第4話
自己嫌悪から地面を見つめてしまう僕に、ころころと軽やかな笑い声が降る。
「さて、貴方の御守りをお返ししよう。鉄は勝手ながら外させていただいた。しかしこの鉄もまた面白いのだよ、バルザック。ヤドリヤナギの匂いがする。製鉄の燃料にヤドリヤナギを使用しているのだろう」
「…ははァ? 成程、道理で単独ながら、魔物にも襲われずあんな場所まで無事入り込めたわけだ。霧にあわなかったのだから、運が良いことに変わりはないがねぇ…」
口を挟めずにぼんやりと話を聞いていた僕に、鎖と緑石が放られた。
慌てて受け取ると、確かに僕の御守りに嵌め込まれていたもののようだ。鎖も返してくれたけれど、石だけになってしまったからには、通すのは無理だ。
なくさないように何か袋にでも入れておかなくては…そう思ってごそごそと荷物を探り出した僕に、呆れたような声が二つ。
「ジエラルーシオン…貴方は無欲だな」
「水で台を作れば良いじゃないか。石をなくすなと命じて、水を鎖に通すんだよ」
普通はそんなこと、思いつかないと思うのに。
何だかまるで僕が悪いみたいじゃないか。理不尽な気がしたけれど、言われるがまま、僕は石を見つめ直した。
本当に水が台座になってくれるのだろうか。
いや、二人が言うのだからできるのだろう。元の台座と変わらない大きさで、石を落とさずに…鎖に通す穴も必要だ。
じっと緑石を見つめて考えると、ぷかっと宙に現れた水の玉が石を包んだ。いや、全部水に包むんじゃなくて。そうそう、半分くらいまでの厚さで石を押さえて、もう少し平たく…そして穴を開けて、鎖に通す…。
「…できた…かな…」
恐る恐る水の板を摘むと、ひやりと冷たい。
氷でもないけれど…しっかりと板状の形を保っているから液体とも言い難い。不思議な感触。
濡れないことを確認してから鎖を首にかけ、服の下に御守りを落とした。
服の襟元がじわりと濡れるのではないかと危惧したが、幸いにも形を保ち、溶け出してはいない。
「うん、ジエラルーシオンの象る力は悪くない。あとは何ができるのかという想像力の問題だな。水には大抵のことができる。できないことがないとでも考えていればいい」
「…水に?」
「はははァ、大きく出たな、シャロレイトラハ。ジルオールも、そう無垢に信じるな」
「えぇ?」
もう、何を信じればいいのやら。
勝手なことばかり言う彼らに、けれど口を挟めるような知識が僕にはない。
「何を言う、バルザック。水こそ四大精霊のうちでも最も優れたるもの。地精霊をちょいと使えば、火精霊などおらずとも火を起こすことさえして見せよう」
「…水で…火を?」
「ジルオール、それは水分抜いたものに火打ち石をぶつけるような意味だからな。術者の発想次第というだけのこと。基本の使い方に慣れてからでいい」
何となく理解した。
直接水を操るのが水精霊。その水を増やして物を濡らしたり、減らして乾かすのが術者の意思。結果を考え、それに沿った指示を与えるのが精霊魔法。
では、僕がここで地面を濡らしたいと思えば…と、考えたところで水の玉が宙に浮かんだ。
不自然だ。
もっと雨のようなのがいい。
そう思った途端に水の玉はばっと分裂し、水滴になって地面に降り注いだ。これを乾かしたいと思えば、落とした水を空気中に…。
「ジエラルーシオン、それは…」
シャロレイトラハの声に顔を上げた僕の前に、濃い霧が広がった。
二人の姿が見えない。
「あっ」
乳白色の濃い霧。
青白い顔の男を思い出し、反射的に竦んだ。僕の怯えを見透かしたように、バルザックが笑う。
「はははァ。ジルオールの霧は無害だがね、その水は湖へ返したほうがいい」
「…そうか。そういう風にしたら、こんなことにならないんだね」
集めた水は、空気中じゃなくて水の中に返してやればいいのか。空気中から奪った水を戻すならまだしも、余分な湿気を放出すれば靄がかってしまうのは当たり前だ。
「貴方は飲み込みが早い。イメージするのに必要であれば呪文を、と説明しようと思っていたのだが、どうやら不要のようだ」
霧を湖の中に返してしまうと、微笑んだ水精霊が僕の方へと歩み寄る。
「貴方の御守りを現世との媒介としましょう。姿が側に見えずとも、力は使える。必要であればこの名を呼び、何事でも命じるといい」
僕の襟元に手を伸ばした彼女の姿は、唐突にかき消えた。ぽかんと口の開いた僕を見て、狼が教えてくれる。
「水精霊は好んで水に棲むものだ。ジルオールの御守りが水でできていなければ、水筒にでも棲むのだろうよ」
精霊と契約すると、その精霊が棲める媒体を持ち歩かなくてはいけないのだろうか。それぞれの精霊に合った媒体を幾つも…?
