第8話
「全く、次は地精霊と契約するってのに、こんな不良物件を掴まされやがって」
「不良だなんて。子供だからわからないことだってあるさ。僕だって小さな頃はきっと、城の大人たちを困らせたんだから」
「地精霊はのんびりな奴が多いが、それでも風とは対属性。火と水と同様に反発するもんなんだぞ。風精霊はおとなしいのを掴まえておくに越したことはないんだ」
「…そう…だったのか…」
「掴まえる地精霊に期待だなァ…。それでも、お前なら、そう悪いことにはなるまいよ」
バルザックと共にこの森を進み始めてから、どれだけ日が経ったのだろう。
彼が僕の心を裏切ることなど、もう少しも考えていなかった。彼が、僕のためにならぬ道を選ぶことなどないと、いつの間にか信じていた。
「そこまで考えていてくれたのに、すまないな。何だか…フルトレンテでは僕の望むことには…少し届かない気がしたんだ…。何かが足りないような気がして…」
「…威力は足りない。それは確かだ」
「威力?」
「アルトルテレサは潜在能力が高い。まだ使いこなせない部分も含めてな。だが子供だ、理解や知識や常識はかなり劣る。それを差し引けばフルトレンテで悪いということはなかった。…しかしジルオールはアルトルテレサを選んだ。そこには、意味もあるのだろう」
僕は何とか頷きを返した。
もう一度考えてみた。フルトレンテの方が、良かったのだろうか?
…いいや。
考え直してみても。やはり心の中で何かが警告する。
足りない。
フルトレンテでは届かない。
ならば、選ぶことはできない。
「アルトは。可愛いと思うよ。少し困った奴かもしれないが、仲良くしてほしい」
「そいつはァ、地精霊にお願いするんだな。俺はお前の契約精霊じゃない」
にべもないバルザックの言葉に、僕は考え込んだ。水精霊と火精霊が不仲なのは有名な話で…おとぎ話の中には、彼らの喧嘩で滅んだ国さえ出てくる。
風精霊と地精霊の喧嘩が派手だなんて聞いたことはないけれど、火に対する水と同様に対属性なのは確かだ。
「…喧嘩するかな…」
「さァな。俺が案内しようと思っていたのは、地精霊の中ではせっかちで、力のある一族だ。合わなきゃ次の候補者も考えてはあるさ」
「お前にも苦労をかけるな」
「好きでやってることに、苦労なんてない。俺はァ、したいことしかしない」
からかうように言う狼の背を追いかけ、薄暗く長い道を進む。
見上げた空は遠い。
この谷よりも深い、メディヴァルの谷とはどんなものなのだろう…日差しは届くのだろうか。
届かないとしたら。そんな深い谷を降りられる人間なんて、いないのじゃないか?
「…精霊と契約していない人間が、メディヴァルに辿りついた例はないのだろうか」
「…さァ。なぜだ」
「いや…何となくメディヴァルは、ただの人間とは…会ってはくれないのかと思って。こんな谷には梯子もかけられないし、風精霊がいないと下りるのは不可能じゃないか」
はははァ、とバルザックが笑う。
「難しくはある。だが、夜光蔓草を使えば、何も術者でなくともいい。谷を下りることは不可能ではない」
「夜光…蔓草…? 光るのか」
そんな草は聞いたことがない。
人里にはないもの。森の中にしか…ないもの?
