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中学生戦記  作者: lager800
第一章 新しい生活にも慣れた頃
6/30

5

「はあぁ…」


 重い溜息が、傷だらけの木製テーブルと、テレピン油の臭いの中に吸い込まれた。

 特別教室棟の三階。その一番奥にある美術室は、放課後、美術部の部室兼アトリエとして使われる。

 今、八つの作業台にはそれぞれ中央に花瓶に生けられた花束や、果物の乗った籐籠などが一つずつ置かれ、その周りを、何人かの生徒達が囲んでいた。生徒達はみな厚手のエプロンや、サイケデリックな染みが目立つ白衣を制服の上から身に付けており、それぞれの手には、スケッチブックと絵筆がある。テーブルに置かれたいくつかのプラスチック製のバケツは、中が三つに区切られ、カーキ色に濁った水がなみなみと入っている。

 熱心に絵筆を走らせる生徒達の中、未だにクロッキーすら完成していない生徒が、一人だけいた。

 所々に絵の具の染みがついた作業台に右頬を押し付け、もじもじと鉛筆を動かしている少年。

 日野かずいだった。

 彼の顔は苦悩に彩られ、吐き出す吐息には痛ましい悲しみが滲んでいる。黙々と絵を描く生徒達の息遣いでさえ聞き取れる程の、緊張した静寂が、放課後の美術室を包んでいた。


「……そのラインを越えないことだ」


 その静寂に小石を投げ入れるように、ぽつりと誰かが呟いた。

 びくっ、と、かずいの肩が震える。

 作業台を挟んだ彼の向かいの席には、にやにやと笑う美男子の姿がある。

「いやぁ、かっこよかったなーかずい君。『ここは中学校だ。いつまでも小学生気分じゃ、痛い目見るよ』」

 ぷふっ、と、隣の席の少女が吹き出した。

「んぐぅ」

 かずいは顔を俯けたまま、唇を噛み締める。

 良く見てみれば、美術室内の生徒は皆、絵筆を握りながらも、時々肩を震わせて、必死に笑いを堪えている様子だった。

「いやー、みんなにも見せてやりたかったなー、ほんと、かっこよかったんだから、かずい君。俺が女子なら惚れてたね。せめてそのかっこいい台詞だけでもみんなに伝えるのが、その場にいた俺の使命だよなー」

 白々しい声で、向かいの席の美男子―奥月衛は喋り続ける。

 その手のスケッチブックには、既に色鮮やかな春の花が咲いている。今にも匂い立ちそうな花の影に薄い青を足していた手を止めて、衛は溜めもたっぷり、厳かに言い放った。


「『そのラインを、越えないことだ』。キリッ」


 その瞬間、美術室が爆笑に包まれた。

「だっはっはっはっはっはっはっはっはっは」

「あはっ、あははははは。は、は。はぁぐっ。げほっ、ごほっ」

「レイリー? レイリーなの!?」

「やめてよー、もー」

「惚れてまうやろー!」

「ねー、ちょっとやってみせてよ、日野君」

「日野せんぱーい」

「そのラインを、越えないことだ!」

「いぃーやぁーん!」


 橋町中学校の美術部は部員二十数名からなる、この学校の中では中規模の部活だ。

 男女比は1:4。

 顧問の教員が放任主義なこともあり、基本的には好きな時に集まって各自好きなことをする自由度の高い部活だが、毎週月曜と木曜は、集会と称して部長がテーマを決め、全員でその課題に取り組むのが通例だった。

 本日は5月の第二月曜日。

 テーマは水彩画でモチーフは静物、と部長の太刀川夕からお達しがあったのは、帰りのHR直後の事。しかしそれと同時に、肝心のモチーフが足りない、ということで、平部員のかずいと衛は、どこかから花瓶と生花を貸して貰うようにと命じられてしまった。

