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ねずみ色のコンクリートが細く続く渡り廊下を、二人の男子生徒が連れ立って歩いていた。
一人は、170センチ程はあろうかという、中学生にしては高めの身長に、明らかに中学生らしからぬ格幅の良すぎる体格をした坊主頭。
もう一人は、だらしなく伸ばされた、一目で染色とわかる派手な茶髪に、痩せぎすの体躯と浅黒い肌。不健康そうな青黒い唇をくちゃくちゃと忙しなく動かしている。
どちらの生徒も細められた目がぎらぎらと不穏な光を宿し、背筋は丸く、不自然なガニ股、手はスラックスのポケットに収まっている。誰の目にも分りやすい不良スタイルで、二人の男子生徒は、ずんずんと渡り廊下を歩いていく。踵を履き潰された上履きは爪先のゴムが青色に染められ、彼らが今年入学したばかりの1年生であることを示していた。
二人が歩く渡り廊下は、体育館の壁を半週してから特別教室棟と中庭を横切り、各クラスの教室のある本館まで伸びている。半分を通り過ぎたあたりで、痩せぎすの方の男子生徒が特別教室棟からこちらに向かって歩いてくる、二人組の男子生徒に目を留めた。
一人はすらっと伸びた長身に遠目からでもはっきりとわかる美人顔。隣を歩くもう一人は、これといった特徴のない中肉中背で、その特徴のない平凡な顔を無表情に保ったまま、長身の生徒と何事かを話していた。二人の上履きは緑色。二年生だ。
浅黒い痩せぎすの少年は隣の巨漢の腕をつつくと、顎をしゃくって、自分達の横からこちらに向かって歩いてくる二人の男子生徒に目を遣らせた。
周りに人目はない。
二人の顔が見合わせられ、その唇が三日月の形に吊り上がった。
「あの、先輩」
日本語で正しく表記すると上のようになるが、実際なされた発音は「あのぉ↑、せんぱぁい」だ。
顔をにやつかせながら大股で近づき、痩せぎすは右の無表情男、巨漢は左の美男子の前に立ち塞がると、シンクロするように左右の柱に手をかけた。
美男子の顔が引き攣る。
「えーっと、何、君達、一年生?」
その声が震えていることに、巨漢の男は一層顔をにやけさせながら、あえて自分からは何も言わない。痩せぎすの少年はたっぷりと溜めを作ってから、相変わらず無表情を崩さない、しかしこちらに目線を合わせようとしない男子生徒に上目遣いで話しかけた。
「俺たちさ、(おれたちさぁ↑)入学したばっかでちょっと(ちょぉぉっと)お金に困ってるんだよね(こぉまってんだよねぇえ)」
くちゃくちゃ。
にやにや。
「悪いんだけどさ(わぁりんだけどさぁ)、可愛い後輩をちょっとだけ(ちっっっっとだけ)助けてくれないかな(たすけてくんねぇかなあぁぁぁ)?」
相手の表情は変わらない。俯いたままだ。
左手を、その、かすかに膨らんだ右ポケットに伸ばす。
やせぎすの少年は確信していた。
目の前のこの二年生は、これまで自分が食い物にしてきた連中と同じ人種だ。
教室の隅でじめじめと徒党を組んでは、恨めしそうにこちらを睨んでくる連中。それでいて自分たちにスポットライトが当たると貝のように口を閉ざし、一人では何もできない。そしてまた、蛞蝓のように暗がりに集まってはへらへらと湿った声で傷口を舐め合うのだ。
そんな連中から小遣いを巻き上げるのは簡単だった。奴らは奴ら自身がどんな人間かをきちんと理解しているし、それを搾取する側の人間―自分たちのような人間のことも熟知している。
ちょっと脅せばおずおずと金を差し出すし、抵抗するなら小突き倒せばそれで済む。
