普通の女の子
「クズ男が釣れちゃったってわけねえ……」
数日後。
ゆかりさんの夫について調査を続けていた私たちは、テーブルを挟んで顔をしかめた。
そのテーブルの上には、ターゲットがキャバクラに入る瞬間、女性に腕を組まれながら店から出てくる瞬間などを捉えた写真が並んでいる。
「遊び人なのかしら。真面目そうに見えたのに」
「人は見かけによらないわよ。何より証拠が出てるんだから」
あんたがそれを言うのかよ、と突っ込みたい気持ちを抑え、私は頷く。
ゆかりさんの話を聞いた限りでは、こんな大胆に遊び歩いているようには思えなかった。しかし写真を見てしまえば別だ。
とはいえ仕事付き合いで行っている可能性もあるし、間違いなくこれが浮気だと断言できる証拠はない。
もう一歩踏み込んだ確証が欲しい。
「まあでも、付け入る隙のないカタブツってわけじゃないならどうにかなりそうね。きっかけさえうまく作れれば」
「そうだね」
返事をしながらも、私は胸にもやがかかったような何とも言えない気分になった。
前回の任務で散々な目に遭ったことに比べれば、今回は安全でしかも順調で、心配して然るべきことはない。
だけど――
脳裏にゆかりさんの顔が浮かんだ。
夫に疑心暗鬼になり、かなり思い詰めた様子で今にも倒れてしまいそうだったあの顔。
『必ず真相をしっかり突き止めますから』
自分はそう言った。
第三者が聞いても恐らく何ら咎める要素のない言葉だ。
でももし真相が酷なものであるなら――。
悪者は詰ったっていい。罰したっていい。
でも被害者は? 過ぎたことは、苦しかった時間は、返してもらえない。
「ちょっと。聞いてる? 何ぼけっとしてるのよ」
「え、ああ……ごめん」
きなこが訝しげにボールペンの先でテーブルをとんとんと叩く。
いけない。私がやるべきなのは、この任務を無事に終わらせることだ。
「言い逃れされないために絶対的な証拠が欲しいわね。やっぱりホテルに入る瞬間をカメラにおさめるのが一番手っ取り早い」
「今更だけど、おじさんが私たちぐらいの女の子を相手にするのかしら」
「はあ? 舐めてもらっちゃ困るんですけど。あんたは高校生に見えるかもしんないけどね、わたしはメイクと服装で色気ぐらい出せんのよ」
自分だってついこないだまで高校生だったくせに。
無言で口を尖らせた私に、きなこは「あんたと違って胸もあるし」と爆弾を投げてくる。
「はあ――――!? バカにすんじゃないわよ! 私だってね、スタイルはいいんだから!」
「ただ細いだけじゃ男ウケ悪いわよ? 出るとこ出てないと、ねえ?」
「もー怒った! 謝っても許さないからね!」
「謝る気ないから安心してよ」
こんの外面人間がァァァ!
実に腹立たしいが、心底不本意だが事実ではある。彼女と自分のを見比べて、余計に自らのプライドに傷をつけることになった。
すっかり戦意喪失した私にこれ以上追い打ちをかけるのは無意味だと思ったのか、きなこは話を本題に戻す。
「相手は社会人だから勝負を仕掛けるなら金曜日しかないわ。仕事終わりのところをどうにか捕まえて、適当な理由つけてお店入って終電を逃させるしか」
そのためには彼が金曜日に確実にフリーでいることが条件だ。
ゆかりさんにも協力してもらって、彼の予定を教えてもらったり、自宅に帰らなければならない理由を作ってもらったりする必要がある。
「まあそこについてはどうにかなるでしょ。あとは何の接点もない二人が出会う理由が欲しいわね」
「うーん……ちょっと強引だけど、一瞬でいいので恋人のフリして下さいって言って近付くのは? 『お願い』をされると人って無下にできないと思う」
「ま、いんじゃない。きっかけは何でもいいのよね、あとはわたしが上手くやるから」
そこまで自信満々だと頼りがいがあるというものである。
彼女の性格はともかく、実力は校長のお墨付きなのだから問題ないだろう。
「ようやくわたしの出番。わくわくするわ」
足を組んでほくそ笑むきなこに、やっぱりこの人異常だわ、と内心失礼な感想を抱いた。
問題の金曜日がやってきた。
「大事な話があるから今日は仕事が終わったら早めに帰ってきて欲しい」と予めさゆりさんから彼に伝えておいてもらい、彼が寄り道せずに駅まで行くように仕向ける。
そして彼が会社から出て歩き始めたところで、「急遽友達と会わなければならなくなった、話はまた今度。申し訳ないが食事は外で済ませて欲しい」といった旨の連絡を入れてもらう。
