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「あのう、先輩たちは、亘田中学の多重能力者の噂って聞きましたか?」
ふわふわとした髪を後ろで二つに結わえた一年生の少女―間柴紫乃が、恐る恐るといった風に衛たちに問いかけた。
「なあに、それ?」
突飛な質問に、一同の首が傾げられる。
「やっぱり、まだ二年生には浸透してないんですね……」
どこか暗い調子で呟くように話す紫乃を不審に思いながらも、取り敢えず衛が先を促すと、紫乃はぽつぽつと語り始めた。
「先週くらいからだと思うんですけど、クラスの子達がよく噂してるんです。亘中では密かに能力開発の研究がされてて、こないだついに複数の能力を併せ持つ中学生の開発に成功した、って」
「能力開発?」
やはり訝しげな声で衛が聞き返す。
「亘中って、やたらと治安がいいので有名じゃないですか。私、いとこが亘中生なんですけど、何かやけに秘密主義っていうか、中々学校のこと教えてくれないんですよ。他の人も同じみたいで、だから、余計に変な噂が立っちゃうみたいなんですけど」
「うーん」
思い当たる節があるのだろうか、藍は少し考え込んだ。
一方、衛は明るい口調で言う。
「けど、能力開発なんて、大分前から色んなとこで言われてたろ。それにしたって根も葉もないっつって、結局下火になってたじゃん。何で今更そんな噂が?」
「周期的なものなんじゃないかな、そういうのって。ほら、新撰組ブームみたいな」
しずりも特に、気にする様子はなかった。
「あー、しずも言ってたもんね、今年は忍たまブームがどうのって」
「そうそう上級生と下級生が……ってちょっと待って藍ちゃん。その話はここじゃちょっと」
「??」
「噂ってんなら、ウチの学校に髪の毛の妖怪が住み着いて呪いを振りまいてる、とかの方が学校っぽくて良いよな」
「あ、それそれ! 今流行ってるよね。私の友達にも、見た人いるって。なんかね、C組の子が言うには……」
話が逸れ出した(というよりしずりが強引に舵を切った)のを察して、紫乃が慌てたように語気を強めて言う。
「じゃ、じゃあ! 先輩達は、多重能力って、あると思います?」
別の切り口から質問する紫乃に、これにはきっぱりと、衛が答える。
「いやあ、それはないんじゃない? 能力開発はともかく、能力研究に関しては、もうほとんど行き詰まってるんだろ。そんなんがありえるなら、もっと大きなニュースになるんじゃないかな」
「じゃあ、じゃあ、なんでそんな噂が立つんでしょう?」
「そりゃ、見たわけじゃないから何とも言えないけど、多重の能力に見せかけるだけなら、方法がないわけじゃないさ」
そういって衛は、既に洗われたポリバケツをひっくり返すと、底に溜まっていた水を作業台の上に垂らした。少し離れた位置でもう一度ポリバケツを振ると、一度目のものと合わせて大小二つの水溜まりが出来る。
「何するんです?」
不思議そうにそれを見る紫乃に、まあ見てな、とそっけなく言うと、衛はまず小さい方の水溜まりに、右手をかざした。
干上がるようにみるみると水溜まりは小さくなっていき、数秒で消えた。
それがどうしたのだ、と、既に衛の能力を見知っている紫乃は首を傾げる。
次に、衛は大きいほうの水溜まりに筆を立て、左手でそれを支えると、先程と同じように右手をかざした。すると、
ぴしっ。
と、針の折れるような音を立てて、一瞬で筆の端が凍りついた。
「えっ」
まるで手品を見せられたように、紫乃が身を乗り出す。
衛が左手を離しても、筆は倒れなかった。
「え? ええ!? 何したんですか、今? 凍結能力? でも、奥月先輩、放熱能力者のはずじゃ…。ま、まさか、奥月先輩も…」
「はっはっは。今ごろ気づいたのかね、紫乃君。そうさ、俺こそが、噂の多重能力者だったのだよ!」
「な、なんだってー!」
「奥月! からかわないの」
にやにやと笑う衛を、藍がたしなめた。
「だから、言ったろ。見せかけるだけなら、って。トリックだよ、トリック」