 何故二年生の俺達が、と抗議する衛に、部長の言いて曰く、

「今年の一年はみんな女の子だから、君達のヒエラルキーの位置は変わらない」

 とのこと。

 女尊男卑の文化部にはよくあることである。

 渋々と放課後の校内を彷徨く二人は、確か保健室に生花が飾ってあったはず、と、別館に足を伸ばした。そしてその途中で、運悪くガラの悪い一年生に絡まれてしまったのだ。何とかその場を切り抜けた二人は、たまたますれ違った巽恭也に後始末を丸投げし、大きく迂回して保健室に向かうと、昼寝をしていた保健医に置き手紙を残して、無事花瓶をかっぱらって来ることに成功した。

 しかし、かずいにとっての真の敵は身内にこそいたのだ。かずいは先程から一年生をあしらった際に用いた小芝居についてさんざんからかわれた挙句、部員全員の前で決め台詞を大暴露されるという苦行を味合わされているのだった。


「それにしてもあんたら、一年生にカツアゲされるとかどんだけ舐められてんのよ」

 笑いすぎて目尻に涙を浮かべた藍が未だに余韻の抜けきらない表情で言う。

「うるさい。俺は平和主義なんだ」

 言い返されたその言葉には、明らかに力がなかった。

「へえ、それで? 平和主義者のかずい君は、口先だけのはったりとインチキで下級生を騙して、一目散に逃げてきたと?」

「…仕方ないだろ、喧嘩なんて出来るか、蓮でもあるまいし。大体衛が隣で変な顔して笑い堪えてたから、俺があいつらの相手しなきゃいけなくなったんじゃないか」

 恨みがましく衛を睨め上げるかずいに、衛がにやけ顔を崩すことはなく、

「いやー、カツアゲする不良なんて久しぶりに見たから、何か微笑ましくってさ。それに、俺が本気で相手したら、流石にあの子達も可哀想でしょうよ」

「まあ、中学生で空手二段なんて、身体強化能力持ってんのと変わんないわよね。ていうか、かずい。偉そうなこと言って、あんた結局最後は奥月の能力頼りだったんでしょ。情けなさにフォローの余地がないわ」

「ふぐっ」

「まぁまぁ御子柴。俺の能力あんな風に使うの、かずいくらいだぜ。それにかずいなら、ちゃんと自分の仕事をこなしてくれたさ。俺じゃとても、ぶふっ。あ、あんな台詞は出て来ない…」

「こ、の…」

「あ、あの!」

 割って入ったのは、先程からおろおろと三人の様子を見比べていたしずりだった。

「と、とにかく、二人とも、無事に済んでよかったよ。うん。あんまり遅いから、心配したんだよ?」

 両手を握り締め、あわあわと言うしずり。その表情からは、本気で二人を気にかけていた様子が伝わってきた。

「深山…」

「あぅ…。そ、それに、日野君は、頭脳労働の人なんだから。確かに、いじめられやすそうな顔してるし、駆けっこで藍ちゃんに負けちゃうこともあるし、さっきの台詞は正直どうかと思うけど、そんなこと、全然、気にすることないんだから」