ここできなこの登場だ。
全力で走ってわざと彼にぶつかり、「タチが悪い男につけられているので少しだけでいいから恋人のフリをしてくれないか」と頼み込む。
「どんと任せなさいよ。しっかり連れ込んでみせるから」
傍からだと若干不穏な台詞に聞こえるが、彼女は至って真面目に任務を全うしているだけである。
きなこは丈の短いスカートに胸元のあいたカットソーという、自分の武器を最大限に利用した出で立ちであった。
毛先は軽く遊ばせ、メイクもばっちり。悔しいが彼女の変装は完璧だった。
「なんというか……上手く化けたわね」
「こういうのはそこら辺にいそうな女感を出すのが大事なのよ。綺麗すぎない程度に着飾るのがミソ」
確かに言われてみればどこか安っぽい印象を受ける。
じっくり見れば顔が整っているのは勿論分かるが、パッと見は量産型の男たらしだ。
大したもんだ、と感嘆の息を吐いた私に、きなこは「来たわよ」と声を低める。
さりげなく視線を動かして階段の方を確認し、ターゲットがこちらの方へ向かってきているのが分かった。
「じゃ、行ってくるから」
まるで彼氏との待ち合わせにでも行くノリで走り出した彼女は、その速度を段々と切り替えていく。
肩の動かし方や足の運び方。どこをとってもここからは必死に走っているのが伝わる。
しかしあれは全力疾走ではない。彼女はもっと速く走ることが出来る。
それなのにあれ以上ペースを上げないのは、あれが大抵の女性が必死に走った時に相応しい速さだからだ。
私はそっと身を隠し、横目で先輩がきなこの後を追いかけるのを確認する。
お察しの通り、ストーカー役は先輩にお願いしてある。
「きゃっ!」
きなこが予定通りターゲットにぶつかり、軽くよろけた。
すぐに顔を上げて「すみません」と頭を下げる。
「ああ……」
「すみません、ちょっと失礼します!」
突然腕を組まれたターゲットは、ひたすらに困惑していた。
そしてきなこは顔を寄せて口を開く。
「本当に申し訳ないんですが、わたし今ちょっとストーカーされてて……改札くぐるまででいいのでこうしてもらってもいいですか?」
「ストーカーだって?」
「はい。あそこにいるんです」
人が行き交う駅構内で囁くように会話する二人。
その内容はきなこが身に付けている盗聴器によって私の耳にも届く仕組みだ。
きなこがちらりと振り返り、彼の視線を誘導する。
携帯を弄っているフリをしてきなこの方に何度か視線を送っている先輩を見たターゲットは、状況を理解したのか頷いた。
「まあ……改札までなら」
「ありがとうございます。すみません……」
そして二人が改札を通るところを確認し、私は先輩の元へ駆け寄った。
「俺、ちゃんと変質者っぽかったかな」
「ぽかったですよ! バッチリです!」
「それもそれで複雑だけど……」
苦笑気味に先輩はそう零し、再び盗聴器に耳を傾ける。
「あの、本当にご迷惑おかけしてすみませんでした。助かりました」
「いや、別に……」
「もし良ければなんですけど、一緒にお食事なんてどうですか……? その、お礼も兼ねて」
彼は今日の夜を外食で済ませなければいけないわけだし、この提案は一石二鳥に違いない。
しかし彼からの返答は、完全に私たちの意表を突いた。
「すまないが遠慮するよ。急いでいるから」
「えっ!?」
これにはきなこも思わずといった様子で声を上げる。
しかしさすがに優秀な彼女だ。すぐに立て直して言い募った。
「ま、待ってください! 突然で申し訳ないとは思ってます、でもこのままじゃわたしの気がすまないので!」
「気にしなくていいですよ」
「あ……実はその、ちょっと寂しくて!」
だから誰かと一緒にいたいんです、ときなこが続ける。
衣擦れの音がした。彼の服でも摘んだのだろうか。
「私じゃ、だめですか……?」
あ、なんかコレ、駄目だ。聞いてるこっちが恥ずかしくなるやつだ。
上目遣いで誘惑するきなこの図が容易に想像でき、何とも言えない気持ちになる。
隣の先輩も同じだったようで、物凄く気まずい空気になった。
「後悔、させませんから……」
とどめがこれだ。
自分に言われているわけでもないのにもうやめてくれ、と心の中で乞う。
「……君、自分が何を言ってるか分かってるんだよね」
「当たり前です。ご一緒してくれますか?」
「いいよ」
何とか了承の返事をもらい、ターゲットと二人きりになることに成功したようだ。
その後二人は一駅先のお洒落なお店でディナーを楽しんでいた。