「トリックって、でも、どうやって…。あ、わかった、今のしず先輩でしょ。私、しず先輩の能力だけ、見たことないんですよ。奥月先輩が手を出したタイミングで、しず先輩が横から能力使ったんだ!」
どうだ、と息巻く紫乃に、しずりは困ったような笑みを向ける。
「うん、それも、多重能力者に対する一つの答えなの。別々の人たちで、一人の人が能力を使ってるように見せかける。でも、ごめんね。今のは違うの」
再び途方に暮れる紫乃。
流石に可哀想に思ったのか、衛がおどけた口調で切り出した。
「種明かしといこう。それでは解説の日野先生、お願いします!」
「あん?」
のそりと顔を上げたかずいに、びくっ、と紫乃の肩が震える。
「あー、だから、相転移の気化熱でな…」
「そーてんいのきかねつ」
鸚鵡返しに紫乃が呟く。
「そ。そういうこと」
「蒼天衣の鬼火熱??」
「なんかかっこいいな!」
「いやいやいや」
「かずい。それだけで分かるわけないじゃない。あんたは一言も二言も三言も足りない、っていっつも言ってるでしょ。私……じゃなくて紫乃ちゃんにもわかるようにちゃんと解説しなさいよ」
ジト目で睨みながら藍が言う。
一方ますます混乱する紫乃に、見かねたしずりが助け舟を出した。
「えっとね、まず奥月君の能力は、そもそも放熱じゃなくて、湿度操作なの」
「え、そうだったんですか!? ずっと勘違いしてました」
「そ。『サマー・タイム』っつってな。まあやってることはドライヤーと変わんないし、普段は区別する必要もないから、いちいち説明もしてないんだけど」
「でも、それでどうやって凍結能力みたいなことを?」
えっとね、と、前置いて、しずりは話始める。
「紫乃ちゃんも、その内理科の授業でやると思うけど、液体が気体になったり、固体になったりすることを、相転移っていうのね。それで、液体が気体になるときにはエネルギーが必要で、その熱量のことを気化熱っていうの」
「???」
「多分だけど、さっき奥月君は、水の周りの空気の湿度を、一瞬で高い数字に切り替えたんじゃないかな。湿度っていうのは、空気中に含まれる水蒸気の割合のことでしょ。だから空気が一瞬で水を吸い上げて、その時の気化熱で残った水が凍りついた…んだと思うんだけど…」
最後が少し自信なさげなしずりの説明だったが、
「ううう」
紫乃の混乱は収まる様子がない。
「ていうか奥月、あんた自分の能力なんだから自分で解説しなさいよ」
「テレビをつけるのに、リモコンの仕組みを知る必要はない」
「あんたもわかってなかったんかい!」
えぇっと、と、しずりが次の言葉を探していると、不意にかずいが口を開いた。
「打ち水ってわかるか。夏場、道路に水を撒いてるおばさんがいるだろ」
「あ、はい。ちょっとだけど、ひんやりして気持ちいいやつですよね」
「それのすごい版だと思えばいい」
「す、すごい版…」
「要するに、能力ってのはただの『力』なんだ。使い方次第で見えるものも違ってくる。これが多重能力に対する答えの一つ、ってことだ」
「はあ。分かったような、分からないような」
困り顔で言う紫乃だったが、気持ちを切り替えるように、かずいの方に身を乗り出した。
「えっと、じゃあ、とにかく日野先輩も、多重能力者はいないと思ってるってことですか?」
かずいは大して興味がある風でもなく、紫乃に目を合わせないままに言葉を返す。
「そりゃ分かんないさ。存在することの証明は出来ても存在しないことの証明は出来ない」
「ええー…?」
かずいはそれ以上、語るつもりはないらしい。おろおろとそれを見つめる紫乃に、苦笑しながら衛が問いかけた。
「それで、紫乃っち? やけに気にしてるみたいだけど、その亘中の多重能力者ってのが、どうかしたわけ?」
はっとした顔で、紫乃が衛を見た。
「何か気になってることでも、あるんじゃない?」
「それは、その…」
「あ、別に言いたくないなら無理しなくていいのよ? ただ、悩み事なら、誰かに話しただけでも、大分違うと思うし」
藍も反対側から、心配そうな顔を向ける。
三人の様子を、こちらも心配そうに、しずりが見守る。
かずいは、ただ無表情に花瓶を見ていた。
