第1話
城を追われたのは十四のときだ。
血と怒号の記憶に怯えるほど、幼くはない。質素な暮らしにもとっくに慣れた。
「…相変わらず、だな…」
最初のうちは生きることに必死だった。
逃げおおせた王子の首を求めて、兵士達は執拗に近隣の子供を狩った。
絶望と嘆きばかりが民を支配していた。
助けを求めようにも、既に周囲は攻め落とされた国ばかり。
気付いた頃には強大な帝国が大陸に陣取り、貧しい末端の地域では食料を求めた暴動が日常茶飯事。
帝国の兵士は相変わらず殺戮に明け暮れる。
次に狙うは海を越えた異国の領土だと、絶えない噂は嘘とも思えない。
子供のようだと、思う。
既に十六となった今、この国に帝国が攻め入ったその理由には笑うしかない。
メディヴァル。かの帝国の主はその宝石の伝承に恋い焦がれたのだとか。帝国が世界を統一する日を夢見て、進軍は今も続く。
更にその手に無限の力をと欲し、国費を費やしての捜索も、やはり今なお続く。
我儘な子供のようだと。そう思う。
国土の拡大よりも、他国の伝説の宝石探しよりも、すべきことはあるだろう。
だが未だ誰も帝国の王を止められない。
その絶対的な攻撃力の前に、対した国は倒れていく。
あの進軍を一時でも食い止められなければ話などできない。鼻で笑われて潰されるだけだ。
「いたぞ! 侵入者だ!」
「殺せ! 逃がすなよ、この森に入る人間は斬首せよとの、王のご命令だ!」
見つかった。けれど後には退けない。
追ってくる兵士の気配。
張っておいたロープの端を引き、駆けてきた兵が足を取られるのを見る。
悲鳴。
また悲鳴。
地の裂け目へと消える声。聞きつけた別の兵が来るより先に身を翻す。
落ちただけで死にはしないはずだ。そう深い裂け目ではないから。しかし誰かが手を貸さなければ、出ることはできないだろう。
人を傷つけることなど願わない。
それでも、…思いとは裏腹に僕は人を傷つける。
(何を手に入れたい? 領土を奪い、命を奪い、金品を奪い…これ以上何が欲しい?)
尽きない欲望。あとは、永遠の命か?
そんな理由で我が国を灰にした帝国の主。首を斬り落としてやりたいのは、こちらのほうだ。いいや、必ず、斬り落としてやる。
(だがその前に。何としても手に入れる)
帝国より先に、伝説の宝石を見つける。
はびこる敵兵の完全なる駆逐を願うか。民のこの先永久の平和を願うか。この身の先ならば、もはやどうでもいいのだから。
(宝石が実在するかしないかなど…この目で確かめねばわからないが)
子供のようだ…と。
自分でも思う。
帝国の邪魔をするのも。伝説の宝石にすがるのも。馬鹿げているとは、自分でも思うのだ。
帝国にしろ自国にしろ、こんな子供のような頭の持ち主がトップでは、民が苦労する。
深緑と霧の我がグライア・メディエノルは文字通り深い緑をシンボルカラーとする。本来は周囲を覆う豊かな自然に敬意を表すために、王族は主に緑を着用する。けれど僕が今まとっている緑のマントは木々に紛れるため。
帝国軍の銀色に輝く鎧は、薄暗い森の中でも割と見つけやすいが、奴らから僕はひどく見つけにくい。僕の荷物に暗い茶や緑が多いのも同様の理由からだ。
それでも、この緑石の剣だけは我が家に代々伝わるもの。やや粗雑に扱ったせいで鞘は傷だらけだが、柄と刃は綺麗なものだ。
建国の英雄の剣と言われているけれど、さすがにわかったものじゃない。
国宝が何だ、磨きあげた緑石の剣も、使わなければただの石ころじゃないか。
鉄や鋼と打ち合っても欠けはせず、相手の剣を両断するほどの硬度と切れ味には確かに、某かの力を感じずにはいられないけれど。
(物珍しがられてもいけないから、本当は手入れだって自分でしなくちゃいけないが…手をかけなくても切れ味は鈍りもしない)
メディヴァルは一体何色の宝石なのだろう。
やはりこの国に相応しく深い緑色をしているだろうか。
霧と湖の青色か。
強い力を秘めているのなら、燃えるような赤かもしれない。
長い年月の証に、琥珀のような蜜色かも。
森に入って早数日。方角だけは見当をつけているものの、進めど進めど見える景色は代わり映えしない。
地図も存在しない道程。広大な、魔物の棲むという森。現在地がここだ。
魔物の棲むという森は国中に幾つもあるけれど、実はそれが奥で繋がっている一つの森だということは、意外と知られていない。
森とは奥へ迷い込めば二度と帰っては来られない、というのが周知の事実だからだ。霧の多いこの国では尚更のこと、どこへ続いているかなど知ろうとはしない。
そう。国で一番高い建物、つまりは王城の最上階、星見の塔より眺めでもしなければ、あの森が一つだなんて知りえないことだ。
メディヴァルはよほどその姿をさらしたくないらしく、建国以来何百年と経ちながらも、この国の人間は深く霧に覆われた国土の果てを知らない。
大陸の東の果てと呼ばれるこの国はまだ、もしかすると果てではないのかもしれない。
そんなことすらも、知らない。
例えば森の奥にひっそりと魔物の王国があったとしても、何ら不思議はないだろう。
「…魔物、ね。まだ出くわさないけれど…どんな姿をしているものかな。勝てるかな」
それに魔物とはそんなにも恐ろしいものなのだろうか。…利を願う人間よりも?
