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「怪我はないか、姶良」
すっかり顔を青褪めさせた巨漢の不良生徒を後ろ手に拘束しながら、その低い声音をほんの少しだけ緩めた恭也が、目をぱちくりさせる小柄な女生徒に声をかけた。彼の持っていたバタフライナイフは既に押収してある。
「うん。だいじょぶだよん。ありがとね」
「すまん。手を封じてから、氷を溶かすべきだった」
「いーって、いーって。何ともなかったし」
手をぱたぱたと振りながら、小柄な少女は立ち上がった。
「お疲れ様です、巽先輩」
そう言いながら恭也に歩み寄るメガネの女生徒の手には、いつの間にか通常の5倍はあろうかという、巨大なセロハンテープが握られていた。巨漢の不良を拘束しようとした少女を、恭也は手で制した。
「先輩?」
恭也は、床に倒れたまま動かない痩せぎすの不良生徒と、その床に広がる水溜まりを指差す。
「せっかくだ。危険物所持の罰として、こいつにはこの場の清掃をしてもらおう。俺はこっちの1年を保健室に連れていく。如月、済まないがこいつを監督していてくれるか。終わったら指導室に連れてきてくれ」
そう言われたメガネの少女には、戸惑いの色がありありと浮かんだ。
「清掃、ですか? 私は構いませんけど、罰としては軽すぎるのでは?」
痩せぎすの少年を背負いながら、恭也が答える。
「まあ、彼らも、慣れない環境に分からないことも多いだろう。まだ一回目だし、今日はそのぐらいで済ますさ。先生には、彼がナイフを所持していたことは、伏せておいてくれ」
「い、いいんですか?」
「まーまー、生徒会長がいいって言ってるんだからいいじゃない」
陽気な声で、小柄な少女がメガネの少女の肩を叩く。そして、くるりと向き直ると、僅かに声を低くして、巨漢の少年の顔を覗き込んだ。
「君もこれに懲りたら、不用意に生徒にちょっかいかけないこと。日野君とか恭也みたいに、優しい人ばっかじゃないんだからね?」
「は、はい…」
彼の目は既にうるうると涙が滲んでいた。
「私は、少し甘すぎる気がしますが…」
「大丈夫だって、そこが恭也のいいところなんだから」
「姶良。無駄口を叩くな。行くぞ」
「照れるな照れるなー、さっきの、かっこよかったよん」
「………」
「ちょっと恭也!? 何で人一人抱えてそんなに早く歩けるの!? ち、ちょっと、ちょっと待ってったら、ねえ!」
……。
…………。
河咲市立橋町中学校には、三つの校舎がある。
一つは一年生から二年生までの教室が並ぶ、本館。
次に、三年生のクラスと、職員室や応接室などのある、別館。
最後に、美術室や音楽室などが集められた特別教室棟、通称三館。
その二番目―別館の最上階に、生徒会室はあった。
その日の業務を終え、生徒会自体は既に解散となっていたが、そこにはまだ三名の生徒が残っていた。
短く切りそろえられた髪、整った顔立ちに鋭い眦の男子生徒。
生徒会長―巽恭也。
ふわふわのボブカットをした小柄な少女、
副会長―姶良咲。
すらりとした長身に、背中まで届くポニーテールとメガネ姿の少女、
書記―如月絢香。
三人はくっつけられた二脚の長机を囲み、茶菓子を広げ、湯呑をすすっていた。恭也の手元には黒い表紙の薄いファイルがある。彼は時折それを捲りながら、湯呑に口を付ける。
「今日はお疲れだったねえ、恭也」
だらしなく机に突っ伏しながら、恵美が口を開いた。
恭也は黙々と、ファイルを眺めている。
「昼間、久城先輩と決闘したばかりだったのに、放課後は捕物が二件連続でしたからね」
一口カステラの包み紙を破りながら喋る絢香の声色は、どこか楽しげだった。