「亘中のことは、本当はどうでもいいんです…」
やがて意を決したように、紫乃は話の口火を切った。
「うん?」
「私の友達のことなんです」
「紫乃ちゃんの? それって、橋中の人?」
「はい。その子が、その…」
そこで一度、紫乃の言葉が途切れた。
「その子が、自分も多重能力者だって、言ってるんです」
……。
…………。
紫乃がその噂を聞いたのは、金曜日の昼休みだった。
―亘中の多重能力者が、開発された能力者を率いて他校を侵略しようとしているらしい。
その時の紫乃は、ようやく目覚めた自分の能力に夢中になっていた時だった。
彼女の能力は『メリー・ウィドウ』。属性は『森』。
1メートル程の大きさまでであれば、どんな生物でも、彼女の意のままに操ることが出来る能力である。
意のままとはいえ、100%行動権を握れる訳ではない。生存本能に反するような命令は出来ないし、身体の構造を無視した動きも出来ない。ついでに言うなら、一度に操れる生物は一体まで。多くの傀儡能力者が特定の生物を同時に複数操れるのに対し、紫乃の能力は汎用性に傾いた仕様をしているらしい。
その時も紫乃は、たまたま窓の外に見えたカマキリに、ムーンウォークをさせて遊んでいた所だった。
多重能力者。
他校生による侵略。
その突飛な内容を、紫乃はまず、笑って受け入れた。冗談だとしか思えなかったのだ。
一人の中学生に、能力は一つ。
ちゃんと勉強している人なら、常識だ。
大体、侵略って(笑)。
海の家にでも行けばいい。
家に帰る頃にはもう忘れていたし、休みの間中も、思い出すことはなかった。
しかし、週明けの朝、クラス内で知らない人はいない程、その噂は蔓延していた。教室に入って自分の席についた途端、昨日とは別の人から同じ内容の話を聞かされた時は、またその話か、と、紫乃も少し辟易としたが、そのクラスメイトの深刻そうな顔に、流石に違和感を覚えた。どうやら彼女がその噂を本気で信じていること、そしてそういう人が、決して彼女だけではないのだということを知るにつれ、不安は増していった。
ありえないとは思う。だけど、
―ありえないなんてことはありえない。それが中学校なんじゃないの。
友達の言葉が耳に残る。
亘田中学校と言えば、秘密主義なことで有名だ。恐らくそんな事情も、噂に味方してるんだろう。だけど、それだけでこんな突飛な噂が信憑性を持って飛び交うだろうか?
悶々として午前の授業を受けた紫乃は、昼休み、一人の少女に声をかけられた。
長身の、さらりとした髪をそのまま背中まで伸ばした美貌の少女。
(優香)
紫乃の幼馴染の、柏木優香だった。小学校ではずっと同じクラスだったが、今年から、クラスが別れてしまった。最近は、少し疎遠になっていたのだが。
(ちょっといい?)
彼女に手を引かれ、紫乃は中庭の隅まで連れてこられた。
人気は殆どない。
教室からここまで、二人は無言だった。紫乃から声をかけようにも、久しぶりに言葉を交わす幼馴染は、今まで見たこともない顔をしていて、紫乃は言い知れぬ不安に、上手く言葉を紡げなかった。
(優香、どうしたの? もうすぐ5限始まっちゃうよ)
恐る恐る切り出す紫乃に、優香は眼光も鋭く、問い返す。
(ねえ、紫乃。例の噂、もう聞いてる?)
(噂?)
(亘中の開発能力者が、うちらの学校に攻め込んでくる、って。)
紫乃は愕然とした。
噂が悪化している。
(何言ってるの、優香。そんな馬鹿なこと、あるわけないじゃない)
果たして自分の声が震えていなかったか、紫乃には自身がなかった。
(馬鹿なことじゃない。紫乃。もう藤見はやられてるんだって)
(そんな。私、そんな話聞いたことない)
(大っぴらにはされてないの。でも今、藤見中は亘田に乗っ取られてる。次はウチなんだって)
この子は何を言ってるんだろう。紫乃には目の前の少女が、まるで初めて見る人であるかのように感じられた。
(乗っ取り、って、何それ? だって、私達中学生だよ? いくら強い能力者がいるからって、学校の自治権が生徒にあるわけじゃない、のに…)
そこまで言って、紫乃は自分で気づいた。
(まさか、生徒会を?)
