1+1=2
少し頭が冷えて、こんな所に縮こまっている自分が恥ずかしくなった。
かといって傘を差すのも何だか億劫で、再び強くなってきた雨音に思考を放棄する。
膝に顔を埋めて聴覚だけに神経を研ぎ澄ませていると、湿った土を踏みしめる音が近付いてきた。
「見つけた」
その声に半分顔を上げれば、しゃがみ込んで得意げに笑うひばりの姿があった。
彼はジーパンに大きめのシャツを羽織っていて、私服を着ているのが新鮮に目に映った。
「どっかファミレスでも入ろうぜ。ここじゃ寒いだろ」
「やだ」
即答した私に、虚を突かれたのか彼は目を見開く。
「財布忘れたんなら奢るけど?」
お金の心配をしていると思ったらしい。
その提案に反応せず、そっぽを向いた。
ため息をついた気配がして、それから彼が私の名前を呼んだ。
「じゃああっちで座ろう。ここじゃ暗くてあげはの顔、よく見えない」
ひばりが指したのはすぐ近くの東屋だ。
逡巡する私に、彼は目尻を下げる。
「あげは。おいで」
優しい声色だった。
片手を差し出されて恐る恐る掴むと、ひばりは安堵したように口元を緩める。
自分の傘を差そうと手を伸ばしたら、没収されてしまった。
思わず睨めつけると、ひばりは自らの傘を私に傾けながら腕を取る。
「逃げられたら困るからな」
傘を人質にされたところで、さっきまで濡れて歩いていた私にはさほど意味はないが。
まあ彼がそれを知る由もないので、黙って着いていくことにする。
ひばりは先に腰を下ろすと、そこに座れとでも言うように自身の隣を叩いた。
ひと一人分空けて、便宜上は隣に座ってやる。
彼は羽織っていたシャツを脱ぐと、私の肩にかけてその距離を詰めてきた。
「風邪引くぞ」
顔を覗き込まれて目が合う。
その柔和な表情に、なんで、と呟いた。
「今日のひばり、変」
「は?」
「何か優しい」
いつものようにガサツに扱うんじゃなくて、丁寧に包み込むような動作。
それにどこか気恥ずかしさを覚えて、でも温かくて、喉の奥が締まった。
「はは、何だそれ。俺が優しかったらだめなのかよ」
「……だめじゃない、けど」
「けど?」
「なんか、調子狂う」
言葉一つとっても、慰められているような気がする。
自分の弱さを晒してしまうようで少し怖かった。
「だって今のあげは、弱ってるし」
言いつつ私の頭を撫でたひばりは、妹を気遣う兄のような口調で続ける。
「なんかあった? 話せるなら話して欲しい」
触れられた所から熱が伝道して、じんわりと温かい。
彼の方に視線を投げると、「ん?」と穏やかに微笑まれて、不覚にも泣きそうになった。
その時初めて理解した。
自分は誰かに分かって欲しかったんだと。優しく頷いて欲しかったんだと。
「……私、ひばりのバディになりたい」
零れたのはそんな心の声で、ひばりは不思議そうに首を傾げた。
「あげはと俺はバディだって。前にちゃんと約束したろ?」
そうじゃない。私たちの間の話ではなくて。
私は首を振って、拳を握りしめた。
「私、まだ全然足りない。努力も知識も、覚悟も。ひばりと対等でいたいのに、こんなんじゃ」
「何言ってんだよ。何で急にそんなこと、」
「今のままじゃ、ひばりに相応しくない」
そう口走った途端、両手を掴まれる。
その力強さに驚いて顔を上げると、なぜか怒ったように眉根を寄せるひばりがいた。
「相応しくないとか、言うな」
どこか悲しげに、彼は私を叱った。
「何で――何であげはまでそんなこと言うんだよ。俺は最初からお前と対等だ。何も変わらないよ」
「対等なんかじゃ……」
「あげははそのままでいい。お前にはお前の良さがある。頼むから、俺を遠ざけるな」
懇願されて気付く。
傷ついたのは、傷つけられていたのは自分だけだと思っていた。
周りから非難され、自分は被害者なんだと。
彼はたった一人で戦っている。
父の権力に目が眩む人々は、彼を無遠慮に高みへと押し上げた。
期待に応えなければいけない。重圧に耐えなければならない。背中にそんな重みを背負って。
ひばりはずっと、皆と同じ「一人」として扱われることを望んでいた。
「1+1=2だ。それでいい。俺とお前は、何ら変わりないよ」
人の善意も悪意も、受け手が望まなければ全て刃に変わる。