「…バルザック。そうすると、火精霊と契約すると松明を常につけておかなくてはいけないということ?」
「ははァ、それは面倒だな。同じように御守りに火の要素を閉じ込めればいい。風も土もそこら中にあるがね、御守りに四精霊を詰め込んでも構わないのさ」
「火の要素…熱くない? 服が焦げたりとかしないかな…水で包んだりできる?」
「水で炎を包むこともできるが…、当然ながら火精霊は拗ねるだろうな。好んで契約を結んだ精霊は、わざわざ契約者に危害を加えたりしないものさァ」
拗ねられるのは何だか困る。
熱くない火はなかなか想像できないけれど、契約する以上は相手を信じなくては。
「だけどな、ジルオール。次はァ、風精霊だ。精霊に慣れていないうちは、当たりの柔らかいものから順に契約したほうがいい」
「…柔らかいもの?」
「水の声は一番聞き取りやすいから、精霊を見たこともないなら水から始めるのがいい。契約時の身体への負担も一番少ない。風は水の次に声が聞き取りやすい。ただァ、風はそこら中にいるから、精霊同士の繋がりが強いんだ。一体に嫌われるとその一族全てが相手にしてくれなくなるから、精霊がどんなものかを知ってからのほうがいい。まァ、ジルオールなら心配は要らないがね。次に契約するのが地。地精霊との契約は結構身体に負担がかかる。彼らには移動概念がないからァ、お目当ての精霊がいるならその精霊が棲んでいる土地まで出向かないといけない。ちゃんとお前に合う奴を案内するさァ。最後が火だな。焚き火を媒介にしても簡単に呼び出せるが、ちぃっと攻撃的だ。下手な術者だと契約しようと呼び出した途端に黒焦げにされる場合もある。…大丈夫だ、お前は風以外の精霊に挨拶をしている。無下にはされまいよ」
言われる言葉に少し迷って。
もちろん、火精霊に対する心配もあるのだけれど…それとは別のことを、僕は口にした。
四精霊…その種類。
どうやら僕が思っていたものと、バルザックが考えているものとは相違しているようだからだ。
「四精霊というのは水と地と…風と火? 緑はどうして入らないんだろう?」
「…緑ィ…?」
「風精霊はもちろん、いいんだ。手を貸していただけるのなら契約をお願いしたい。だが、僕が洗礼で挨拶をしたのは、緑と水と火と土。深緑と霧のグライア・メディエノルで…水に触れたのに緑には触れないだなんて…。この二つは他より先であるべきなんだ」
はははァ、とバルザックが呟く。
風精霊が悪いだなんて思っているわけじゃない。ただ、緑は当然にあるものだと…。
「緑の精霊は存在するはずだ。ならば、疎かにすることはできないよ、バルザック」
考え込む僕に狼は笑う。
「精霊は多種多様に存在する。しかし精霊魔法というのは大体四大精霊の組合せなんだ。だから俺の言う四精霊はどうしても必要だ。だが、お前が望むのなら、緑の精霊とも契約をするといい。それは木々の生育を助けたり、奪ったりする力だから、ただ魔法を戦術と考える大半の術者にとって一般的ではない」
黒い鼻先をくいっと上げて、バルザックは僕に問う。
「先に、緑の精霊と契約するんだな?」
迷わず僕は頷いた。
「そうしたい。水と緑というのは僕にとって特別な存在なんだ」
この地に生を受けたものとして、水と緑を司る精霊と繋がりを持てるのなら、こんな光栄なことはないだろう。
「はっははァ…困ったな、あちらさんは大層喜んで立候補がひっきりなしだが、肝心のジルオールには声が届かないようだ」
「…うっ…。さ、才能がないってこと?」
「いいや、波長の合う奴がなかなかいないんだろう。契約しやすい場所というものもある。シャロレイトラハと、湖で契約したようにな。もう少し声が聞き取りやすい場所へ…」
