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死にたがりは夢を見ない

作者: 南乃素材

 

 朝目が覚めると、その日は休日だったからか、時計の針はもう十時を指していた。目覚まし時計をかけずに寝たので、かれこれ十時間は眠ったことになる。


 一切の夢を見ず、一切の断眠もなく、惰眠を貪って今日がやってきた。すでに今日を迎えてから十時間を経たことになっているが、なにぶん寝ていたのでそんな感覚はない。昨日もそうだったし、一昨日もそうだった。先一昨日も、そうだったろうか。いつからこんな生活だろう。毎日が休みになると幸せだろうと学生の時分では思っていたが、社会人になってから毎日が日曜日になってみると、地獄のようだった。


 最初の頃は開放感があった。何かから――恐らくストレスだろうが――解き放たれた清々しさみたいなものがあって、幸せな時間だったが、それは刹那的なものだった。あっという間につまらなくなって、うっという頃には死にたいと再び思うようになった。中学生の頃、理不尽ないじめに遭った頃に逆戻りだ。


 なんだってそんなことになってしまったかと言えば、就職先でネガティヴな自分が暴れた、というとまるで中二病をこじらせたみたいで痛々しいが――事実痛々しいものだった――それに起因する。


 至極単純で、他にもそんな人がいるのかもしれないし、いないのかもしれないが、押し寄せてくる仕事の波、責任の波に我慢ならなくなったのだ。周りとの軋轢というか。断壁というか。たまたま運がなかったのだろう。上司が酷い奴で、一つ大きな企画で彼のしでかしたミスをこちらに振られたのだ。当然、右も左もわからない僕はそんなことを処理することも出来ず(元々鈍臭い性格がなおのこと災いして)、気付けばもう退けないところまで来ていた。首を括るほかないところまで。


 責任をとって自主的に退社をした。そのときの空気はまるであの頃のようだった。慰めや、哀れみよりも、随分と否定的な感情がばつばつと僕の体をぶん殴る。


 あーあ。もう無理だ。と、ある日思った。逃げたように思われるかもしれないが、ダメだと決め込んでとっとと退職届を記入して、上に出した。


 結局のところ、どんなふうに言葉で見繕っても、逃げたのだ。僕は。


 逃げたくて仕方なかったから、本望ではあったけれど、逃げてみて、それから時が過ぎていけども、心が休まることはなかった。


 本当はあったのかもしれないけれど、自分では休めている気がしなかった。さっぱり回復している気がしなかった。


 趣味のゲームも、読書も、映画鑑賞も、音楽を聴けども味気なく、無味乾燥というか。あれ、と思った。生きてる理由が見つからなくなった。


 だから死のうと思ったのだ。思春期からずっと心のどこかにあった「死にたがり」が顔を出した。

 しかしどう死んだものか。


 腕を切るか、

 薬を飲むか、

 投身するか、

 身を焼くか、

 首を括るか。


 悩んだ末に決めたのは、絞殺だった。

 理由は単純だ。家にロープがあったから。いつ買ったかもわからないが、しっかりした縄だった。これならしっかり首を絞めてくれるだろう。ちょうど、縄を仕掛けられそうにつっかえ棒があった。それは普段洗濯物を干すためのものだったけれど、高さもちょうどいい。縄をセッティングして、死のうと首をかけたところで、ちょっと待て、と思い直した。


 死ぬ前に食べたいモノを思い出したからだ。そんな大層なものじゃない。カップヌードルだ。チリトマト味のカップヌードル。それが僕にとって最後の晩餐だった。


 やかんを火にかけて、その前で湯が沸くのを待つ。かちちちとガスに引火してやかんを温め始めた。なんとなく急いだほうがいいかなと、強火で温めていたので数分もすると、ぐつぐつとやかんの中から音がし始めた。カップヌードルの包装を解いて適当にゴミ箱に放って、ふたを開けた。まだかな、と待っているとあの独特の甲高い音がした。火を消して、やかんの湯をカップヌードルの中に注ぐ。あとは三分待てばいいだけだ。


 と、その時。なんだか変な感覚を覚えた。気持ち悪いとかそういうものではなく、なんだかこの部屋に違和感がある。あれ、と周りを見渡す。殺風景な部屋に趣味で集めた書籍たちが丁寧に棚に並んでいる。その隣の棚にはゲームソフトがあって、さらにその脇の棚にはお気に入りの映画のDVDが十数本。その下に同じくお気に入りの音楽CDが数十枚。そしておっさんがそこの前でうんうんと何か確認をしていて、少し大きめの三十四インチの液晶テレビにパイプベッド。あとは特に何もない。


 何もない?

