序
世界には不思議なことがたくさんある。
それは例えば、女神像から永遠に失われた両の腕であったり、
のろまな亀にいつまで経っても追いつけない英雄の詭弁であったり、
ある日を境に歴史から姿を消した巨大な爬虫類達であったりする。
あるいは、それは家路を包む橙の色に感じる底知れぬ不安であったり、
週末の夜に口に含む焼酎の、艷やかな美味であったり、
落ちこぼれの少年と猫型ロボットの別離と再開を観たときに目から流れる液体であるかもしれない。
世界は不思議に満ちている。
不思議とは日常の中にこそあるというが、それは嘘だ。
たとえどれだけ不思議なことが起ころうと、日常はそれを呑み込んでしまう。
それが取るに足らないことであるかのような顔をする。
女神像の腕は無いからこそ美しいのだ。
足の速い者が足の遅い者に追いつけないはずがないだろう。
恐竜は隕石が落ちて絶滅したんだよ。
さあさあ、不思議の時間はおしまいだ。
お前にそんなことを気にしている暇があるのかい。
お前にはもっと他にやるべきことがあるだろう。
明日のスケジュールは確認したか?
恋人にメールは返したか?
次の休日の予定は?
日常の中に不思議があるのではない。
日常が不思議を包み隠しているだけだ。
リモコンの仕組みが分からなくてもテレビは点けられる。
政治の仕組みが分からなくても総理大臣は批判出来る。
製作者の意図が分からなくても映画は楽しめる。
日常とは習慣だ。一度そこに組み込まれてしまえば、あらゆる不思議はその意味を失う。
世界には不思議なことがたくさんある。
それは例えば、地上数百メートルに亘って描かれたハチドリの絵であるかもしれないし、
湖に見た巨大な生物の影かもしれないし、
首都の名を冠したネズミの王国が隣の県にあることかもしれない。
しかしその日、多くの人たちにとっての不思議は、ある一つの事件についてだった。
記録によるとその日は広い範囲を覆う高気圧の影響で、関東全体に雲ひとつない晴天が与えられていた。風はなかった。
初春。
早朝。
多くの専業主婦が洗濯物を外に干し、
子供は通学路を歩き、
通勤者の多くは電車に乗っていた、そんな時だった。
太陽がくしゃみをした。
空の青色は一瞬黄味を帯びた白に染められ、続いて朝焼けのような橙に染められた。
轟音。
あらゆる建物の窓ガラスが、一斉に割れた。
しばしの無音。
次に人々が目にしたのは、空を蝕む黒煙。
続く轟音。
轟音。
その度に世界を叩く衝撃に、叫喚が舞い起こる。
爆音。
悲鳴。
サイレン。
空気が熱くなっていった。
………。
………………。
その日関東の一部を襲った災害は、後日、隕石の落下として報道された。
半径十数メートルの隕石が5つ、地球に落下。激突。
不思議なことに、ありとあらゆる映像機器、観測機器は、その隕石群を捉えることが出来なかった。
何時の間にか地球に接近し、何時の間にか日本各地に降り注いだ。
それを肉眼で捉えた人の証言は多かったが、内容はどれもまちまちだった。
被害は甚大といって差し支えなかったが、未曾有というほどのものでもなかった。
当然といえば当然のように、それで世界が滅ぶことも国家が転覆することもなく、被災者の数が発表され、責任の所在が追求され、復興が始まった。その年の“今年一年を表す漢字”は、“星”となった。
その隕石が映像記録に残らなかったことに関しては、もっともらしい科学的説明がなされ、人々を納得させた。
そういうこともあるのか、と。
やがてこの不思議も日常の中に取り込まれ、徐々に色彩を失っていった。
しかし一度は日常に呑み込まれたこの不思議は、ある日再び、その異様を取り戻すことになる。
それは、隕石の落下から2ヶ月が経った頃だった。
花井芽衣は失恋していた。
相手は部活の先輩だった。昨日告白して、2秒後に振られた。
何でも、幼馴染に好きな子が居るんだとか。
なんだそれ。
幼馴染って。
好きなら好きでさっさとコクればいいのに、今の関係に甘えて中々切り出せずにいたらしい。
ラブコメかよ、とか。
心の中で散々彼のことを罵倒した芽衣は、次に家にいた弟に当り散らし、友人に電話をかけて当り散らし、帰ってきた父親に当り散らし、徐々に憤怒を収めていった。日付が変わる頃には彼への想いもすっかり冷めきり、もう当分恋愛はすまい、と、実現性のない誓いを立て、彼女にしては早々と、布団をかぶった。
芽衣の怒りが再燃したのは、翌日、お手手を繋いで登校している先輩とその幼馴染を目撃した時だった。どうやら昨日の自分の告白で、先輩の気持ちに後押しをしてしまったらしい。
正直、目撃なんて言葉では説明のつかない現象だった。
目激、とか。目劇、とか。そんな感じだった。