ぴくりとバルザックが耳を立て、警戒するように木々の奥を見つめた。
僕は息を詰めて、彼の視線の先を追うが…何も見つけることができない。
見えないけれど…誰かが僕の名を呼ぶ。
「ジエラルーシオン」
呼ばれた声音は静かで。どこか、恐ろしい。
返事をしようと口を開きかけて、僕はバルザックを見つめる。戸惑うような狼の様子が気になって、どうしたらいいのかわからない。
「…バルザック…? これは…」
「ジエラルーシオン…私と契約しよう。ドルアリィグの名を呼び、契約を」
風で葉が擦れ合うような静かな声だ。
…何も、怖いことはないはず。
ただ…そう、これは大樹の前に立つときに抱く畏れに似ている。
少し迷ったあとで、バルザックは頷いた。
「あれだけ騒いでいた他の精霊が遠慮して静まり返るたァ…とんだ大物だ。どうかな…波長は合っているが…試してみるかい」
「駄目だとどうなる? 死ぬのか?」
「…死にゃァしないとは思うがなァ…。精霊の力が相容れずに外れるのだから、少し痛い目に合うかもしれないなァ…。うぅん、お前に受け止められるかなァ…」
僕の力不足が原因ということか…だけど、せっかく波長が合い、僕に応えてくれた緑の精霊ならば、挑戦くらいはしてみたい。
「ドルアリィグ…貴方に契約をお願いする。この身の未熟にて、ご迷惑をおかけした場合には…どうかご容赦を」
「…ふふ…、契約しよう。こちらこそ無理を言って申し訳ないな。しかし私は、私こそがお前と契約するべきだと思う」
辺りの木の葉がざわめき出した。
ざざざと地を引きずるような音を立て、大量の木の葉が渦を巻いて襲いかかってくる。
攻撃としか思えない。
予想外の展開に、思わず「うわ」と口の中で呟く。備える間もなく、木の葉の群れは勢いのままにぶち当たってきた。
くらりと。視界が揺れる。
結構な衝撃。
ものすごい勢いで腹を殴られたみたい。込み上げる吐き気を何とかやり過ごす。目の前がチカチカしてきた。
シャロレイトラハとの契約にはこんな衝撃はなかったのに…。
バルザックが言うように水精霊の当たりが柔らかかったのか、それともやはり僕がドルアリィグの力を受け入れる器にないということなのだろうか。
瞼の裏で、精霊の姿が見えた。
細身で背の高い男…苦笑するような様子にも、どこか重厚な雰囲気を纏う。表情や顔立ちは、怖そうには見えない。森の奥に住む賢者のような、静かな凄みが伝わる。
先程恐ろしいと、感じたのは。
彼が大きな力を持つだけではなく、やはり僕らが崇拝する森…それに関わる力を持つ精霊だからなんだ。
きっとグライア・メディエノルの民であれば誰もが感じることなのだろう。
「ドルアリィグ…だと…。まさか貴方が来るとは思わなかったな。随分と大物を捕まえたじゃないか、ジエラルーシオン」
驚いたようなシャロレイトラハの声。
こちらをちらりと見て、彼女は笑った。
白い世界の中で、水と緑の精霊が邂逅する。
これは素敵な光景だ。
つい、嬉しくなった。
「…しかし、恐ろしいほど心地好いな」
辺りを見回したドルアリィグに、シャロレイトラハも頷いて見せた。
「ええ、精霊界でもないのに落ち着く。今時こんな人間もいない。赤子でもまだ内面に何か色を持つでしょうよ。彼と契約をしたくない精霊などいないだろうに、この希有な術者にあう波長の幅は、恐ろしく狭い」
「それはそうだ。分別なく受け入れるならば、こんな内界は保てない。…大丈夫だろうか、ジエラルーシオン。意識を失っているようだよ。弾き出されないところを見ると、私たちの契約は成立したが…お前にとって大きな負担であったことは間違いない」
緑の精霊が不意にこちらへ声をかけた。
…僕?
