おっさん
カラン、と扉につけた鈴が乾いた音を鳴らす。
グラスを磨く手を止め視線を入り口に向けると、ここ数年で見慣れたしかめっ面があった。
「いらっしゃい」
「……いつもの」
50にも届こうかという男は眉を寄せたままそう言うと、どさり。と手に持っていた鞄をマスターに預け、渡された酒とカウンターに置いてある灰皿を掴むと無言でピアノの前に座った。
月に数回、ふらりとやって来てはウイスキーを一杯だけ頼み、後の時間はピアノの前から動かない。
「あれ、弾いてもいいか?」
初めて来たその日に埃をかぶったピアノのを指差しながら言われたときは、こんな男がピアノを弾けるのかと心底驚いたものだ。
しかめっ面のきっちりとスーツを纏った面倒臭そうな男がピアノを前にした途端、他のことなど見えないかのように真摯にピアノに向かい、指先から奏でられる音の葉は真面目で力強いながらも、どこか倦怠感をまとい、そして、とても繊細だった。
その日以来、男はたまにこの店に顔を出すようになった。
一杯だけ頼まれるウイスキーは男がピアノを奏でることに満足するまで減ることはない。
曲数が増えるにつれ、来たときにはきっちりと着込まれたスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩め袖をまくり、後ろに流して固められた髪が崩されていく。
弾かれる曲は男の気まぐれで、弾き終わるのも男が決める。
ただいつの間にか最後の一曲は同席した客のリクエストを聞くことになっていた。
それも、男の興が乗らなければ行われないときもある。
男が満足するまで弾き終わり、煙草を吸い終わるまでの短い時間、その間に男の琴線に触れるリクエストが出てこなければその日はおしまいだ。
心地良い音色に耳を傾けながら居合わせた幸運に酔いしれる客を見回したマスターは
『今日は……ハズレだな……』
小さくそう呟くと、男がいつ演奏を終えても良いように準備を整え、そっとグラスを磨き続けるのだった。