物騒な色
月曜日、例の大手メーカーの本社ビルから帰ってきた尾田長官と苗島副長官は、揃って渋い顔をしていた。
というのも、話が上手くいかなかったらしい。
向こうの社長はテレビ通り頑固な性格だったそうで、概要を説明し警備の提案をしたものの、首を縦に振らなかったという。
肝心のサファイヤは社長の自宅ではなく会社に保管されており、本人曰く「重要書類と同等、厳重なセキュリティシステムで守られているため、余計な心配はいらない」とのことだ。
「あちらの許可が降りない以上、前面的な警備はできません。とはいえ何もせず指をくわえているわけにもいきませんから、ビル外に人員を置きます」
その日のうちに開かれた会議で、苗島さんはホワイトボードにペンを走らせる。
ビル周辺の地図が貼られ、所々に磁石が配置された。どこに警備をつけるかを表しているのだろう。
「あくまでこちらの勝手な警備であるということを念頭に置いてください。そしてビル内についてですが、潜入という形で数名に行ってもらいます」
彼女の言葉に室内が少しざわつく。
私もそれに身動ぎをして、深く息を吸った。
「潜入にあたってもらう方についてですが――」
苗島さんが言葉を切る。その視線は一点に固定されていた。
ひばりが、静かに右手を挙げていた。
「俺がやります」
張り詰めた空気の中、彼の澄んだ声が響く。
「やらせてください」
この場にいる全員の視線が注がれていても、ひばりは一切怯まなかった。
その横顔を呆然と見つめて、私は考える。
彼の中で何かが変わろうとしている。
自身の運命に抗おうと、今ここで必死に飛び立とうとしている。
「いいんじゃないか」
尾田さんが腕を組んだまま口を開いた。
普段の会議では進行を傍観している彼が言葉を発するのは、非常に珍しい。
苗島さんは眉根を寄せると、ひばりを一瞥してから尾田さんに向き直った。
「尾田長官。しかし……」
「せっかく希望していることだしな。それに、潜入に関して彼に心配な要素はないだろう」
自分がこの組織に配属されたのは実力ではない、とひばりは言ったが、それは実力が評価されていないということとはイコールにならない。
存外あっさりと許可を出されて拍子抜けしたのか、ひばりはそろそろと手を下げた。
その様子を横目に、尾田さんが「大丈夫だ」と続ける。
瞬間、彼の眼光があまりにも鋭くて背中が震えた。
「もしヘマをするようなことがあったらどう責任を取るのか、それくらい彼だって考えてあるだろう」
***
数日後、体制を固めて警備が始まった。
私に割り当てられた担当区域は、業者のトラック等が出入りする搬入口付近だ。
ひばりはビル内担当のため当然この場にはいない。
作戦開始前、警備員の格好で尾田さんに指示を受けていた彼は、珍しく顔が強ばっていた。
初めての潜入調査がナイチンゲールに関する案件とは、皮肉なものだ。
ひばりが奴の正体を目の前にして冷静でいられるか、それは分からない。
だからこそこの案件が何事もなく終わって欲しいと願う反面、何かしらの手がかりが欲しいというのも正直なところである。
「なーんか、人通り多いな」
一人の警官がそうつぶやいた。
近くには広場があるが、そこは選挙の時期に人が埋まるくらいで、普段は比較的閑散としている。
しかし確かに、今日は何だか人の往来が激しい。若い女性が多いのだろうか。穏やかな街並みに彼女たちの鮮やかなファッションが浮いていた。
「人が多いに越したことはありません。彼女たちにそのつもりがなくとも、人の目が行き届いているのは犯人への牽制になりますから」
苗島さんが少し離れた所からそう投げかける。
彼女と同じ括りで任務にあたると聞いた時は、一瞬戸惑った。
あの時向けられた目が、脳内で忘れられずに残っている。
とはいえ自分は学生の身であるし、上層部が調整として同じ区域に入るのは自然なことだろう。
それに加え、若干トラブルメーカーな節もあると自覚している。
