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その運命、ダウト。  作者: 月山 未来
Mission3―踏破せよ
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負の連鎖

 


 憎い、という単語を頭の中で噛み砕こうとして、それから打ちひしがれる。

 彼女から強い負の感情を向けられたことが酷く堪えた。


 呆然と視線を固定させたままの私に、兎束さんは拳銃を構え直す。

 私は藁にもすがる思いで声を発した。



「ごめん――ごめんね、兎束さん。私、何か気に障ることしちゃったかな……もしそうなら教えて欲しい」



 まだ終わらせたくない。諦めたくない。彼女は何か理由があるのかもしれない。

 今ならまだ取り返しがつくから、だからせめて話し合おうと――そういう意思表示のつもりだった。


 しかし彼女は「つまらない」と吐き捨てる。



「いいわ、教えてあげる。あなたが平然と暮らしてきた裏で、苦しんでいる人がいたってことを」



 兎束さんは僅かに腕を下げ、淡々と続けた。



「私は『今の』あなたの母親を知ってる。その名前を」



 脈絡のない話題に首を傾げる。

 正確に言うと母親ではないのだが、名前をフルネームで思い出そうとして――



「まさか、」



 全身からざっと血の気が引く。


 目の前のピンクの瞳が揺れ動いた。



「その女の名前は兎束トモカ。そうでしょう?」



 息が詰まる。心臓がうるさい。

 握った自分の指先は冷たいはずなのに、顔が沸騰するように熱かった。



「彼女はろくでもない男たらしだった。無責任に子供を産んで、都合が悪くなったら切り捨てる。そんなゴミクズみたいな人間よ」



 そう語るのは恐らく経験談に違いないのに、兎束さんの表情は別段大きな感情の揺れを伝えてくることはない。

 紙芝居のナレーションのように。既知の事実を知らせるかのように。



「見捨てられた子供はどうなると思う?」


「兎束さん……」


「まともな食事も取れず、教育もされず、地を這ってその日を生き抜くの。明日自分がこの世に存在しているのかすら分からない日々を、地獄のような日々を過ごすのよ」



 文字通り、辛く苦しい毎日だったろう。

 そんな言葉で片付けてしまうのすらはばかられる程、彼女は壮絶な過去を歩んできたのだ。


 同情はする。だが、降伏はしない。

 彼女が生きていた時間は、私が生きていた時間でもあるのだ。



「トモカさんは母親じゃない。父と結婚はしていないし、私のことを愛してもいない。私のことは……嫌い、だと思う」



 何か誤解をしているのなら、ここで解消しなくてはならない。


 兎束さんは捨てられたとはいえ母親のことをきっとどこかで想っていて、その母親が私を可愛がっていたら、恨み辛みが増幅していくのも頷ける。

 しかし、実際問題として私は愛されていないのだ。



「だから何?」



 頭上から降ってきたのは、そんな声だった。



「そんなことは知ってる。あなたの調査はとっくのとうに終わってるわ」


「調査?」



 聞き返してから気が付く。


 そうだ、彼女は私が釈放されるに至った書類を作成していた。

 私についての詳細な情報が記されていたのを、確かにこの目で見たばかりである。


 でも、と疑問が持ち上がった。



「兎束さん、私が逮捕された時助けてくれたじゃない。あの書類のおかげで私、」



 その先を言えなかった。


 私を見下ろす彼女の表情は冷めきっていて、それでいて私を心底憎んでいた。



「助けた? 私が、あなたを?」


「そうだよ……助けてくれたよ。なのに、何で、」



 息を吐いた兎束さんが、口の端を吊り上げる。



「そんなの、信頼していた相手に裏切られる方が辛いからに決まってるじゃない」



 そんな笑い方、するの。


 鈍器で殴られたかのような衝撃だった。



「……じゃあ、嘘、なの?」



 喉の奥から絶望が振動となって這い上がってくる。



「今までの兎束さんは、全部……全部、嘘だったの?」



 はにかむような笑顔も、さすった弱々しい背中も、何もかも。

 私は何一つ、彼女と分かり合えていなかったと言うのか。



「あなたのこと、そして万年青ひばりのことは徹底的に調べたわ。貴重な情報源として、上は私を機密組織に置いてくれた」



 誰も知り得るはずのない情報。それを彼女が持っているのは探知能力が高いからではない。――犯人と繋がっていたからだ。


 だからこそ、ひばりとナイチンゲールの関係も上に流すことができたのだろう。

 出処がここだったとは、知りたくもなかったが。



「あなたが愛されていようがいまいが関係ない。私の居場所を奪ったことには変わりないわ」



 そう言って向けられた銃口に、抵抗する気力すらわかなかった。

 否、抵抗しないのが彼女のためかもしれないと思った。