あの後、指導室に連れてこられた巨漢の少年は、顔を泣き腫らしながら、もう馬鹿なことはしない、と固く恭也に誓いを立てた。痩せぎすの少年には、明日の放課後に、職員用トイレの清掃を命じられた先輩がいるから、彼に指示を仰ぐようにと伝えてある。彼もすっかり消沈した様子で、大した反抗もなく項垂れたまま指導室を出ていった。
そしてその後、教員への申し送りを終え、しばらく経った頃、またしても一年生の生徒が問題を起こしたという連絡が入ったのだ。幸いにも既に問題は解決しており、事情聴取だけで片はついたのだが、二件続けてイレギュラーな事件が起きたおかげで通常業務がすっかり滞ってしまい、やっと生徒会を解散した時には、既に空が薄い橙に染まっていた。
自分はもう少しやることがある、という恭也に付き合う口実で、二人の少女は遅めのティータイムを満喫しているのである。
「あやりんは大袈裟だねー、『決闘』なんて。あんなのただの喧嘩でしょ、ねえ恭也?」
その言葉に、そんな、と顔を顰めた絢香だったが、直ぐに何かを期待するような目で恭也に視線を送る。話を振られた恭也はファイルを手元に置くと、迷惑そうな顔で湯呑を口に運んだ。
「確かに『決闘』と言われると少し口幅ったいが、お前の言い方は癪に触るな」
咲はにやにやと笑いながら、カステラを頬張る。
「なぁに言ってんの。いつものことじゃない」
「うるさい。大体何なんだあいつは。今思い出しても腹が立つ。どうして俺があいつの明日の昼飯を用意してやらなきゃいけないんだ」
ガタッ。
絢香の椅子が音を立てた。
「巽先輩が久城先輩に手作りお弁当を!?」
「て、手作り弁当とまでは言ってないぞ、如月。あいつが俺のせいで今日の昼飯がなくなったと喚くから仕方なく……」
「………」
「まーまー、それについては、恭也だって悪かったと思ってるんでしょ? それに久城君、負けた時はちゃんとこっちの言うこと聞いてくれるじゃない。たまにはお昼ぐらいご馳走して、ちょっとは仲良くしてみたら? …って、あやりん? どしたの、顔赤くして?」
「な、何でもないです…」
「『生徒会長』が『問題児』と仲良く出来るはずがないだろう。大体それでなくともあいつは気に入らないんだ。あいつのせいでどれだけ俺の時間が無駄に浪費されて来たか…」
「でも、今日の一年生君の罰掃除、久城君に任せたじゃん。信頼してる証拠でしょ?」
「勘違いするな。あいつは勝負に負けて約束したことだけは律儀に守るからな。生徒会だって人手が余ってる訳じゃない。体よく利用させてもらっただけだ」
「ぶふぅっ」
「あやりん!?」
「お、おい、如月。鼻血が出てるぞ。大丈夫か?」
「大丈夫です無邪気攻め×ツンデレ受けありがとうございます!」
「あやりん、君が何を言っているのかわからないよ?」
……。
…………。
「と、ところで、一つお聞きしたいんですが」
心配と怪訝を足した複雑な表情でこちらを伺う二人の先輩の視線を断ち切るように、絢香は話を切り出した。その顔はまだほんのりと赤い。
「日野先輩、というのはどういった方なんですか?」
「日野君?」
きょとん、と、咲が小首を傾げる。その手には本日3つめのカステラの包み紙。
「はい。どうやら、二件目のいざこざにも、その方が間接的に関わっているようだったので…」
「うーん、どう、って言ってもなあ。普通の子だよ? ちょっと無愛想だけど、別にクラスで浮いてる感じじゃないし。まあ、能力者としてはかなり珍しいらしいけど…。どっちかって言うと、いっつも隣にいる奥月君の方が、目立つタイプだよね。何であの二人が仲良いのかわからない、って、クラスの子達も、よく噂してる」
もぐもぐと咀嚼しながら喋る咲の言葉を、絢香は拍子抜けしたような顔で聞いていたが、ふと、向かいに座る恭也が、先程までとは打って変わった深刻そうな顔をしていることに気づく。
「巽先輩?」
「恭也?」
咲もそれに気づいたか、菓子盆に伸ばしかけた手を止める。
