矢継ぎ早
目標のトラックは容易く発見され、前方と後方をパトカーで包囲する形になった。
一つ踏み切れないのは、サファイヤが盗まれたのではなく「持ち出された」という事実だ。
持ち主が納得して預けたのであれば、こちらから口を出すことはできない。
「まあこの際、品物をマークすることが第一優先だ。在り処が分からなくなるのが一番困る」
尾田さんが悠長に腕を組む。
この時期にわざわざサファイヤに手をつける時点で十分怪しいが、証拠がない状態では致し方ない。
フロントガラス越しにひばりを乗せたトラックを眺め、私は息を吐いた。
「何だ? 急に曲がって……」
パトカーのハンドルを握る警官がそう零す。
トラックは信号を右に曲がり、そして。
「高速道路か」
舌打ちして眉をひそめた尾田さんに、苗島さんが口を開いた。
「前方のパトカーを振り切られましたね。後ろも撒くつもりでしょうか」
「どっちみちスピード違反で捕まるだろう。そんなポカをするとは思えないが」
一般道よりも空いた車間距離に歯痒さを覚えたのか、助手席の警官が「くそ」と悪態をつく。
「確実に悪意がある。普通に取引した業者の走行じゃない。黒だな」
そうなるとやはり、ナイチンゲールが社長に接触して取引を持ち掛けたと考える他ない。
高額な金で買収したのか、好都合な条件を提示したのか、それは定かではないが。
「あわよくば撒きたいだろうな。だが、見失ったところであの中に爆弾があるのは変わらない」
爆弾などと随分物騒なものに例えられた自身のバディを胸中で労う。
咄嗟の判断だったのだろうが、結果的に彼の行動は功を奏したと言えるのかもしれない。
走り続けて一時間は経っただろうか。
段々と周囲に緑が増え、山に近付いているのが分かった。
「今んところは大人しいな」
尾田さんのつぶやきに、車内全員が頷く。
いつ動きを見せるのかと気を張り続けているのも、なかなかに堪えるのだ。
少しずつ暗くなっていく空に、言いようのない不安を感じて拳を握りしめた時だった。
耳障りなエンジン音を響かせながら、反対車線からバイクが走ってくる。
それがトラックの横を通過する寸前、
「な――」
トラックの運転席の窓から飛び出た腕が、バイクに向かって何かを投げた。
バイクの運転手はそれを難なく受け取ると、そのまま通り過ぎていく。
「ナンバーは――くそ、暗くて見えない!」
たちまち小さくなっていくその影に、尾田さんがドアを乱暴に叩いた。
「永斗インターチェンジから十和ジャンクション間にて、犯人の乗ったバイクを確認! 急行を求む!」
無線で連絡が入れられる。
ほんの数秒の間で起こった展開に、現場は混乱を極めていた。
「ともかく、俺たちはこのままトラックを追跡するぞ。抜け殻だろうが何だろうが、証拠がないとな」
道はカーブが多くなってきた。脇は崖になっており、スピードは出しづらい。
この状況でパトカーを振り切るのは、ほぼ不可能だ。
しかし前方を走行していたトラックは次のカーブに差し掛かると、それを曲がることなく柵に激突した。
そしてそのまま転落していく。
「馬鹿な……」
流石の緊急事態に車両が止まる。
私はシートベルトを外し、ドアを開けて外へ飛び出した。
必死に走って、ぐにゃりと曲がった柵の下を覗き見る。
車体は崖の中途部分で斜めに留まっていた。
運転席の方から落ちたため、荷台に目立った損傷はない。
「ひばり!」
当たり前だが返事はなかった。
一番下まで落ちていないのは不幸中の幸いだが、それでも相当な高さだ。
荷台の中で揉まれて頭を打ったら致命傷である。
そこまで考えてぞっとした。
「ひばり――ひばり!」