今回はなるべく大人しく上の指示に従おう、と一人決意を固めていると、
「はー、分かった。ドラマ撮影か」
「なになに……ああ、春原みやび主演のやつか。どうりで女の子だらけなわけだ」
先程の警官が自身のスマートフォンで検索をかけたらしい。
正探偵の男性がその画面を覗きながら肩をすくめる。
警察と探偵がぎすぎすせず会話を行う様子に、私は瞬きを繰り返した。
全員が全員いがみ合っているわけではないのは勿論知っていたが、こうして見てみると新鮮な気すらする。
「嫁が知ったら発狂するよ、あいつファンなんだよな」
「はは、相変わらずミーハーだな」
笑い合う二人を凝視していたからか、警官の方の男性が私に視線をずらした。
柔和な表情のまま僅かに首を傾げ、どうしたのとでも言いたげな目である。
「あっ、すみません……お二人とも、仲がよろしいなと思って」
警官には睨まれた回数の方が圧倒的に多かった。
一般市民として生活しているならまだしも、この制服を着ていてそんなに優しい顔を向けられたことはない。
彼は気を悪くした様子もなく、口角を上げた。
「珍しい?」
いきなり核心を突かれた気がして焦る。
いや、その、と口ごもる私に、彼は「うそうそ」と手を振った。
「こいつとは高校同じだったんだよ。だから話せるってだけ」
「そうなんですか」
刺々しさの見当たらない態度に安堵し、肩から力が抜ける。
自分も気付かぬうちに毒されていたかもしれない。
両組織は睨み合うのが当たり前で、お互いを理解し受け入れることはできないのだと。周囲を見てそれが当然なんだと思い始めていた。
それにしても、
「春原みやびって、誰ですか?」
私の質問に、今の今まで笑っていた二人の顔が引き攣る。
「若い子に人気のイケメン俳優って言われてるんだけど……知らない?」
「初耳です」
そう答えると、懇切丁寧な解説が始まった。
途中で苗島さんが「任務中です」と割って入るも、「警備なんてどうせ暇なんだから」と彼らが口を尖らせ一悶着あったが。
日が暮れ始め、今日の仕事を終えたサラリーマンがビルからちらほらと出てくる。
交代をしながら、そして休憩を挟みながら警備にあたっていたが、今のところ異常はない。
近くで行われるドラマ撮影は間もなく始まるのか、スタッフらしき人影が見えて段々と騒々しくなっていた。
人通りは昼間よりも増え、ビルの方にまで伝染しつつある。
その状況をぼんやりと眺めていると、突然無線から聞き慣れた声が飛んできた。
「潜入班の万年青です! 警備班全員に連絡します!」
聞き逃すまいと皆一様に耳元を押さえる。
切迫した声色に、心臓が大きく揺れた。
「たった今、社長が電話で何者かと取引をしているのを耳にしました。恐らく例のサファイヤの件だと思います」
向かいにいる苗島さんの目付きが変わった。
その雰囲気に呑まれそうになって、慌てて首を振る。
「今日中にビル外へ持ち出されるようです。全ての出入り口を厳重警戒してください」
そう締め括った彼の声が途切れた。
一気に緊張感溢れる現場と化し、全員の表情が固くなる。
「早く早く! 多分もうそろそろだよ!」
「あー! 閑オサムもいる! あのツイッター情報マジだったんだ〜」
辺りから聞こえた会話に我に返った。
広場にはすっかり人だかりができ、そこから連なるようにして付近まで女性たちが押し寄せている。
「これじゃあドラマ撮影の警備してんのか、このビルの警備してんのか分かんねえな」
「本当だな……」
先程の二人がぼやくのを聞きながら、私は思考を巡らせる。
こんなに人がいるのでは、堂々と品物を持ち出すのは不可能に近い。
正面入口の方も退勤ラッシュだろうし、人目を避けるのは至難の業だ。
だとしたらそれが収まってから、辺りが暗くなってからの方が安全で――
「動きがありました! 今すぐ持ち出すつもりのようです! 各配置警戒してください!」
馬鹿な。こんな人混みの中で?
