。そういう事情ならば今日のところはなにも払わなくていい」

「お、お金以外もですか」

「そこまで困窮しているとは思っていなかったのだ。悪かったな」


 デザインこそ奇抜だが、着ているローブの仕立ては悪くないので多少は金を持っていると踏んでのことだったが。こういう読み違いもある。ジョンは嘆息した。


「とりあえず、今日は家に帰るがいい。できることならこのままこの街を離れることをおすすめするがな」

「おすすめされてしまいますか」

「お前はここに向いていない。ここは、命のやりとりや騙しすかしに慣れて淀んだ者ばかりが集まる街だ」


 曇りきったパブの窓を見やってジョンは言う。

 外に広がるのは、蒸気に覆われた巨大な街。

 石炭の採掘を主な産業とする、とある山のふもとへ三十年かけて出来上がった街。

 だがいつからか、そこには人の似姿を取る、異形が出現するようになっていた。

 それを狩る者(・・・)の存在と、だれが異形か知れぬ疑心暗鬼の蔓延とで――街の治安は急速に低下し、いまや先ほどのような騒ぎも当たり前のものとなってしまっている街だ。

 到底、眼前の少女には向いていない。


「うう……しかし、そうは言われましても」


 うつむき加減にこちらを見る少女は、指先をつんつんと合わせながらジョンを見上げた。


「わたくしには帰る家もなく、ここにいるほかない次第でして」

「なに?」

「こちらへ、新しく職を得て来たところなのです」


 ごそごそと少女は懐を探り、封書を取り出す。

 その封を成す押印――木槌と杭を模した図象に、

 ジョンは「あ」と間抜けな声をあげた。


「申し遅れました。わたくしはロコ・トァン、このドルナクの街を吸血鬼より守護する《銀霊騎士団》第七騎士隊所属の聖職者として本日より着任する予定のものです」


 両手の指を組み合わせ、祈る姿勢を取る。

 その様を見て、運が悪い、とジョンは口の中でぼやいた。


「……まさか、たかる相手に身内を選んでしまっていたとは」

「はい?」

「いや……仕方がないな。隠していてもすぐに露見する」


 ばさりとインバネスの裾を払ったジョンは、蒸気稼働をしていないため力なくぶら下がっているだけの義手を見せつけ、右肘部の外側を見せた。

 そこにはロコの持つ封書の押印と、同じ図象が彫刻されている。

 ロコはえっ、と息をのんだ。


「第七騎士隊所属、ジョン・スミスだ。……妙な出会いになってしまったが、よろしく」



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