キラキラしていた。
楽しげな先輩と少し恥ずかしげな彼女。
なんだこれ。
死ねばいいのに。
リアルにそう思った。
いやいや、殺すのはまずい。殺人はまずい。
もっと陰湿で、二度と二人が幸せな気持ちになれない嫌がらせにしなければ。
そうだ。今朝起き抜けに蝿を見て、いきなりテンションがだだ下がりしたっけ。
大量の蝿があの二人を襲わないだろうか。
蝿を大量に捕まえてあの二人にけしかけられないだろうか。
ああ、私に蝿を操る力があれば……。
三島幸太は逼迫していた。
まさか自分が老人をかばって怪我をするとは。
今日の体育の授業はバスケットボールだ。球技全般が得意分野の幸太にとっては活躍のチャンス。クラスのあの子にアピールする絶好の機会。
鼻歌気分で登校していた幸太は、四つ角から現れた老人にぶつかりよろけてしまう。対する老人は体勢を崩し、今にも転びそうになっていた。咄嗟に手を伸ばした幸太は老人の体を支えた途端、右手の指に燃えるような痛みを感じた。
つき指だった。中指と薬指が明らかに真っ赤に腫れている。
謝り倒す老人を振り切り学校へと急ぐ幸太だったが、こんな指でバスケができるはずがない。
先生、バスケがしたいです。
保健医にそう言ったら頭を叩かれた。
くそう。俺の唯一の活躍の場が。
ああ、俺に超人的な回復力があれば……。
原村誠は鬱屈していた。
明日は陸上の大会だ。
誠は極度のあがり症だった。
大勢の人間に見られていると感じるだけで、膝が震え、胃袋がせり上がり、頭に靄がかかる。
練習ならいいタイムが出せるのだ。練習なら。
それがいざ本番となると、まるで調子が出せない。期待してくれている顧問の先生に申し訳がない。明日の帰りの電車では、また仲間に意地の悪い言葉を投げかけられるだろう。
練習なら上手くいくのだ。
せめて誰も見ないでいてくれたら、きっと本番でもいいタイムが出せるだろうに。
ああ、俺の姿が誰にも見えなくなれば……。
少年は焦燥していた。少女は後悔していた。
少年は憎悪していた。少女は落胆していた。
少年は苦悩していた。少女は失望していた。
少年は願っていた。少女は祈っていた。
ああ、僕に時間を止める力があれば……。
ああ、私にあいつらを燃やす力があれば……。
ああ、俺に空が飛べたら……。
ああ、あたしが人の心を覗けたら……。
ああ、僕に。
私に。
そして、ある少年は退屈していた。
彼は日常というものに興味を抱いていなかった。
彼は何事につけ熱心に取り組むということがなかったが、案外気負いのない人間のほうがいい成績を残せるというのは往々にしてありうるもので、その内面と裏腹に、彼は優等生だった。
勉強すればした分だけテストでいい点が取れた。
鍛えれば鍛えた分だけ部活で活躍できた。
絵も上手かったし、字も綺麗だった。歌は音程を外さない程度には歌えたし、器楽もリズムを外さない程度には何でも演奏できた。
そのことが、ますます彼から情熱を奪っていった。
上手くいきすぎる。
どうにも面白くない。
それに、である。
草臥れたワイシャツに無精髭。女性は化粧っ気をなくすか化粧のバランスをなくすかのどちらかで、どれだけ熱心に教えたところで次の一年には振り出しに戻り、それが永劫続く苦難に悟りを開いたその目は死んだ魚のよう。
あの、教員とかいう腐りかけの生き物。
自分が今どれだけ優秀な生徒だろうと行き着く先があんな生き物なのだとしたら、それはただの絶望だ。
ああ、退屈。
今も未来も、退屈。退屈。
どれだけ真新しいことがあったって、二、三回繰り返せばすぐに日常の一部。
何の面白みもなくなってしまう。
全くこの日常という怪物の、なんと貪欲で、なんと強力で、そしてなんと無害なことか。
あらゆる不思議を飲み込み、そこに住む人間に平穏を押し付ける。
少しは彼らを見習うといい。自分の殻に閉じこもり、夢想と空想で自らを塗り固め、それでいて、他人に手を伸ばさずにいられない、この中学生という生き物を。
世間ではあの隕石事件のことはすっかり日々の雑多なニュースの中に取り込まれ色褪せてしまっていたが、少年の級友の中には、陰謀論だの宇宙からの攻撃だのと、未だに妄想を逞しくさせている者も少なからずいた。少年は彼らを応援していた。
世界には不思議が満ちているのに、それを見つけるのはいつだって子供で、それをひた隠しにするのは、いつだって大人達だ。少年にとっては級友達が抱く幻想や妄想が、約束された大人の世界よりも遥かに魅力的だった。
ああ。
ああ、もしも。
もしも彼らの妄想が、全て現実のものになれば。
その日、世界に不思議が溢れかえった。
いかな日常といえど、今度ばかりは、呑み込むのに少しばかり時間がかかるかもしれない不思議達が。