イヤホン越しのひばりの声にそんな感想を抱く。
驚いていられるのも束の間だ。ビルの方に目を凝らして、周囲を観察する。
どこだ。どこから来る。
喧騒が遠くで聞こえるような気がした。
意識を他に持っていかれないようにするのが精一杯だ。
「――苗島さん! 搬入口です! 搬入口から持ち出そうとしています!」
瞬間、業者用の非常扉から男が飛び出して来た。
考える暇もなく地面を蹴り、その背中を追いかける。
「すごーい、みやびくんがそこにいるなんて嘘みたいだよ!」
「同じ空気吸ってる! 同じ地面踏んでる〜!」
男が人混みの中に飛び込んでいく。
それに続こうにも、人だかりが思うように進ませてくれない。
その波に揉まれているうちに、男が視界から消えた。
「すみませんが! 道をあけてください! 通ります!」
声を張り上げ、重い足を前に出す。
くそ、くそ――まさかこれは計算づくか。全て周到に準備をして事に及んだのか。
唇を噛み締める。悔やんだところで何かを変えられたわけではないにしろ、そうせずにはいられなかった。
目の前の背中に押し返され、一歩後ずさる。
と、私の腰を受け止めた手があった。
「すみません! 飛びます!」
突拍子もない発言に、周囲の人が振り返る。
私から手を離した彼は、数歩下がって助走の体勢に入った。
「きゃ!」
地から足を離した鳥が、宙を舞う。青色の残像が美しかった。
みな衝突事故はさすがに避けたいのか、彼を中心に道が拓ける。
優雅に着地してみせたひばりは、そのまま走り出した。
すごい。みんな綺麗に避けていく。
彼の作ってくれた道がなくならないうちに先を急ぐ。
人混みを抜けると、男がバンボディのトラックに乗り込むところだった。
「待て!」
ひばりが怒鳴る。
エンジン音が聞こえて、これは間に合わないと眉を寄せた時だった。
「ひばり――」
彼はリヤドアに手を掛けると、あろうことかそこを開けて中に入り込んだ。
トラックが走り出し、ひばり諸共運搬される。
「何やってんのよあの馬鹿!」
人のことを言えたもんじゃないが、とにかく詰らないと気がすまなかった。
僅かに残っていた冷静さでナンバーを確認する。
「犯人は!?」
後方から追いついたらしい苗島さんが、肩で息をしている。
「あのトラックを追います! 今すぐ車を出してください!」
頷いた彼女が無線を入れ、パトカーが数台出動することになった。
尾田さんや苗島さんが乗り込むのを見届けていると、思い切り腕を引っ張られる。
「何突っ立ってるの、早く乗りなさい!」
「え、」
苗島さんに叱られながら車内に引きずり込まれ、間抜けな声が出た。
ドアが勢い良く閉まる音がして、弾かれたように顔を上げる。
「な、なぜ私が――」
「あなたも貴重な目撃者でしょう。連れていかないわけにはいきません」
彼女が前を向いたまま言い放った。
その隣に座る尾田さんがくつくつと肩を揺らす。
「彼もよくやってくれたよ。お手柄じゃないか、なあ苗島」
「何を仰っているんです。まぐれでしょう」
淡々と返す苗島さんに、尾田さんはつと視線を逸らす。
その目が私の方とぶつかって、思わず背筋が伸びた。
「紫呉さん。君もバディの頑張りを見届けたいだろう、最後まで」
何とは言わないが、試されている。そんな気がした。
私は外したくなる視線をぐっと堪え、口を開く。
「はい、そう思います。……心から」
そうこないとな、とまるで緊急事態を忘れているかのように笑った長官の目は、それでいて物騒な色を宿していた。