そして今、自分には新たな力がある。
中学入学と共に身に付けた、暴力以外に使い道のないこの力。
相手が上級生でも関係ない。羊の年を気にする狼などいないのだから……。
ぱしっ
乾いた音が、彼の夢想を打ち破った。
それが、自分の手が振り払われた音だと気づくのに、痩せぎすの少年は少し時間がかかった。
「行こう、衛」
無表情男は踵を返すと、美男子の服を抓み、元来た道を引き返そうとする。
「うおぉぉい、ちょっとちょっとちょっと、どこ行くのさせんぱぁい」
唖然としたのも束の間、痩せぎすの少年は、慌ててその後を追う。獲物が無関心を装って逃げ出したパターンに頭を切り替えると、無表情男の肩を掴んで強引に振り返らせた。
カツアゲは相手の心を折るまでが勝負だ。痩せぎすの少年は一気にまくし立てた。
「ちょっとさぁ、酷くない? 俺ら助けて欲しいっつっただけじゃん。何で逃げんの、ねえ? それにさ、さっきさ、暴力振るったよね、暴力。ばしっ、つってさぁ、傷ついちゃったなぁ、俺。どうすんの、ねえ、せん、ぱ…」
「やめときなよ」
その、あまりに無感動な瞳と冷めた声に、思わず痩せぎすの少年の言葉が止まった。
自分の隣で、巨漢の相方が訝しげにこちらを伺っているのを感じる。
(何だ、こいつ)
少年は、自分の中に焦りと戸惑いが沸き上がるのを感じた。今までに感じたことのない、正体不明の違和感。
心のどこかで、警報が鳴っている。しかし、
「ここは中学校だ。いつまでも小学生気分じゃ、痛い目見るよ」
その哀れむような口調に少年が逆上するのに、1秒も掛からなかった。
「はあぁぁん? 中学校だ? んなこたとっくに分かってんだよ! こっちだってもう中学生なんだ。てめぇこそ舐めた口聞いて後悔すんなよ、俺の能力はなぁ―」
「へえ、爪が武器になるのか」
「!?」
痩せぎすの少年の目が、今度こそ驚愕と戸惑いに見開かれる。
(こいつ、何で俺の能力を―)
「そっちの君は…ああ、あんまり暴力的な能力じゃないんだな。でも、内ポケットにナイフが入ってる。没収されるよ」
「なっ!?」
こちらが思考する間を与えない、ぶっきらぼうな声。
巨漢の少年がびくりと肩を震わせた。
「てめえ、どうしてそれを」
「てめえ、どうしてそれを―…っ!?」
巨漢の少年は、自分と全く同じタイミングで、全く同じセリフを口にされ、二の句が継げなくなる。
どこまでも無表情なその顔。退屈そうな目。
まるであの世でも見通すかのような…。
確かに、相方の能力は遠視。そして彼はいつもブレザーの内ポケットにバタフライナイフを忍ばせていた。
しかし何故初対面のこいつがそれを?
けど、それだけじゃない。何だろう、こいつの、この不気味な雰囲気は…。
痩せぎすの少年は混乱する頭を必死に回転させる。
しかし、無表情男にそれを待つ気はないようだった。いかにも面倒臭そうに溜め息をつくと、おもむろに左肩に背負ったスクールバックを漁り始めた。
「てめ、何やって…」
取り出されたのは、ミネラルウォーターのペットボトルだった。
二人の不良少年に緊張が走る。
(何する気だ、武器か? じゃあこいつは水流操作能力者? けど、さっきのは明らかに読心能力…、いや、内ポケットの中身を当てたのは透過視……?)
混乱する不良少年を余所に、無表情男は3歩後ろに下がると、ペットボトルを傾け、自分の足元に水をこぼし始めた。
右から左へ。
渡り廊下を横一線に区切るように、細長い水溜まりが出来る。
「何のつもりだこら」
(何してんだ? あれをどうする気だ? あいつは結局何の能力者なんだ?)
