第5話
緑色の木々や葉の隙間から、青に茜を流したような空が覗く。
そういえば、瞼の裏に精霊が見えたのだと…自覚があったはずなのに。
唖然とする僕の目の前に、ぬっと現れたのはバルザックの黒い鼻先。つんつんと僕の鼻や頬をつつき始める。
「冷たい。バルザックの鼻、冷たい」
「はははァ。起きたな、ジルオール」
「冷たいったら。もう、起きたよ、起きた」
笑いながら僕は身を起こした。鼻先を押しつけられたせいで濡れた顔を手の甲で拭って、ふと気がつく。…ドルアリィグ。彼はどこへ行ったのだろう。
「ここに居るとも」
声が聞こえて、すぐ隣に精霊の姿が現れる。やはり随分と背が高い。
目線の高さは合わせようがないが、座ったままで問うのも失礼だ。立ち上がって相手を見上げると、ドルアリィグが面白そうに僕の顔を覗き込んだ。
「お前は目を合わせるのが好きか。私は人の背後を守るのが好きなのだが、お望みならば前か横に居るようにしようか」
「…いや、その…どこに居てくれても構わないのだが、御守りに貴方の居場所を作らなくてはならない。どうすれば良いのか、教えていただけるとありがたい」
「契約精霊は術者の内界に居場所を持つが…」
ドルアリィグは、意味がわからないというように首を傾げた。僕もまた、彼の言葉の意味がわからなくて首を傾げる。小さく笑ったバルザックが、意図を引き継いだ。
「ヤドリヤナギがいいだろう。ドルアリィグはヤドリヤナギに好んで棲むようだ」
「…あぁ、私の居場所というのはそういう意味か。そうだな、外界に媒体があるほうが動きやすいし、術者の負担も少ない。その首飾りにヤドリヤナギの枠を付けようか」
ドルアリィグが僕の前に手を差し出す。
小さくて細い枝が乗せられている。
「伸ばして、水の板を縁取るといい」
御守りを取り出して、目の前の枝が伸びるのを想像する。水の縁に触れた枝は、同化するように境界を滲ませた。木枠のついた御守りに、緑の精霊が頷く。
「私は主の魔力を消費せずとも実体化に支障はないが、シャロレイトラハが可哀相なので、同様に首飾りの中で休ませてもらおう。いつなりと呼ぶがいい」
返事も待たずに姿が消えた。
その様子にやはり少し躊躇いながら、僕はそっと御守りに指先を触れる。この中に深緑と湖を閉じ込めたなんて、とても不思議だ。
「実体化すると魔力を消費するのか」
「そうさァ。元々精霊とは目には見えぬもの。魔力のレンズを通して、ジルオールは精霊を見る。精霊が実体化するというのは、ジルオールの魔力を使って、精霊が万人の目に映るようにするということだ。人に似た姿を取る間、契約精霊は術者の魔力を消費する。シャロレイトラハが特殊なわけじゃない。ドルアリィグが、他とは比べものにならないほど老練だから、己の力と主の魔力を置換して実体化する何かの術を持つのだろうな」
「バルザックのように会話をしたり触れたり、…常にできるわけではないのか…。せっかく仲間が増えたと思ったのに」
「ジルオールの魔力は精霊を常に実体化しても尽きないだろう。けどなァ…四精霊…基、五精霊も常に場に置くとなると…力場が不安定になるかもしれないな。力が一つ所に満ちすぎる。周囲の精霊が引きずられて、意図するより大きな魔法が発動するかもな。対属性の反発力も大きくなるだろう」
バルザックの言葉は今一つ飲み込めなかったが、とにかく出しっぱなしは何事も良くないということなのだろう。
「…あの霧も精霊の移動だという説がある。どの精霊に聞いても、知らんと言われるがね。大きすぎる力はあんな風に場を乱す可能性がある。他の生き物を飲み込んだりなァ…」
小さく首を振ったバルザックに、ふと問いかけた。この森を守れるのなら、大抵のことは好きだという、彼は…。
「あの霧を消すことを、メディヴァルに願おうと…思ったことはないのか?」
「…は…ァ?」
「いや…恐ろしいものだと思うのだが、なくなればいいとは思わないのだろうかと…」
バルザックが、きょとんとした顔で耳を二、三度動かした。それから、ゆっくりと瞬きをして見せる。
「俺は魔石に願わない。なァんにもね」
「…そうなのか? でも…」
「魔物はメディヴァルを探さないし、獣は欲しがらない。願えるとしても…そうだな、俺はやっぱり何も願わないよ。そういう風にできてる」
「…できてる?」
「人間は願うようにできてるんだろ。俺は、できてない。俺はしたいことしかしないようにできてる。人間は、できてない」
その言い方がおかしくて、僕は笑った。
「したいことしかしないのか。やりたくないことを、しなくちゃいけなかったら?」
「しないとも。だって、しなくちゃいけないことなんか一つきりしかない。だから、気に入った奴には良くしてやるし、気に入らない奴には悪くするのさ。そうすりゃァ、結果的には、したいことしか側に寄って来ない」
「えぇ? 何だかよくわからないなぁ。嫌いな人にわざわざ嫌な態度を取ったりしたら、その人の知り合いに頼み事があるときに不都合が出たりするんじゃないのか?」
「だからァ、人間は、そうできてないんだろ」
胸を張ってそう言ったバルザックは、ふと鼻先を来た道へと向けた。笑いを慌てて引っ込めて、僕も周囲を警戒してみる。何も…怪しいものは見えない。
「…バルザック?」
「うん。いや。帝国兵がな。随分と無茶をするなァ…」
「…っ…、追いつかれたのか」
「いいや。案内もない奴ァこんなところまで来られないよ。ただ…泣くなよ、ジルオール。魔物と大きな戦闘になっている。仕掛けたのは帝国兵だ。どうやら帝国は進まぬ開拓に業を煮やして、魔物狩りを始めたらしい。まァ、全て焼き払えば見晴らしはいい。魔物の棲む森を抜けることは可能になるかもな」
唖然として。
僕は見えぬ森の向こうを見つめ続けた。
魔物狩り。なぜ。
森を拓かなければ、魔物になど遭うことはないのに。
どうして帝国は、いちいち戦を選ぶ…?
