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「何とまあ」
話しを終えた紫乃は、目頭をほんのりと赤く染めていた。
衛がため息と共に、声を漏らす。
「確かに、話だけ聞くと、多重能力っぽいな」
「でも私、何だか怖くって。優香、前に会った時は、まだ能力が現れていないみたいだったのに、急にあんな…。あの、やっぱり、優香の能力も、何かのトリックなんでしょうか? 私、考えたんだけど分からなくって」
「それは分からないけど、その優香って子が、かなり重度の能力依存症になってるのは、間違いないな」
「えっ」
その不穏な、聞き慣れない単語に紫乃が表情を強ばらせる。
「正式に認められた病気じゃないのよ。非公式っていうか、能力開発よりは現実味のある都市伝説っていうか。うーん、上手く説明できないんだけど」
言葉を探しあぐねる藍だったが、しずりがそれを補足する。
「要するに、強すぎる能力を持ってしまった中学生が抱く全能感、っていうのかな。自分は何でもできるんだっていう気持ちが強すぎて、ついつい暴走してしまう。実際は、どんな能力を持ってたって、それだけで先生達に勝てる人なんていないんだし、そうならないように、小学生の内から洗脳教育をするから、そうそう大事にはならないんだけど」
「洗脳教育って…」
「小学校の頃、散々言われたでしょ。能力は中学を卒業したら消えちゃうんだから、なるべく日常生活ではそれに頼りきりにならないように、って」
「あぁ、あの野球部員の人の話とかですか?」
「うん。まあ、あれこそ都市伝説みたいなものだと思うけど」
「つっても、うちらの代は『問題児』が二人もいるしな。そのせいもあって最初の頃は結構荒れてたんだけど、教員と今の生徒会長が頑張って何とか落ち着いたんだよ」
「あの、じゃあ、優香も、その能力依存症っていうのになってて、暴走しちゃってるってことですか?」
「そんな大袈裟に考えなくても大丈夫よ。暴走っていっても、能力を制御できなくなってるわけじゃなくて、多分、周りが見えにくくなっちゃってるだけだから」
深刻そうな紫乃を宥めるように、藍が肩を撫でながら言う。
「優香…、優香は、自分一人で戦うって言うんです。いくら強い力があったって、やっぱり、危ないですよね、そんなの」
「一人で?」
はっとしたように、紫乃が肩を震わせた。
「それは、…、その。と、とにかく、周りは信用できないって言うんです。自分の力なら、一人でも戦える。だけど、せめて私にだけは話しておきたい、って」
だんだんと、紫乃の声がか細くなっていく。しかし、次のセリフは、わずかに口調が強められていた。
「でも、やっぱり、変なんですよ」
「変?」
「その後、クラスの人達にそれとなく聞いてみたんですけど、優香が言ってたみたいな噂を知ってる人、誰もいなかったんです」
「どういうこと?」
「みんなが言ってるのは、亘中で能力開発がされてて、その結果生まれた多重能力者が、他の開発能力者を率いて他校を侵略しようとしてる、ってとこまでなんです。藤見がやられたとか、明後日ウチが攻め込まれるとか、そんな噂、どこにも流れてないんですよ」
「それは…、確かに変ね」
「私、ひょっとしたらクラスで流れてる噂が違うのかも、って思って、思い切って隣のクラスの人にも聞いてみたんです。小学校の時の知り合いとかに。そしたら…、その」
急に煮え切らなくなった紫乃に、藍と衛は怪訝そうな顔を見せる。
その時、しずりが、ちらりとかずいの方に視線をやった。かずいはそれに気づいたが、何も言わない。やがてしずりが、ぽつりと呟いた。
「上級生の中に、亘田のスパイが紛れ込んでる」
「えっ」
衛と藍と紫乃の三人が、驚いてしずりに顔を向けた。
「そのクラスでは、そんな噂が流れてたんじゃない?」
困ったような笑顔で、しずりは紫乃に問いかけた。
「はい…そうなんです。私のクラス以外では、その、二年生の中にスパイがいるって、そんな噂が流れてて…」
「あらら」
「でも、しず先輩、どうして…」