低くドスを効かせた声と裏腹に、痩せぎすの少年はますます混乱に陥っていたが、無表情男は最早自分たちに興味をなくしたように、再び踵を返した。
「そのラインを越えないことだ」
そんな捨て台詞を残して。
その一言で、不良少年たちは混乱から脱することに成功した。
「上等だごらぁ!」
理性を放棄することにしたのだ。
痩せぎすの少年の両手の爪が、10センチ程に伸びる。
巨漢の少年は内ポケットから愛用のバタフライナイフを取り出した。
そして、獲物が残した水溜まりに踏み込んだ瞬間。
二人の視界が、白く染まった。
「ぶっは、ごほっ、何だこれ。見えない、くそっ。どこ行きやがったごらぁ!」
「あぎゃっ、あ、足が、何でだ、くそっ、足がうごかねぇよ、おい!」
「ぎゃん! てめぇ、引っ張んな!」
「いっだ、おいっ、刺さってる! 爪! 刺さってるって!」
「くそがぁぁぁぁぁ!!」
……。
…………。
3分後―
「くそ、取れない。これ、氷か?」
「わけわかんねえ、何だったんだあいつら」
白煙の中、身動きが取れずにもがき続ける二人の少年に、近づいてくる声があった。
「何だこれは。全く、奥月の奴、余計な仕事を増やしてくれる」
不機嫌そうな、それでいて良く通る男の声。
「いやー、何も見えないねぇ」
甲高い少女の声。
「これは、霧でしょうか」
落ち着いた調子の、別の少女の声。
「如月、頼めるか」
「はい」
次の瞬間、渡り廊下に風が通り抜け、濃霧のような白煙が流された。
這い蹲る二人の少年が見たものは、こちらを見下ろす、三人組の男女だった。
腕組みをしてこちらを見下ろしているのは、短く切りそろえられた髪に、端正な顔立ちを不機嫌そうに歪めた、鋭く、冷たい目をした少年。
その後ろには、ふわふわのボブカットにくりくりとした丸い目の、どこか小動物を思わせる小柄な少女と、背中までの髪を頭の後ろで一つに束ねた、すらりとした長身のメガネ姿の少女。
メガネの少女は、その両手に自分の胸程の高さの、薄っぺらい板のようなものを抱えていた。薄いピンクをしたそれは、隅に可愛らしいイラストが描かれている。
どうやらあれで扇いで煙を吹き飛ばしたらしい。
痩せぎすの少年には、それが巨大な下敷きに見えた。しかし、こんな大きさの下敷きがあるだろうか?
「大丈夫か、君たち」
目の前の男子生徒から急にかけられた言葉は、その鋭い眼光と裏腹に、意外にも気遣わしげな温かみを帯びていた。
「その足は…、凍らされているのか。丁度良かった。姶良」
「はいはーい」
男子生徒に声をかけられ、小柄の少女がぱたぱたと駆け寄る。少女が痩せぎすの少年の左足に右手をかざすと、その五本の指の爪が鮮やかなオレンジ色に光り出した。
「ちょっと待っててねー、一年生君」
少年の足に、緩やかな温感が生じる。やがて左足の氷が溶けきると、少女は同じように右足の氷を溶かしだした。痩せぎすの少年を完全に解放すると、次に巨漢の少年へ。同じようにオレンジ色に光る指先で、束縛を解いていく。
その間、二人の不良少年はあの無表情男とイケメン野郎に報復するため、口角泡を飛ばしながら、畳み掛けるように事情を説明していた。
「に、二年生の奴にやられたんだ。あいつら、急に突っかかってきて、暴力振るったり、人の頭ん中読んだり、煙幕張ったり、足凍らしたり―、」
「まだ遠くには行ってないはずだ。すぐ教師に連絡して―、」
「なあ、あんたも二年生だろ、誰だかわかんねえけど、とりあえずあいつらを―、」
「一人でいくつも能力を使うんだ、調べればすぐに―、」
(何されたのかはさっぱり分かんねえが、能力使って下級生に暴力振るったとなりゃ、教員からの制裁が入るはずだ。能力の使用禁止期間にもう一度襲えば…)