 何もあるわ! 誰だこのおっさん!

 恰幅のいい五十代くらいのおじさんは短く角刈り気味に整えられた髪型をしていて、工事の人や役場の人が着ているような作業着を身に着けていた。


「あんた誰」


 尋ねてみると、きょとんとされた。太い人さし指をその丸い顔に向けて、私? と口をすぼめた。あんた以外に誰がいる!


「あんた誰!」


 うわっと後ろにのけぞられた。のけぞりたいのはこっちだよ! と心の中で毒づく。勝手に人の部屋に入って、周りを見渡してうんうんと何かに頷いているそのおっさんを疑問に思わないほど人に興味がないわけじゃない。苦手なだけだ。苦手だからこそ今、この時にこの部屋にいられて困っているのだ。


「私は、圓地典史えんじてんしと申します。ここらへんの回線工事で参りました」


 丁寧に頭を下げられた。それからたくさんある胸ポケットから一枚名刺を取り出して、こちらに両手で差し出してきた。


「ご丁寧にどうも」


 受けとって、いやいやいやいや、と首を振った。


「工事かなんかわからないですけど、なんですか、チャイムも鳴らさずに入ってきて!」

「いやいや、鳴らしましたよ? それでも返事がないもので、でも中からやかんの音がして、ドアノブをひねってみるとなんと開くじゃありませんか! これはとゆっくり開けて入ってみると、あなたがカップラーメンにお湯を注いでいる最中だったので、びっくりさせて火傷させてしまうのも忍びないので、忍んで待っていたのです」


 あはは、と圓地さんは笑った。


「お気遣いありがとうございます」


 って別にありがとうございますじゃねえ! そもそも勝手にこの部屋に入ってくるのが間違いなんだよ!


「なんで勝手に入ってきたんですか!」

「ですから、回線工事があると言ったですよ。私も仕事なんでね。ここは譲れない」

「いや、だからって人の部屋に勝手に入っていいんですか、不法侵入ですよ!」


 カップラーメンが伸びるのもいとわずに僕はそう糾弾したが、圓地さんは突然、うっうっとしゃくりだした。なんだなんだ。太い大根みたいな腕をがばっと顔に当てて、泣くのをこらえているようだった。ていうか泣いていた。なんなんだよ。


「聞いてください。私もね、本当はこんな合意もなく、強引なことはしたくないんです。どういった要件でも、相違ないよう、好意的に話を進めたかった!」


 やたらと韻を踏んできた。ふざけてんのか本気なのかわからなかった。


「けれどもね、私も仕事なんです。この仕事が上手くいかなかったら、家で待つ家族を養ってやることができないんです」


 わんわんと泣き出した。なんだか申し訳なくなって、僕は思わず、お茶でも飲んで落ち着いてください、とついさっき沸かしたお湯でお茶を作って差し出した。部屋の真ん中にあるちゃぶ台のような小さなテーブルの前に座るように促す。


 ありがとう、とその茶を半分ほど喉を鳴らして飲み干して、ういいいと息を吐いた。おっさんだった。


「いやね、私には妻と娘が二人いまして、あ、妻は一人ですよ。それで、娘が二人。上の子がもう高校に上がるんですわ。下の子はまだ産まれたばかりでしてね。いや、まさかこの年で二人目が出来るとは思っても見ませんでしたので、棚から牡丹餅といいますか、二階から目薬といいますか、寝耳に水といいますか、とにかく驚きましてね。……そんな矢先に恥ずかしい話なんですが、失業してしまいまして」


 圓地さんは頭をかいた。お恥ずかしい、と繰り返した。


「それで、ようやく決まった仕事がこれだったんですわ。いやはや、初めての仕事なもんですから、なかなかどういったものなのか今だ掴めちゃいないんですが、当たって砕けろの精神で、頑張ってるんですわ。そりゃ大変ですよ。大変ですけど、可愛い家族のためですから。頑張れますよ」


 僕は今、一体何の話をされているんだろう。回線工事じゃないのか?


