強力な魔法
唖然とはまさにこのことか。
自分の中で、パズルのピースが一つずつ合わさっていくように情報が流れていく。
ひばりはその瞳に激情を灯すこともなく、淡々と事実をなぞる口ぶりだった。
「まさか、」
無意識に呟いた。
じゃあ何だ。私が見たあの人は、彼はまさか。
「因果関係があるかは分からない。だけど、俺はナイチンゲールを追うことで何か情報が落ちるんじゃないかって……それに賭けてる」
彼の言葉に、私は我に返った。
そうか、当たり前だがひばりはナイチンゲールを見ていない。
その正体がただの怪盗だと信じて疑わないし、そう考えるのが普通だ。
それじゃあ、私が見たのは?
ひばりの言葉で、疑念が確信に変わった。
だけどそんなのは私だって受け入れたくない。もしかしたら本当にただのひばりのそっくりさんかもしれないではないか。
それに、――こんな事実あまりにも酷すぎる。
彼に伝えるべきなのだろうか。
しかし確証がない。一度口にしてしまえば取り返しのつかないことになる。
「終了だ」
時間を告げる警官の声が響いた。
結局、私は彼に何と返していいか分からなかった。
ただ膝の上で拳を握り締めて、あの日の光景を記憶の中で辿る。
『僕は、ひばりじゃないよ』
よく考えてみたら、おかしいのだ。
見当違いな人物の名前を宛てがわれたら、大抵の人は「人違いだ」、「誰それ?」と不満を漏らすだろう。
しかし彼は、「ひばりではない」とだけ言った。
何となくそれが引っかかる。
「じゃあな、あげは」
俯いて考え込んでいると、ひばりが立ち上がった。
「あ、うん。ありがとう、わざわざ」
「おう」
ぎこちなく挨拶を返して、軽く手を振る。
正直、彼と話している時がここ数日で一番気が楽だった。
それもあっという間に終わりか、と少しだけ名残惜しい気持ちで見送る。
ドアを開けて部屋を出る寸前、ひばりはこちらに背を向けたまま告げた。
「負けんなよ」
その後ろ姿はいつもより小さく見えて、私はようやく理解した。
寂しいと思っていたのは、どうやら私だけじゃなかったようだと。
「俺は、この先何があってもお前の側にいる」
それが彼なりの覚悟であることは、容易に分かった。
そうよ、周りが何だって言うのよ。
お互いが認め合えばそれでいいじゃない。
以前の自分に言い聞かせるように、心の中でそう毒づく。
「上等よ」
私の言葉に、ひばりが振り返る。
久しぶりの晴天に浮ついたような、そんな笑顔だった。
***
「いつまで黙ってるつもりだ、質問に答えろ」
警官が苛ついた様子で腕を組んだ。
私は口を閉ざして視線を落とす。
あれから一週間は膠着状態が続いていた。
取り調べと言えば聞こえはいいが、段々とその内容は変わり映えしなくなり、自白を促すための作業と化している。
何を喋ったところで、どうせ彼らには都合よく書き換えられるのだろう。
私は数日前からだんまりを決め込んでいた。黙秘も立派な権利だ。
「こんなことは言いたくないが、親御さんだって君に一日でも早く出てきてもらいたいと思ってるよ」
ついにその手を使い始めたか。
私は内心鼻で笑いながら、その言葉を聞き流す。
表面的な情報しか拾っていないくせに、よくもまあそんなことを言えたものだ。
世の中の親が全員子供のことを心の底から想っていると妄信しているのなら、大きな間違いである。
「認めるだけだ。何をそんなに迷うことがある」
駄目押しの台詞に、馬鹿馬鹿しくて声が出るかと思った。
ナイチンゲールにあれだけ憎悪を抱くひばりを隣で見ておいて、なぜ私がそんなことをしなければならない。
母の形見を預かって返してくれたことに関しては感謝するが、成敗すべき対象なことには変わりないのだ。
沈黙が落ちる。
