第3話
四つ足の獣はちらりと肉球を見せながら歩みを進め、僕はそのあとを付いていく。
「これはミノリコベニ。真っ赤に熟したものは食べられるが、青いうちはシビレ毒がある。味? ちょいと酸味がある。こっちはカシロノメ。カシロってのは夜行性の…リスっぽい魔物だ。目ン玉がこれみたいに青い」
人里とは違う植物ばかりの森の中。
いざという場合に備えて、食料になるのかどうかのレクチャーを受ける。
と、葉陰に林檎くらいのレモンイエローの球体を見つけた。
「これは何の実? 食べられる?」
「それは触るな、魔物の卵だ」
「えっ」
「あまり美味くないぞ。俺は食えるがお前にはどうかなァ。試したければ止めないが」
いやいや、結構です。
一見柑橘系の果物にも似た魔物の卵は、触れる場所によっては、仲間を呼ぶための匂いを出すことがあるらしい。
こちらには敵意もないというのに、襲撃などされてはたまったものではない。
しかし、どんな魔物が孵えるのだろう。
卵というからには鳥のような魔物か、それとも蜥蜴や蛇のような魔物か…。
「ははァ…お前は本当に、色んなものを不思議そうに見るなァ…。そうだな、教えておいてやろう。この森で信じられるものは木と石だ。目印にするものは見誤るなよ」
「どういう意味?」
「この森は目眩ましが多い。鳥も獣も、見えて聞こえて気配を感じても、実際にはそこにいないことがある。川の水でさえ、主流以外はいつも同じ場所を流れるとは限らないんだ。けれど木や石は必ずそこに存在している」
蜃気楼は…見えるだけだ、音や気配など出さない。鳥や獣は生きて動くし、石や木々は動かない。
森の中で幻となるもの、ならないもの。
一体何が違うのかと考え込んでしまう。視覚聴覚嗅覚を役立たずにするのは、あの霧の特徴ではないのか。
(…川の水さえ動くなんて…人を惑わすのは霧ではなく、森…なのか?)
人里に近い辺りでは考えられない。
バルザックは、気が向けば様々なことを教えてくれた。
気乗りしなければ小馬鹿にしたような笑いを浮かべ、少しのヒントもくれようとはしない。気紛れとは少し違うような気はしたが、どこか掴み所がないのは確かだ。
イシュテアスはどうやってこの森を進んだのだろう。彼にもこんな風に、知識を有する仲間がいたのだろうか。
英雄は賢く勇ましく、きっとこんなちっぽけな僕とは全く違う目線で世界を見ていたとわかっている。
それでも僕は信じるしかない。
…彼もまた、国を憂いて宝石を探した。
僕は精霊の加護も仲間も家臣も持たないが、この意志だけは彼にも負けはしない。
ならば、辿りつけるだろう?
望みを…叶えられるだろう?
「…なぜ、木と石だけが正常なんだろう。それが理解できれば、この森の謎が少しでも解けるのだろうか」
口をついた疑問に狼が小首を傾げる。
「お前、精霊の洗礼を受けたかい?」
唐突な言葉に、話題がすり替えられたのかと思った。
「受けたとも。グライア・メディエノルでの洗礼とは齢三歳での『柊と湖の儀式』が一般的だが、王族は生後三月以内に精霊に挨拶をするのが習わしだ」
「…精霊…、って、挨拶だけ?」
「どういう意味だ…?」
儀式はどんなものなんだと問うバルザックは、理解できないと言わんばかりだ。流石に自身の儀式の記憶はないが、知識としては知っているので、困惑しつつも口を開く。
「聖洞の水で身を清め、柊を額に受けるのは民と同じだ。だが王族は聖火をくぐらせた御守り…御守りは鉄に緑石を埋め込んだものだが、それを身に付けている。聖洞の最奥には精霊の鏡と呼ばれる水盤があって…」
「なぜ鉄なんだ。精霊の嫌う鉄なんぞ使えばまみえておきながら契約も交わせないぞ」
「…え…、嫌う? しかし鉄は鉱石、つまり地精霊の眷属ではないのか」
互いの認識には何かズレがあるらしい。
悩む僕の前で、バルザックは説教をするような風情でおすわりする。
「確かにそれでは、緑と水と火と土に『挨拶』している。精霊は鉄を嫌う。わざわざ『契約』の機会を『挨拶』で終わらせているんだ」
「…元々、僕達は契約を結ぶのが目的ではないようだが。この地を治めるであろう子供の守護を願う、というか…」
「…あぁ。お前達は相変わらず可笑しなことをするなァ…」
溜息をついた狼が、立ち上がった。ついて来いと言うように歩き出す。