溜息をついて歩を進める。
蛮族にしか見えない敵国の兵も、自国へ帰ればただの民だ。
継ぐべき玉座を失った僕にも見えるものがあるとするならば、それは敵に対する闇雲な憎しみではなく。
ただ、権力者の命に従うしかない人間…その、底知れぬ悲哀だ。
僕は見ていることしかできなかった。自分の身を守るのに精一杯で、何もかもを見ていることしかできなかった。
狩られた少年達。泣き叫ぶ母親。
蹂躙された集落の涙。
埋葬もされない死者のざわめき。支えたる指導者、つまりは王の首を取られた民達は逃げ惑う。
生き延びるために、隣人をも殺す。この国が荒みゆくは僕の罪だ。
我が国の民をその手にかける、敵兵の目によぎった苦痛。
敵陣営の片隅で聞こえた、故郷へ帰りたいという言葉。
我が子と同年代の子供を殺したと、嘆く声。酒や薬の力を借りて、正気を殺す哀れな敵兵の姿。中には殺戮を好む者も確かにいよう。
けれど大半は命じられるまま、先の見えない進軍に疲れた他国の民。
帝国の一部と化した、別の国、の。
たかが玉座を取り戻すことなどを、願ったりはしない。
悲嘆ばかりのこの国を、どこかで息づく同様の苦痛を、癒す術があるのなら。
(…僕は今度こそ、この身よりも、そちらを選ぼう。無分別に、勇気と無謀を履き違えたりはしないけれど…)
子供のような僕の望み。それを握りしめて、宝玉を目指す。
かさりと、どこかで葉擦れの音。
はっとして腰の剣に手を触れた。かなり進んだつもりでいても、帝国軍とてこの森を長いこと探索しているのだ。幾つか拠点を置いていても何の不思議もない。
息を殺す僕のすぐ横で、砕けた声がした。
「こら、何しに来たんだよ。ここには近付かないように、約束したはずだがなァ」
「…っ?」
目を向ける僕の横に、いたのは狼。
気配もなく現れた獣に目を見開く。
「…な…?」
「迷惑なんだよ、ここ最近。うるさい奴らが木を切るだの火を焚くだのとさァ。生きるために森の端は貸してやるが、奥は俺達のもんだって約束だったはずだろ?」
「…やく…そく…?」
あまりの出来事に、頭の中が真っ白になる。
狼が。喋っている。
しかも、何だか当たり前のように僕にクレームをつけている。
「…人…違いじゃないか? 約束っていっても僕は喋る狼なんて…初めて見た、ぞ?」
「はァ?」
はははァ?と狼は疑問と笑いが混ざったような声を出した。
「お前は、斬りかかってこない。いい奴だな。あのな、兵士の集団がさァ。ちょっと奥へ入り込みすぎなんだよ。帰ってくれよ」
続いたその言葉に、僕は項垂れた。
守れなかった自国の民ならず、僕は森の魔物にまで迷惑をかけているのらしい。
「…すまない、あれは…帝国の兵で。僕にはどうすることもできない」
「ふぅん? なぁなぁ、お前の下げてる、ほら、その緑色の剣がさァ。この国の人の王の証だってのは知ってるのかい」
問われて非常に驚いた。
確かにこれは玉座を継ぐ者が、代々受け継いでいく。儀礼的な意味での王の剣だ。
鞘から抜いてもいないのに刃の色を当てられて、驚かないはずがない。
魔物が瞬時に理解するなら、英雄の剣だというのもあながち嘘ではないのだろうか。
…この狼は…魔物だよな?