意識はあるじゃないか。
言われた意味はわからないが、身体は確かに動かないし、どうにも口を開けそうにはない。
「それでも私はお前と契約ができて嬉しい。お前と契約を交わす緑の精霊は、私こそが相応しいのだから」
ドルアリィグの言葉に、シャロレイトラハがくすくすと笑う。
僕はぼんやりとしたまま、水精霊にも同じようなことを言われたなぁ…と、思いを巡らせる。
…けれど。相応しいはずがなかった。
彼らが、そう言ってくれても。
「ちからの…ある精霊なら…」
何とか開いた唇から、掠れた声が零れた。
「僕と…契約するのはつまらないのではないだろうか? 知識もなく、力もない…馬鹿な子供だということは自分が一番よく知っている。何もお返しできるものがないんだ。僕は…貴方たちに、ただご迷惑をお掛けするだろうことが、本当は少し心苦しい」
「…おやおや。お前は知らないのだね。眠る魔力の大きさも、綺麗なオーラのその色も…。お前たちは契約をしなくなって久しいというのに、今でも律儀に挨拶を欠かさない。私たちは、いつお前がこちらに目を向けるかと楽しみにしていたというのに」
音もなく近づいてきていたドルアリィグは、ふと僕の前にしゃがみ込んだ。いつの間にか水精霊は姿を消している。
大きな手が、僕の髪に触れた。
優しい手だ。
亡き父を思い出して。少し心が痛む。
「私たちはいつもお前たちを見守ってきた。お前の嘆きは、聞こえていたよ。お前はメディヴァルに辿りつくだろうが…きっと、それを使わないのだろうね」
「…な…ぜ…、僕は、使うためにっ…」
「お前は優しすぎる。だからだよ。だが、私たちが手を貸そう。お前の望む世界のために。敵も味方も血を流さぬために。私たちがお前の剣となり、盾となる。安心するといい、精霊は人間と違ってとても丈夫だ」
なぜ。
僕は何としてもメディヴァルを手に入れなければならないのに。ましてや辿りついた上で使わないだなんて…どんな事情があるという?
バルザックが危惧したように、全てを手に入れられる力を前にして…僕の望みが変わるというのか。…この、僕が…己の利のみを願うと…。
反論しようとする僕を制して、ドルアリィグは穏やかに笑んだ。
「そうではない。じきにわかる。石を使うのならば使えばいいが…使わなかった場合には、お前の望みのために私たちを使え。他のどの同族よりも、私たちはお前の望みを叶えることに適しているだろう。必ず役に立つよ」
激高しかけていた僕は、不意に理解した。
彼は僕をからかっているのでも何でもない。きっと、何か使えなくなるかもしれない理由が、あるんだ。
僕がメディヴァルの前に立つことで…決意が揺らぐ、何かの要因が。
けれども、その上で僕に協力してくれると…そう、言っているんだ…。
「ありがとう…」
会ったばかりの僕にそう言ってくれる彼らを、僕は大切にするべきだ。自分が狭い視野でものを見ているのはわかっている。
わかっているからこそ、そんな僕に手を差し伸べてくれた人を、邪険に扱うべきじゃない。
「その時には。助力をお願いする」
「…ふふ。さぁ、そろそろ起きては如何かな。バルザックも待っている」
そう言ってドルアリィグが僕の手を取ると、急に目が開いた。