震える
「見当たらなかった?」
苗島さんの発した言葉を呆けたように繰り返した。
文字通りの意味で捉えるとするならば、運転手はあの瞬間にどこかへ消え失せたことになる。
そんなことが起こり得るだろうか。
助かったにせよ、助からなかったにせよ、その姿がないのなら確かめようがない。
「ともかく、あのサファイヤが犯人の手に渡ったとするならば、残すところはあと一つだけです」
そう述べながら、苗島さんは私の方に視線を投げた。
思わず胸元を右手できつく押さえる。布越しに硬い感触を確かめて、浅く息を吐いた。
「紫呉さん」
呼びかけられて頷く。
「分かっています」
私の答えに、苗島さんはそれならいいとでも言うかのように目を伏せた。
ナイチンゲールの最後の狙いはこのアメジストだ。
相手は今まで以上に手段を選ばず襲ってくる可能性がある。自分が持っているのは危険極まりない、それは勿論理解しているつもりだ。
しかし、どんな防犯システムも奴の前では意味を成さない。
それならいっそ、生身の人間が肌身離さず身につけていた方が盗み出すのに手間取るはずだ。
「何かあったらすぐに報告して下さい。情報が欲しいので」
それで話は終わったかのようにみえたが、彼女は突然視線の矛先を変えた。
「万年青くん」
「はい」
苗島さんの瞳が翳る。その様子にどこか嫌な予感を覚えながら、会話の行く末を見守った。
「君、本当に何も知らないんだよね?」
自分に言われたわけでもないのに、心臓を鷲掴みされたような感覚に襲われる。
ひばりを真っ直ぐ見据えたその目は、絶対に嘘を許さなかった。
彼女の表情は普段の穏やかなものであるにも関わらず、滲み出る空気はこの場を支配してしまうほど尖っている。
だがひばりも負けていない。
彼は僅かに目を細めると、顎を引いて頷いた。
「神に誓って」
しばらく見つめ合っていた二人だったが、終わらせたのは苗島さんである。
彼女は深々とため息をつき、「そう」と短く納得した。
「いよいよ奴との戦いも大詰めか」
重苦しい雰囲気を打ち消すかのごとく、尾田さんが膝を叩く。
窓から見える空の色が少しずつオレンジ混じりになり、時間の経過を教えた。
「万年青くんは十分に休んで下さい。紫呉さんは明日からまた捜査に加わってもらうので、そのつもりでお願いします」
最後に事務的な連絡を残して、上司二人は病室を後にした。
何だか今日は慌ただしいな、とそんな感想を抱きつつも私は椅子に座り直す。
ひばりの顔をなんとはなしに眺めていると、向こうもこちらをじっと見返してきた。
「あげは、帰らないの?」
「帰った方がいい?」
「え、いや……そういうわけじゃないけど」
少し戸惑ったように言い募る彼に笑いかけながら、遠くへ思考を飛ばす。
『上は、俺の兄がナイチンゲールだって線を追ってるんだ』
可能性はゼロじゃない。そんなことは分かっている。
問題は、なぜ上がそんなことまで知っているかだ。
謎に包まれたナイチンゲールという存在を、いかようにしてひばりの兄だと結論づけたのか。
「あげは?」
目の前で青色の瞳が揺れる。
意識のピントを合わせて、その声に答えた。
「ごめん、ひばりの顔ちゃんと見ておきたいなあと思って。もう少しだけいてもいい?」
「え、ああ、いいけど……」
珍しくへどもどと返事をする彼に、肩の力が抜ける。
明日からは――いや、この後はこんなにゆったりとした時間は訪れないだろう。
想像したくはないが、いつ何があってもおかしくないのだから。
だから、今だけは。
彼の青い頭髪に夕日が射す。幻想的な色が目の奥に眩しく映った。
***
ひばりが入院している間、一人での行動にすっかり順応してしまった。
その日の作業が終わり、探偵本部から駅へ向かう。
日が照っている時間はまだ暑いが、夕方から夜にかけて少し肌寒い時期になってきた。
改札の近くでICカードを取り出そうと鞄を漁る。
「あ、」
なるほど、軽いような気がしたわけだ。
普段持ち歩いているはずのファイルが入っていない。