不埒なことを考える二人は、しかし、それを聞く三人組の視線が徐々に冷めていくことに気づかない。
そしてその表情が次第に、呆れ顔へと変わっていくのにも。
「…言いたいことはいくつかあるが」
放っておけば何処までエスカレートするか分からない不良生徒達の言葉を、鋭い目つきの少年が、低い声で遮る。
「まず君達、能力学の授業はちゃんと受けているか? 一人の中学生につき、持ち得る能力は一つだ」
「じゃあ…! あいつはどうやって―」
「その答えを俺は知っているが、残念ながら本人の了解なしに他人の能力を明かすのはマナー違反だ」
低く響く冷たい声に、不良少年達は不穏な響きを感じ始めた。
「次に君達、本当に俺が誰だか分からないのか? 一応、全校生徒の前で自己紹介をしたはずだが」
「「?」」
ぷすす、と、小柄な少女が小さく笑うのが聞こえる。
「まだまだ知名度が足りないねえ」
「黙れ姶良。…まあいい。では最後になるが、君達。俺は君達の言うその二人組から、“渡り廊下で一年生にカツアゲされそうになった。一人は内ポケットにナイフを隠し持っている”、と言われてここに来たんだが」
「……は?」
唖然とする二人の不良少年。
「取り敢えず君達、指導室まで来てもらおうか」
混乱。
葛藤。
計算。
しばしの沈黙の後、二人が取った行動は簡潔だった。
「ざけんなやごらぁ!」
「てめぇぶっ殺して二年生全員ぶちのめしてやらぁ!」
彼らはまたしても、理性を放棄することを選んだのだ。
「……君達は、学習というものをしないのか……?」
「こっちは喧嘩じゃ負けなしなんだよ!」
「舐めてんじゃねえぞ、俺の能力は―」
ぐるり。
自分の視界が反転したことに痩せぎすの少年が気づいたのは、自分の体が鈍い衝撃と共にコンクリートの床に叩きつけられてからだった。
背中の感覚がなくなる。
肺から息が無理矢理絞り出される。
胃袋がせり上がる。
「ぐ、が」
ぎん。
次に少年が感じたのは、耳元に響く、何か硬くて重いものがコンクリートに突き刺さる音と、首筋に走るひやりとした感触。
「君の能力になど興味はないが―」
自分を見下ろす剣の如き眼。
「あ、う」
「それは、首を斬り落とされても使えるものなんだろうな」
その瞳に宿る鈍い光に、痩せぎすの少年は自分の身に何が起きたのかも分からぬまま、あっさりと意識を手放した。
巨漢の少年は見ていた。
自分たちの氷を溶かした少女を人質にとろうとした相方が少女に手を伸ばした瞬間、目にも留まらぬ速さでその手を掴んだ冷たい目の少年。
流れるような動きで相方はコンクリートに押し倒され、次の瞬間、いつの間にか現れた西洋風の剣が、その首の横に突き刺さっていた。
そしてそれと同じ形をした剣が3本、今、自分の喉に切っ先を押し付けて空中に静止している。
今ぴくりとでも動けば、3本のうちのどれかが確実に突き刺さる。
自分の命が、今正に吹き消されようとしている。
ひゅー、ひゅーと、自分の口から漏れる、引き攣るような呼吸の音を聞いた。
「『サイン・オブ・フォー』」
ぞっとする程冷たい声が静まり返った渡り廊下に響く。
「君達は今後この学校で暮らすにあたり、覚えなければならないことが非常に多いようだが、まずは俺と、俺の能力の名前から覚えておけ」
鈍い輝きを放つ4本の剣。
それを写し取ったかのような、怜悧な眼光。
巨漢の少年の脳裏に、遅刻して登校した彼に興奮しながら語りかけてきた級友の言葉が蘇る。
体中から火を噴き空を自在に駆ける男と、その男に膝をつかせた、4本の剣を操る凄腕の能力使い。
「俺は巽恭也。生徒会長だ」