「この辺りの谷には大体蔓草が生えている。長い年月を重ねたそれは谷底まで届いているのが当たり前だ。草だから、それ自体は普通に千切れるんだが…その中に何本か夜光蔓草ってのが混じっていて、そいつは大人が何人かぶら下がっても切れないくらいには丈夫なんだ。見分けられるのは夜、光るときだけだな。昼間は俺でも見分けられない」
「それをロープ代わりに使えば、下りられるということか…」
「もちろん、上から下まで移動する間ずっと蔓草にしがみついていられたら…の話だ」
「…不可能、かな…」
「失敗例の数は知らないが。成功例が、ちぃとあることは知ってるぜ」
「あるのか、成功例」
「人の望みの強さが、そんなことも可能にするんだろう。人間は面白い」
振り向かない狼がどんな表情をしているのかはわからなかった。
「イシュテアスは、精霊を使ったかな…」
「使ったな。あいつは不利な手段をわざわざ選んだりはしない。お前も無駄な挑戦はせず、使える力は使うことだ」
「…わ、わかっているよ。僕の望みだって、見栄のために放棄していい望みではない」
それでも少し、僕は考えてしまった。
術者…つまり精霊との契約者とは、とても恵まれた人間だ。バルザックに出会わなければ、僕は谷を前に途方に暮れていたはず。
夜光蔓草を見つけ、それを伝って下りた人間は…無事に願いを叶えただろうか。
本当は、そんな風に自身の力で辿りついた者の願いこそを、メディヴァルは叶えるのではないだろうか。
「でもバルザック。僕は…ずるをしているのではないだろうか…辿りついた僕の願いを…メディヴァルは叶えてくれるのだろうか」
「おいおい。お前の大好きなイシュテアスは、願いを叶えただろうが」
「もしかしたら蔓草を伝ったのかも…」
「いいや、そういう男じゃない」
「えぇえ?」
軽々とそう言い放つ相手に、思わず僕は情けない声を上げる。答えてくれたらいい。答えてくれなくても、いい。
でも、この疑問を僕が口にしないでいるのは無理だ。
「…お前、本人を知っているの? 最初は魔物の間にも伝承が残っているんだとばかり思っていたんだけれど…言い方がちょっと…。それに、あんまり好きではなさそうだな?」
狼は鼻で笑った。
「お前の崇拝する偶像を壊す気はない。ただ、お前のほうが気に入ってはいるがね」
「…本当に知っているのか? …彼がどんな人だったのか…知りたいな」
「今、尋ねずとも。お前がメディヴァルに辿りついたのなら、願いは思いのままだろうよ。ほら、そのためにも地精霊と契約だ」
バルザックはこちらを向いて地べたに座ってしまった。困惑して、僕は彼を見つめる。面白そうに目を合わせたまま、何も言わない彼に僕は問う。
「…ここに地精霊がいるのか? …特に、誰の声もしないぞ…今までは向こうから声をかけて来てくれたのに。それとも僕が何かするべきなのか?」
「いいや、地精霊たちはお前に契約を求め続けている。何も聞こえないか…本当に?」
そう言われて、よく耳を澄ませた。
聞こえない。やはり、何も。
そう言おうと口を開きかけて。
出かけた声を飲み込んだ。
からから。ぱらぱら。
砂利を零したような音。少しやんでは、また、からから。
辺りを見回しても、音の出所はわからない。
「…聞くのは…声じゃ…ないのか?」
「本当は声なんだがな。こいつはいい」
面白そうに笑うバルザック。
僕は音の出所を必死に捜す。
やがて岩壁が少しだけ削れては、その粉が落ちる場所を見つける。
「…契約」
うっすらと岩壁に刻まれた単語。
僕が見つけた途端に、その文字は消えた。
「名がわからないと…契約ができない。貴方の名を伺っても良いだろうか」
消えてしまった文字に指を触れて尋ねると、極々小さな声がようやく聞こえた。
「…ラグレンディア」
バルザックはやはり面白そうに笑っている。
この地精霊は彼の目にどう映っているのか。思いながらも、心は決まっていた。
「では、ラグレンディア。僕と契約していただきたい。共に来ていただけるだろうか?」
返事が、聞こえなくて。少し躊躇う。
長い沈黙のあとで、微かな声がした。
「…そうする」