 今の彼女を突き動かしているのは私への憎しみだ。これまでの彼女を形作ってきたのも然り。

 それは一種の目標であり、ゴールであり、大袈裟に言ってしまえば彼女の生きる理由でもあったわけで。


 ゴールを取り上げられる辛さは、私にも痛いほど分かる。

 彼女も私も、向かうゴールテープは違えど、同じ一人のマラソン選手だった。


 私のゴールだって、完全無欠なものと誰が言ったのか。

 ひょっとしたら彼女の方が正しいかもしれない。



「兎束さん」



 名前を呼んだが、顔を見る勇気はなかった。

 一人の戦友だと思っていた相手に向けられる憎悪は、さすがにくるものがあったのだ。



「私を撃ったら満足する?」



 私が彼女だったら、同じように拳銃を握っていたかもしれない。既に引き金を引いているかもしれない。


 いつだってそうだ。馬鹿と天才は紙一重、だなんて言うけれど、善と悪だってそうじゃないか。

 一歩踏み外せば奈落の底で、人間は知らず知らずのうちに醜くなっていく。


 正しいか悪いかなんて、他人が決めることじゃない。



「満足するなら……撃っていいよ」



 果たして、私は死を恐れていたんだろうか。怯えていたのは何に対してだったんだろうか。


 ここまで来て一体、何を守りたかったんだろう。

 正義も、名誉も、いつかは消え失せてしまうものばかりだというのに。



「私が憎い?」



 唐突に、彼女はそう問うた。

 弾かれたように顔を上げ、視線を交わす。


 兎束さんは笑っていた。

 笑って、それから――口元を歪めて、眉根を寄せた。



「私は、あなたが憎い」



 潤んだ彼女の目から一粒、二粒と水滴が溢れ出す。


 ああ、叫んでいる、彼女の心が。

 辛い、苦しい、助けてくれ、と今にも身を投げ出しそうな状態で。



「だから撃つ。もう二度と、憎まないように」



 きっと、彼女は解放されたかったのだ。

 長い負の連鎖から、自分自身を滅ぼしてしまう前に。


 私は静かに目を閉じる。

 暗闇の中に、ようやく希望を見いだせた気がした。元いた場所に戻るような、そんな感覚すら抱く。


 案外自分も疲れていたのかもしれないな、と自らの思考回路に諦めをつけた。


 物音がして、もうそろそろだろうか、とゆっくり息を吐く。

 しかしいつまで待っても銃声が聞こえることはなかった。



「――もういい。やめよう、胡桃」



 聞き慣れない声に思わず目を開け、息を呑む。


 兎束さんの腕を掴んでいたのは、グレーのスーツを着た男だった。



「俺はお前を人殺しにはしたくない」



 彼は沈痛な面持ちで述べると、拳銃を持っていた兎束さんの手ごと握り締める。


 顔が見えている状態で対面するのは初めてだ。彼は以前倉庫で出くわした犯人に相違ないだろう。


 堰が切れたかのように、兎束さんの目から涙が零れ落ちる。

 肩を大きく震わせて泣く様子は、痛々しくて幼かった。



灰里(かいり)、邪魔しちゃいけないよ」



 背後から男の声がした。

 灰里、と呼ばれた彼は、何か訴えるように声の主へ視線を投げる。



「せっかく手間が省けると思ったんだけど……ちょっと時間がかかりすぎだなあ」



 全身黒尽くめの男が残念そうに肩をすくめた。

 そして、懐へ手を入れる。



「兄妹仲良く死になさい」



 引き抜かれた手には拳銃が握られていた。


 まずい、と脊髄が本能を突き動かす。


 背後の二人を覆うように手を伸ばした瞬間、銃声とは異なる衝撃音が耳を刺した。


 どうやらそれが窓ガラスの割れる音だったらしい、と認識したのは、そこに一羽の鳥が降り立った後のことである。



「……あげは、」



 床に転がり込む形で入ってきた彼は、掠れた声で私の名を呼んだ。

 まだ全身が痛むのか、歯を食いしばりながら立ち上がる。



「ひばり、何で――」



 問いかけたのも束の間、今度こそ銃声が鳴り響いた。

 視界が、揺れる。



「あげは!」



 右の太腿がただただ熱かった。

 呼吸を忘れ、それから痛覚が狂ったかのように信号を伝えてくる。堪らず地面に倒れ込んだ。



「ああ、ごめんね。びっくりして外しちゃったよ」



 酸素を取り込もうと息を荒らげる私に、男が白々しく言い放つ。


 視界の端でひばりがこちらへ駆け寄ってくるのが見えて、心の中で「やめろ」と首を振った。

 それが通じたのかどうか。彼は歩みを止め、立ち尽くした。



「………………兄さん?」



 ひばりの口から飛び出したのはそんな言葉で、とうとうこの時が来てしまったのだと唇を噛む。



「ひばり、……ああ、ひばりか……」



 疲弊し切った声色が返事をする。


 誰が予想しただろう、こんな悲しい再会など。


 自分の顔から伝って落ちたのが涙だったのか汗だったのか、はたまた血だったのか。

 撃たれた足の痛みばかりが脳を支配して、その判断すらままならなかった。

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