EP2
エリュシオンの血液『リザル』は、透明な色をしている。
血なのに透明? と、幼い頃は不思議でならなかった。
というのも、昔はエリュシオンから搾取した血液をそのまま市場に出していたのだが、一部の人や子どもが不安がる、ということで、透明に加工されるようになった。僕が生まれたときは既に透明だったが、母に聞いた話だと、加工前のリザルは綺麗な真紅の色をしていたそうだ。
しかし、事態は一変。今度は、透明になったリザルの誤飲事故が多発した。
リザルが人体に有毒だというのは世間一般の常識であり、仮に知らずとも、あの赤い液体を飲もうと思う者はいなかった。透明になったことにより、水だと勘違いし飲用した子どもの死亡事故が報告されるようになる。
オリジン市街のとある5歳児が起こした誤飲事故を最後に、リザルの色が再び赤色に戻った。
母の言う真紅ではなく、透明に少々赤く色づけした程度ではあるが、それからリザルの誤飲事故は聞かなくなった。リザル専用のタンクを子どもには開けられないような複雑な手順を踏む仕組みにしたり、リザルの入ったタンクを放置した者には罰則が科せられるようになったりしたのも、功を奏したのだろう。
その5歳児は今も生きている。
リザルを飲んだ者が例外なく亡くなっていった中で、前例の無い、ただ一人の生き残りである。
EP2 『転化』
今日は朝から気分が良い。
一時はどうなるかと思ったが、昨日散々悩まされた頭痛も良くなっていた。
今日から仕事が楽しくなる、と思った。
いつも楽しいが、今日からは特別だ。
「ルイス先生、いつ来てくれるんだろう」
さすがに昨日の今日で来店してもらえるとは思えないが、身が引き締まる思いだ。
仕事柄夜遅くまで起きているので、起床はいつも昼過ぎである。起床後すぐに、多めに薬を飲んでおいた。仕事中に頭痛がしたらたまったものじゃない。
今日は早めに家を出て、職場の仲間に差し入れでも買って行こうかと思った。昨日通院して散財したばかりだが……気分が良いので考えないことにしよう。
そういえば、最近あの人に会っていないな。
そうだ、父さんと母さんにも何か買って……いや、やめておこう。
* * *
「あら、リダじゃない! 久しぶりねぇ!」
「久しぶり、アレス。元気してた?」
車の音を聞きつけてか、中からアレスおばさんが出てきた。久しぶりに見る彼女は、前よりも確実に老けていた。
「あ、ちょっとリダ、あんた今ワタシの顔見てシワが増えてるって思ったでしょ」
「すごい、読心術?」
そんなことないよ、アレスお姉さん。いつも美人だね。と心の中で言っておいた。
アレス姉さんは、僕の育ての親だ。
前は本当にお姉さんだったんだが、時の流れは残酷だ。
「今日仕事は? お茶飲んでいく時間くらいあるんでしょ?」
「うん。飲んでく」
あの時と変わらない、入りなれた家へ僕は帰ってきた。おじゃまします、と言うと、ただいまでしょ、とどつかれた。変わってしまったのは僕の方だな。
「薬はちゃんと飲んでるの? 面倒くさがったりしてないでしょうね」
「も、もちろん。今日はばっちりだし」
アレスより先にリビングに入って、テレビの真ん前のソファを陣取った。ここはいつも僕の席だった。
棚には懐かしいものが飾ってあった。僕が使っていたボールペンとか、コンクールの時の写真とか、あと……僕が描いた父と母の似顔絵も。
「あんたがブラック派なのは変わってないのよね?」
「もちろん。砂糖とかいう危険物は絶対入れないでね」
「はいはい」
キッチンからアレスの呆れた返事が聞こえる。彼女は大の甘党だ。
僕がブラック派なのは父の真似である。
「アレス、父さんと母さんと連絡取ってる?」
「ええ、もちろん」
「そう……」
ちょっと、ドキっとした。僕のことを何と言っていたんだろう。
コーヒーの良い香りが漂ってきた。やっぱりアレスの淹れるコーヒーは美味い。アレスの見よう見まねで淹れても、こんな良い香りにはならないのだ。
「どう? 久しぶりの私のコーヒー。変わらないでしょ」
「ん。まぁいつも通り」
「生意気なのをなおしなさいよ、まったく」
いけないな、子どもの頃の癖が抜けきっていない。彼女の前では子どもに戻ったみたいだ。アレスに怒られる前にこれを渡しておこう。アレスの大好きなケーキだ、俺には到底食べきれない代物である。
「ま、気が利くようになっちゃって! なんだか悲しいわぁ」
「どういう意味だよ、それ」
気が利く、か……僕はそんなかっこいい人間じゃないのに。
本当に気が効くなら、今頃父と母は僕と一緒にいるはずだろう。
「これほんと美味しいのよ。わ、バニラのいい香り」
アレスは甘いものを見ると本当に嬉しそうな顔をする。
こうしていると、ようやく恩返しができているように感じる。アレスは母の友人で、僕があの事故を起こしてから、父と母とは離れて暮らすことになった僕の面倒を見てくれた。
あの日、病院に搬送された僕は三日三晩うなされていた。
リザルの飲用で生存した者はいない。医者は諦め気味だったという。下手に薬を打つわけにも行かず、周りの人間はただただ僕の死を待つばかりだった。
だが僕は死ななかった。三日目の昼、リザルを飲んでからちょうど三日が経った時、何事も無かったかのように僕は目を覚ました。隣に座っていたアレス姉さんが目をむいて立ち上がった。
「ラスト! ラスト! 起きたの!?」
あまりの剣幕に僕はたじろいで、そういえば、僕はあの水のようなものを勝手に飲んだことを思い出して、この女性がそのことを怒っているのだと勘違いした。
「あ、あの、ごめんなさい……あの時は喉が渇いてて……」
「いいの、もういいのよ、ああ、お医者様呼ばなきゃ!」
なんだか周りがバタバタとうるさくて、ここが家の自分のベッドじゃないというのはすぐに気がついた。
(もしかして、けいむしょ? 僕いけないことしたから、つかまったの? パパは? ママはどこ……?)
