純粋で凶暴
「紫呉です。任務終了しました」
気を抜くと意識が飛んでしまいそうだ。
無線を入れると、すぐに尾田さんの声が返ってきた。
「よくやった! 無事か?」
「……今のところは」
これで警察にも連絡がいくだろう。自分ができるのはここまでだ。
代償は大きかったが、ついに目的を果たすことができた。
この短時間で壮絶な憎悪のぶつかり合いが起こったものの、終わりは何ともあっけない。
私たちは悪夢を終わらせたのだ。
大勢の人々を苦しめてきた「世紀の大怪盗」を、まさしくこの手で制圧したのである。
黒崎の背中を眺めながら、一つ大事なことを聞き忘れていることに気がついた。
「……あなたの目的は何なの?」
人間の欲望を具現化したような犯罪は数知れず。しかし、彼の意図は一向につかめそうにない。
しばらく外の空気を堪能するかのように黙り込んでいた黒崎は、顔だけ振り返って口を開いた。
「少し話をしようか。警察が来るまでの間」
そう前置いてから、彼はぽつぽつと零す。
「今この瞬間もどこかで誰かが産まれている。そして死んでいる。毎日が誰かの誕生日で、命日だ」
至極当然の事実だった。
だがそれは、日々あたふたと生活している中で希薄になってしまう事実でもあった。
未だショーケースの中で輝き続ける宝石に視線を投げ、彼は言う。
「僕はね、誕生日を祝ってもらえない可哀想な子たちを救ってあげたかったまでさ。産まれてこなければ良かったと、そんな風に嘆いている子たちをね」
やはり、狂っていると思う。
しかし彼の言い分は、幼い子供が駄々をこねているようなものをはらんでいて、どこか純粋で凶暴だ。
「めでたくない誕生日なんて虚しいだけなのにね。産まれてくる日は選べないんだから、尚更だ」
そう吐き捨てる声が悲しげで、私は思わず問いかける。
「あなたの誕生日はおめでたくないの?」
余計なことを言ったかもしれないと悟ったのは、彼の横顔が歪むのを見てからだった。
「めでたくなんてないさ。僕の誕生日は、あってないようなものだ」
「どういう……」
「誰かの誕生日は誰かの命日。僕の誕生日は、両親の命日。それだけのことだよ」
淡々と述べる様が、いっそ残酷だった。
いかなる理由があろうと犯罪は許されない。法律を遵守するのが国民の務めだ。
同情なんて以ての外。そんなことは身に染みているはずだというのに。
ああなんて不幸な人なんだろうと、そう思うことは許されるだろうか。
「――ほら、お迎えが来たようだ」
彼がそう促したのと、サイレンがかすかに聞こえてきたのは同時だった。
窓の外が騒がしい。ビルの下には人だかりができていることだろう。
間もなくして十数名の警官が到着した。
黒崎はそれを一瞥し、地面に両足を下ろす。ただその場に立ち尽くし、無抵抗を貫いていた。
「二十一時六分、犯人逮捕」
金属音が荒々しく響く。
彼の手首に拘束具がはめられ――とうとう、終止符が打たれた。
ああ、終わった。終わったんだ。
言いようもない高揚感が喉の奥からせり上がってくる。生温い涙が頬を濡らしたが、左目が痛くて痛くて堪らなかった。
視界の端に兎束さんの姿が確認できる。取り押さえられている彼女の表情は、とても疲弊していた。
「おい、あげは。しっかりしろ」
やけに近くでひばりの声が聞こえる。
気のせいだろうか、と思ったが、彼は緩慢にこちらへ歩み寄っていた。
元々全身打撲を負った状態でここへ乗り込んでいるのだから、普通に歩くことさえ辛いだろう。
ガラスを体当たりで割った弊害か、所々血がにじんでいた。
「……またそんな体張って……馬鹿だね」
自分の出した声が存外小さくて驚く。
ひばりは私を数秒見つめて眉根を寄せると、唐突に怒鳴った。
「馬鹿はどっちだよ! こんな、一人で危ないことに首突っ込んで……今度こそ死ぬとこだったぞ!」
初めて本気で叱られたな、と。その時呑気に思った。
だが、全部本当のことなのだから仕方がない。
「うん。そうだね……死ぬね、今度こそ……」
今回ばかりは、「危なかったね」で済ませられそうもなかった。
自分の下半身からは血液が流れ出ている感覚があるし、視界は狭い。
ひばりは上着を脱ぐと、それで私の太腿をきつく押さえた。
「死なねえよ! お前は死なないんだよ! 生きて帰って、それで、正義のヒーローだって……みんなに労ってもらうんだよ!」
大声を上げる彼に、返す言葉がない。
もういいよ。もう諦めなきゃ。
止血したところで今更だ。きっとそれはひばりだって分かっているはずなんだ。
私のために躍起になる彼を見て、充足感を覚える。
十分。もう、本当に、十分だ。
ひばりとの約束は果たしたし、その本人にこのまま見送ってもらえるなら、これ以上望むことはない。
「ねえ、ひばり」