狂ったように名前を呼び、一歩踏み出そうとして――自分の膝が震えているのが分かった。
耐えきれずに座り込んで、周囲が騒がしいことにようやく意識が向く。
パトカーや救急車のサイレンが耳朶を打った。
「紫呉さん、しっかり」
そんな声と共に腕を引っ張って立たされ、無茶言うなと詰りたくなる。
これは夢か、悪夢か。
だとしたらいい加減に覚めて欲しい。
「運転手いませんが……」
「そんなわけあるかよ、どっかに飛ばされてんじゃないのか」
「おいとりあえず引き上げるぞ」
混沌とした現場で交わされる会話が遠く聞こえる。
「男性一名、発見しました! 目立った外傷はありません!」
その言葉に顔を上げ、私は唇を噛んだ。
崖から引き上げられたひばりが、ストレッチャーに横たえられる。
救急車の中に運ばれていくのを目で追いかけ、無意識のうちに足が動いた。
「ひばり! ひばりッ!」
救急隊員の男性が、叫び散らかす私の肩を掴んだ。
「ご家族の方ですか?」
その問いに一瞬、言葉が詰まる。
「……友人、です」
きっと正解ではなかった。
しかし私と彼との間柄を言い表すのにはそれが一番一般的で、それ以上の何かを約束したわけでもなかった。
「同乗して頂けますか」
その質問には迷いなく頷いて、少しだけ落ち着く。
救急車の中は思いのほか狭くて、ひばりの体がすぐ近くにあった。
まぶたが降りたままの顔を見つめながら、私はせり上がってくる嗚咽を噛み殺す。
こんな馬鹿げたことがあってたまるものか。
何もかもを嘲笑われているようで、心底気分が悪かった。
奴の非人道的な側面をまざまざと見せつけられ、自分はなんて無力なんだろうと思い至る。
『解せない。許せない。――俺は絶対に許さない』
カフェオレを力一杯握り締めて憎悪を語った、いつぞやかの鹿取くんの言葉が脳裏をよぎった。
あの時偉そうに説教を垂れたくせに、いざ自分がその身になると理性を飛ばしそうになる。
ああ、そうだね。確かにこれは憎い。
あまりに酷い、あまりに惨い仕打ちだ。
冗談じゃない。絶対に死ぬんじゃないわよ、と――半ば八つ当たりのように目の前の彼を睨んだ。
ひばりは全身を強く打って意識を失っていた。
幸いにも骨折や内臓損傷等はなく、しばらく治療を受ければ問題ないという。
彼が目を覚ましたのは、病院に運ばれた次の日のことだった。
同伴した際に携帯番号を伝えていたため、病院から連絡がきたのだ。
昼下がりの太陽が地面をきつく照らし、気温は上昇していく一方である。
院内は冷房が効いていて、非常に快適だった。
彼の病室の前まで来た時、中から聞こえてきた声に思わず立ち止まる。
「だから言っただろう、ろくなことがないと」
それは以前、私たちを阻んだ声だった。
「これは俺が自分でしたことです。彼女は関係ありません」
ひばりが言い返す。
その視線がなんとはなしにこちらに向いて、
「あげは……」
彼の顔がくしゃりと歪んだ。今にも泣き出しそうな、そんな表情だった。
ひばりにつられて振り返ったのは――間違いない、彼の父親だ。
その眉間に幾重もの皺が刻まれて、私を蔑んでいる。
「こんにちは」
特に笑いかけることもなく、かといって睨み返すわけでもなく挨拶をした。
そして一歩、二歩とひばりのベッドに近付く。
「万年青ひばりくんのバディの、紫呉あげはと申します」
はっきりそう述べると、向こうの気配が揺れた。
怖くないか、と聞かれるとそれは嘘になる。
お前はひばりのバディに相応しくない、と真正面から言われると多分、未だに傷付くだろう。
それでも私は彼の側を離れることができない。
彼の隣を歩いていくのは、そういうことなのかもしれないと思い始めたのだ。
「父さん」
ひばりが呼ぶ。