「あの、回線工事じゃないんですか?」

「ええ、回線工事ですよ? でもさささと過ぎてしまうのも寂しいじゃないですか」


 いや、工事はそういうものだろう。


「とにかく、点検なのかわかりませんけど、とっとと出て行ってくれません?」

「ああ、お構いなく、そのカップラーメン美味しいですよね。どうぞどうぞ。伸びたらおいしくないですから。あ、それともふやかして少しかさ増しするタイプですか?」


 そんなタイプじゃねえよ! なんで見知らぬ人を部屋にあげて最後の晩餐を食べる姿を見守られなきゃいけないんだ。


 お構いなく、と圓地さんはにこにことしていた。が、鼻の下を伸ばしてずっとカップラーメンを見続けていた。


「…………」


 食べづらいわ!

 ちらりと圓地さんを見ると、またお構いなく、とにこにことして、あははと笑った。


 ふたをはがすと、チリトマトの酸味のある香りが湯気と共にふわりと部屋を漂った。


 圓地さんは今度はじっくりとそのカップラーメンを見つめていた。お腹が減っているんだろうか。


「……食べますか?」


 がばっと、姿勢を正して、背筋をびしりと伸ばして、圓地さんは、


「お構いなく!」


 と、手を差し出した。どっちだよ! 食べたいんじゃねえかよ!


 どうぞ、と差し出すと、いやいやと顔を大型犬が水浴びをしたときのようにぶるぶるとふるった。


「私、そういうの、食べないようにしてるんです。というのもね、ほら、このお腹」


 ぽん、と腹太鼓を鳴らす。


「このお腹でしょう。妻にも娘にもそろそろやばいんじゃない? と言われてましてね。なるべくそういうものは食べないようにしているんですが……」


 なんて言いながら、圓地さんの目は僕を見ず、ひたすらに湯気の上がるカップラーメンを見続けていた。ごくり、と圓地さんの喉が鳴る。


 どうせ一口食べたところで差異はないだろう。それに運動すればいいだけで、きっとこのあと、僕の部屋以外にも近所を歩き回ればそれなりのカロリーは消化されるはずだ。


 どうぞ、と圓地さんの前に差し出した。カップラーメンの容器の上に割りばしを置く。


 いいんですか? と上目遣いに確認をしてきた。ええ、と返す。一口くらい、別にあげたっていいや。大食いなわけじゃなし。


 では、すみませんがいただきます、と両手を合わせて会釈すると、割りばしを綺麗に割って、容器を手に取った。


 鼻を近づけて匂いを確かめる。深く鼻から呼吸をして、満面の笑みを作った。うんうんと頷く。うまそうだ。


 ずずずと、スープを飲み込んだ。ごくんと喉を鳴らしてスープを胃に染み渡らせる。だはあああ、と深く息を吐いた。


 ようやく麺を割りばしで持ち上げて、ふうふうと息を麺を冷まして、ぞぞぞっとすすった。熱かったのか、三分の二ほどすすったところでいったん止めて、それから全てをすすりきった。もぐもぐと咀嚼する。


「……美味いですねえ」


 幸せそうな顔だった。見ているこっちが笑けてくるような、穏やかな顔だった。


 二口目、三口目と美味しそうに食べていく。あっという間に全部食べ切って、スープまで飲み干した。

 よかった。満足してくれたみたいだ。


「ごちそうさまでした」


 丁寧に頭をさげた。

 よかった。

 ……よかったか?


「………………」


 いや良くねえよ! 僕の最後の晩餐だぞ! 最後の晩餐は一口も食べることなく、全て目の前のこのおっさんの腹の中に納まってしまった。スープも一滴残らず!


「すみません、お茶のお代わりいいですか?」


 にやっとして湯のみを差し出してきた圓地さんに、ああ、はい、とお代わりのお茶を用意して、その手を止めた。


「いや、お代わりじゃなくて!」

「あれ、お代わりじゃない? えっと、二杯目いいですか?」

「そういうことじゃなくて!」


 僕のチリトマト……。

 がくりとうなだれて、僕は圓地さんに二杯目のお茶を差し出した。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 圓地さんがずずっと熱いお茶をすすった。


「いいお茶ですねえ。これはどちらの茶葉を?」

「あー、実家です。祖父母が趣味で作っているんです」

「そうですかあ。ご実家はどちら?」

「静岡です」


 ああ道理で。と圓地さんは頷いた。


「道理で美味しいお茶なわけですね。静岡と言えば、茶の名産地ですものね。京都の宇治茶、静岡の静岡茶と言えば、日本の二大茶なんて呼ばれてますからね」


 そうでした。静岡は茶の名産地。家も小さな農場ではあるが、茶を作っていた。きっと送られてきているのはそれだ。自分の家や、親戚連中に渡す分だけ、趣味で祖父母が作っている、ランクも何もないお茶だった。