「ジルオール。少し寄り道が必要だ」
「…なぜ?」
「その身の魔力を眠らせたままにするなんて見過ごせないな。契約は必要だぞ。お前がメディヴァルの元へ辿りつきたいというのなら、契約して損はない。帝国を破りこの地を治めるのなら、尚のこと」
言われている意味はわからない。
一刻も無駄にできない。
寄り道などしている間に民が一人二人と死んでいく。
魔力など僕には欠片もないはずだし、精霊が鉄を嫌うなんて初耳だ。
「…バルザック、いいんだ、僕は…」
ましてや血脈に縋ってこの地を治める資格など、ないんだ。
大仰に、狼のしっぽが毛羽立つ。
「駄目だ。まずは契約、そうでなければ俺はこの先をお前と共には行けない」
言われて、ふと胸の中が陰った。
…共に行く必要があるだろうか?
貴重な時間を割いて、よくわからない理由でこの狼についていって。
今だって本当は怯えている。
僕が呼吸する間にも誰かの呼吸が止まる。
僕の足が一歩踏み出す間に、誰かが倒れていくんだ。
「俺はお前を気に入っている。ほんの少しだけなら、ルール違反をしてでもお前を手伝うつもりさァ? そんなの、お前には関係のないことかもしれないがね」
不意に狼が振り向いた。
バルザックは僕のどこをそんなに気に入ったのだろう。そんなことをぼんやりと思いながら、俯く。
…共に行く、必要は、あるのだろうか。
(色んなことを教えてもらっている。助けてもらっている。心強いのは確かだ。それでも、僕の望みには、時間が…時間がない…)
何が最良だろう。
選ぶのは僕だ。立ち止まるこの時間にも民が死んでいく。無駄にしていい時間は一秒だって、ない。
「ジルオール。お別れかい?」
いつの間にか、目の前には細い別れ道ができていた。
僕の目指す森の奥へと進む右の道。バルザックが示す、少しだけ逸れた左の道。コンパスに従うのなら右の道…。
「…この道は、どこへ?」
左の道に立つ狼に尋ねた。
狼は「ははァ」と笑うように首を傾げた。
「辿りつく先は同じさ。どの道を選ぼうともお前はお前の望む場所へ向かう。ジルオールのコンパスは頑なだ。実際に願いをどうするかは見物だがね、進む道は見失わないだろう」
くるりと尾を振って、バルザックは歩き出した。僕が後を追うかどうかは、もはや見もしない。
(…僕は…)
靴先が上がる。
心は迷うのに、既に足が動いていた。踏み出して。土を蹴る。
(この森で果てたら剣を譲ると約束をした。別の道を行けば、約束は守れないのかもしれないな。精霊との契約など、メディヴァルの探索に意味があるのかわからない)
それでも僕の目線の先で、ふさふさと立派なしっぽが揺れる。
僕は自分の手のひらの大きさを知っている。我が身の矮小さを知っている。人の上に立つ器ではないのだろうことも。それでも。
英雄イシュテアス。
きっと貴方も友を信じて進んだでしょう。
己しか信じられぬものになど、きっと世界は変えられない。
「水精霊と契約が必要だなァ。他は様子を見ながら契約していくしかないが。どちらにせよ、お前には四精霊が必要だ」
振り返りもせずにバルザックが言う。
精霊には、残念ながら詳しくない。
星見の占い師や、神殿の神官は病や傷を癒す術を使えたが、精霊との契約となると伝説やおとぎ話でしかない。
精霊の洗礼は、あくまで形式的なもの…決まり切ったイベントなんだ。
「契約するとどうなるんだ?」
問うと、ようやくバルザックは肩越しにこちらへ目を向けた。
「お前の疑問がひとつ、解けるだろうよ。見える世界が広がる、というのかな。説明するのは難しい。俺には、見えているのが当たり前だからなァ…」
よくはわからないが、まぁ、契約してしまえば理解できるのだろう。
ちょんちょんと跳ねるような足取りで進む狼の背中は、心なしか嬉しそうだ。
逸れた道もかかる時間も…本当は不安でたまらないのだけれど。
(…間違えるな。僕は、正しい選択を選ばねばならない。メディヴァルへ辿りつき、願いを叶えるための道だ。宝石を探して森を惑うだけでは、何にもならないんだ)
精霊の加護なら、受けて損はないはずだ。
イシュテアスも受けたもの。
英雄と同じ条件を付加できるのなら、僕はメディヴァルにまた少し近付く。
そう信じるしかない。
僕の目に、まだ見えていないもの。
それが見えたら。
(…見え…たら…?)