その名前を呼んで、じんわりと身体が息を吹き返す心地すらする。
私はずっと、空を飛びたかった。誰にも指をさされることなく、太陽の下をどこまでも飛んでみたかった。
自分の黒い羽根は綺麗な青空には不釣り合いだと決めつけて、恐れていたのだ。
目の前を一羽の鳥が通り過ぎて、その美しさに見惚れ――自分も舞いたくなって。
幸せの青い鳥は春の訪れと共にやって来る。民衆に希望の朝を告げ、そのさえずりで耳を楽しませる。
彼は紛れもなく、幸福をもたらす「ひばり」だった。
「私、探偵になれたかな」
今回は随分期限の短い正探偵だったけれど。色々好き勝手やっちゃったけれど。
このまま後一年頑張っていれば、本当の探偵になれただろうか。
「……馬鹿、やろう……」
俯いたひばりの顔から、床に水滴が落ちた。
「何、勝手に終わらせてんだ……! お前は俺と一緒に、これからも探偵目指すんだよ! バディなんだから! 二人じゃないと意味ないんだよ! だから……だから、」
頼むから、死ぬな。
簡潔な乞いだった。
それを聞いてようやく報われたような気がして、私は笑う。
救急隊員がひばりの肩を取った。
それに抗うように身じろぎした彼の瞳を見て、なんて綺麗なんだろう、と。そんなことを考えながら、私はそっとまぶたを閉じた。
***
「あげは、起きなさい」
穏やかな声が私を諭す。
自分の腕を枕にしていたからか、少し痺れてしまった。
椅子に座り直して顔を上げる。
「ごめん、寝ちゃってた。いま何時だろ」
上半身を起こした状態でベッドにいる母に、私は軽く詫びを入れた。
いつものように学校帰りに病院へ寄って、お喋りをしている内に寝てしまったらしい。
制服の袖口やベッドによだれを垂らしていないだろうか、と確認したところで首を傾げる。
自分が着ていたはずの制服は、見覚えのないものだった。
左胸に紋章のようなものが刻まれていて、下はスカートではなくスラックス。
それに、全体的に汚れが目立つ。
視線を感じて母の方を見ると、その表情はどことなく硬かった。
「お母さん?」
呼んでから違和感を覚える。
彼女がいつも首元につけていたペンダントが見当たらない。
それに気付いて、私は「ああ……」と吐息混じりに呟いた。
「……私、死んだのか」
でなければ母に会えるわけがない。
ここがいわゆる死後の世界で、自分が実在しない人物になってしまったと考える方が容易かった。
「ちょうど良かった。お母さんに謝らなきゃいけないことがあってね」
もしかしたら母は事の顛末を知っているのかもしれないが、一応自分の口から伝えておきたい。
「お母さんのペンダント、ちゃんと受け取ったよ。でも私……結局壊しちゃった。ごめんなさい」
無事に犯人は捕まえることができたものの、彼女の大事な物を犠牲にしてしまった。
それが心残りで、きちんと母に謝りたかったのだ。
返事がないので、間を持たせるように大袈裟に笑い声を上げてみる。
「はは、お父さん怒ってるかなあ。だから危ないって言っただろ! って……」
最後まで父には心配をかけたことだろう。
だが、私は私を全うした。やりたいこと、果たすべきことがようやく見えたのだ。
だから後悔はしていない。
いや、
「ひばりにも、怒られちゃったもんなあ」
一つだけある。
彼と笑い合って別れられなかったことが残念だった。
直前にぶつけられた感情が怒りや悲しさだったのが、何とも消化しきれないが。
「あげはは、その子のことが大切なのね?」
ずっと私の話を聞いていた母が、そう問うた。
一も二もなく頷いて、それから答える。
「ひばりは私にとって、初めて出来た大切な人だよ。バディで、パートナーで、」
唯一無二の、戦友だった。
「だから笑って終わりたかったけど、無理だった。……本当はね、もっと沢山一緒にいたかったんだけど」
母に説明しているはずなのに、自分の首を締めているようで酷く苦しい。
そこで私はようやく、未練たらたらじゃないかと思った。
同時に、涙が止まらなかった。
ひばりと食堂で顔を突き合わせたのも、指切りをした感触も、まだ鮮明に覚えている。
忘れたくない。離れたくない。振り返る程に記憶が心臓を痛めつけた。
唇を噛んで嗚咽を堪えていると、母の手が私の頭を撫でる。
「大切な人には、そう伝えないとね。あげはも、……私も」
そんな言葉と共に、優しく抱き締められた。
ふわりと花の蜜のような甘い匂いが鼻腔をくすぐって、懐かしさに目を細める。
「あげは、大好きよ。あなたは私の宝物。今までもこれからも、ずっと」
母の背中に両手を回して、体が多幸感に満ちていく。
このままでいられたらどんなにいいだろう、と甘えにも似た感情が湧いてきて、思考を放棄した。
***
目を開けると、真っ白だった。
あの後どうしたんだっけ。また眠ってしまったんだろうか?