安堵しかけた僕の足元から、岩が身体を這い上った。
息を詰めた僕が岩に包まれたのは一瞬で。視界は大きく揺らいだものの、僕は意識を手放さず…何とか両足を踏んばって立っていた。
ぶれかける視界を宥めながら目線を上げれば、そこにいたのは俯きがちな男。見た目だけなら…僕よりも少し年上だろうか。
「貴方がラグレンディア?」
よろしく、と声をかけた僕から、相手はふいと目を逸らした。
何か気に障ったのだろうか。
思わずバルザックに目を遣ると、狼はにやりと意地悪そうに口許を歪める。
「驚異的にシャイな地精霊だ。地精霊にはのんびり屋で大らかな性格が多い中で、これまた珍しいのと契約したな」
「…ここには他にも地精霊がいたのか?」
「いたとも。皆お前に声をかけていたのに、お前には何も聞こえない。契約しようと口にも出せず、いじけて壁に文字掘るような奴を、お前は選んだわけさ」
僕は改めて地精霊を見た。
相手は怯えたように少し後退りする。
精霊のほうが圧倒的に優位であろうに、なぜだ…。
王族だからと、無闇に威張っているつもりはないのに。第一、精霊にとっては僕が王子だなんてこと、何の関係もないのではないのかな。
それでも力を借りる立場である僕が、精霊にとってどこか威圧的に見えるというのならば…それは良くないことだ。
「僕はこの御守りに精霊の居場所を作ることにしているんだ。水の板に木の枠組みに、つむじ風が入っている。貴方の居場所はどうやって作ったらいいかな?」
首にかけていた鎖を外して手に乗せ、地精霊へと差し出して見せる。相手はちらりとそれを見たが、すぐに目を逸らしてしまう。
一歩踏み出した。
肩を震わせた地精霊は俯き、僕はもう少し相手に近付く。
できるだけ、優しい声を出すように努めた。
「何か失礼があっただろうか? せっかく契約したというのに非礼を働いたのなら…」
「…違う。ただ、あまり…俺は役に立てるとは思えない。俺に…期待しないでほしい」
小さな声。
精霊とは自信満々な生き物だと思っていたので、少し驚いた。
「ははァ。自ら契約したがっておきながら、よく言う」
バルザックがせせら笑う声に唇を引き結んだラグレンディア。
期待するなと言われても。
地精霊というものの力がどんな形で作用するのか、正直僕は知らない。
かといって、お前には期待をしていないよ、だなんて…嘘でも言えやしない。彼が本当にそんな言葉を望んでいるのかどうかは、わからないけれど。
大体にして、お互い様なんだ。僕だって精霊をよく知りもせずに、勧められるがままに契約している状態だ。
もしも力及ばず望む成果を出せなかったとしたら…それは僕の采配が悪かったのであって、契約精霊が力不足だからでは決してない。
「奇遇だな。実は僕もあまり、上手に精霊を使いこなせるとは思えないんだ。知識もなくて。恐らく貴方にも迷惑をかけることと思う。前もって詫びておく」
驚いたようにラグレンディアは顔を上げた。
初めて、目線がひたりと合わされる。
子供には見えないが…もしかすると、まだ彼は年若い精霊なのだろうか。もしくは前の契約者との間で何か失敗をし、自信を失ってしまったとか…。
どちらにしても、僕とてこの森に入って初めて精霊との契約が可能になった身だ。バルザックの言う『術者』とはちょっと名乗りにくい。
見習い中、初心者でしかないのだ。
「お互い、失敗もするかもしれないが。何、誰にだって初めてのことはあるだろう。僕はただ、貴方たちに借りた力が民を傷つけないことを望む。それ以外は状況に応じて、一緒に考えていこう。僕らが誤れば他の精霊たちも手を貸してくれる。心配は要らない」
地精霊はしばらく黙っていた。
それから、ついとこちらへ指を向ける。
「その、緑石に…してもいいかな」
「うん?」
「棲み心地が良さそうだ。大事にされてて…石も、ジエラルーシオンを守りたがってる」
思わず御守りを見下ろした。
「そうなのか…それは嬉しいことだな。では、ここをラグレンディアの居場所にしよう。僕はどうすれば…」
「薄く、被膜で覆うようにイメージしてくれたらいい。あとは俺がやる」
石の上に、薄い膜を掛ける…?