初めて出会う、人ではない何か。僕は馬鹿正直に問いかけていた。
「…お前は、何だ? 魔物なのだろう?」
「んー。今は、そうさァ」
「…今は?」
「お前は喋る狼を魔物だという。そんなら、俺は魔物さァ?」
随分と、友好的な魔物だ。
ぱちぱちと瞬きをする様は、まぁ、可愛らしいと言えないこともない。
一番大切なことを聞いた。
「お前には今、僕を襲う気はないのか?」
「何のために?」
「…何のため…。魔物、とは、人を襲うものではないのか?」
「お前がそう思うんなら、そうなのかなァ。魔物を見たら襲われたいなんて、人間てのは、難儀なんだな」
じゃあ、戦うか?なんて。
構えるような姿勢を取ったから慌てて僕は首を横に振った。
「いい、いい。勘違いだったみたいだ。僕はあまり魔物に詳しいほうじゃない」
「そんならァ、いいけど。俺だってせっかくのイシュテアスの子孫と、意味もなく争うのはつまんないや」
ますますもって、驚いた。
イシュテアスとは建国の英雄の名。魔物にまで知れ渡っているのかと思うと、誇らしいような心苦しいような、微妙な気持ちになった。
この地から魔を払い、国を整えた。
つまりそれは、魔物の住処を奪って人の地としたと…そういうことではないだろうか。
「お前は。僕が憎くはないのか?」
問えば狼は器用に笑う。
「俺はァ、人は好きだ。もちろんそうでない魔物はこの森に山ほどいるが、俺自身はこの森さえ守れれば、大抵のものは好きさァ」
嘘ではない証に、そのしっぽがふさふさと揺れた。知らず、口の端が上がりかけた。
「今度は俺が質問するぞ」
狼の言葉に真顔を繕い、頷いて見せる。
「ああ、いいよ」
「お前の名は何だ?」
思わず破顔した。
こんなに純粋に笑うのは。何年ぶりだろう。
魔物だというのに、何だか随分と和んでしまう。
そっと手を伸ばす僕を、不思議そうに狼が見つめた。
「あ。その…撫でてもいいかな」
「どこを?」
「頭とか背中とか」
「何のために?」
困ってしまった。
噛みつかれないのならば撫でてみたいと、思っただけなのだけれど。
察したように狼は鼻先を上げた。
「俺の問いに答えたら、撫でてもいいぞ」
「問い?」
「そうさ、お前の名は何だ?」
やっぱり笑ってしまった。
それから慌てて口許を引き締めて、これ以上待たせないよう自己紹介をする。
「ジエラルーシオン・レノルジア・メディノーラ。略式で悪いが僕の名だ」
「…ジ、ル…、…何?」
「ジエラルーシオン…いや、呼ぶのならジルオールでいい。今はそれが通り名だ」
「そうか。俺も大体バルザックだ」
「…大体?」
「うん。なんかそんな感じってことだな」
また笑いかけたが、ふと気配を感じた。耳を澄ませば、複数の軍靴の音。僕は口を噤む。
それを見て今度はバルザックが笑った。
「ジルオールは帝国の兵士が嫌いか」
「しぃっ。好き嫌いではなくて。見つかると厄介だという話」
「では兵士のいない場所で話をしよう。来い」
言うなり狼は鼻先を返した。
ちらりと方角の確認をして、僕も続く。どうやらバルザックは更に森の奥へと進む気らしい。
(魔物の住処は森の奥、か。やはり集落でもあるのだろうか…?)
おとなしくついていくのは、進みたい方向との違いがないからだ。
僕はもう奥にしか進まない。
一歩だって、戻ることは考えられなかった。
「なぁ、バルザック。お前、メディヴァルというものを知っているか?」
思いとは別の言葉を口にした。
「…ははァん?」
ちらりと視線だけをこちらに投げて、狼は呟く。その目に奇妙な色が揺れた。
「知らないのか。メディヴァルが叶えるのは、自力で辿りついた者の願いだけさァ」
当たり前のように。
狼は言った。場所を他人に問うような真似をするなと、言われた気がして。
そんなつもりではなかった、人間が騒ぎ立てた伝説の宝石は魔物にも知られているのか…見た者は、いるのかと…。
「…あ…る、のか? 実在するのか?」
「どこかにね」
言い切った。その言葉に胸がはやる。
更に僕は質問をした。
「見たことがあるのか?」
続く答えは、残念なものだった。
「魔物は好んでそんなものを探しはしないし、獣はそんなもの欲しがらないよ」
「…では、実在するかわからないじゃないか」
「探しにきたんだろう? なら、あるさァ」
適当なのか、本当は何か知っているのか。
首を傾げる僕の足が、随分と遅すぎると獣は急かす。四本足の狼に、人の身で敵うわけがない。
しかしバルザックは僕が速度を落とそうとすれば余計に早足になる。
置いていかれないためにはついていくしかない…。