邪気
扉の向こうは随分と広い空間だった。
「待っていたよ」
部屋の奥で座っていたらしい男は、その腰を上げてこちらに向き直る。
黒スーツを身に纏ったその姿に、紳士的なものすら感じた。
一つ意外なのは、自身の顔を隠す素振りが見られないことだ。
とはいえ彼の右目には眼帯が装着されていたが。
「君が素直で助かった。僕も手荒な真似はしたくないからね」
私に語りかけながら、彼は自身の近くにある横長い箱のようなものに手をかける。
紺色の布が掛かったそれは、大人の肩より少し下くらいの高さだろうか。
こちらに視線を寄越して小さく笑うと、彼は勢い良く布を引っ張った。
「……これは、」
箱に見えていたのはショーケースであった。
ガラス貼りのその中に鎮座するのは、赤、黄色、緑、青――眩いほどの宝石たちである。
ざっと数えて十個、いや十一個か。
なるほど。私の持っているものと合わせると、確かに苗島さんの言っていた通り十二個になる。
「美しいでしょう。いい眺めだ」
「ふざけないで」
感嘆のため息をついた男に、間髪入れず噛み付いた。
「この宝石が美しい様を見るのは、本来それを持つべき人だけの特権だわ。あなたじゃない」
睨みつける私とは対照的に、相手は涼しげに口角を上げるだけだった。
今まで出くわしたどの犯人も、なぜか終始余裕そうで癪に障ったものだ。
しかし、今は律儀に腹を立てている場合ではなく。
「ナイチンゲールはあなたのことなの?」
相手に関する情報が少なすぎる。聞き出さなければならないことは沢山あるのだ。
この質問だけは、のらりくらりとかわされる訳にはいかない。
「ああ――そのことなら、心配いらないよ」
合点がいったかのように目を細め、彼が背を向けた。
その様子に訝しんでいると、
「悪い子には、きちんとお仕置きしておいたから」
部屋の奥にある細身なロッカーが開けられる。
「な、……何、して」
その中に窮屈そうに閉じ込められている体は、間違いなく「あの彼」だった。
白いスーツは所々が汚れ、胴体にロープが何重にも巻かれている。
頭部はくたりと垂れ下がっており、顔はこちらから確認できない。
「全く、持ち主に返す馬鹿がどこにいるんだろうね? おかげで二度手間だ」
声色は穏やかなままだというのに、男は躊躇なく片足を振り上げる。
鈍い音がして、その足が「悪い子」の腹部を痛めつけた。
「うっ、」
響いた呻き声に、私は我に返る。
「やめて!」
まだ意識はあるようだ。
犯人であることに変わりはないが、命に関わるなら別である。
それに、恐らく彼はひばりの兄で――だから何だと言われればそれまでかもしれない。
だが、ひばりの悲しむ顔は見たくないと思ったのだ。
「その人にそれ以上危害を加えないで」
こちらにつと視線をずらした男が、ゆっくりと足を下げる。
そして大袈裟に首を傾げてみせた。
「どうして?」
邪気のない問いかけに、おぞましくなる。
「どうしてって……」
「だって彼は、君たちがずっと騒いでいた『ナイチンゲール』だよ」
縋っていた一本の命綱が切れてしまったかのようだった。
告げられた事実は残酷で、しかし腑に落ちる。
誰かが「違う」と否定するのを期待していた。何かの手違いだったんだ、と。
だって、こんなのあんまりじゃないか。これに勝る皮肉がどう存在し得るというんだ。
ひばりは兄のため、そしてナイチンゲールの正体を知るために走り続けてきたというのに、その正体がまさか――兄だったなんて。
「念願叶って何よりじゃないか。警察も探偵もずっと捕まえられなかった世紀の大怪盗を、君がたった一人で捕まえるんだ。最高のシナリオだろう?」
舞台俳優のごとく両手を広げ、男は朗々と声を上げた。
違う、ナイチンゲールは世紀の大怪盗なんかじゃない。本当の大怪盗は、犯罪者は、目の前のこの男だ。
手段は選ばない。それが味方を切り捨てることであっても。
「……あなただったのね、『黒』は」
ずっと追えなかった三人目。
恐らく他の二人は実行犯で、彼は高みの見物をしていたのだろう。
世間を賑わせたナイチンゲールは、表面的な姿に過ぎなかったわけだ。
「証拠は?」
端的に聞いてきた男に言葉が詰まる。
「僕は何もしていないよ。ここにいる、彼が、やったことさ」
文節ごとに一蹴り、ふた蹴りと男の足が動いた。
その度に衝撃を受け止めた身体が揺れる。
「証拠ならあるわ」
見るに堪えない光景に思わず顔をしかめ、口を動かした。
「私が今ここで見たものが全てよ。組織に情報を流せばいずれあなたにも捜査の手が向く」