地精霊の力というのがどうにも想像できず悩んだが、不意に先程足元から岩に覆われたことに思い至る。
あんな風に岩で緑石を覆えばいいのか。…けれど、せっかくの緑石の色を隠したくはない。覆うのなら、岩ではなくて水晶か何かがいいな。
思い描くと御守りの中心にパキリと音を立てて結晶が立ち上がり、硬質で透明な水晶が咲く。これを、薄く…緑石を覆うように…。水晶はまるで水のように溶けて、見る間に緑石の表面に馴染んだ。
「これで、大丈夫なのかな…」
「うん、十分だよ、ジエラルーシオン」
良かった。僕は確実に進んでいる。
これで、残るは火精霊…のみ…。
「ジルオール!」
バルザックの慌てた声が、真下から聞こえた。
意味がわからなくて、ゆっくりと視線を落とす。
狼が、僕に潰されている。
「…お前、なぜ僕の下に?」
「倒れてきたんだよ、お前がっ」
言われてみれば確かに、身体に力が入っていない。
とりあえず友人の上からは避けたい。そう考えた途端、ざぶりと水の塊が現れた。
波に流されるようにバルザックの上から避けられた僕は、いつの間にか岩の割れ目から生えてきた木の椅子に座らされている。
「…面倒をかけて、すまないな」
恥ずかしくなって呟くと、水精霊が笑う。
「気が緩むのはまだ早いぞ、ジエラルーシオン。私たちとの契約は終わりではなく、始まりに過ぎない」
全く、その通りだ。
緑精霊も、木の葉がさざめくような笑い声を立てた。
「少し休んだほうがいい。慣れもせぬうちに一日に二つずつのエレメントと契約してきたのだから、身体にも負担となっているのだろう。幸い、まだ日も高い。ジエラルーシオン…先のことを考えれば、休息も義務だ」
それもまた、真理だ。
風精霊がつまらなそうに声を上げる。
「えぇー、早く先に進もうよぉ。そんな悠長なこと言っちゃ駄目だよ、ジルオールは早く行きたいんだよ。僕、知ってるんだから」
うん。立ち止まる間が惜しいのも…事実なんだ。
ぽつりと、目前に立つ地精霊が呟いた。
「負担をかけて…ごめん。俺のせいだ…」
「ラグレンディア、それは…」
違う、と言いかけた僕の声を遮って、ドルアリィグの声が穏やかに諭す。
「術者の負担になりたくなければ、己をコントロールすることだよ。頑なな自己否定は、術者がお前の力をうまく扱えなくなる要因となりえる。ジエラルーシオンは、お前を信じて契約した。応えようと応えまいと、それはお前の自由だ。しかしお前が苦しみに捕らわれれば、彼はとても悲しむ。ジエラルーシオンが泣くのを見たいかい」
「…な、泣かないよ。そんなプレッシャーをかけないであげてよ。可哀相じゃないか」
思わず呟いてしまうが、ドルアリィグはくすくすと笑う。地精霊は唇を引き結んだまま、姿なき緑精霊の言葉を聞く。
「ラグレンディアにもすぐにわかる。ジエラルーシオンの内界に踏み入れば、嫌でも理解する。アルトルテレサでさえも理解した」
アルトルテレサ?
我儘で天の邪鬼の可愛い風精霊。説明には斜め上の思考を見せる彼が…理解した?
「アルトは何を理解したんだ?」
「術者が何を望むか。私たちがどう振る舞うべきか。我々は契約精霊だ。契約者の望まぬ力を振るいはしない。さぁ、ラグレンディア。お前には内界を見てもらわねばならない」
怯えた目をしたラグレンディアは、しかし意を決したように頷くと姿を消した。いまいち理解のできない僕だけが、ぽつんと取り残される。
「ちょっと引っ込めばジルオールが好む傾向がわかるようになるから、それ見てそういう感じで仕事しろよって話だ。ただの先輩精霊の指導だろ、そう悩むな」
そんなに腑に落ちない顔をしていたのだろうか。狼が鼻で僕の脚をつついた。
「そんな話だったか?」
「そうさァ。ドルアリィグは年寄りだから言い回しがくどいだけだ。アルトルテレサなら簡単にしか喋らないぞ。ガキだからもっと語彙が少ない。シャロレイトラハならお前にわかるように上手に話すかもしれないが、顔色窺うだろなァ…あいつは、お前と契約してからここまで来るうち大分変わった」
「…変わった…? まだ会って少ししか経っていないぞ、こんな短い間にか?」
「時間は関係がない、何を感じたかだ。精霊はその気になれば世界の始まりから終わりまで生きるが、それでも変わらない奴は変わらない。人間は短命で脆いのにな、俺たちとは何かが大きく違い、そしてそれが面白い。契約する精霊は、必ず術者に傾倒する」
不意に僕の横に現れたつむじ風が、くるくると砂を巻き上げた。
アルトだな。
そう考えた僕の前に、風精霊の子供がぱっと姿を現す。
「ジルオールは戦いたくないの?」
感情の読み取れない、表情。
無表情と言うには冷たくなくて。彼がどんな思いでそう口にしたのかがわからなくて悩む。
「…僕は…、民を傷つけたり殺したり、そういうことをできるだけしたくないんだ。民とは兵士を含む。それが他国であっても」
「傷つけなければ戦ってもいい?」
「…何の話だ? 何を前提にしている?」
アルトは口を噤んだ。