勝手に、涙が溢れてきた。
そのときは多分、パパ、ママ、と必死に泣き叫んでいた。
後から分かったことだが、父さんも母さんも、僕が病院に搬送された時点で警察の事情聴取を受けていた。一歩間違えば殺人だったのだ。というか、当時は僕のように生き返る事例など無かったため、殺人の線で話が進んでいた。
僕が目覚めるのがあと少し遅ければ、二人はもっと酷いことになっていたかもしれない。
僕は、小屋に放置してあるリザルを見つけ、自分で勝手に蓋を開け、勝手に飲んだと説明をした。アレス姉さんも付き添ってくれた。両親は無事釈放された。両親に抱きしめられ、もう皆一緒で家に帰れると思うと涙が止まらなかった。だが、僕たちの周りにできた溝はもう塞がらない。
家に帰ると野次馬ができていた。見たことのある近所の子どもがいて、駆け寄って声を掛けようとしたのを、その子の両親に止められた。それが引き金となったように、しだいに、僕たちの家は、僕たちにとって耐え切れないくらい住みにくい場所となったのだ。
子ども殺し。
殺人犯の家。
責められたのは、主に両親だった。もちろん僕も異端扱いされたが、両親の世間からの風当たりの強さは見ていられなかった。
「アレス、もうラストと私たちが一緒に暮らすのは危険すぎるわ……」
「ええ、わかってる。ニューイースに私の別荘があるの、しばらくそこに逃げて。もう何も考えないで」
「ごめんなさい、あなたまで巻き込んで……」
それから父と母は、アレスの別荘があるニューイースへと越し、僕はアレスの家でお世話になることになった。
名を、ラストから『リダ』へと改めた。アレスが考えてくれた。
……やっぱり僕はとんでもなくいけないことをしたのだ。
あのまま死んでおくべきだった。きっと僕は、人間としておかしなことをした。
人間ならば、搬送された病院で死ななければならなかったのだ。
あの時ポリタンクを放置していた両親が悪いとするなら、僕はもうそれを十分に許した。僕も、勝手に飲もうと思ったのが悪かった。そのことを十二分に反省した。お互いがお互いを許しているのに、なぜ一緒にいられないのだろう?
それから僕は、父と母に会うのが怖くなっている。
いろいろなことを先延ばしにしすぎた結果だ。
養免βを取ったとき、二人に知らせに行こうと思ったが、できなかった。
アレスから知らされてはいるだろうがやはり自分の口で報告したい。
『自分のために、誰かのために働く』ということを教えてくれたのは、父と母なのだから。
* * *
Czのドアを開けると、既に出来上がっているお客さんがいた。
「リダー! 遅い!」
「あはは、ごめんごめん」
「早く弾いてよ~、それか一緒に呑んで頂戴?」
「じゃあ弾こうかな」
「釣れない!」という女性の声と、「ああ? ロジー、俺の演奏じゃ不満ってか!?」という声が重なった。今日もCzは賑やかだ。
「マスター、おまたせ」
「おかえり。”家”に帰ってたんでしょう。アレスの香水の香りがします」
「マスターの鼻すごいね、アレス探知機だ」
「最高の褒め言葉ですよ。早く準備してらっしゃい、あなたのピアノを待っているお客様がいるんです」
ジャズバーCzのマスターことガリルは、アレスの愛人だ。結婚はしていない。
アレスにピアノを習っていた僕は、ガリルにここの仕事を斡旋してもらった。弾き手が足りなかったし、僕の演奏を聞いて、心にグっときた、と当時のガリルは言っていた。
「今日はアタシが一番乗りだったの、だから、リクエスト聞いてくれる?」
「いいよ。なんでも言って」
「やだ、今日のリダすごくイケてる。髪がキマってるわ!」
「毎日そう言っていいんだけど」
今日の僕がいつもよりキマっているのは事実かも。今日から身なりには特に注意するようにした。いつあの人が来てもいいようにね。
見ての通り、ここはあまり静かじゃない。というか、騒がしい。しんみりと感傷に浸りながら呑みたいというお客さんが来店することもあるが、お構い無しに騒いでいる。こうして人が集まった日は特に。
「アタシあれがいい、この前ヴァイオリンと一緒にやってたの。フルートもいた」
「フライ・ウィズ・ザ・ウィンドだね、了解」
僕は今日も、演奏を聴きに来たお客さんのために演奏している。
ピアノの鍵盤に触れたとき、ズキ、と鈍い痛みが脳内を駆け抜けた。
今日はたくさん薬を飲んでいたおかげで目立った症状は現れなかったが、そろそろ薬の量を増やすべきかな。
痛みも、辛い記憶も忘れて、今日は楽しもう。
お客さんの────自分の、ために。
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