「物知りなんですね」

「いやいや、仕事柄、お話が出来るようにと色々覚えたんです。といっても、あなたが初めての顧客ですから、今、成果が報われて安心してます」


 あはは、と圓地さんは笑った。楽しそうだった。


「にしても美味い。あなたのおじいさんもおばあさんも丹精を込めてこれを作っていらっしゃるんでしょうね。愛情の味がします」


 なんだそれ、と少し笑ってしまった。


「愛情の味ですか」

「ええ、愛情の味です。きっと、大切な人たちのために、美味しいお茶になるように、手入れをなさっているのでしょう」


 圓地さんはもう一口飲んで、美味い、と唸った。自分のことのように嬉しかった。少しこそばゆいというか、気恥ずかしいというか。


 いや、忘れてはならない。目の前のこの人は僕の最後の晩餐を颯爽とすべて平らげてしまった極悪非道の男だ。


「そういえば、さきほど、本棚を拝見させていただきましたが、随分と小説を読んでらっしゃるのですね」

「ええ、まあ」

「純文学がお好きなんですか? 川端康成の本が眼につくように置いてありました」

「好きで読み返すんです。だから、手に取りやすいように、目に着きやすいところに置くんです」


 川端康成の描く話が好きだった。繊細な描写で、生物を比喩した表現が文字に命を吹き込んでいる感じがして、読んでいると言葉という生き物を撫でている気がして楽しかったからだ。

 そうですかあ、と圓地さんは頷いた。


「あの、回線工事はいつ頃になるんですか?」

「まだわかりませんね。あなた次第です」

「僕次第?」


 はい、と圓地さんは胸ポケットから何重にも折りたたんだパンフレットを取り出して広げた。雑だよ。


 何度も広げては畳まれて、畳まれては広げられたのか、折れた部分が線のように白く剥げて所々読めない。それに、醤油か何かのシミもあった。雑過ぎないか?


「あら、こりゃ読めねえな」


 圓地さんがまいったな、と頭をかいた。まいったのは僕の方だ。作業着にたくさんあるポケットのひとつからメガネを取り出して圓地さんはそれをかけて、手元のパンフレットを近づけたり離したりした。そっち? 老眼で見えないってこと?


「ダメだ、読めない」


 圓地さんは取り出したパンフレットをまた綺麗に折りたたんでポケットに戻した。なんなんだよ!


「それより少しお話しませんか?」


 意味が分からない。


「下の子がね、パパってこないだ呼んでくれたんですよ。初めてですよ。最初の言葉は『バンパー』だったんですけどね」


 どうでもいいわ! ていうか初めて覚えた言葉がバンパーってなんだよ!


「きっとその当時、バンパーが調子悪くてずっと会話のどこかしらにそれがあったからなんでしょうけどねえ。それに、バンパーって言っていて口が心地いいじゃないですか。きっとあの子は将来噺家になるな、なんて妻と話してるんですが」


 あはは、と圓地さんは笑った。幸せそうだった。


「あなたは彼女さんとかいらっしゃるんですか?」

「いえ、ついこないだ別れちゃいました」

「あらま……さぞお辛かったでしょう」

「ええ。まあ。でも、仕方ないです。仕事もろくにできなかったし、僕がふがいなかったから、愛想つかされても仕方ないというか」


 三年付き合った彼女だった。大学二年の時から付き合い始めた彼女は、上昇志向が強くて、まぶしかった。羨ましさが尊敬に転じて、この人のそばにいたいとおもっていたけれど、彼女の方はそうじゃなかったみたいで、他に好きな人が出来たと、さらっと振られた。目の前が真っ暗になるくらい落ち込んだりもしたけれど、こんな僕のそばに三年もいてくれたのだから、むしろ感謝すべきなんじゃないかとも、最近は思うようになった。


「大丈夫ですよ。これから先の人生で、きっとまた、素敵な出会いが待っています。相手の歳も、あなたの歳も関係ありません。きっと、あなたの人生を彩ってくれるような素敵な人が現れます」

「そうですかねえ。どうだか」

「現れますよ。捨てる神あれば拾う神あり、それは何も神様だけに言えることじゃあありません。人だって同じです。って、これじゃああなたが捨てられたみたいですね。そういうことが言いたいんじゃないんです、ええっと……」