そんなことが頭をもたげて、母ではない声が切羽詰まったように私を呼んでいるのを聞いた。
「あげは!」
右手が温かい。誰かに握られているようだ。
その腕を目で辿っていくと、
「……お父さん?」
「あげは……良かった……」
今にも泣き出しそうに顔を歪め、父は一層強く私の手を取った。
近くにいた看護婦が「すぐに先生を呼んで参りますので!」と慌ただしく病室を出ていく。
「お母さんは?」
私の質問に、父は目を見開いた。
「お母さん、どこ行ったの?」
「何、言ってるんだ……」
「寝る前にお母さんと話したの。久しぶりだった」
押し黙った父に、自分の発言が的を得ていないと思い至る。
その後、白衣を着た男性が病室にやって来た。
脈を図る様子を眺めながら、ああそうか、と合点がいく。
どうやら、私はまだこの世に留まれるようだ。
現代の医療技術に感謝しつつ、それにしても不思議な夢を見たな――と口角が上がった。
正確に言うと夢ではないのかもしれないが、この際細かい所は置いておこう。
「お父さん……ごめんね」
医師と看護婦が去ってから、私はそう切り出した。
「迷惑も、心配も、これでもかってほど……我儘も沢山言ったし」
母が亡くなってから一人で私を育ててくれたことは、本当に有難く思っている。
あまり器用でない父に、オムライスが食べたいだのハンバーグじゃないと嫌だのと言って困らせたこともあった。
父の作った味噌汁に「お母さんのと違う」と駄々を捏ね、傷つけてしまったこともあった。
それくらい私の中で母という存在は偉大で、尊くて、大切だった。
「でもね……こんな目に遭ってまで、私は探偵になりたいの。やっと見つけた、大事な夢なの」
もう後悔はしたくない。大切なものを守れるようになりたい。
大切な人の前で、胸を張っていられる自分でありたい。
「だから、ごめん。どんなに駄目って言われても、これだけは譲れない」
父の目を真っ直ぐ見据え、そう告げた。
心なしか胸中は凪いでいる。
自分の中で迷いが消えたからかもしれない。
沈黙が落ちて、そのままお互い顔を見合わせていた。
折れたのは父だ。
「……あげはが我儘を言わなくなったのは、いつからだったろうな」
少し眉尻を下げて、過去を慈しむように父は言う。
「忖度させて、我慢ばっかりで悪かった。……ごめんは、父さんの方だ」
空気を読んで、顔色を伺って、すっかり「いい子」になってしまった自分。
その方が誰も損をしなくて済むと、早々に学んでしまったあの頃。
私はもう、飛び出してもいいんだろうか。
狭い籠の中でただ空を見上げるだけでなく、自由に舞い上がっても。
「あげは」
父が確かめるように呼ぶ。
「卒業したら出て行くなんて言わないでくれ。二人でまた、やり直そう」
その言葉に、父も腹を括ったのだなと思った。
私たちの時間はきっと、母がいなくなったあの日から止まり続けていた。
モノクロの写真のように、思い出だけが重く残って後を引く。
だからもう一度、また始めるのだ。
今度はいちいちシャッターなんて切らずに。ビデオカメラを回して、その瞬間を全て鮮明に再生できるように。
私にとって彼女が唯一の母親であったのと同じように、父にとっても彼女は唯一の妻であり、愛しい人だったに違いない。
柔和に見えて実は頑固な所が、母さんそっくりだ。
嬉しそうにそう語る父の目尻には、また一つ皺が増えていた。