と、まだ時間になってもいないはずなのに、ドアを叩く音が聞こえてきた。
「失礼します」
入ってきた男性は、何やら焦った様子で目の前の警官に耳打ちし、小脇に抱えていた封筒を差し出した。
警官は険しい顔でその大きい封筒を乱暴に開封し、中身を引っ張り出す。
「これは――」
分厚かった封筒からは、書類の束が出てきた。
それらが次々とめくられていく。目の前の彼は眉間に皺を刻んで、大きく舌打ちした。
「今日の取り調べは終わりだ」
一方的に告げられ、状況を呑み込めないまま立たされる。
一体何が書いてあったのは知らないが、あの書類が重要なものであることくらい察しがつく。
面倒なことにならなければいいが――普段は頼らない神様に、拝みたくなった。
「出ろ」
突然の命令だった。
留置場特有の網目の細かい入口を開け放たれ、私はしばらくその場に座り込んだ。
「釈放だ」
端的に告げて、相手は視線で急かしてくる。
私はその言葉を理解するや否や、立ち上がって檻から脱した。
「紫呉あげはさん」
殺風景な廊下を歩いていると、背後から名前を呼ばれる。
振り返って見てみれば、女性の警官がこちらに歩み寄ってくるところだった。
「はい、これ」
彼女が差し出したのは、あの時没収されたはずのペンダントだった。
透明の袋に梱包されているのは、恐らく指紋等が付かないように保管されていたからだろう。
おずおずと手を伸ばしながら、目の前の顔を仰ぎ見る。
取り調べを行っていた警官のように威圧することもなく、彼女はただ柔和な笑みを浮かべていた。
「ありがとうございます」
釈放は言うまでもなく願っていたが、まさかこれを返却してもらえるとは思っていなかった。
どういった風の吹き回しだろう、と首を捻る。
彼女は私の返事に満足したように頷くと、踵を返して行ってしまった。
捕まって連れてこられるまでは複数名で押さえられていたというのに、出る時は呆気ない。
何かの罠ではないかと逆に訝しんだ程だ。
夜じゃなくて助かった。
誰かがいる状態で家に帰るのは気が重すぎる。
電車を乗り継いで、見慣れた道を急いだ。
「ミント、ただいま!」
玄関先にある靴の並びを確認し、誰もいないのをいいことに大声を出した。
久しぶりの帰宅に、さすがに寂寥感を覚えてくれたらしい。
擦り寄ってきた毛玉を気が済むまで撫でてから、リビングのソファに身を投げた。
――本当にこれで終わったんだろうか。
天井を見つめて、答えのない問いを考える。
昨日の書類には一体、何が記されていたのだろうか。
突然の釈放と関連がないとは思えない。
ポケットにしまっていたペンダントを取り出して、眼前に掲げた。
変わらない輝きを放って揺れるそれを観察し、上半身を起こす。
自分の部屋に置いてある全身鏡の前に移動して、ペンダントの金具をゆっくり外した。
自分の首にあてがって――それからどれくらい鏡に映った虚像を眺めていただろうか。
これを一度つけてしまったら、きっともう外すことはないだろう。
一種の呪縛のようにまとわりついて離れない、強力な魔法だ。
頭を振る。
今更何を迷うことがあるのか。
この世で一等大切だった人を失った日から、私はずっと決別したかった。
弱い自分と。そして無力な自分と。
今度こそ自分の手で、自分自身の力で、大切なものを守りたいと。
そう、強く願ったのだ。
『うん! 今日もあげはは可愛い!』
引っ込み思案で友達が少なかった私に、母はいつもそう言った。
刷り込みのようなものだったけれど、それは私の中でどんなお守りよりも絶大で、魅力的なおまじないだった。
だから私は今日も言う。
下を向いてしまいそうな時、明るい明日を思い描けなくなった時、いつだって何度だって。
「うん、私……今日も、可愛い」