「ぐふっ」

 それきり、かずいは動かなくなった。

「しず、あんた…」

「え、あれ? 日野君?」

 ……。

 …………。


「おーら、お前ら! 日野いじりも構わないけど、手が止まってるよ!」

 長い黒髪を後頭部で丁寧に結った長身の女生徒が、手を叩きながら、その少しハスキーな声を張り上げた。

 つかつかと、かずい達の作業台に歩み寄る長身の女生徒。

 美術部の女帝、太刀川夕である。

「深山は…、大分色使いが大胆になってきたな。それが終わったら、頑張ってもう一枚描いてみなさい」

「はい、部長」

「御子柴はもっと下書きを丁寧にやりなさい。明らかにパースがおかしいでしょう」

「えぇっ。そ、そんなにおかしい、で、……ですよねーすいません」

「日野! お前に妄想癖のあることぐらい皆知っている! いつまでもいじけてないで一作ぐらい仕上げなさい!」

「うっ……、アイ・マム…」

「そして奥月! お前は私の作品を乾かしなさい」

 一通り部員の作品を睨みつける(品評する)と、夕は衛の襟首を掴んで引っ立てた。 

「ちょっと、部長! だから俺をドライヤー替わりに使うの止めてくださいってば!」

 虚ろな目でスケッチブックに向き合うかずいと、ずるずると引きづられていく衛。

「黙れ、愚か者。この所連続で集会をサボった罰だ。きりきり働け」

「締まってる! 締まってます、部長! サボったっつったって家の手伝いなんだから仕方ないじゃないですか!?」

「あ、夕、次こっちにも貸してちょうだい」

「こっちもお願いしまーす」

「まもちゃん、それ終わったら水貼りお願いしていい?」

「お前ら、順番決めとけ。最初は私だ」

「まさか俺が今日来るの分かってたから課題を水彩に!? ていうか南野先輩、そんなでかい水貼りして何に使うんですか!?」


 この部活においては、男子が女子に逆らうことは出来ない。衛はげんなりしながらも、なされるがまま、ヒエラルキーのトップに君臨する女生徒のいる作業台に引きずられて行った。

 台には青いチェックのクロスが敷かれ、白磁の皿とワインボトル、皿の上にはレプリカの果実が置かれている。どうやらその台で描き終わっているのは部長の夕だけのようだった。その、まだしっとりと湿った絵の上に、衛が手をかざす。

 みるみると、紙が乾いていった。

「うむ。ご苦労」

「お力になれて光栄です。部長」

「奥月くーん、次こっちねー」

「少々お待ちください、お嬢様」

 慇懃なセリフを、まるで敗戦奴隷のような声で口にしながら、衛は次の作業台へと向かった。


 しばらくはがやがやと、あるいは黙々と、各人作業に没頭する時間が続いたが、それが一段落すると、全体に弛緩した空気が満ちてきた。ノルマは一人一作なので、それを仕上げしまえば、あとはいつも通りの自由時間だ。

 ようやく解放された衛が自分の席にどっと倒れ込むと、そこで手を動かしているのは、最早しずりだけだった。そのしずりにしても、あまり熱心な様子は見えない。おしゃべりの合間に手を動かしている。そんな感じだった。

「お疲れー、大変だったわね、奥月。絵、出しといたわよ」

 藍がにこにこと迎え入れる。

「さんきゅー。全く、ドライヤーくらい部費で買っとけよなあ。うぉっ。かずい? 何だそれ?」

 自分の向かいの席に広げられた絵を見た衛が、ぎょっとした声を上げる。そこには、暗褐色に彩られた鉄さびのような花が異様な精緻さで描かれていた。モチーフの花瓶をひと月ほども放置すれば、このような姿になるだろうか。

 当のかずいはと言えば、額を机に押し付けて、再び静止した世界に埋没していた。

「全く、呆れるわよね。何で水彩でこんな絵が描けるのかしら」

 呆れた声で、藍がそれを見下ろす。

「ま、まあまあ。別に写実画とは言われなかったし。何ていうか、その、個性的というか…、ええっと、た、頽廃的?」

「しず、無理にフォローしようとしなくていいから」

 心配そうな顔で覗き込むしずりだったが、かずいはぴくりとも動かない。

「何か、途中から無意識に能力使って描いてたみたいなのよ、そいつ。気づいた時にはもう大分描き進めちゃってたから、諦めてそれで描ききることにしたみたい」

「こ、怖いです、日野先輩…」

 同じ作業台を使う一年生の女子が、怯えた声を漏らした。

「大丈夫よ、紫乃ちゃん。近づかなければ害はないから」

 いや近づいたって害はないだろう、と衛は言いかけて、やめた。説得力がなさすぎる。


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