私と先輩といえば、その様子を車内で確認しながらコンビニで買ったおにぎりを齧る。
「紫呉さん、ほら食べな。今は俺がちゃんと見ておくから」
人目のある店の中だし、心配することないよ。
そう言って先輩がおにぎりを差し出した。
有難く受け取りつつ、私は視線を動かせないでいた。
「二人、仲良いんだね」
「いや、私が一方的に嫌われてますけど……」
「そう? そんな風には見えなかったなあ」
それはきなこのアレを知らないから言えるんですよ、とは口が裂けても密告できまい。
一口おにぎりを齧り、談笑する二人を観察する。
きなこは確かに腹は立つが、とても優秀だ。
私にはできっこない能力でトップとして活躍している。
それに同じ女子同士、本当は私だってもう少し打ち解けたい。
今は目の敵にされまくってるけど。でも、いつか。
「お、立った。もう行くのかな」
「そうみたいですね」
当初偶然を装って終電を逃させる予定だったが、きなこの匂わせが効いたようだ。
向こうは既にその気である。これは早期決着になりそうで有難い。
会計を済ませ店から出てきた二人は、腕を組んでホテル街へ歩き出した。
カメラの機能確認も兼ねてその様子を連写する。
「着いたみたいだね」
その周囲にも男女ペアが増えてきて、すっかり夜の空気が存在を現す。
あるホテルの前で立ち止まったきなこは、わざとらしく声を上げた。
「ここでいいの?」
「今更何をごねるんだよ。行くぞ」
どうやら遠回しに、ここのホテルに入る旨を私たちに伝えてくれたらしい。
二人が再び寄り添って歩き出す。
焦るな。確実におさめろ。
カメラを車の窓枠に固定し、その瞬間をじっと待つ。
――今だ。
シャッターを切り、連写でホテルへ入る瞬間を捉えた。
すぐに携帯できなこ宛に空メールを送信する。
任務を始める前に打ち合わせしていたことだった。
証拠写真が撮れたら私がきなこにメールを送信し、きなこが異常なく部屋を抜け出せたら向こうからもこちらにメールが来る。
何とか無事に写真は撮れた。あとはきなこを待つだけだ。
カメラのデータを確認していると、盗聴器からきなこの戸惑ったような声が聞こえてくる。
「え? 何……?」
そして衣擦れの音が激しくなり、そこからプツリと音声は途絶えた。
背中に嫌な汗が流れる。
「まさか、盗聴がバレた……?」
「その可能性はあるね。何にせよマズい。ちょっと事務所に連絡するよ」
先輩が話しているが、それがどこか遠くに聞こえる。
どうしよう。最後の最後で全て水の泡になってしまうかもしれない。
いや、今はそれどころじゃない。
きなこの身が危ない。下手したら暴力をふるわれて、それから――
よからぬ想像をして全身に鳥肌が立った。
だめだ。事は一刻を争う。応援を呼んでる場合じゃない。警察を呼ぶにしても来るまでに時間がかかる。
その時だった。
携帯が振動し、メールを受信した。
「きなこ……!?」
良かった、何とかなったのか。
急いでメールを開く。しかしそれは、空メールではなかった。
『756』
数字の羅列だけが表示された本文に、目を見張る。
そうか、これは。
「紫呉さん!?」
後先も考えず車から飛び出した。
もう嫌だった。自分だけ安全な車内で誰かの無事を祈ることしかできないのは、もう沢山だ。
お願いだから間に合って。お願い。
入口の自動ドアに突っ込む勢いで中に走り込み、とりあえず右に曲がって階段を探す。
「あ、ちょっと、お客様!」
階段へ向かう途中で案内地図を見つけ、指で辿りながら視線を彷徨わせる。
「あった……」
やはりそうだ。きなこは恐らく、「756」号室にいる。
ということは七階か。だめだ、階段ではとてもじゃないがきつい。
「すみません! 乗ります!」
ちょうど閉まる寸前だったエレベーターのドアに声を張り上げる。
開ききるのを待てずに手をかけると、中の男女が目を点にしていた。
七階に着くやいなや、エレベーター内から弾丸のように駆け出す。
「ここね」
目的の部屋の前で立ち止まり、私はゆっくり息を吐く。
大丈夫だ。落ち着け。必ず助けなきゃいけない。
静かに腕を上げ、手の甲でドアを叩く。
開いたそこから出てきたのは、全く知らない男性だった。
「あー? 何すか?」
「あの、失礼を承知でお伺いしますが、この部屋の中に女性はいますか?」
私をじろりと睨めつけ、男は「いねえよ」と答える。
そんな嘘が通ると思っているわけ? ここが何ホテルなのか分かってんのかしら?