「おや。向こうもどうやらお待ちかねだったみたいだ。ははァ。如何にも無意味なあの挨拶も、そう無駄ではないってことか」
「え?」
狼の言葉に目を上げる。
現れたのは湖だ。
随分と大きな湖には、時折遠くの水面に飛沫が跳ねる様が見られる。
魚でもいるのだろう。
バルザックはすたすたと歩調を緩めないまま、湖に向かって突き進んだ。
「あ、バルザック!」
「ついてこい」
目の前で、彼の足は水面を歩いた。
信じられなくて、僕は思わず息を飲む。
ちらりと一瞥をくれた彼は足を止めず、僕だけが湖のほとりに取り残された。
彼はそのまま歩いていく。
躊躇は。長く続かなかった。
僕は多分濡れるし沈む。それでもついてこいと言われたのだから、行かねばならない。意を決して足を踏み出した。ぱしゃりと水が靴先を濡らす。
「真っ直ぐだ。逸れるな」
バルザックが嬉しそうな声を出し、僕は彼と足元を交互に見つめる。
足が。沈まない。
「見えない、道が…あるのか?」
「お前もすぐに見えるようになる」
早く来い、と急かされて僕は彼と僕の間が真っ直ぐになるように気をつけて進む。
靴はどうしても少し濡れた。道は湖の水面より、ほんの少し下にあるんだろう。
走るまでの勇気は出せず、何とか早足でバルザックの背に追いつく。
「…ははァ? お前、さっき言ってた鉄を未だに持ってるのか」
「御守りのこと? これは肌身離さず…」
「捨てろ」
「えぇ?」
「邪魔だ、それ」
「…そんな…」
「後で石だけ返してやるからァ、さっさと湖にポチャンとやる」
横暴だ。
思いながら、僕は鎖を通して首に下げてあった御守りを外す。
じっと獣の目が見つめている。
悩んだけれど、ここまで来て言うことをきかないわけにはいかない。
そっとしゃがんだ僕は、手の内の御守りを水の中へ滑らせた。
途中で鎖を握りしめたい衝動を、何とかやり過ごす。その気持ちを他所に、まるで持ち主のことなど思い返しもしないという顔で、御守りはするりと水の中へと引き込まれ、すぐに見えなくなってしまう。
また、ひとつ失ってしまった。
そんな気持ちが拭えなくて。
「立て、ジルオール」
動けない僕の後ろで、溜息が聞こえた。
「これ、ジエラルーシオン」
突然女の声で呼ばれた本名に、僕は驚いて振り返る。けれど、そこにはバルザックが黒い鼻先を突きつけているだけだ。
「…あれ、今、僕のこと…」
「呼んだ声が聞こえたか。ならば立て。そして声の求めに応じろ」
立ち上がり、辺りを見回す。
しかし女性の姿などどこにも見えなかった。もう一度バルザックへ問おうとした瞬間。
「シャロレイトラハが相応しい。この名を呼び、契約の言葉を述べられよ」
先程と同じ女性の声。
そう思いはしても、姿は見えない。
動揺したが、バルザックは言ったはずだ。
求めに応じろ、と。
けれども、契約の仕方など、わからない。
悩みながら、僕は口にした。見えずとも、せめて返事くらいはしなければ、失礼だ。
「シャロレイトラハ。僕と契約していただけるのならば、是非ともお願いする。けれど僕は、契約の正しい作法を知らない。よろしければ、ご教授いただきたい」
はははァ、と後ろで獣が笑った。
