人混み
ビルが建ち並ぶ、オフィス街。
冬の太陽は目覚めが悪く、空はまだ薄暗い。月曜日であるため、歩道の脇に設置されているゴミ置場でカラスが合唱している。
片側3車線もある横断歩道、赤信号で足止めを食らっている総勢30名ほどの社畜たちが、苛立ちを隠そうともせず地団駄のごとき貧乏ゆすりでコンクリを擦り減らす。
青信号に変わると、横断歩道の向こう側の社畜30名と、こちら側の社畜30名の壮絶な争いが始まった。
お前はどちらに避けるんだ。俺が避けた方に避けるんじゃない。スマホ見ながら歩くな。おい、肩がぶつかったぞ。靴踏まれたぁー!
声にならない声が、代わりに、30+30の、60個分の舌打ちとなって、空に転がる。
道行く人は皆、いそいそと、いらいらと、足早に、追い立てられるかのように、飼い主の元へと向かう。
尻尾を振っている姿を見せるために。
そんな中、全速力で走る男がいた。
まさに、無我夢中で。
見惚れるような素晴らしいフォーム。
時速30キロは出ているのではないかと目を疑うほど、この陰鬱としたオフィス街には似つかわしくない、颯爽とした風のような猛烈ダッシュ。
その姿に、社畜たちは目を丸くする。
時間に追われているのではない。上司を恐れているわけでもない。
そのことは、その精悍な顔つきを見れば明らかだった。
彼は、何者だろう。
「スーパーマン」
誰かが、そう呟いた。
その言葉に、その場にいた誰もが納得した。
正義感に満ち満ちた彼のフィジカルは、まさに人を助けるヒーローのごとく隆々としなやかに跳ねていた。
不意に、サイレンが響き渡る。消防車のサイレンだ。
遠くの方で黒い煙が立ち上っているのも見える。
火事である。
そう、彼は、あの火事で逃げ遅れている人々を救うべく、全力で駆けているのだ。
「がんばれ」
「ガンバレー!」
つい先ほどまで死んだ魚のような目をしていた社畜どもが、拳を振り上げて彼に声援を送った。
この時ばかりは自分の事ばかり考えるのではなく、火事で逃げ遅れた人の生還を祈って。
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このままではまずいということは、駅の改札を抜けたあたりからわかっていた。
1秒でも速く、たどり着かねば。
トップスピードを維持し続けているため、俺の脚はすでに限界に近い。
苦痛に顔を歪める分のエネルギーまで、脚に回して、猛烈に走る。
なんとかなる、なんとかなる、なんとかなる。
頭の中をポジティブな念仏でいっぱいにして、無理やり限界を引き延ばす。
遠くで消防車のサイレンが聞こえたが、毛ほども構っていられない。
今度は「ガンバレー」という声が、自分に向けられているような気がしたが、そんなことはどうだっていい。
今にも、膀胱が破裂しそうだった。
あと200メートルほど行けば、トイレのあるコンビニにたどり着く。
ガンバレ、俺。