恐らく今日資料をまとめて自分のデスクにしまい、そのまま置いてきてしまったのだろう。
引き出しに鍵はかかっているので問題はないが、家で使おうと思っていたのでこれは厄介だ。
迷った挙句、取りに戻ることに決めた。改札をくぐっていたら流石に諦めていたが。
憂鬱な気分で先程通ったばかりの道を踏みしめながら、本部へと急ぐ。
いつものように裏口から入り、機密組織専用の扉を開けた。
中は無人で電気が消えていたが、奥の会議室から人の気配を感じる。
デスクの位置は覚えているし、暗すぎて見えないというわけでもない。
わざわざ電気をつけるのが億劫で、私はそのまま足を進めた。
入口からは死角になっているところに、それぞれのデスクの鍵が保管されている金庫がある。
暗証番号を入力すると開くのだが、この数字が毎日変わる仕様だ。
メモは禁止で、口頭で伝えられる。
忘れた時は尾田さんか苗島さんに直接聞きにいかなければならない。
四桁の番号を手早く入力すると、金庫のロックが解けた。
自分の鍵を取り出して再び閉める。
「ったぁ!」
やはり電気をつけるべきだった、という後悔も遅い。
角を曲がったところでデスクにつっかかってしまった。
「はー、痛かった……」
手をついた拍子にデスク上の書類をばらまいてしまったようだ。
ごめんなさい、と胸中で謝罪しながら拾い集める。
ある一枚を拾った時、思わず固まった。
『万年青ひばり 素行調査』
ど、と全身から汗が噴き出す。
それ以上を見てはいけない。
分かっていても、そう簡単に割り切れる話ではなかった。
いや、しかし。
引き出しにしまうわけでもなく、鍵をかけるわけでもなく。
無造作にデスクの上に置いてあったのだから、誰に見られても仕方ないではないか。
そんな考えに支配されて、私はその書類に目を走らせた。
まず前置きとして、ひばりとナイチンゲールの関係性について述べられていた。
二人が兄弟であること。
それは以前から知っていたのでさほど驚かない。
血縁関係がある以上、ひばりが犯人に何らかの手助けを行っている可能性がある。
そのため機密組織に配属し、観察対象として調査を行うという旨が記されていた。
『俺が機密組織に配属されたのは、いわば俺を監視するためだ』
決して疑っていたわけではないが、彼のあの言葉は事実だったことを改めて知る。
ひばりがあんなに無茶をしたのも、自分の潔白を身をもって証明するためだったのかもしれない。
普段の彼からすると、冷静さに欠けた行動だと言わざるを得なかった。
その書類は、彼の言動からは特別怪しいものは見受けられず、引き続き調査を進めるという結論で締めくくられている。
そうだ。ここは尾田さんのデスクである。
今更思い至って、もしかすると、と悪い自分が顔を覗かせた。
何か他にも重要な書類があるかもしれない。
組織としては、怪しさの残る私たちにそんな情報を提供するわけにはいかないのだろう。
しかし、その情報を得ることで真相に少しでも迫ることができるのなら。
そこからの自分の動きは早かった。
金庫に戻り、暗証番号を入力する。
尾田さんのデスクの鍵を取り出して、それを引き出しの鍵穴に差し込んだ。
一番下の大きい引き出しを開け、手前のファイルから表紙を確認していく。
「……あれ、」
ファイルとは質感の違う、大きな茶封筒が奥にしまってあった。
既視感を覚えてそれを抜き出し、中身を確かめる。
間違いない。これは私が取り調べを受けていた時、警察の元に兎束さんが送った書類だ。
なぜここにあるのか疑問だったが、一体どんな内容なのか気になる。
入っていた書類を全て取り出して、上から軽く目を通していく。
数枚めくったところで、完全に手が止まった。
「な、んで……」
そこには私についての詳細な情報が書かれていた。家族構成に始まり、父の財産や母の死因に至るまで。
そして――
『ナイチンゲールが紫呉すみれに接触。彼女は所持していたアメジストをナイチンゲールに受け渡した』