「…おい。泣くなよ?」
「泣かないよ。泣いてなんて…いない」
けれど。
確かに、泣きそうな顔は、しているかもしれない…。
あの日、葉陰に見つけたレモンイエローの卵は無事だろうか。
鳥か蜥蜴か蛇か…そんな魔物の、小さな赤子が産まれるはずの卵。危機にさらされれば、親は卵を守りに来るだろうか。
もしも来なかったら。もしも、生まれる前に、壊されてしまったら…。
幾多の国を焼き払い、数多の民を殺してきた帝国だ。姿形の違う、言葉も通じぬ魔物を狩るのに…躊躇いはないだろう。
「…ジルオール。嫌いな帝国兵でも。出会えば我が身が襲われるかも知れない、見知らぬ魔物の死でも。お前は悲しいか」
答えようと息を吸ったが、胸が痛む。
痛みで声にならずに細く吐き出せば、それもまた痛んだ。僕は急がねばならない。
「…悲しい。だからこそ。メディヴァルが必要だ。精霊と契約をするのなら早く終えてしまおう。時間がない、進まないと。皆死んでしまう。攻めるために。守るために。そんなことのために…皆、死んでしまう…」
何とか絞り出した声に、バルザックは片耳を伏せた。
「お前はイシュテアスを見習うべきだ」
「…え…?」
「イシュテアスはお前が思うような気高く勇ましく優しい完璧な英雄ではない。目的のために手段を選ばない非情さも、己が死なぬために仲間を矢面に立たせる冷酷さもあった。計算高く、精霊も魔物も人間もメディヴァルも、使えるものは全て使った」
…仲間を矢面に…?
初めて聞く話に、僕は耳を疑った。
口伝も書物もイシュテアスの英雄性を説き、非情や冷酷に触れることなどない。それでも英雄を讃える気持ちは揺らがなかった。裏を返せば…それだけのことができない人間には、偉業を達成することなどできないのだ。
「英雄なればこそ…時には決断が必要なのだろう。僕のようでは…王の器ですらない。わかっている。…自分が一番わかって…」
「わかっていない!」
グルゥ、と喉を鳴らした狼に、思わず目を見開く。牙を剥くバルザックの目には、怒りの色さえ見える。
「…お前…どうして、怒っている…?」
地に片膝を付き、獣の前に手を伸べた。
鼻の頭に皺を寄せて唸る獣を、しかし恐ろしいとは思わなかった。指先でその皺を撫でて、牙を露にする口の端を摘む。牙を隠すようにそれを引き下げると、困ったように、バルザックは不満げな声を出した。
「こ、こら、そこ摘むな。…むぅ」
「僕はイシュテアスにはなれない。それでいい。この身に流れる血に縋り、不相応な誇りを持つ気はない。そんなものより今、ここで、零れ落ちる命こそ僕が守らねばならぬもの。不肖の子孫故、偉大な先祖に報いる力はない。城を追われ身を潜めるうちに失ってしまった、沢山の命にこそ…僕は報いねば」
茜の強くなる空を見上げ、立ち上がった。嘆く間にも…誰かが死ぬ。進まなければ。
「バルザック。風精霊のところへ案内してくれ。風と、地と、火と。契約をしたら、次はメディヴァルを探すんだ」
「…お前は。強いのか弱いのか、わかんないなァ。…お前は…」
溜息をついた獣は、牙も鼻の皺も隠して、つんと鼻を上げて見せる。
「…考えたって仕方ないさァ。俺はお前が気に入っていて、それは変わらないんだ…。風精霊の声が聞き取りやすい場所へ行こう」
「森の奥へだね? どんなところ?」
「谷だよ。ツルギノアト」
「…剣の…跡?」
「そうさ。昔々の地名だ」
狼が足の裏を見せながら軽やかに歩く。
ちらりちらりと覗く肉球につい微笑んでしまいながら、僕はその後を追いかけた。
「我が国の建国前の歴史か?」
「そうだ。もっと精霊も人間も魔物も身近で、集落は小さくて、素朴で野蛮な時代だ」
建国前というと先史時代だ。あまり書物には記述がない。
昔の地図もないし、解読に至らない古語も多い。
発掘された遺跡にぽつりぽつりと刻まれた歴史の破片は、空から大きな氷の塊が落ちてきただとか、夢だか現実だかわからないようなものばかりだ。
「お前はいつからここにいるんだ? 僕らの知らぬこの地の歴史を、魔物は覚えているのだろうか」
「…ふふん。さァね」
「地名など誰に教わるんだ? 親か?」