「目視させてもらっても?」
「好きにしろよ」
意外にもすんなり応じられ、拍子抜けする。
部屋の奥を覗いたが、確かにきなこの姿はなかった。
「気が済んだなら出てってくれ」
「どうも」
何故だ。どこにいる。どこに隠している。
だめだ分からない。どうする、どうする――
ドアを閉める男の視線が動く。
なんてことはない、その仕草。そう、人は嘘をつく時、最後に油断をする。
――隣か。
私はそう検討をつけ、今度は一秒の迷いもなく757号室をノックした。
「はい」
きた。内心でガッツポーズをし、目の前の男を見上げる。
彼は先程まできなこと食事をしていたターゲット、その人であった。
ドアは僅かしか開いていないため、中の様子を確認することは出来ない。
しかしさっきの男の反応で確信した。こいつは「黒」だ。
「失礼します!」
さゆりさんごめんなさい!
私は彼の急所を力一杯蹴り上げた。その隙にドアを両手でこじ開け、中に向かって叫ぶ。
「きなこ――――――――――――!」
土足で中へ上がり込み、視線を振る。
そこにはベットの上に拘束されたきなこと、彼女に馬乗りになった男たちの姿があった。
「あんたら何してんのよ!?」
「てめぇ、どうやって入ってきた!」
「彼女から離れなさいこのクズどもが!!」
怒りで完全に頭が沸騰し喚き散らしていると、後ろから首元に腕を回される。
しまった、と身動ぎするも首を締められてむせることしかできなかった。
「こんのガキが……!」
「あ、あなたねぇ! こんなことして、さゆりさんに顔向けできないわよ!」
「何であんたがそれを……」
バタバタと後ろから人が集まる音がする。
感情的になっていたからというのもそうだが、大声を出せば騒ぎになると思ったからでもある。
「お前ら、大人しくしろ!」
背後から先輩の一際鋭い怒鳴り声が飛んできた。
「こちらは正探偵と、その関係者だ! 直に警察が来る、その子たちを解放しろ!」
高らかにそう宣言し、先輩は威嚇の一歩を踏み出す。
その制服に刻まれた紋章を見せつけるかのように、彼は胸を張った。
首元に絡まっていた腕が解け、私はすぐさまきなこの元に駆け寄った。
呆然とベットの上で宙を見つめる彼女に、思わず抱きつく。
「良かった……」
温かい。その体温に安心して、私はようやく息を吐いた。
もう立ち止まらない。失わない。
惨めな思いでうずくまるのも、自身の無力に地団駄を踏むのも、もうやめだ。
「……どうして、」
掠れた声が聞こえてくる。
「どうして、あげは……わたし、あげはにあんな、」
「仲良くなかったら心配しちゃいけないの!?」
彼女に縋りついたままの体勢で私は叫んだ。
力一杯抱きしめたその体が震えている。
なんだ、この子だって普通の女の子じゃないか。強がっていたって怖いものは怖い、普通の女の子じゃないか――
「きなこと喧嘩したいよ、言い合いもしたいよ。それがないと、寂しいじゃないの……」
それで、と私は付け足す。
喉の奥が鳴る。きなこと目が合う。
「それで、ちゃんときなことバディになりたいよ」
彼女が顔を歪めて涙を零す。
でも私の視界も滲んでいたから、どっちが先に泣いたかは、もう分からない。