馬鹿な。どうしてその情報がこんなに明確に記されているのか。
母はもうこの世にはいないし、ナイチンゲールが私以外に漏らすわけがない。
いや、そんなことよりも。
これは兎束さんが作成した書類だ。一体、どうして彼女が――
「何してるの?」
心臓が止まるかと思った。
反射的に持っていた書類をデスクの影に隠し、視線を上げる。
「兎束さん……」
会議室から出てきたのだろうか。
少し奥の方で立ち止まっている彼女に顔を向けたまま、ゆっくり立ち上がった。
「ど、どうしてここに?」
平静を装って問いかける。
兎束さんは後ろを目だけで振り返って答えた。
「出さなきゃいけない書類があって。鹿取くんと来てたの」
「そうなんだ」
語尾が若干震える。思ったよりも自分は動揺しているようだ。
沈黙が落ちて、お互いなんとはなしに視線を交わす。
暗いせいか、彼女の表情がいつもより硬く見えた。
聞いてしまってもいいのだろうか。
どうしてこんなことを知っているのか、どうやって知り得たのか。
口を開いては閉じ、また開いては閉じを繰り返して、私は結局言い出すことが出来なかった。
「あ、えっと……それじゃあ、お疲れ」
軽く手を挙げて別れの挨拶を切り出す。
兎束さんは小さく頷いて、「お疲れ様」と踵を返した。
思わず力が抜けてその場に座り込む。
これ以上の探索は危険だ。
書類を引き出しに戻して、鍵をかける。
自分のデスクの中に入っていたファイルを回収し、二つの鍵を無事に金庫へ返した。
次の日、罪悪感を覚えながら本部へ赴いた。
一番最初に顔を合わせたのが尾田さんだったが、いつも通り挨拶をされただけで、別段怪しまれてはいないようである。
まあ全て元ある場所に戻したし、これでバレていたら逆に怖い。
ひとまずほっと胸を撫で下ろして、自分のデスクに向かう。
今日は午前中に一つ会議を行ってから現場という流れだ。
デスク上のブックスタンドから会議用のファイルを抜き出す。
と、表紙に見覚えのないメモ紙が貼ってあった。
書いてあるのは恐らく電話番号だろう。
誰かが間違えて貼り付けたのか、はたまたこの番号に連絡しろということなのか。
いずれにせよ、昨日の時点ではなかったものだ。
「すみません、ちょっと出ます」
メモと携帯を手に、一声かけてから私は廊下に出た。
人気のない非常階段まで歩いてから、ここなら邪魔にならないだろうかと立ち止まる。
間違わないようにしっかり一つずつ確認しながら、例の番号に電話をかけた。
コール音が数回鳴り響き、なかなか切れることのないそれに訝しむ。
もう一度掛け直そうか悩んでいると、その時は訪れた。
「――もしもし」
重厚感のある、低い男性の声だった。
誰だろうかと記憶を辿るが、思い当たる節がない。
やはり誰かが間違えたのだろうか。
謝って切ろうとした矢先、
「ようやく君と話せるよ。長かったなぁ」
心底愉快そうな声色で相手が言った。
訳もなく全身の毛が逆立ち、脳が警告を鳴らし始める。
声が、出ない。
「時間がないから手短に用件だけ伝えることにするよ。明日、二十時。サンライズビルで待ってる。ああそうそう、君の『宝物』も忘れずに持ってきてね」
友達にディナーの約束を取り付けるかのような口調で述べる彼に、私はようやく理解した。
この人はナイチンゲールではない。
そして、私が今まで会ったことがある二人のいずれにも該当しない。
つまり、「三人目」の黒幕だ。
「……あなたは、誰?」
ようやっとの思いで発した言葉を、相手は笑い飛ばした。
「無粋な質問だなぁ。それを聞いてどうするの」
笑っている。確かに声は笑っているはずなのに、底知れぬ狂気が垣間見えるようで恐ろしかった。
黙り込んだ私に、これ以上のやり取りは不毛だと察したのか。
笑い声は止み、落ち着いた低音が残酷に言い放つ。
「このことは僕たちだけの秘密だよ。もし誰かに喋っちゃったら――」
その時は、お仕置きだからね。
いっそ無邪気なまでの通告に、かたく目を瞑る。
携帯から漏れる不通音がその場に響いた。