紫乃の顔に、微かに怯えが見て取れた。
「うーん」
「しず?」
しばらく何かを迷っていたしずりだったが、やがて諦めたように溜め息を一つ吐くと、おっとりとした口調で話し出した。
「だって、私、そんな噂聞いたことないもの。みんなだってないでしょ? 同じ校内なのに、おかしいよ。最初は紫乃ちゃんの周りだけの小さな噂なのかと思ったけど、そういう訳じゃないんでしょ。そこまで偏った噂の広まり方をしてるなら、その中身は、きっと私達には聞かせられない話だ、ってこと。噂の内容から考えれば、ね。みんな好きじゃない、スパイとか?」
「おー…」
「ただ、やっぱり、藤見のこととか、明後日のこととかは、どこのクラスでも噂にはなってなかったんじゃない? だって、そこまで具体的な話が広まってるんなら、流石にもう少し大きな話題になるだろうし」
「おおぉぉ」
紫乃は一瞬前とはうって変わった、尊敬の眼差しをしずりに向けた。
「す、すごいです、しず先輩」
「ふふん、しずは、ずのーめーせきなのよ」
「お前と違ってな」
「ちょっと!」
「多分、紫乃ちゃんも口止めされたんだよね? ごめんね、無理に聞き出しちゃって」
「い、いえ! こっちこそごめんなさい、私から話しておいて」
ぱたぱたと手を振る紫乃はしきりに恐縮していたが、やがて上目遣いにしずり達を見つめると、
「あの、本当にごめんなさい。先輩たちを疑ってる訳じゃないんですけど…」
「いいっていいって。気にしてないわよ」
「まぁ。まだ二年生のことなんてよく分からないだろうしな」
藍と衛は何でもないとでも言うように笑ったが、しずりは相変わらずの苦笑いだった。
「自分でも、よく分からなくなっちゃったんです。優香の話を聞いた時は、私もテンパっちゃってたし、噂だって、よく考えてみれば馬鹿げたことだって思うし。明後日になったって、別に何も起こるはずなんかないですよね。でももし本当だったらって考えると怖くって。優香のことも心配だし、でも優香は、私なんかに心配されなくても大丈夫だ、って言うし…」
紫乃のセリフが、だんだんと取り留めのないものになっていく。
すっかりナイーブになってしまった後輩に、何とか安心させられるような言葉をかけようと、衛と藍が悩み出した時だった。
「それで?」
その時、さっきまで黙りっぱなしだったかずいが、不意に口を開いた。
ほとんどその存在を忘れていたのだろう。紫乃が怯えたように反応した。
「え、あの、それで、って…?」
「かずい。怖がらせるんじゃないわよ」
藍が噛み付くように言う。かずいは気にする風もなく、
「君の友達は、どうやって亘田の攻撃を阻止するつもりなんだ?」
そんなことを聞いた。
ええっと、と、少し考え込む仕草のあと、紫乃はまた暗い声で言った。
「こっちから先に仕掛けるみたいです。ただ、さすがに向こうの校舎に一人で乗り込むわけにいかないから、校門前で待ち伏せするそうです。放課後、生徒会が学区内のパトロールをするらしいから、外で待ち伏せて、まずは話をするんだって。もし、噂が本当なら、その時はその場で…って。私、学校の敷地の外で能力を使うのは禁止されてるし、外に出たら能力は弱まるはずじゃ、って言ったんですけど、優香が言うには、この間試したけど、優香の能力はそんなに弱くならなかったそうなんです。多分学校の近くで使う分には、ほとんど影響はないはずだ、って……先輩?」
そこまで話して、紫乃は自分を見る3人が、明らかに顔色を変えていることに気づいた。
「え、…っと」
わけが分からない紫乃だったが、続く三人のセリフはぴたりと一致していた。
「まずいな」
「まずいわね」
「うん、ちょっと、良くない」
「え、ええ?」
さっきまでは紫乃を安心させようと、どこか和やかな空気を保ってくれていた先輩が急に雰囲気を変えたのを見て、紫乃は狼狽した。
(私、何かまずいことを言ってしまったんだろうか)
「今日何日だっけ」
「九日だよ」
「総会は―」
「今週末」
「どうする、巽君に―」
「駄目、生徒会が動いちゃう」
「全中連よりマシなんじゃ」