二人の声にもしばらく恭也は反応を示さなかったが、やがて両肘をテーブルにつき口元で両手の指を組むと、おもむろに口を開いた。
「せっかくだ。二人には今のうちに話しておこう」
その真剣な声色と裏腹に、その顔には、何処か決心の付ききらないような、戸惑いと葛藤の入り交じった表情があった。
「俺が生徒会長としてこの学校の風紀を取り締まるにあたり、警戒している人物が三人いる。内二人は当然、久城蓮と栗原響だ。現在この学校で、単身で教員を相手取れる生徒は、俺を抜けばこの二人しかいない。そしてもう一人、俺が要注意と目している人物、それが、日野かずいだ」
「日野君がぁ?」
咲の声には、驚きよりも懐疑の色が濃い。
「そんなに、危険な人物なんですか?」
そう言う絢香も、少し疑わしげな表情だった。今日一度顔を合わせているが、彼が『問題児』二名と肩を並べる程の人間にはとても見えなかったのだ。
どちらかと言うと内気で、面倒事は極力避けようとする、絢香のクラスにも何人かいるような生徒と同じタイプのような気がした。実際、咲の言うとおり、隣にいたイケメンの先輩(奥月先輩、だったか。綺麗な苗字だ)の方が絢香にとっては印象に強い。
(それとも、彼にはよっぽど厄介な能力でも備わっているのかしら?)
「これは決して口外しないで欲しいんだが」
その声音を一層低くし、そう前置いた恭也は二人の少女の目を交互に見つめ、二人が頷くのを待った。
「日野は以前、1対1で栗原を打ち負かしたことがあるらしい」
二人の少女の顔に、今度こそはっきりと驚愕の色が浮かぶ。
「具体的な諍いの原因も、それがどんな内容だったのかも分からない。だが、俺は栗原の口から確かに聞いたことがある。“自分は以前、日野と戦って負けたことがある”と」
「あの、日野君が…?」
「栗原先輩を…?」
「如月。お前、もし今から屋上に行って栗原を捕まえて来いと言われて、出来るか?」
絢香はぶんぶんと首を振って答えた。
「無理ですよ。というか、それが出来ないから、あの人は『問題児』なんじゃないですか。それこそ、巽先輩か久城先輩でもなきゃ」
恭也も同じように、しかしゆっくりと首を振る。
「残念だが、たとえ俺と久城が二人がかりでも無理だ。あいつが本気で何かをやろうとしてそれを止められる奴はいないし、あいつがやりたくないことを強要できる人間もいない。しかしそれを、日野はやったんだ」
まだ信じられない、という顔で、二人の少女は恭也の言葉を待つ。
「俺も去年一年、日野とは同じクラスだったが、あいつにそんな力があるようには見えなかった。栗原のことだって、最初は栗原が偶々気まぐれを起こしただけだと思った。しかし、時折日野は、一見無表情に見える顔で、何処か遠い場所を見ているように感じることがある。最初はあいつの能力のせいなんだろうと思っていたが、どうもそれだけじゃないような気もするんだ。まるで世界の終わりをじっと傍観しているような、どこまでも暗い目だ。恥を承知で言うが、俺はあいつの、あの目を見るのが怖い。きっと栗原も、あいつのあの目に負けたんじゃないかと思う。あいつがこの先、何をするかは分からない。もしかしたら何もしないのかもしれない。けど、もしもあいつが何かをやった時、きっとそれは、俺達の予想を遥かに超えた結果になる」
恭也の言葉はそこで終わり、しばらくは誰も言葉を発することが出来なかった。
橙の光が差し込む窓。
しんとした生徒会室に、長い影が伸びている。
「それで、日野先輩の能力っていうのは―?」
気まずい沈黙にいたたまれなくなったのか、恐る恐るといった様子で口を開いた絢香に、恭也は気持ちを切り替えたように、その口調を緩めながら答えた。
「ああいや、能力自体はそこまで危険なものじゃない。あまり褒められたことじゃないが、日野は特に自分の能力を隠してるわけじゃないし、お前にも教えておこう。あいつの能力は―」
……。
…………。