「俺は、彼女とバディでいる。それが俺にとって一番大切で大事なことなんだ。これから先、何があっても」
その瞬間、ひばりは「息子」だった。
一人の子供として、そして目の前の人物を一人の親として、切に訴えかけていた。
沈黙が落ちる。
廊下の雑音が鮮明に響いて、耳に残った。
「……勝手にしろ」
顔を背けたままそう零すと、彼の父は荷物を持って歩き出す。
すれ違う時に盗み見た表情が、どこか悲しそうに見えた。
「あげは」
去っていく背中を見つめていると、突然声を掛けられる。
慌てて振り返って彼を視界に入れ、包帯だらけの姿に意図せず眉根を寄せた。
「もう、本当にさ」
馬鹿なんじゃないの。
そう言ってから、腰が抜けた。
しゃがみ込んで膝に目を押し当てる。
「死んじゃうかと思った……」
聞かせるつもりのない音量でそうつぶやくと、頭上から乾いた笑い声が降ってきた。
「死なねえよ。まだ死ぬわけにいかないだろ」
「本当に心配したんだからね! こっちの寿命が縮むわよ!」
「お前がそれを言うのか……」
顔を上げて反論すると、呆れた様子のひばりが口を尖らせる。
ようやっと立ち上がったところで、背後からノックが聞こえた。
「何だ、元気そうだな」
「失礼します」
現れたのは尾田さんと苗島さんだった。思わぬ来客にひばりと顔を見合わせる。
近くにあった簡易的な椅子にそれぞれ腰かけ、最初に口を開いたのは尾田さんだ。
「命に別状はなくて何よりだ。目覚めて早々申し訳ないが、情報の擦り合わせをしておきたくてな」
そう切り出した彼の横で、苗島さんが手帳をめくる。
「万年青くん。あなたが見聞きしたことを教えてもらえますか」
ひばりは頷いて、記憶を辿るかのように目を細めた。
「ビル内の巡回中、社長室の前を通りました。ドアが開いたままだったので魔が差しまして。少しだけ調べて何か有力な情報を得られればと思って、中に侵入したんです」
なんて命知らずなんだコイツは、と内心呆れ返る。
勿論自分のことは棚に上げるが。
「しばらく調べていると廊下からこちらに近付いてくる足音が聞こえたので、咄嗟にデスクの下に隠れました。備え付けの電話が鳴って、社長が慌てて受話器を取る音が聞こえて」
「それが例のやり取りだったと?」
「はい。高価に買い取ると言って社長を上手く言いくるめたのだと思います。恐らくナイチンゲールか、その身内が業者を装って取引を持ち掛けたんじゃないかと」
ペンを走らせながら相槌を打つ苗島さんに、ひばりが問いかける。
「トラックに乗り込んだ後のことは何が何だかさっぱりなんですけど、どうなったんでしょう」
私もひばりに付き添って現場を離れたので、あの後どこまで捜査が進んでいるのか把握していない。
「トラックの運転手が反対車線から走ってきたバイクに何かを受け渡しているのを確認しました。恐らくサファイヤでしょう」
苗島さんの答えに、ひばりが「そんな」と口を動かす。
「それで――そのバイクの行方は」
彼女がゆるく首を振った。
その様子に、私は思わず矢継ぎ早に質問を投げる。
「サファイヤの行方もですか? 犯人の証拠も何も?」
「今捜査を行っていますが、正直決定的な何かが見つけられるとは思えません」
淡々と告げられる現実に、俯いてきつく目を瞑った。
と、一つ気になったことを思い出して顔を上げる。
「あの、トラックの運転手はどうなったんですか?」
運転席側から落下したはずだ。
ひばりですらこんな状態だというのに、運転手が無傷でいられたとは思えない。
「それが――」
苗島さんが顔をしかめる。
彼女の口から出た言葉は、にわかには信じ難いものだった。
「運転手はどこにも見当たらなかったんです」