「だから、生徒会からそっちに情報が流れるって」
「ばれたら、どうなるのかな」
「やっぱり記憶操作?」
「いや、それならまだマシだ。最悪―」
「ちょっと!」
急にざわついた二年生のテーブルを、周囲の部員も怪訝そうに見ていたが、紫乃はその中で泣きそうになっていた。
(どうしよう。軽い気持ちで噂のことを確かめようとしただけなのに…)
助けを求めるようにかずいの方を見た紫乃は、ひっ、と、息を詰まらせた。
そこにいたのは、人間の形をした何かだった。
かずいの目は、半眼に開かれていた。
その顔に、表情はなかった。
能面のような、蝋人形のような、無機質の顔。
半分しか見えない眼球は、机の上の花瓶を見ているようで、しかし、この世のどこをも見ていないように、虚ろだった。
闇だ。
濃茶の虹彩の奥、瞳孔の形をした闇が、世界を覗いている。
(この人は、一体…)
「今」
それまで瞬き一つしなかったかずいの瞳が、初めて紫乃の姿を捉えた。相変わらず視線は合わせなかったが。
「その友達がどこにいるか、わかるか?」
その瞳には、もう先程までの不穏な気配は感じられなかった。
「は、い。優香は書道部なんですけど、今日は、図書委員会があるから、きっとそっちに行ってると、思います」
「その子に前に会ったときは、まだ能力が発現してなかったんだな。その時、何か違和感は感じなかったか?」
「いえ、全然、普通、でした。…だったと思います」
「それはいつ頃?」
「え、っと、先週の日曜日、です。家の近くで、たまたま」
とぎれとぎれに搾り出されたその声を、かずいは僅かに顎を引いて飲み込むと、机に両肘をつき、顔の前で手を組んだ。
そこに、衛の声がかかる。
「かずい」
「ああ」
議論が片付いたらしい、三人がかずいに視線をやった。衛の口調は、普段と変わらない、穏やかさを取り戻していた。
「ちょっと行ってくる」
「衛。場合によっては―」
「分かってる」
少し逡巡した後、かずいは、衛の目を正面から見た。
「頼めるか」
「聞くな、友よ」
軽く頷き合う。
「深山は残ってくれ」
「うん」
「あたしは行くわよ!」
噛み付くように言う藍。
「知ってるよ」
「……少しは心配しなさいよ」
「お前の心配は、衛がする」
「え、うぇ!?」
「何かあったら、携帯にかけろ」
「…あ、うん」
「よし。行くよ、紫乃っち」
衛が紫乃の肩に手を置き、立ち上がった。
「え、あの、えぇ?」
急な展開に、紫乃は全くついていけてなかった。
その時、つかつかと、衛達に歩み寄る人物がいた。部長の太刀川夕だ。
「何だ、お前ら、今日はあがりか?」
「はい。事情はかずいに聞いてください」
一瞬だけ、かずいが衛を睨みつけた。
「わかった。言っておくが、間柴に危ない真似をさせたら、……わかっているだろうな」
「だ、大丈夫っすよぅ」
「間柴」
「は、はいっ」
長身の夕から鋭い目で射すくめられ、紫乃の体が硬直する。
「事情は知らんが、この馬鹿共は、そこそこ役に立つ。せいぜい利用してやることだ」
「はぁ、その。はい…」
どうやら自分は心配されているらしい、と、どうにか紫乃が理解した時には、藍に手を握られていた。
「では部長、奥月衛、以下三名、本日はこれで上がらせていただきます!」
「うむ」
「え、うえぇぇ?」
そうして衛と藍、紫乃の3人は、美術室を飛び出して行ったのだった。
……。
…………。
バタバタとした衛達のやり取りに、にわかにざわつく美術部。
「私、ついていかなくてよかったのかな」
三人の背中を見送ると、しずりがかずいに問いかけた。その表情はどこか楽しげだった。笑顔が溢れそうになるのを堪えているような。
かずいはちらりとしずりを見やったが、すぐに視線を逸らす。
「ああ、危なくなるかもしれないからな」
「ふふ。日野君、優しいもんね」
「……」
「それで、私達はどうするの?」
「話を整理したい。聞いてくれ」
「はーい」
そう言って、しずりはテーブルを回り、かずいの隣の席に座る。
「まずは―」
「噂の広がり方を操作した人、だよね」
「…ああ」
……。
…………。