クスクスと女性の笑う声も聞こえた。
「いいえ、ただ契約しましょう、ジエラルーシオン。貴方のそれは既に正しい作法だ」
意味がわからずに、何か言おうと口を開きかけた僕の前で。
湖の水がざぶりと玉を作り宙へ持ち上がる。面食らう僕に、その水はぶつかってきた。
「ぅ、わっ」
押し倒された僕が湖へと投げ出されるのを。バルザックが笑って見ている。
そんな、薄情な…と思いながら、続く衝撃に備えた。水の中に叩きつけられたなら、まとわりつく衣服に耐えて岸まで泳がねばならないのだから。
息を止めて冷たさを待つ僕はしかし、いつまで経っても濡れない。
薄目を開けて、そっと状況を窺う。
「…あれ…」
バルザックの隣に立つ女性が、こちらへ片手を延べていた。
僕は水をぶつけられたはずだけれど、濡れていなくて。バランスを崩した姿勢そのままに、片足で斜めに立っている。
恐る恐る背後を見れば、水が僕を包み込むように支えていて。
「…これは…」
彼女の力だろうか。
「ジエラルーシオン。貴方はこのシャロレイトラハと契約した。数多の水精霊で、私ほど貴方に相応しい者はない」
…随分な自信だ。
そして、偉そうな物言いだ。
しかし恐らく、彼女にはそれに見合う能力があるのだろう。
高貴ささえ感じさせる物腰に、何だか城にいた頃を思い出して、少し懐かしくなった。
こんな姿勢で人と話すわけにもいかない。
背中の水をそっと手で押しながら体勢を確保すると、水は指先に不思議な感触を返した。
「お力添え、感謝する。僕は残念ながら精霊に詳しくなく、ご不便をおかけすることもあると思うが…よろしくご指導賜りたい」
「…まぁ。なんと真面目なこと」
背中から水がばしゃりと湖へと帰った。
唐突なそれに、慌てて僕は自分の身体を真っ直ぐに戻す。それでも水中に沈むことは覚悟した。バルザックが逸れるなと言った位置を、大分外れてしまっていたからだ。
しかし相変わらず僕は水に立っていた。
「これは、貴女が?」
シャロレイトラハへと目を向けると、彼女は首を横に振った。
「いいえ、既に貴方の力。精霊は契約するが、その力を使うのは術者だ」
意味がわからない。困惑する僕に、バルザックが声をかけた。
「濡れたくない、沈みたくないと思うから、水が応えた。ましてジルオールは魔力が強い。そういった者は小さな術に呪文を必要とはせず、精霊魔法の汎用性も高い」
「僕が…水に、沈むなと命令しているということ?」
「無意識にであってもな。そして、その目は既に精霊の力を得た。この森や霧は、今までとは少し違う様を見せるだろう。…まァ、そう悩まなくていいさァ」
よくわからないまま、僕は湖の岸を見遣った。
では、もし濡れずにあちらへ行きたいと思ったら、どうなるのだろう。
そう考えた瞬間、高波が発生した。
「…うわっ」
湖が溢れてしまう。
そんなことを危惧するほどの、水の量と勢い。
轟音を立てた波は僕らを岸へと押し流し、ざぶんと地べたへ放り出す。シャロレイトラハがさっと片手を振り、水のクッションが僕らを包んだ。
「ジルオール…」
呆れたようなバルザックの声に赤面した。
「ごめん、その…こんなことになるなんて…」
余計なことを考えなければ良かった。