こくり、と優香が頷く。
橋町中学では、生徒会に校内の治安維持活動が認められている。そしてそれは生徒会長が校内最強の能力者であるという事実によって成り立っているのだ。
(亘田の学区の治安が異様にいいのは知ってるでしょ。向こうの生徒会も、うちらのトコと似たような感じなんだって。あいつらは、能力者を使って、自分達に反抗する人を徹底的に弾圧してるんだ。隣の藤見中はあいつらに能力者勝負で負けた。今、藤見の治安維持は、亘田の生徒会が牛耳ってる)
(で、でも、部活の先輩が言ってたけど、うちの生徒会長って、すっごく強いんでしょ。名前は忘れちゃったけど。その人なら…)
(巽先輩でしょ。優香、知らないの? いくら強いって言ったって、その人、剣を操るだけなんだよ? そんなの、多重能力者に勝てるわけないじゃない)
確かに、紫乃は自分の眼で生徒会長の能力を見たわけじゃない。でも、剣を操るだけ? 確かに、最強の能力者と聞いて紫乃が想像していたのとは大分違う。もっとこう、時を操る的なやつなのかと思っていたのだ。いや、今はそれどころではない。
(待ってよ、優香。そもそも、能力開発とか、多重能力とか、それこそありえないよ)
なんとか彼女の話を否定する材料を見つけたかった。
しかし優香は、ゆるゆると頭を振る。
(ううん。能力開発は分からないけど、多重能力者はいるんだ。ありえるんだよ)
(優香ぁ)
紫乃はもう、泣きそうになっていた。
(嘘じゃない。だって私も、多重能力者なんだから)
(え?)
(見てて)
そう言って、優香はその場に屈みこんで、右手を地面に付けた。
づん。
鈍い音を立てて、右手の周りに不自然な隆起が出来る。
(優香?)
今のは、土石操作だ。いや、ひょっとして身体操作の怪力? でも土石操作なら『山』の、身体操作なら『肉』の、それぞれありふれた能力だ。しかし、次の瞬間、
ふっ、と息を吐いて、優香の姿が消えた。
(ええ!?)
(こっち)
頭の後ろから声がかかった。
振り向くと、相変わらず怖い顔をして、優香が立っている。
いや、でも少し、頭の位置が高いような…。
(浮いてる…!?)
優香の足は、地面から3センチ程離れて浮いていた。
(瞬間移動に、空中浮遊…)
どちらも『空』の能力だ。
(優香、あなた…)
優香は、ふわりと地面に足をつけると、次に、右手の人差し指を紫乃の指先にくっつけた。
(?)
何をされているか分からない紫乃だったが、やがて違和感に気づく。
(動けない…)
指先一つ、動かすことが出来なかった。さらに、
(えっ!?)
紫乃の右腕が、一人でに持ち上がった。
他人の体を支配する。これは、『霊』属性の能力だ。
(わかったでしょ。これが私の能力、『ヴィルヘルム・テル』)
優香の指先が離れると同時に開放された紫乃は、それでも言葉を継げなかった。
(ねえ、紫乃。私、戦う)
(た、戦うって)
(亘田中は、明後日にはもう攻めてくる。それなら、私、戦う。私なら出来る)
(だ、駄目だよ、そんなの! 危ないよ! せ、先生に言おう? ね? 他の人に任せようよ、優香ぁ)
(大人なんかあてにならないよ。第一、剣を振り回すだけの能力者に負けたんだよ? きっと偉そうなこと言って、教員だって大したことないんだ)
紫乃は、その時、優香が自分を見ていないことに気づいた。顔はこっちを向いてる。視線も合ってる。なのに、自分と向かい合ってない。
遠い。
もどかしい程に、遠かった。
いつの間にか、幼馴染は自分とは違う世界の生き物になってしまった。けど紫乃には、その距離を飛び越える方法が分からなかったのだ。
……。
…………。