言い放った途端、男は肩を揺らして笑い出した。
「いいねえ! 君、とても図々しい。確かにその通りだ。でも一つ、懸念事項を忘れているよ」
人差し指を左右に振り、もったいぶった口調で彼は続ける。
「君が無事に帰れるかどうか。それは君自身には決められないことだ」
そう言い切った目は酷く不穏で、相手が犯罪者であることを思い知らされた。
男はこちらに顔を向けると、平坦な声で告げる。
「いいよ、さっさと終わらせようか。そのアメジスト、僕にくれない?」
遠くで差し出された手の平を睨めつけた。
私の態度を目視した彼は、浅く息を吐く。
そして何の前触れもなく、今一度足を振り上げた。
「うあっ……!」
躊躇も遠慮もない、その動作。
当たり前のように振り下ろされた足に、私は目を見張る。
「何を勘違いしているの? 君をゲストとして扱っているのは、君が僕の求めている物を持っているから、ただそれだけだ。素直に応じてくれないなら、こちらもそれなりの対応をさせてもらうよ」
そう吐き捨てた背中を見て、条件反射的に叫んだ。
「分かった! 分かったから!」
乞うては負けだ。そんなことは理解している。
だが、この場で敗者になる他にいい案は思い浮かばなかった。
「……お願い。やめて」
悔しさに喉が震える。
「いい子だね。じゃあ首から外してそこに置いて」
指されたのは相手と私の中間地点の床だ。
固く握っていた拳を開き、腕を静かに上げる。金具に触れた指先が汗ばんでいるのを感じた。
留め具が外れると、紫の石は重力に従って垂れ下がる。
それをしっかりと握り締めて、私は前に歩き出した。
視線が絡みつくようだ。
指定された場所にペンダントを置き、私は顔を上げる。
「その人を解放して」
短く要求すると、男は「せっかちだなあ」と肩を竦めた。
「そのまま元いた場所まで下がって。話はそれからだよ」
言われた通り従うことにして、視線は前方を捉えたまま後ずさる。
数秒経ってお互い見つめ合った後、男は背を向けた。
どうやら拘束を解いてくれるらしい。
思いのほか交渉が上手くいって拍子抜けする。
いや――これはチャンスだろうか。
拘束が外れたところでアメジストを回収してしまえば、最悪自分の身に何かあってもどうにかなるかもしれない。
男の様子を観察し、タイミングを窺う。
足音を立てないようにして、まずは一歩踏み出した。
バレていない。いけるだろうか。
心臓が早鐘を打つ。
徐々に距離を詰め、あと数歩のところで留まる。彼が振り返ったら一気にしゃがみ込んでトライだ。
あと少し。もうちょっと。まだ、まだ我慢して――
今だ!
走り出した瞬間、破裂音が鳴り響く。
たまらず立ち止まると、背後から私を咎める声が飛んできた。
「止まりなさい」
聞いたことがある声のはずなのに、聞いたことのない声色をしていた。
あまりにも突然すぎた出来事に、脳は振り返って状況を整理しろと訴えてくる。
それなのにそうしなかったのは、自分の心が嫌だと泣いていたからだ。
なぜ、どうして、と必死に考えようにも、答えは出るわけがない。
諦めて現実を振り返った私の目に、その姿が映る。
「そこから動いたら撃つわよ」
その言葉に違わず、彼女が手に持っているのは拳銃だった。
着用しているのはいつも見ている紺色の制服で、桃色の髪も普段と変わりない。
ただ一つ、私を射抜く瞳は、未だかつてないほど鋭かった。
「…………どうして?」
呆けた様な声が出た。
何もかも分からなかったのだ。自分の見ているものが嘘であって欲しいと、願わずにいられないくらいには。
彼女はしっかりとした足取りでこちらへ歩いてくる。
腰が抜けて座り込む私の目の前で立ち止まると、その口を開いた。
「『どうして』? 無知って幸せね」
薄い唇がそんな言葉を紡ぎ出す。無感情な声だ。
きょとんと大きな目を見開く様も、控えめに微笑む表情も、何一つ今の彼女からは見つけられなかった。
「だって、意味が……分からないよ」
どうして、と懲りずに口走る。
「どうしてなの、兎束さん……」
まるで別人だ。別人であって欲しい。
そうじゃなければ、本当にわけが分からないではないか。
縋るように問う私に、兎束さんは黙って見下ろしてくるだけだった。
彼女は下ろしていた腕を上げると、その銃口を再びこちらに向ける。
至近距離で私の額に狙いを定め、不愉快そうに眉根を寄せた。
「憎いからよ」
ぽつりと彼女が零す。
強く唇を噛み、その瞳に昏い色を宿した。
「紫呉あげは。――私はあなたが憎い」