そうすればきっと、私はまた前を向いて歩いていけるから。
震える手で首の後ろの金具を留め、目の前の自分の姿を視界に入れる。
鎖骨より少し下に鎮座する紫の光が、瞳の奥に刺さってくるようだった。
「綺麗……」
十秒も耐えられなくて、膝から崩れ落ちる。
馬鹿みたいに泣いた。むせかえるほど泣いた。
くだらない感情は、今日に全て置いていこう。
明日からはまたちゃんとするから。だから、今だけは。
無意識に握っていた拳が、力みすぎて痛かった。
静寂を破ったのは、携帯の着信音だった。
ティッシュで鼻をかみながら顔を上げると、窓の外はオレンジ色で、時間の経過を教えてくれる。
煩わしさを感じながら手を動かし、画面をろくに見ずに通話に応じた。
「……もしもし」
「あげは」
聞こえてきた高めの声に目を見開く。
てっきり父からかと思っていたので驚いた。慌てて声を取り繕って、返事をする。
「ひばり? どうしたの」
「どうしたの、じゃねえよって何回言わせんだよ。聞いたよ、今日出たんだってな」
それもそうかと思い直し、「ああ、うん」だのと曖昧に口を動かした。
首元の飾りを弄りながら会話を続ける。
「突然だったからびっくりした。今もよく分かってないんだけど、昨日警察署に何か書類が届いたみたい。それが多分、釈放に繋がったんじゃないかと思うんだけど」
つらつらと説明すると、ひばりは相槌を打つわけでもなく押し黙った。
それが少し不安で、私は彼に語りかける。
「ひばり? 聞いてる?」
「ああ、ごめん。聞いてるよ」
そう言いながらも、通話口の向こうからは何か逡巡しているような間合いが感じられた。
「その書類なんだけどさ」
やや短めの空白の後、彼は切り出した。
「兎束が送ったものだと思うんだ」
思いがけない人物の名前が登場し、私は口を開けたまま固まる。
それは一体どういうことなのか。遅れて脳が機能し始めた頃合いで、ひばりは話し出した。
「兎束と鹿取が現場にいたっていうのは聞いたんだけど、その後で鹿取が珍しく連絡取ってきてな。兎束が最近一人でずっと何か作業をしてるって」
鹿取くんはひばりにも頼んで、兎束さんの動向を観察していたらしい。
彼らが出した答えは、私が犯人ではないという証拠を示すための提出書類を、彼女が作成しているということだった。
「普段必要最低限のチェックしかしない兎束が、やけに貪欲に現場を調べるというか、ある意味らしくないっていうか。多分、お前には色々恩があったんじゃないの」
完全に想定外の事実である。
まさか彼女がそこまで献身的に行動を起こしてくれるとは、夢にも思っていなかった。
「そうだったんだ……」
「まあでも、警察と探偵がこんな風に絡んでるって知ったら、いい顔する人は少ないだろうな」
ひばりの言葉に、ハッとして顔を上げる。
私が探偵組織から孤立したように、兎束さんもひょっとしたらあぶれてしまうかもしれない。
彼女がしたことは「人助け」だが、周りがそうは思わないことくらい分かる。
「どうしよう……私のせいで兎束さん、」
「大丈夫だって。兎束だって馬鹿じゃないだろ。きっと分かった上でやったんだろうさ」
それはそうかもしれないが。
彼女はいかにも繊細で穏やかだ。組織の圧力に押し潰されてしまわないか心配でたまらない。
ひばりは私の懸念を軽く受け流すと、声色を変えて告げた。
「それで、本題なんだけど」
「本題?」
どうやら彼が連絡を取ってきたのは、ただの安否確認ではなかったようだ。
私は知らず知らずのうちに前傾姿勢で彼の次の言葉を待つ。
「今日校長室に呼ばれたんだ。いいか、今から言うことは本当に大事なことだ。他言無用だぞ」
そう前置いて、ひばりは一語一句確かめるように述べた。
「俺とお前は、明日から機密組織配属だ」