今の私は悪意しか向けられていないが、彼はきっと二倍、いやそれ以上のものを振り払ってきたんじゃないのか。
痛いくらい握られた手に、視線を落とす。
彼の方が泣きそうな顔をしているから、いつの間にか心は凪いだ。
「うん。……そうだったね」
私が彼を線引きしてどうする。唯一無二になれなくてどうする。
私が頷くと、ひばりはようやく肩の力を抜いて手を離した。
温もりが消えて、寂しいと思ってしまったのは決して口に出さないけれど。
「あれを捕まえなきゃいけないし、ね」
以前の一方的な約束を持ち出して、私は自分を納得させた。
それが私たちの究極的な存在理由で、ひばりの望みだった。
「あげはは、何で探偵になろうと思ったんだ」
すぐに切り返せずに焦る。
今それを聞かれるのは全くの想定外で、それと同時に彼には誤魔化しがきかないのだと悟った。
ひばりではなかったが、以前同じ質問をされて答えたことはある。
それが正答でないというのは、とっくに見破られていたようだった。
「私は正直、ナイチンゲールとかはどうでもいい。今は勿論捕まえなきゃって思うけど、最初はそこまで興味なかった」
ナイチンゲールにこだわっている彼の前でどうでもいいと言うのは少し気が引けたが、構わず続けることにする。
「うちの母、体弱くて。私を産んでから入退院繰り返して、私もよく病院に通ってた」
優しく美しい母親だった。
叱られた記憶もほとんどなく、母にはかなり甘やかされて育っていたという自覚がある。
小学生の時、学校帰りに一人で母の元へ訪れたこともあった。
友達と何をして遊んだ、跳び箱を何段飛べて褒められた。たわいもない話を聞いてもらうのが好きだった。
「母が昔から大事にしてたものがあったの。結婚する前に父から貰ったペンダントなんだけど、あんまり綺麗だから強請ったことがあって」
ただでさえ病弱な母だったが、その肌の白さが更に彼女の儚さを引き立てていた。
その白い首元で揺れる、紫色の宝石。まだその価値をよく知らなかった私は、母に「ちょうだい」と欲を言ったのだ。
誕生日もクリスマスも、お願いすれば大抵の物は買ってもらえた。
しかし母は、その時ばかりは首を縦に振らなかった。
『あげはが素敵な大人になったら、その時は考えるわ』
後にそれが父からの贈り物だと知って、欲しがるのをやめた。
中学生になって、我儘を言うことも減った。母が日に日に弱っていったから。
「お母さん。何か食べたいものある?」
「大丈夫よ。ありがとう」
そんなやり取りがお決まりになって、半年は過ぎた。
父と共に呼ばれたのは、母の病室ではなく医師との面談だった。
「紫呉さん。結論からお伝えしますが、すみれさんへ施せる治療はもう一つしかありません」
難度な手術。それが母を唯一救える可能性のある方法だった。
しかし日本にその手術を行える腕を持つ医者は、片手で数えられる程しか存在しない。
それに加えて、成功する確率は三十パーセントと言われていた。
「それをしなかった場合、すみれは――妻はどうなるんですか」
父が問う。声が震えていた。
「もって一年、最悪半年です」
実感が微塵もわかなくて、脳が情報の処理を拒否していた。
感情の受け皿は空っぽで。そうでもしないと、自分の中の全てが流れてしまいそうだった。
もしかしたら、とずっと怯えていた。
明日朝が来て病室へ行ったら、母が目を瞑ったまま返事をしてくれないのではないかと。
でもそれは気のせいで、母は明日も明後日も、その先も当たり前に自分のそばにいてくれると信じていた。
だって母親だ。私を産んだ人だ。
周りのみんなは家に帰ったら母がご飯を作って待っていて、朝は起こしてくれて、送り出してくれて。
漠然と、母という存在は自分をずっと見守ってくれるものだと信じて疑わなかった。
「……嘘、です」
あんなに美しい母が、あと一年しか生きられない?
私はまだ、母の手料理をお腹いっぱい食べていないのに。
授業参観にも、運動会にも、両親揃って見に来てくれていないのに。
まだ、まだたくさん。
して欲しいこと、してあげたいことがあるのに。
「嘘です……!」
「あげは!!」
その日は朝まで泣き腫らした。
無情にも学校へ行く時間は迫ってきて、とても行く気になれず欠席した。
次の日も、そのまた次の日も。
私は一人現実と妄想の間を彷徨って、この世界を恨んだ。