「教わりゃしないよ、ジルオール。俺はただ知っているのさ」
ふさりふさりと左右に尾を振って、バルザックは僕の質問を退ける。気乗りのしない質問だったのだろうか。
だが今は、他にも聞ける人がいる。
「…シャロレイトラハ。尋ねても?」
「なんだ、ジエラルーシオン」
名を声に乗せると、すぐに水の精霊が姿を現した。しゃらりと長い裾を揺らす彼女に、同じ問いをかける。
「あの湖にはいつから棲んでいた? 建国前の地とはどんな様子だったんだろう」
「…ふぅむ。すまないが、わからないな。精霊はあまり時を数えない。長い長い時を生きる我らには、移り変わる人の世の流れなど、さざ波が日差しを照り返す程度も気に留める必要のないものなのだ」
「…そう…なのか。残念だな…とても…」
何だか拍子抜けしてしまった。
誰も知らぬ歴史が紐解かれるのならば壮大なロマンだとさえ思ったのに…。バルザックもシャロレイトラハも、何だか淡白だ。
がっかりする僕に、水精霊は小さく笑った。
「貴方は本来穏やかな性質なのだな。あの湖は私の生まれた場所だ。つまりこの水精霊が長い時を過ごす、更にそれよりも昔からあの場所にある。森が守られているから今も現存しているが、開拓が進み人が入り込めば、いずれ消滅してしまうでしょう。帝国兵が入り込む現状に、人との契約を求める精霊は多い」
「…な…ぜ?」
「水が湧き、木々が土を支え、土が水を留める。森を拓けば木々が死に、土が乾き、水は涸れる。水精霊は人と契約をせねば、それほど他者に影響を与えることはできない。住処を失えば精霊界へ帰るしかない我々の仲間には、ジエラルーシオンと契約し、帝国兵を薙ぎ払いたいと願うものは少なくなかった」
「…精霊も…戦を望むのか…」
「それを望まぬ私と契約したのは正しい」
俯いた僕をどう思ったのか、シャロレイトラハはこちらに気づかうような目を向けたあと、消えた。
「ドルアリィグ…も? 戦を望んではいない…だろうか」
緑の精霊は姿を見せずに声だけを返した。
「緑精霊には戦を望むものは少ないよ。私は、お前の望みに一番寄り添えるものは私だと判断したにすぎない」
「そう…。精霊が皆、帝国に対して戦を望むわけではないのだね…」
「人にしろ精霊にしろ、住処に愛着があれば守りたいと思うのは道理。しかし緑精霊は四季が移り変わるように、枯れ行くこともまた当然と受け入れるだけのこと。安心するといい、お前には戦を望む精霊の声は聞こえまい。お前と契約する精霊は、戦を望まないよ」
そうだろうか。
本当は僕が戦うことを望むのに、そのようにしたくて手を貸したのに、僕が帝国兵と戦わないことに落胆してしまったりはしないのだろうか。契約済みの二人は大丈夫だとしても…この先は。
「ジエラルーシオン、そろそろ野営の支度をするといい」
バルザックの声に我に返った。
慌てて空を見上げれば、既に広く藍色が広がっている。
僕が、気絶なんてしてしまったから…。苦い思いで、バルザックを見つめた。
「もう少し、進めないだろうか。今日は天幕を張らなくともいい。食事も要らない。毛布だけ被って眠るから」
「駄目だ。ヤドリヤナギを集め、食事をして眠れ。俺は今日は歩かない。勝手に進んでもいいが、夜は迷うぞ。備えもなく霧が出て、進めぬうちに朝が来て、意味がない」
「…でも…」
「きちんと眠らねば体力がもたない。風精霊との契約でも意識を失いたいのか?」
しょんぼりと項垂れる僕を、ドルアリィグが宥める。シャロレイトラハも続いた。
「私がヤドリヤナギを集めよう。しかしそれには命令が必要だ、ジエラルーシオン」
「我々に身の回りの世話を命令されよ。それだけで、ある程度外界に干渉できる」
「…命令しないと動けないのか?」
「そうだ。契約精霊は契約者の意思に応じて力を振るうもの。契約も術者の命令もなく沢山の力を使うと場を乱すとして精霊界へ戻され、処罰を受ける…場合もある」
「少しくらいなら問題ないがね。本来我々はただそこにあり、各種の力を司るだけのもの。自らの意のみで奔放に力を振るうこともできなくはないが、世界にとって異質なのだよ」
精霊にも色々とルールがあるのか。