 圓地さんがうーんと唸った。なんとなく、圓地さんが言いたいことはわかった気がした。励ましてくれているのだろう。彼なりの言葉で、僕に元気を出してもらおうと、話してくれているのだろう。


「とりあえず、お茶お代わりイイですか?」


 本当に励まそうとしてくれているのだろうか。


「あと、トイレをお借りしたいんですが、どこですか?」

「えっと、そこの扉出てすぐ右の扉です」


 では失礼して、と圓地さんがトイレに立った。

 僕は見知らぬ初めて出会った人となんでこんな会話をしているのだろう。とりあえずお茶のお代わりを用意しておいた。


 すぐに圓地さんはハンカチで手を拭きながら戻ってきた。


「すみませんねえ、お茶ありがとうございます」


 いえ、と僕は頭を下げた。

 圓地さんがお茶を一口飲んで、美味い、と言った。気に入ってくれたようだった。


「ところで、あなたは旅行とか趣味じゃないんですか?」

「いえ、時間がなかったもので、あまり旅行に出かけたりとかできなかったんです」

「そうなんですかあ。旅行はいいですよ。日本は素敵な国ですからね。東西南北、どこに行っても名所がある。海外もそうか。まあでも、どこに行っても、素敵な風景がありますよ」

「そうですか」

「ええ。妻とね、新婚の頃に、日本の、北海道に行ったんですよ。これがすごくて。函館に行ったんですけどね、函館山から見える夜景、あれはすごかったなあ。沿岸のね、形がわかるんですよ。綺麗に湾曲して明かりが燈っているんですよ。これがまた綺麗で。ああ、あそこから先はもう海なのか、とぎりぎり目いっぱいまで人が生きていて、そこで生活が営まれている。海の恵みを大事にして、そこで命が育まれている。妻もうっとりしてましてね。あ、そこで一人目が……」


 お恥ずかしい、と圓地さんが頭をかいた。のろけられた。唐突だった。


「ちなみに二人目は去年の夏ごろだったかな、沖縄に行きましてね。海がきれいで、娘も喜んでいました。私の住んでいるところには海がありませんから、これが海水なのかと飲んでみたりして。可愛かったなあ。いや、今も可愛いんですよ。目なんてくりっとして、鼻も高くて妻に似てるんです。ちょっと丸顔なのが私に似てます」


 圓地さんはあはは、とまた笑った。なんだか、嫌な気はしなかった。楽しそうだな、と思った。


「あなたもぜひ旅行に行ってみたらいい。楽しいですよ。その場所で、その時に味わうんです。いろんなものを。風景も、空気も、もちろんご飯も。素敵な時間を過ごしてみれば、ああ、こんなにも楽しいことがあるのかと、思うはずです」


 優しい顔だった。圓地さんが笑うと、なんだか僕も笑いたくなった。それがこの人の人柄なんだろうかと考えてみた。僕も、そういう風に旅をしてみようか。


「大丈夫ですよ。今すぐじゃなくてもいいんです。いつか、あなたの気が向いたときに、ふらっと出かけてみるんです。思い立ったが吉日、というでしょう?」

「気が向いたら、してみます」

「ぜひ。時間が合ったら、もしかしたら、あなたの旅したところに私もいるかもしれません」

「それはやだな」

「どうして!」

「だって、またご飯取られちゃうかもしれないし」

「あっ、すみません……」


 久々に笑った。声をあげて、口を開けて、大きく笑った。


 楽しかった。会話も久々だったから、なおのことなのかもしれない。

 と、圓地さんが、立ち上がった。


「では、私はこの辺で失礼します」

「あ、えっと、工事の方は」

「必要ないみたいですね。それだけ笑えれば、私の仕事は必要ないでしょう」

「え?」


 圓地さんが、扉のところにかけられたロープを取り外してから、こちらに振り返った。にこりと微笑む。


「申し遅れました。私、死神の圓地典史、と申します。それでは、またいつか」


 まるで霧になったように、霧散するように、圓地さんは消えた。右手にしっかりとロープを握って。


 なんだそれ。まいったな。意味が分からない。

 とりあえず、北海道に行く新幹線のチケットを予約しようと携帯電話を手に取った。


 函館山に行って、その夜景を見てみよう。あとのことは、それから考えよう。

 出発は明日がいいなと思いながら、

 明日のチケットが、まだあったらいいなと思いながら、

 僕は検索した電話番号に電話をかけてみた。





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